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18世紀欧州戦乱

大同盟戦争(War of Grand Alliance) 詳細篇

big5
「ここでは『詳細篇』と題しまして、本編では省略してきた話をしていこうと思います。かなりマニアックだったり、個人の趣味に偏った内容にもなっているので、概要については本編をご覧ください。」

ボイン川の戦い

出典 イギリス革命史 下 大同盟戦争と名誉革命 友清理士 著

<戦闘に至るまでの経緯>
1690年3月
ジェームズ2世にフランスから軍勢7000が到着。指揮官はジェームズの旧友ローザンだが、彼は宮廷人で軍事才能はティアコンネルに劣る。 なお、このフランス艦隊が航行中、ラッセル率いるイングランド艦隊がカルロス2世の後妻として嫁ぐノイブルク家の姫(皇帝の妃の妹)を載せて海峡を通過していた。両艦隊とも、自分に任務に専念しており、接触はせず。

6月4日
ウィリアム3世、ケンジントン宮殿を出発
逆風と霧のため、出港送れる
6月14日
ウィリアム3世、キリクファーガス湾に到着。
輸送船288隻、これを護衛する軍艦6隻だが、フランス艦隊は妨害しようとしなかった。
ジェームズ2世、ダンドーグからアーディーへ後退。ウィリアム3世の南進に応じてさらに後退。

ウィリアム3世、ベルファストに到着。町中で歓迎される。ションベルクと会談。
6月19日
ウィリアム3世、ベルファストを出発して南下。
6月29日 ウィリアム3世、アーディーに到着。その晩、ジェームズ2世がボイン河畔のドローイダ付近で待ち構えている、との報告が入る。ボイン川は、ベルファストからダブリンへの道程で唯一といっていい天然障害。

6月30日 ウィリアム3世、ジェームズ2世の陣地を偵察。ガーターの星章が敵の目に留まり、砲撃される。第一発がヘッセン公子(ヘッセン・ダルムシュタット方伯の弟ゲオルク)の馬に命中。「おお、かわいそうに、公子が死んでしまった」と叫んだ。次発はウィリアム3世の右肩をかすめた。ウィリアム3世が馬上で身を伏せたのが命中したと誤解され、敵陣から歓声が上がる。噂は、フランス本国にまで届いて派手に祝われた。ただし、挫傷程度。

<戦闘経過>
7月1日 よく晴れた夏の日
ジェームズの陣地はドローイダ町の上流(西方)数キロ地点。ボイン川が北に大きく張り出すあたりの集落・オールドブリッジ付近が中心。兵力約2万5000ジェームズ自身は少し下がった丘に本陣を構えていた。 ウィリアム3世は3万5000.約半数がイギリス人、残りはオランダ人、ドイツ人、デンマーク人、ユグノー。

この付近は潮の干満で水位が大きく変化する。オールドブリッジから10キロ上流にスレーン橋があったが、破壊されていた。その少し手前のロスナリーの浅瀬は、満潮でも徒渉できた。半潮程度ならオールドブリッジにもいくつか徒渉地があり、干潮時にはさらに下流のドライブリッジでも渡渉が可能。

早朝
朝靄の中、ウィリアム3世はションベルクの息子・マインハルト・ションベルクに1万の兵を預けて、上流側に大きく迂回する行軍に送り出す。ロスナリーの浅瀬から渡河するため。 ジェームズの竜騎兵が渡河に抵抗したが、指揮官が致命傷を負うと潰走。これに対応すべく、ローザンは麾下のフランス兵とサースフィールドのアイルランド騎兵を率いて向かう。ジェームスも、こちらがウィリアムの主力だと判断し、ローザンに合流。全軍の3分の2以上がこちらへ向けられたことになり、オールドブリッジを守るティアコンネルは7500未満に。

10時過ぎ 干潮
ウィリアム、ゾルムス伯率いるオランダ近衛兵ブルーガーズに正面から渡河させる。ティアコンネルはベリック公率いる騎兵1000に攻撃をかけさせた。ブルーガーズは銃剣を使って堅固な方陣を作り、度重なる突撃を撃退した。ブルーガーズの左では、ユグノー連隊、イングランド連隊が続いて川を渡った。リチャード・ハミルトンはアイルランド歩兵に撃退を命じたが、アイルランド人は従わずに逃走。ハミルトンは騎兵を率いて突撃。銃剣もなく、長槍兵もついていないユグノーはひとたまりもない。ユグノーが押されているのを見て、ションベルクが川に進み出ると 「行くのだ。敵は諸君の迫害者たちなるぞ」 といってフランス騎兵を指し示して兵を叱咤。直後、アイルランド兵の決死隊に囲まれ、戦死。 下流ではヴュルテンベルク公率いるデンマーク兵が胸まで川につかりながら渡河。数で勝るウィリアム3世が優勢。

昼過ぎ
ウィリアム3世、オランダ、デンマーク、エニスキレンの騎兵を率いてドライブリッジから難儀しながらも渡河。ジェームズ軍の右翼に回り込むことに成功。 ジェームズ軍主力の左翼は、沼に阻まれて交戦できず無駄に時を過ごす。

午後2時ごろ
ティアコンネル、ジェームズ2世に撤退を提案。ローザンの意見も聞いて、撤退を決定。出番のなかったサースフィールドの騎兵に守られてダブリンに戻った。残る部隊は、ティアコンネルとローザンが率いて撤退させることに。

<損害>
ウィリアム3世 損失約400 ジェームズ2世死傷者1500程度

<戦闘後>
ダブリンに戻ったジェームズ2世は市長と議員を集めてこう言った
「軍はイングランドのように脱走することこそしなかったが、試練に直面するとたちまちにして逃げ去った。・・・金輪際アイルランド軍など指揮しないこととし、自らの力をたのむことにしようと思う。」
ジェームズ2世はアイルランド兵にダブリンを焼くことを禁じて、キンセールからフランスのフリゲート艦で逃れた。

7月6日
ウィリアム3世、ダブリン到着。ダブリンのプロテスタントは、ウィリアム3世に首都を確保するよう要請するが、オランダ戦線はワルデックがフルーリュスの戦いで大敗した、ビーチー・ヘッドの海戦に敗北したことに接し、すっかり勝利に水を差された。



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