small5
「さて、ここは詳細篇ということで、ロビンソン・クルーソーについて、より歴史的にディープな話題を検証していくぜ!ロビンソン・クルーソーの初心者は、まずこちらの本編を見ることをオススメするぜ。」
big5
「ニュートンの詳細篇と同様に、ディープな話になるので、OLさんの代わりに私がお相手します。」
<お題>
・ロビンソン・クルーソーにはモデルがいた?
・ロビンソン・クルーソー島っていう名前の島が実際にあるの? ロビンソン・クルーソーはそこで生活していたの?
・ロビンソン・クルーソーの第2部、第3部ってどんな話?
small5
「さて、最初のお題はロビンソン・クルーソーのネタでよく出てくる、「ロビンソン・クルーソーのモデル」の話だ。ロビンソン・クルーソーのモデル、と言われているのは誰のことだか知っているか?」
big5
「スコットランド人の船乗り、アレキサンダー・セルカーク(以下、「セルカーク」と記載)ですね。」
small5
「そのとおりだ。セルカークは、1704年から1709年の約4年半を、南米のチリから約700km離れた沖合にあるファン・フェルナンデス諸島の一つの無人島で、たった一人で生活した実在の人物だ。絶海の孤島で、たった一人で生活する、という、巷のロビンソン・クルーソーのイメージとピッタリ合っているよな。」
big5
「ロビンソン・クルーソーが刊行されたのは、セルカークの話が出版された後でしたっけ?」
small5
「あぁ、セルカークは1711年にイギリスに帰国した。その後、セルカークを救助した船の船長であるウッズ・ロジャーズが1712年の『世界周航記』が刊行されて、セルカークの話を紹介。その後、ジャーナリストのリチャード・スティールが発行していた新聞『イギリス人(The Englishmen)』の1713年12月3日号で、セルカークのインタビューした記事を載せている。それから5年と少し過ぎた1719年4月に、デフォーが『ロビンソン・クルーソー』を刊行している。この流れからすると、デフォーがセルカークの実話をモデルにして、ロビンソン・クルーソーを書いた、と考えられるのも、まぁ、自然な流れだよな。」
big5
「デフォーなら、当然セルカークの話も知っていたでしょうしね。何の影響もなかった、とは考えにくいのが自然な流れですよね。」
small5
「実際、岩波文庫の『ロビンソン・クルーソー(上)』(訳:平井正穂)のはしがきで、訳者の平井氏は
「ロジャーズの『世界周航記』の第二版が1718年に出た。セルカークの漂流や孤島での生活の記事に、デフォーが異常な興味を感じたのは多分この版によってだろう」
と書いている。セルカークの話がきっかけになったのだろう、と書いてるよな。だが、ここで重要なことがある。なんだと思う?」
big5
「う〜ん・・・よく読むと、推論ですよね。「〜だろう」っていう、表現になってますね。」
small5
「そのとおり。平井氏も書いてあるように、これは推論なんだ。デフォーが、セルカークの話をモデルにした、という確たる証拠は今のところ無いんだぜ。平井氏の訳本が出たのは1967年なので、今から50年以上も前の話なんだが、それから約40年経った2007年に刊行された中央公論新社の『完訳 ロビンソン・クルーソー』(訳:増田義郎」の後書きで、訳者の増田氏は
「デフォーがセルカークと面談した、と推測する者もいるが、確証はぜんぜんない。デフォーは世界地理、探検、航海、通商に精通していた人なので、彼が持っていた情報から『ロビンソン・クルーソー』の構想を作り上げた、とするほうが自然である。」
という内容のことを書いている。これは、増田氏の解説の中で示された表だ。イギリスで1500年から1700年の201年間に出版された航海記・旅行記の数を示している。」
big5
「これはなかなか興味深い表ですね。数を見ると、圧倒的1位は北アメリカで、英語出版で139件もあるんですね。これはやはり、北米植民地との関連が感じられますね。次に多いのは西ヨーロッパで59件。まぁ、イギリスの地元ですからね。その次は中東の33件。興味はありながらも、そんなに簡単に行ける場所ではないので、数がそれほど多くない、というところでしょうか。4番目にアフリカで30件、5番が東インドで25件、6番が西インドで24件、7番が南アメリカで18件。この辺は、イギリス植民地の拡大とだいたい合っている観がありますね。」
small5
「他言語からの翻訳も含めると、この200年の間に約600件近い航海記・旅行記が出版されているわけだ。これはつまり、デフォーが参考にしうる数がこんなにもあった、ということだ。セルカークの話が、そのままロビンソン・クルーソーのモデルになったわけではない、と俺は思うぜ。」
big5
「まぁ、この手の話は、「推論 vs 推論」で、なかなか答えが出る話ではないですよね。ただ、私もsmall5さんと似たような意見ですね。」
<まとめ>
Q:ロビンソン・クルーソーにはモデルがいた?
small5の意見:「デフォーには、元ネタにしうる航海記や旅行記に多数接しており、セルカークの話がロビンソン・クルーソーのモデルになったわけではない。」
big5の意見:「セルカークはモデルの1人ではあるが、他にもモデルとなりうる旅行記や航海記は多数あるため、数ある元ネタの1つである。」
small5
「次のネタは、「ロビンソン・クルーソー島」の話だ。さっきの、ロビンソン・クルーソーのモデルに関連した話だ。まず、答えから言うと
・ロビンソン・クルーソー島という島は実在する。1966年にチリ政府が改名した。
・ただし、ロビンソン・クルーソーはその島で生活していない。そもそも、ロビンソン・クルーソーは小説であって実話じゃない。
だ。この島がロビンソン・クルーソー島と名付けられたのは、ロビンソン・クルーソーのモデルと言われていたセルカークが約4年半を過ごした島、と考えられていた島なんだ。1966年1月1日にチリ政府が「ロビンソン・クルーソー島」と改名して、ロビンソン・クルーソー島が誕生した。改名前は「マサティエラ島」だぜ。これも、まさに「セルカークがロビンソン・クルーソーのモデルとなった」という話に由来しているよな。」
big5
「この改名は、私は賛成できないですね。『ロビンソン・クルーソー』で書かれている島とはだいぶ違います。ロビンソン・クルーソーの島は、ここまで孤島ではないですし、場所も南米北岸の近くで、全然違う場所ですし。知らない人が聞いたら「ロビンソン・クルーソーはこの島で生活したんだ!」って誤解しそうですね。」
small5
「その時は「ここはロビンソン・クルーソーのモデルが実際に生活した島だ」って追加説明すればいいんじゃないか(笑)?まぁ、歴史の正確性よりも、観光産業発展目的なのは明白だな。それで、だ。
ロビンソン・クルーソー島は無人島でなくなり、住民が600人くらいいる島になったんだが、1992年に日本人探検家の高橋大輔氏(この年26歳)が、この島のどこでセルカークが生活していたのか、全然わかっていなかったので自ら行って調査を開始した。」
big5
「おぉ、それはすごい。しかも、日本人が調査するなんて。。」
small5
「高橋氏は、実際に自給自足で生活したりして、セルカークの痕跡を探した。そして2001年、セルカークの住居跡らしきものを発見する。2005年1月〜2月に、国際探検隊が組織され、高橋氏は探検隊のリーダーとなり、考古学者も交えて本格的な調査が行われた。当初、高橋氏が見つけた住居跡らしきものは、調査の結果セルカークの時代よりも後の年代にスペイン人が作った火薬庫の跡だった、ということになったが、その下の地層からセルカークの年代の焚火跡や柱の跡が見つかり、さらに、「ディバイダ」と呼ばれる航海用具の先端部分が見つかり、それらがセルカークの所持品リストと一致していたため、ここがセルカークの住居跡だ、ということが示されたんだ。この調査結果は、2005年9月15日に世界中で同時発表されたんだ。」
big5
「日本人が主役で見つけた発見なのに、日本ではいまいち知名度が低いですよね。」
small5
「だよな。なので、関連書籍をここで紹介しておくぜ。」
small5
「今のところ、ロビンソン・クルーソーの第2部が日本語で読めるのは、平井正穂訳のこれだけだな。」
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