Last update:2020,Dec,19

18世紀欧州戦乱

オーストリア継承戦争(War of the Austrian Succession)

オーストリア継承戦争 あらすじ

big5
「さて、いよいよ「継承戦争もの」シリーズの最後を飾る「オーストリア継承戦争」を見ていきましょう。オーストリア継承戦争は、その名の通り、名門ハプスブルク家に訪れた相続問題がきっかけとなって勃発しました。オーストリア継承戦争は、新興国のプロイセン vs オーストリアが主軸なのですが、プロイセンにはフランスが味方し、オーストリアにはイギリスが味方し、これに神聖ローマ諸侯も参戦して、大規模な戦争に発展しました。特に、イギリスとフランスは、アメリカ大陸とインドで植民地争奪戦を繰り広げ、イギリスは主戦場のヨーロッパよりも植民地をフランスから奪い取ることに注力していたりと、かなり幅の広い戦争になってます。戦争期間は、1740年から1748年の8年間なので、18世紀の大戦争の中では短めですが、けっこう内容は濃いですね。」


名もなきOL
「オーストリア継承戦争は、どちらが勝ったんですか?」
big5
「実質的にはプロイセンの勝利ですね。企図していたシュレジエン地方を、オーストリアから獲得しています。一方のオーストリアは、かの有名なマリア・テレジアのオーストリア大公の継承が認められた他、神聖ローマ皇帝はマリア・テレジアの夫のフランツが即位し、ハプスブルク家を存続させることに成功しています。ただ、そのために領土の一部割譲を認めているので、やや敗北している、といったところでしょうか。さて、まずは、年表と概要から見ていきましょう。」

できごと 他地域のできごと
1712年 フリードリヒ2世誕生
1713年 カール6世が国事詔書を発布
1717年 マリア・テレジア誕生
1730年 フリードリヒ2世の亡命未遂事件
1739年 イギリスとスペイン間でジェンキンスの耳戦争 開戦
1740年 10月 カール6世死去
マリア・テレジアがカール6世の後継者となる。
12月 プロイセンがシュレジエンに侵攻 オーストリア継承戦争開戦
1741年 プロイセンがシュレジエンの中心都市ブレスラウを占領
フランスがプラハを占領
6月 マリア・テレジアがハンガリー女王戴冠式を挙行
1742年 バイエルン選帝侯が神聖ローマ皇帝カール7世として選出される
1744年 アメリカ大陸において、イギリスとフランス間でジョージ王戦争 開戦
インドにおいて、イギリスとフランス間で第一次カーナティック戦争 開戦
1745年 カール7世死去
1748年 アーヘンの和約 オーストリア継承戦争終結

後継者に悩むハプスブルク家

big5
「これまで見てきたように、18世紀のヨーロッパでは王位の継承問題がきっかけになって、大戦争が起きてきました。オーストリアの名門ハプスブルク家にも、ついに後継者問題が発生したんです。時の神聖ローマ皇帝であるオーストリアのカール6世は、後継者となる男子に恵まれませんでした。そこで、カール6世は長女のマリア・テレジアを自分の後継者とすることを考えます。しかし、当時のイギリスを除くヨーロッパ圏では、男子のみに相続が認められるのが伝統的な習慣でした。何もしなければ、マリア・テレジアに継承させることは認められないでしょう。カール6世は、スペイン継承戦争で、亡くなったスペイン王カルロス2世の後継者候補に担がれた経験もあり、王位継承問題が大戦争を引き起こすことを身をもって経験しています。継承戦争の発生は、なんとしても避けたいところでした。そこで、あることを考えます。」
名もなきOL
「あること、とは?」
big5
女子が相続してもいい、というルールを、神聖ローマ帝国諸侯や周辺各国に認めさせよう、という案です。これが、1713年にカール6世が発布した「国事詔書(こくじしょうしょ)」です。」
名もなきOL
「でも、歴史的な習慣を変えさせる、ってなかなか難しいですよね。」
big5
「はい、カール6世も、周辺諸国に認めさせるのに、たくさん打ち合わせを行って時間も労力もかかったそうです。ただ、これに労力を費やすのもわかります。実際、カール6世には成人まで成長した男子はいませんでした。カール6世の子どもで成人したのは、1717年に誕生した長女のマリア・テレジアと次女のマリア・アンナの2人だけでした。継承問題はもう他人事ではなかったんですね。」

Andreas Moeller - Erzherzogin Maria Theresia - Kunsthistorisches Museum
少女(10歳くらい)時代のマリア・テレジア  アンドレアス・モラー画 1727年頃

big5
「カール6世は周辺諸国の多くを説得することに成功し、1740年10月に55歳で亡くなります。カール6世の後継者となってハプスブルク家を継ぐのは、長女のマリア・テレジア(この年23歳)です。しかし、国事詔書を承認しておきながら、領土を要求してくる人物がいました。野心あふれるプロイセン王のフリードリヒ2世です。」

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フリードリヒ2世  アントワーヌ・ペスヌ画 1745年

名もなきOL
「あら、カール6世の努力は水の泡になってしまったんですね。」
big5
「領土拡大の野心を持つ国の前では、書類での約束事は何の役にも立たない、というのが国際社会の法則なんじゃないか、と私は思います。さて、領土を要求してきたフリードリヒ2世に対し、マリア・テレジアは大激怒です。というのも、父のカール6世は生前、父親と揉めて苦労していたフリードリヒ2世を、助けていたんですよ。詳しくは後で書きますが、フリードリヒ2世がプロイセン王になれたのは、カール6世の助けがあったから、といっても過言ではありません。」
名もなきOL
「ということは、恩を仇で返した、ということですか?」
big5
「ハプスブルク家から見たら、まさにそのとおりでしょう。マリア・テレジアが激怒したのも理解できます。こうして、マリア・テレジアはフリードリヒ2世の要求を拒否。そして、フリードリヒ2世は先手を打ってシュレジエン地方に攻め込んだことで、オーストリア継承戦争の火ぶたが切って落とされました。」


プロイセンの発展

big5
「それでは、オーストリア継承戦争の経過に入る前に、この頃勢力伸長が著しかったプロイセンの話をしておきましょう。」
名もなきOL
「はい!それ聞きたいです!18世紀は戦争の話ばっかりだったので。」
big5
「プロイセン王国は、スペイン継承戦争の際に、神聖ローマ皇帝レオポルト1世に味方することを条件に「王」の称号を許されて誕生しました。そのプロイセン王国の発展に重要な役割を果たしたのが、フリードリヒ2世の父であるフリードリヒ・ヴィルヘルム1世です。」

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フリードリヒ・ヴィルヘルム1世  サムエル・テオドール画 1713年

名もなきOL
「フリードリヒ・ヴィルヘルム・・・って名前長いですね。フリードリヒ、か、ヴィルヘルムのどっちかでいいんじゃないですか?」
big5
「「フリードリヒ」も「ヴィルヘルム」も、同じ名前の王がこの後出てくるので、区別するためにはこの人をちゃんと「フリードリヒ・ヴィルヘルム1世」と呼ばないと、ごっちゃになっちゃうんですよ。
さて、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、プロイセンの国力増強のために、様々な施策を行いました。特に効果的だったのが、フランスや神聖ローマ帝国の諸侯領でカトリック教徒に迫害されていた新教徒であるユグノー達を受け入れて、プロイセンの商業を振興させたことです。元々フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はカルヴァン派だったので、商業の振興は教義にもかなっていますね。」
名もなきOL
「宗教的に迫害されていた人たちを助けるなんて、立派ですね。」
big5
「他には、紡績工場を建設したり、沼沢地を干拓して農業生産高を増やしたりと、内政にも力を入れています。」
名もなきOL
「すごい、これまでに出てきた王様だと、ピョートル1世に似たかんじで、この人もデキル人なんじゃないかしら?」
big5
「内政面での業績は大きいですね。ただ、これらの施策で発展した経済力は、ほとんどが軍事力の増強に使われました。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、国家予算を作成し、お金の使い道を細かく規定し、兵力の増強を推進しました。」
名もなきOL
「富国強兵、ですね。」
big5
「ここで余談を一つ。軍隊の増強に熱心だったフリードリヒ・ヴィルヘルム1世が、特に好んだのが背が高い兵士でした。いや、「好んだ」どころではなく、異常なほど執着した、と言うべきでしょう。プロイセン国内はもちろん、諸国にスカウトマンを派遣して、背の高い男を積極的にスカウト。場合によっては、強制的に拉致することで人数を集めました。そして、背の高い兵士のみで構成された「巨人軍」という部隊を作り、自ら指揮を執って悦に入っていました。さらに、お気に入りの「巨人」の肖像画を描かせて、それを自分の部屋の天井に飾り、目が覚めたら1番に目に入るようにした、という徹底ぶりだったんです。」
名もなきOL
「それは・・・ちょっと・・、いや、だいぶ変ですね。。」
big5
「極めて「変人」だと思います。その一方で、生産性を上げるためにこんなルールも作っています。
市場で商売をする女は、暇になったら無駄話をするのではなく、糸をつむがなければならい。』」
名もなきOL
「細か!ヤなかんじ。お姑さんみたい。」
big5
「お姑さんと違うところは、王はしばしば街に出かけて、国民がルールを守っているかをチェックし、違反者を見つけたら、自ら杖でたたく、という刑罰を下していました。」

名もなきOL
「怖!そんなことしてたら、きっと国民に恐れられる王様だったんでしょうね。」
big5
「はい。なので、国王が出てきたことを知ると、違反していなくても逃げ出す人々が出てきます。こんな話が残っています。ある男が、違反していないけれども国王が来たので逃げたところ、国王はこれを追って捕まえます。「なぜ逃げるのか?」と国王が尋ねると、男は「国王陛下が怖いからです。」と素直に回答。それに対して国王は「お前たちは私を好きにならなければならん。」と言って、杖でぶったそうです。
このような国王であるフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、息子であるフリードリヒ2世に対しても異常でした。フリードリヒ2世は音楽が好きで、特にフルートの演奏が得意でした。ところが、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、息子が音楽をやることが大嫌いでした。嫌うだけでなく、フリードリヒ2世がフルートを演奏することを禁止し、破った場合は例の杖でぶん殴ったそうです。他にも、フリードリヒ2世が父の言いつけを守らないと、食事を与えなかったり、監禁したり、現代日本だったら児童虐待で間違いなく訴えられる行為を繰り返していました。」
名もなきOL
「ヒドイ!虐待じゃないですか!王子ですらこんな扱いをされるなら、一般国民はもっと叩かれたんでしょうね。フリードリヒ2世は大丈夫だったんですか?」
big5
「なんとか耐えていたのですが、我慢の限界が来たのでしょう。1730年、フリードリヒ2世が18歳になる年に、ついに国外逃亡を試みます。」
名もなきOL
「こんなお父さんだったら、私でも逃げたくなりますわよ。」
big5
「しかし、国外逃亡は失敗。王子が国外逃亡を図るというスキャンダルに、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は大激怒します。フリードリヒ2世と共に亡命しようとした友人のカッテは処刑され、フリードリヒ2世は廃嫡されそうになりました。これを調停したのが、オーストリアのカール6世なんですよ。カール6世の調停により、フリードリヒ2世はフリードリヒ・ヴィルヘルム1世から許されたわけです。つまり、カール6世はフリードリヒ2世の恩人にあたるわけですね。」
名もなきOL
「なるほど〜。こんな背景があったにも関わらず、フリードリヒ2世はカール6世の死に付け込んで、オーストリアにシュレジエンを要求してきたわけですね。マリア・テレジアが激怒するのも理解できます。」
big5
「それでは、次はオーストリア継承戦争の推移を見ていきましょう。」


オーストリア継承戦争 戦闘経過とアーヘンの和約

big5
「先手を取ったのは、プロイセンのフリードリヒ2世でした。フリードリヒ2世は、次期神聖ローマ皇帝に、マリア・テレジアの夫であるフランツを推挙する見返りとして、シュレジエン地方の割譲をオーストリアに要求しました。マリア・テレジアが激怒してこれを突っぱねると、オーストリアの準備が整う前に、シュレジエンに侵攻。オーストリア軍を破って、シュレジエンを占領下に置きます。開戦してすぐにプロイセンが勝利を収めたことにより、周辺諸国はプロイセンに味方し始めます。まず、ハプスブルク家とは歴史的に争ってきたフランス、フランスと仲が良く、神聖ローマ皇帝の位を狙っているバイエルン選帝侯カールもプロイセン側で参戦します。1742年には、バイエルン選帝侯カールが、神聖ローマ皇帝カール7世として即位。形勢は、一気にプロイセン有利に傾きます。」
名もなきOL
「オーストリアは泣きっ面に蜂ですね。周囲に敵が増えたうえに、神聖ローマ皇帝の位も取られてしまったんですね。」
big5
「そこで、マリア・テレジアをハンガリーの支援を得て、カール7世に反撃。バイエルン軍を蹴散らしてカール7世の本拠地であるバイエルンも占領します。また、オーストリアはフランスの宿敵であるイギリスと同盟し、援助を求めました。そして、援軍にやってきたイギリス軍と連携して、フランス軍を破るなど善戦します。」
名もなきOL
「マリア・テレジアもやられっぱなしではなかったんですね。」
big5
「しかし、1745年の戦いでオーストリア軍はフリードリヒ2世自らが率いたプロイセン軍に敗北。その後の戦いにも敗北し、ヨーロッパでの戦いは、プロイセン勝利で幕を閉じます。」
名もなきOL
「私は、マリア・テレジアに勝ってほしかったな。フリードリヒ2世って、優秀な人なんでしょうけど、なんかキライ。。」
big5
「ちなみ、オーストリア継承戦争の特徴の一つは、イギリス vs フランスの植民地争奪戦も同時並行で行われていた、ということです。スペイン継承戦争と似ていますね。北米では、1744年からイギリス vs フランスの植民地争奪戦が行われました。この戦争は、当時のイギリス王ジョージ2世にちなんでジョージ王戦争と呼ばれています。ジョージ王戦争では、イギリスがフランスのルイブール要塞を占領するなど、イギリスが優勢でした。一方、インドでもイギリス vs フランスの戦いが勃発し、こちらは第一次カーナティック戦争と呼ばれています。第一次カーナティック戦争では、フランスのインド総督デュプレクスがイギリス東インド会社を相手に有利に戦いを勧め、イギリス領マドラスを占領するなど、フランス優勢で進みました。」
名もなきOL
「オーストリア継承戦争の当事者は、オーストリアとプロイセンですよね。イギリスとフランスは脇役なんでしょうけど、脇役は脇役同士で激しい戦いをしていたんですね。」
big5
「その通りです。これらの戦争は、1748年のアーヘンの和約で終結しました。アーヘンの和約の主な内容は
(1) プロイセンは、オーストリアからシュレジエンを獲得。
(2) 神聖ローマ皇帝はマリア・テレジアの夫のフランツであることを承認する。
(3) 国事詔書を承認し、マリア・テレジアのハプスブルク家相続を承認する。
(4) イギリスは北米のルイブール要塞をフランスに返還し、フランスはインドのマドラスをイギリスへ返還する。
 (つまり、ジョージ王戦争と第一次カーナティック戦争は、占領地をお互いに返還して戦争前の状態に戻して引き分け)
となっています。まとめると、得をしたのはプロイセンのフリードリヒ2世だけですね。」
名もなきOL
「なんだか悔しいな。。マリア・テレジアにはがんばってほしい。」
big5
「がんばるんですよ、マリア・テレジアは。かくして、オーストリア継承戦争はプロイセン勝利で幕を閉じましたが、プロイセンのフリードリヒ2世とオーストリアのマリア・テレジアの戦いは、これで終わりませんでした。オーストリア継承戦争のリターンマッチとして、6年後に七年戦争が勃発します。」

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