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18世紀欧州戦乱

七年戦争(Seven Year's War)

あらすじ

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「さて、オーストリア継承戦争で、プロイセンのフリードリヒ2世に苦杯をなめさせられたマリア・テレジアは、逆襲の機会を伺います。1753年、彼女はカウニッツ(この時42歳)という優秀な政治家を宰相に任命し、失ったシュレジエン奪回のための戦略を立てさせます。カウニッツは、プロイセン打倒のためには、歴史的にハプスブルク家と争い続けていたフランスを味方につける必要がある、としてフランスと交渉を開始。そして、1756年にフランスとオーストリアが同盟を結ぶことになります。中世からヨーロッパの対立軸であったハプスブルク家 vs フランス王家の敵対関係が、一気に同盟関係に転じたこの事件は外交革命と呼ばれています。これは歴史の大きな転換点の一つですね。
そしてもう一つが、ロシアとの同盟です。プロイセンを東から脅かすことができるロシアと共同でプロイセンを攻めることができれば、プロイセンは軍を分けざるを得なくなり、戦いを有利に進めることができます。当時のロシアはピョートル1世の娘・エリザヴェータが女帝として君臨していました。フランスでは、国王はルイ15世でしたが、彼はあまり政治に関心を持たなかったため、なんと公式愛妾であるポンパドゥール夫人が国政に関与していました。オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェータ、そしてフランスのポンパドゥール夫人の3人の女性によるプロイセン包囲作戦ともいえるため、「3枚のペチコート作戦」(ペチコートとは当時のスカートのこと。)というあだ名があります。」

Kaiserin Maria Theresia (HRR) Carle Vanloo, Portrait de l’imperatrice Elisabeth Petrovna (1760) Boucher Marquise de Pompadour 1756
左からマリア・テレジア、ロシア女帝エリザヴェータ、ルイ15世公式愛妾ポンパドゥール夫人

名もなきOL
「それ、面白い!いけ好かない才子肌の男子をやっつけるために、女子が3人連合したわけですね。」
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「こうして勃発したのが七年戦争です。オーストリアに加えて、フランス、ロシアの3か国を同時に相手にすることになり、さすがのフリードリヒ2世も苦戦を強いられます。プロイセンは、フランスと敵対するイギリスと同盟して軍資金の援助を受けます。しかし、イギリスは、プロイセンを直接支援するのは申し訳程度で、フランスとの戦いに注力。プロイセンは軍事力で不利でしたが、フリードリヒ2世の軍事的指導力で奮戦するものの、一時は滅亡寸前まで追い詰められますが、奇跡的に逆転してなんとかギリギリの勝利を収めました。」
名もなきOL
「あら、3枚のペチコート作戦は失敗しちゃったんですね。」
big5
「なお、オーストリア継承戦争と同様に、北米とインドでもイギリス vs フランスの植民地争奪戦が行われました。北米の戦いはフレンチ・インディアン戦争、インドでの戦いは第三次カーナティック戦争プラッシーの戦いです。それでは、いつもと同じく年表から見ていきましょう。」

できごと
1756年 5月 オーストリアとフランスが同盟締結
8月 プロイセンがザクセンに侵攻 七年戦争開戦
10月 ロボジッツの戦いでプロイセンがオーストリアを破る
    ザクセンがプロイセンに降伏
1757年 5月 プラハの戦いでプロイセンがオーストリアを破る
6月 コリンの戦いでオーストリアがプロイセンを破る
6月 (印)プラッシーの戦いでクライヴ率いるイギリス軍がフランス・ベンガル太守連合軍を破る
8月 グロース=イェーゲゲルスドルフの戦いでロシアがプロイセンを破る
8月 (北米)ウィリアム・ヘンリー砦の戦いでフランスがイギリスを破る
10月 オーストリア軍が一時的にベルリンの一部を占領
11月 ロスバッハの戦いでプロイセンがフランス・神聖ローマ連合軍に大勝
12月 ロイテンの戦いでプロイセンがオーストリアに大勝
1758年 1月 ロシアが東プロイセンに侵攻して占領
1759年 8月 クネルスドルフの戦いでロシア・オーストリア連合軍がプロイセンに大勝
1760年 8月 リーグニッツの戦いでプロイセンがオーストリアに勝利
10月 ロシア・オーストリア連合軍がベルリンを一時占領するが撤退
11月 トルガウの戦いでプロイセンがオーストリアに勝利
1762年 1月 ロシア女帝エリザヴェータが死去。ピョートル3世が即位
5月 サンクトペテルブルク条約でロシアとプロイセンが単独講和
10月 ピョートル3世が廃位され、皇后であったエカチェリーナ2世が即位
1763年 2月 フベルトゥスブルク条約・パリ条約 七年戦争終結

マリア・テレジアの反撃 外交革命

big5
「さて、まずはオーストリア継承戦争の内容を確認しましょう。まず、こちらがオーストリア継承戦争の対立図です。」


名もなきOL
「あらためて見てみると、オーストリアの味方はイギリスだけなんですね。でも、イギリスってオーストリアからだいぶ離れてるし、援軍に行くのもたいへんですよね?それに、イギリスはアメリカ大陸とインドでフランスと戦ってるから、オーストリアを直接支援することは難しいんじゃないか、と思います。」
big5
「その通りです。オーストリアの宰相となったカウニッツも、同様のことを考えました。オーストリアがプロイセンを打ち破ってシュレジエンを奪還するためには、プロイセン包囲網を作る必要がある、と。つまり、ロシアとフランスを味方に付けて、三方向からプロイセンを攻撃する、という戦略を考案したわけです。
ただ、この戦略は簡単には実現できません。」
名もなきOL
ハプスブルク家とフランス王家は、昔から敵対していますもんね。」
big5
「そうです。そのため、フランスとの交渉はかなり複雑で粘り強さが必要なものになりました。しかし、カウニッツはこれを数年かけてなんとか実現まで漕ぎ着け、1756年5月、ついにハプスブルク家とフランスの間で同盟が締結されます。長年争ってきた両者の同盟は、ヨーロッパ世界の国際情勢をガラリと変化させる一大事件だったので、この同盟締結は外交革命と呼ばれています。
また、カウニッツはロシア女帝エリザヴェータと共同してプロイセンを攻撃する約束も取り付けました。かくして、マリア・テレジアのリターンマッチの準備が整ったわけです。一方、プロイセンのフリードリヒ2世は、包囲網を築かれて焦ります。フランスが敵に回ったならば、「敵の敵は味方」理論でイギリスと同盟します。しかし、オーストリアと同様に、プロイセンにとってもイギリスは味方としてはやや微妙です。プロイセンの軍事力は高いのですが、オーストリア、ロシア、プロイセンの3国を同時に相手するのは、さすがに多勢に無勢でしょう。そこで、フリードリヒ2世は、今回も先手を打って、先に仕掛けます。七年戦争、開戦です。」


七年戦争 戦闘経過

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「1756年8月、フリードリヒ2世(この年44歳)は自らプロイセン軍を率いて出陣。まずは、プロイセンとオーストリアの間にあるザクセン侯国に侵攻します。ザクセンもオーストリアも迎撃の準備が整っていなかったため、フリードリヒ2世の先制攻撃の前にあっさり敗北。10月にロボジッツの戦いでオーストリア軍を破り、間もなくザクセンは降伏。ザクセン軍は強制的にプロイセン軍に組み込まれました。」
名もなきOL
「数の不足を少しでも補おう、という戦術ですね。」
big5
「年が明けた1757年は、戦局は大きく変動しました。5月にプラハの戦いでプロイセン軍は再びオーストリア軍に勝利しプラハを包囲するものの、6月には救援にやってきたオーストリア軍とコリンの戦いでフリードリヒ2世は大敗します。」
名もなきOL
「ついにやったんですね!マリア・テレジアがようやく一矢報いたんですね。」
big5
「オーストリアに敗れたうえに、ロシア、フランスもプロイセンに侵攻を開始しました。ロシアは8月にグロース=イェーゲルスドルフの戦いでプロイセン軍を破りました。ところが、ロシア軍の進撃はここで止まってしまいます。」
名もなきOL
「え、なんで?勢いに乗って攻め込めばいいのに。」
big5
「砲弾を使いつくしてしまったんですよ。補給部隊が到着するまで、大規模な攻勢はかけられません。ロシアは大国ですが、補給を効率の良くない陸路で長い距離運ばなければならない、という弱点を抱えていたんです。」
名もなきOL
「大北方戦争の時は、広大な国土を利用した焦土戦術でスウェーデン軍を弱らせることができたのに、今回はそれが補給の問題を引き起こしてしまったんですね。」
big5
「物事には表と裏がありますからね。長所も見方を変えれば短所になります。さて、ロシア軍の侵攻は止まりましたが、次はフランス軍が迫ります。この時のフランス軍は、神聖ローマ帝国諸侯の軍も加えて、フランス・神聖ローマ帝国連合軍となっており、その兵力は5万5000。対するフリードリヒ2世は2万2000のプロイセン軍を率いてこれを迎え撃ちました。」
名もなきOL
「戦上手のフリードリヒ2世でも、2.5倍の兵力差はきついでしょうね。」
big5
「1757年11月、両軍はザクセンのロスバッハで激突します。ロスバッハの戦いです。この戦いは、プロイセン軍の損害がわずか548人だったのに対し、フランス・神聖ローマ連合軍は3000人が死傷し、7000人が捕虜となるという、史上稀にみる「兵力優位の軍が大敗した戦」になりました。」
名もなきOL
「この頃のフランスって、なんか戦争に弱い気がしますね。大敗の原因はなんだったのですか?」
big5
「いろいろありますが、一番の違いは指揮官の能力でしょう。戦上手のフリードリヒ2世に対し、フランス軍の総司令官シャルル・ド・ロアン(この時52歳)はルイ15世の遊び仲間で、放蕩者で有名な人物でしたが、コネで出世して総司令官になりました。」
名もなきOL
「そんな人が総司令官になるなんて・・・兵士たちが可哀想だわ。」
big5
「さて、三方向に敵を抱えるフリードリヒ2世に休む間はありません。ロスバッハで大勝利を飾った後は、オーストリア軍の迎撃に向かいました。12月、ロイテンの戦いでフリードリヒ2世は2倍近い兵力差をものともせず、オーストリア軍を打ち破ります。」
名もなきOL
「フリードリヒ2世って、戦争に強いんですね。悔しいけど、マリア・テレジアは相手が悪かった気がするわ。。」
big5
「ここまでは、全体的にプロイセンが優勢、と言えるでしょう。ただ、10月にオーストリア軍のハンガリー人騎兵部隊が、無防備に近いプロイセンの首都・ベルリンを襲撃し、その一部を一時的ではあるものの占領した、という事件もありました。さすがのプロイセンも、敵が多すぎて戦力が分散してしまい、首都の防衛も疎かになっていることの現れだと思います。実際、1758年からはプロイセンはどんどん追い詰められていきます。
1758年1月に、補給を済ませたロシアが東プロイセンに侵攻。フリードリヒ2世は撃退に向かいますが、戦闘は痛み分けで引き分け。その後のオーストリア軍との戦いも奇襲で損害が大きくなり、1757年のような大戦果は挙げられませんでした。
そして1759年8月、クネルスドルフの戦いでオーストリア・ロシア連合軍にフリードリヒ2世が大敗し、プロイセンの劣勢は決定的になりました。」

Kunersdorff
クネルスドルフの戦い アレクサンドル・コツェブー画 1848年

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「この大敗にフリードリヒ2世は大いに意気消沈。この日書いた手紙の中で、自殺をほのめかしているくらいです。 」
名もなきOL
「フリードリヒ2世みたいなタイプって、失敗に弱そうですよね。自信家であればあるほど、失敗した時の精神的なダメージって大きい気がします。」
big5
「ただ、フリードリヒ2世は自殺せず、気力を回復すると再び戦場に立ちます。1760年8月にリーグニッツの戦いでオーストリア軍を破りますが、10月にロシア・オーストリア連合軍に首都・ベルリンを一時占領されるという事件も起きました。11月には、トルガウの戦いで再びオーストリア軍に勝利し、なんとか態勢を立て直しつつありましたが、プロイセンの国力は限界に近いところまで来ていました。ロシア、オーストリアも疲労がたまっており、戦力は低下していましたが、このまま戦争を継続していたら、先にプロイセンが軍事力を使い果たして敗北したことでしょう。
そんな中、プロイセンに奇跡が起きます。1762年1月5日、ロシア女帝エリザヴェータが死去しました。53歳になる年でした。3枚のペチコートの一角が倒れたんです。」
名もなきOL
「そうですね、でもそれだけでどうして「奇跡」なんですか?」
big5
「エリザヴェータは実子がいなかったので、ホルシュタイン=ゴットルプ公で甥にあたるカール・ペーターを養子としていました。彼が、ピョートル3世(この年34歳)として即位するのですが、ドイツ語圏で生まれ育ったピョートル3世は、フリードリヒ2世を深く尊敬していたんです。そのため、ピョートル3世は即刻プロイセンとの戦闘を停止し、占領地をすべてプロイセンに返還し、さらにロシア軍を援軍としてフリードリヒ2世に送る、という180度転換を行ったんです。この事件は「ブランデンブルクの奇跡」と呼ばれ、瀕死だったプロイセンは息を吹き返しました。」
名もなきOL
「そんなドラマみたいな話、本当にあったんですね。」

Coronation portrait of Peter III of Russia -1761
ピョートル3世肖像画  1762年(1761年12月) ルーカス・コンラッド画

big5
「事実は小説より奇なり、ですね。マリア・テレジアも、ロシア無しでプロイセンとの戦争を継続することは不可能だと断念。七年戦争は和平締結へと向かいました。七年戦争の講和条約は2つあります。一つはフベルトゥスブルク条約で、これは主役であったプロイセンとオーストリア間の講和条約です。内容は特に新しいものはなく、シュレジエンは引き続きプロイセン領であることが確認されて終わりでした。どちらも、開戦前の状態に戻るだけ、という結果からすると引き分けですが、3枚のペチコート作戦で万全の態勢を整えたにも関わらず、目的を達成できなかったオーストリアの敗北、と言った方が正しいかもしれません。」
名もなきOL
「マリア・テレジアを応援していたのですが、最後は運に見放された感じですね。」
big5
「フベルトゥスブルク条約よりも重要なのが、パリ条約です。パリ条約は、脇役同士であるイギリスとフランスの講和条約です。主な内容は、
(1) イギリスは北米において、フランスからはケベックなどの現在のカナダを獲得した他、ミシシッピ川以東のフランス植民地のほぼ全域を獲得
(2) イギリスは、北米においてフロリダをスペインから獲得
(3) フランスはインドの植民地事業の拠点をほぼすべて放棄する
というものでした。イギリスは、北米の領土を大幅に拡張することに成功し、また、インドでもフランスの拠点はほぼ失われ、イギリスがインド植民地事業のほぼすべてを独占することになりました。」
名もなきOL
「なんか、七年戦争で一番得をした国って、脇役のイギリスだった、ってことですよね。」
big5
「はい。その通りです。18世紀のヨーロッパ諸国の闘争の結果、イギリスが世界帝国への礎を固めることになりました。現代で、英語が世界の共通言語になっている理由の原因は、ここまで見てきた歴史にあるわけですね。ただ、世界の覇者となったイギリスは、しばらく後に痛い目を見ることになります。アメリカ独立革命です。一方、敗れたフランスでは、これまでの絶対王政体制が産んだ格差社会がアメリカ独立に触発され、フランス革命が勃発します。歴史は、新たな時代へと突入していくわけですね。そういう流れから見ると、七年戦争は国家が国王のモノだった時代の最後の戦争、と言えるのではないか、と私は思います。
そして、アメリカ大陸においてもう一つ重要なのが、ケベックですね。ケベックは、フランス植民地の拠点として築かれた町ですが、七年戦争によってイギリスが支配することになりました。しかし、ケベック住民の多くはフランス人入植者なので、言語もフランス語です。ケベックの人々は、フランス文化、フランス語を維持し続け、イギリスもケベック法を制定して同化政策を諦め、公用語にフランス語を残し続けました。現代カナダの公用語は英語とフランス語の2語ですが、ケベック州だけは公用語はフランス語のみですし、文化もフランスで、完全にフランス語圏です。カナダの中で、いや、アメリカ大陸の中でも、際立った存在ですね。このネタは、令和3年度共通テストの世界史A再試験の第1問Aに使われています。重要人物が出てくるわけではないですが、受験生は知っておくべき知識ですね。」

七年戦争 その後

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「七年戦争に登場した主要人物のその後を、簡単に紹介します。
フリードリヒ2世
七年戦争終結の年に51歳だったフリードリヒ2世は、その後は大規模な戦争に出ることはありませんでした。ただ、晩年は孤独で他人との交流を避けるようになり、サンスーシ宮殿で少年時代から好きだったフルート演奏に興じたり、愛犬たちと過ごすことが多かったそうです。1772年には、マリア・テレジアの息子であるヨーゼフ2世を誘ってオーストリアと共に第1回ポーランド分割に参加。アメリカ独立戦争では、旧同盟国のイギリスとは距離を置き、武装中立同盟に参加しています。アメリカ独立から3年後の1786年8月17日、サンスーシ宮殿で老衰により死去しました。74歳になる年でした。フリードリヒ2世は、オーストリア継承戦争、七年戦争を戦い抜き、シュレジエンを確保して、その後のプロイセンをドイツの覇権国に成長させる道筋をつけた功績が称えられ、フリードリヒ大王(Friedrich the Great)と尊称されています。
なお、晩年に『七年戦争史』を著しており、当時を知る一級史料になっています。

Friedrich Zweite Alt
フリードリヒ2世肖像画  1781年 アントン画
なお、この肖像画はナチスドイツ統治下のヒトラー官邸に飾られていたことで有名


マリア・テレジア
七年戦争終結の年に46歳だったマリア・テレジアは、内政に力を注ぎました。七年戦争終結から2年後の1765年に、夫のフランツ1世が亡くなった後は、生涯にわたって喪服だけを着ていたそうです。フランツ1世の後継者として息子のヨーゼフ2世が神聖ローマ皇帝に即位し、息子と共同統治となりました。オーストリアでは、ヨーゼフ2世が啓蒙主義的な改革を推進し、イエズス会の禁止や他国に先駆けて小学校と義務教育の制度を実施しています。
外交面ではフランスとの同盟を強化するため、娘のマリー・アントワネットをルイ16世の王妃として送り込んでいます。結果論にはなりますが、このためにマリー・アントワネットはフランス革命の犠牲となってしまうわけですね。
1780年11月中旬、散歩の後に高熱を発し、それがきっかけになったのか、11月29日にヨーゼフ2世や独身の娘たちに囲まれて亡くなりました。63歳になる年でした。」


ピョートル3世
滅亡寸前のプロイセンを救ったロシア皇帝ピョートル3世は、即位した半年後の1762年7月9日、妻のエカチェリーナが軍の支援を受けてクーデターを起こし、逮捕されてしまいます。ピョートル3世をどう扱うかはかなり議論されたそうですが、結果として7月18日に殺害されてこの世を去りました。
勝利を目前にして、七年戦争に単独講和したことでロシア人の反発を買ったピョートル3世は、愚か者として評価されることが多いです。その一方で、数々の啓蒙主義的な改革を考えていたという話もあり、決して無能な人物ではなかった、とも言われています。


ポンパドゥール夫人
七年戦争が終結した翌1764年、ヴェルサイユで亡くなりました。死因は肺病だったそうです。42歳になる年でした。

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