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世界大戦と平和への試み

辛亥革命 (1911 Revolution or Xinhai Revolution)

あらすじ

big5
「今回のテーマは1911年に発生した辛亥革命(しんがいかくめい)です。3年前の1908年に歴史あるオスマン帝国で青年トルコ革命が勃発し、それに続くかのように歴史ある清で革命が起きた、という流れになっています。」
名もなきOL
「確か、辛亥革命で清は滅んだんですよね?」
big5
「そのとおりです。歴史のテストでは重要なポイントです。一言でいうと、1911年の辛亥革命により、清は滅んだとなりますね。簡単なテストであればこれだけ知っておけば十分かもしれませんが、それだけでは難しい問題や歴史の面白さを感じるには不十分ですね。まず、知っておかなければならない人物が2人います。一人目は辛亥革命の旗頭となった革命家の孫文(Sun Yat-sen)です。

Sun Yat-sen 2.jpg
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Wikipediaより 孫文

名もなきOL
「孫文は私も覚えていますよ。確か、日本でも活動していたんですよね?」
big5
「OLさん、よく覚えていますね。そのとおりです。そして、もう一人の重要人物は、清の軍人・袁世凱(Yuan Shikai)です。」

President Yuan Shikai of China
袁世凱 撮影者:不明 撮影年代:不明

名もなきOL
「革命家の孫文が重要なのはわかるんですけど、清の軍人である袁世凱が重要なのはどうしてですか?」
big5
「それは、袁世凱が革命を乗っ取って新国家の総統となったから、です。孫文らの革命勢力は民衆の力を支持基盤としてしていましたが、それだけでは広大な清を完全に倒すことはできなかったんです。そこで、清の実力者であった袁世凱が、革命に協力する代わりに新国家である中華民国の総統となる、という交換条件を持ち出してきたんです。孫文はこれを受け入れました。」
big5
「えぇ!?それじゃ孫文さんが可哀想。革命実現に向けてがんばってきたのに、最後に他人に成果を横取りされるなんて・・・。袁世凱って悪い人ですね。」
big5
「「悪い」とまで言えるかどうかはわかりませんが、野心あふれる人物であったことは間違いないですね。
と、あらすじはこれくらいにしておいて、本編に入りましょうか。まずは、いつもどおり年表から見ていきましょう。」

年月 清のイベント 世界のイベント
1894年 孫文がハワイで興中会を結成 日清戦争
1898年 戊戌の政変
1900年 義和団事件
1901年 西太后らが改革を開始(光緒新政)
1904年 日露戦争 開戦
1905年 科挙を廃止
孫文が東京で中国同盟会を結成
日露戦争 終結
1908年 憲法大綱を公表し、議会開設を約束
光緒帝と西太后死去し、宣統帝溥儀が即位
青年トルコ革命
1910年 日本が韓国を併合
1911年 武昌蜂起(辛亥革命の始まり)
溥儀は退位して清が滅亡 中華民国が建国される
1912年 中華民国成立し、清は滅亡
袁世凱が中華民国の総統に就任
第一次バルカン戦争
1913年 袁世凱が国民党を弾圧 孫文は東京で中華革命党を結成 第二次バルカン戦争

孫文の革命運動

big5
「さて、まずは革命家・孫文の活動から見ていきましょう。孫文は1866年に広東の農民の子として生まれました。兄が華僑としてハワイで成功していたので、14歳の時にハワイに渡ってオアフ島・ホノルルに住みました。ただ、ハワイでキリスト教などの西洋思想にのめり込んでしまい、心配した一族によって1883年には広東に帰国させられたそうです。孫文は医師となりますが、列強諸国の食い物になってしまっている国家を憂い、革命を考えるようになったそうです。まず最初に、1894年10月にハワイで興中会という秘密結社を結成し、ハワイの華僑や広東出身者らを集めて、武装蜂起の準備を進めました。実際に、孫文らは数回にわたって武装蜂起しているのですが、全部失敗しています。失敗するたびに、孫文は亡命を繰り返して逃亡していました。1905年(この年孫文39歳)、東京に亡命していた孫文は、光復会や華興会などの他の革命を志すグループと合同して中国同盟会を結成しました。この時、孫文が理念として掲げたのが三民主義です。」
名もなきOL
「三民主義って、具体的に何を指しているんですか?」
big5
「まず第一に、民族の独立を図る民族主義です。この民族には、漢民族だけではなく、満州族、蒙古族など周辺諸国の民族も含めて「中華民族」として統一する、という理念を後に発表しています。次に民衆に権利を持たせるべきという民権主義。つまり、孫文が目指したのは民主的な共和政国家ということですね。最後に、国民生活の安定を考える民生主義です。」
名もなきOL
「現代人からすると当たり前みたいな考えですけど、当時の清はどれ一つ実施されていませんでしたね。」
big5
「そうですね。中国の歴史は、専制君主制の入れ替わりの歴史でもあります。そんな中で、民権主義や共和政国家などは、当時の中国人にはとても斬新な考え方に映ったと思います。
孫文は機関誌「民報」を発行し、在日留学生や一部は密かに清に持ち込まれ、孫文の革命思想は少しずつ広まっていきました。このように孫文が革命運動を展開していく一方で、清の政府もなんとかして立て直しをしようと、遅まきながら改革の手を打っていきました。次は清の改革を見てみましょう。」

清末期の改革 光緒新政

big5
「1900年の義和団事件と敗北の結果、清の実力者である西太后は、ようやく改革に乗り出しました。この改革は時の皇帝の名を取って光緒新政と呼ばれますが、この名前は誤解を与える名前ですね。光緒帝は1898年の戊戌の政変で幽閉されており、彼はほぼ政治に関係していません。「光緒新政」という名前だと、まるで光緒帝が中心となって政治を行ったように思えるかもしれませんが、実態は違います。改革を進めたのは西太后と袁世凱などの軍人でした。」
名もなきOL
「改革の内容はどんなものだったんですか?」
big5
「基本的には、変法自強運動で康有為らが計画したものとだいたい同じです。「新軍」と呼ばれる、列強のような近代化軍の創設や学校教育、それから科挙の廃止などですね。変法自強運動の時に実施できれば、その後の中国の歴史は大きく変わったのではないか、と思います。でも、実際には変法自強運動は潰され、義和団事件の後にようやく改革に乗り出しましたが、時すでに遅し、といったところでしょう。
明治維新後の日本のように、日本や列強諸国に使節団を派遣して調査を行い、1908年には大日本帝国憲法をモデルにした憲法大綱を発表して9年後に議会を開設する、という約束までしました。言い換えれば、清は専制君主制から立憲君主制に生まれ変わろうとした、というわけですね。」
名もなきOL
「へ〜、だいぶ風向きが変わってきたんですね!これはいいかんじなんじゃないでしょうか。」
big5
「しかし、この1908年に西太后と光緒帝が相次いで死去する、という事態になります。後継者として、光緒帝の甥の溥儀(ふぎ)が宣統帝として即位します。この時、わずか2歳です。映画『ラストエンペラー』でも有名ですね。」
名もなきOL
「また大変な時に幼帝の即位となってしまったんですね。権力者の西太后も亡くなりましたし、先行き不安だったでしょうね。」
big5
「先行き不安どころか、清の滅亡は秒読みに入った、というところでしょう。ついに辛亥革命が勃発します。」

辛亥革命と清の滅亡

big5
「辛亥革命の直接の引き金になったのが、清が進めた鉄道国有化政策でした。名前の通り、全国に敷かれた鉄道をすべて国有化する、というものですね。中国に敷かれた鉄道は、列強諸国の外国資本がメインとなって敷かれたものが多く、鉄道は列強の植民地のためのものであって、清のためのものではありませんでした。これらの鉄道を国有化するために、日本・イギリス・フランス・ドイツ・アメリカから借金をして、その金で鉄道を買い戻そうとしたんです。」
名もなきOL
「それなら、国のためになるんだからいいことのような気がします。外国から借金する、というのは気になりますが・・・どうしてこれが革命の引き金になっちゃったんですか?」
big5
「実はこの頃、清では民間資本が育っていた、つまり富裕な中国人が経営する企業などが大きくなり、一部の企業が自力で鉄道を買い戻したりしていたんです。そんな中国人資本家から見れば、せっかく自力で買った鉄道を国に売り渡さなければならない(しかも、だいぶ安く売ることになるだろう)、ということで大反対したんです。
1911年6月に、中国の四川の鉄道会社の株主総会で「鉄道を守れ」というスローガンを掲げて反対を表明すると、8月には民衆を巻き込んで成都全体がストライキをおこし、9月には民衆が武装蜂起に至りました。これが四川暴動です。当然、清政府は鎮圧軍を送りますが鎮圧に手間取ります。そうしている間に、10月には武昌で革命に同調する清軍が反乱を起こしました。これが武昌蜂起です。これに呼応するように、各地で反清の反乱や蜂起が続発し、革命へと発展していきました。」
名もなきOL
「孫文さんは、この時どうしていたんですか?」
big5
「四川暴動の時、孫文はアメリカのデンバーにいました。四川暴動を知った孫文は、すぐに帰国の準備に取り掛かり、年末には現地入りして革命の中心人物として指揮にあたりました。」
名もなきOL
「孫文さんがこれまで播いてきたきた種が芽生えたんですね。」
big5
「年が明けて1912年1月1日、清からの独立を宣言した各州の代表が南京に集まり、その席で中華民国の建国が宣言され、孫文が臨時大総統に就任しました。この時点で、まだ清は存続していました。孫文の中華民国は建国宣言したものの、軍事力では数も質も清軍に劣っており、状況は厳しかったんです。そんな時に出てきたのが袁世凱です。袁世凱は、宣統帝を退位させて清を滅ぼす代わりに、自分を中華民国の総統とするように、孫文に迫りました。」
名もなきOL
「やっぱり、袁世凱が悪者だと思いますよ。清を裏切って滅亡させた一方で、自分は中華民国の総統になるだなんて虫が良すぎます。」
big5
「そう思われても仕方ないですね。ですが、孫文は軍事力で清を倒すことはできないと考え、袁世凱の提案を受け入れます。こうして、宣統帝は退位し、清は12代297年の歴史を終えることになりました。中国は、中華民国が治めることとなり、その総統は革命家の孫文ではなく、清の軍人・袁世凱となったわけです。」

袁世凱による独裁化

big5
「孫文はまだあきらめていませんでした。というのも、袁世凱は「臨時大総統」に過ぎません。言い換えれば、革命騒ぎで成立した仮政府のボスなだけです。中華民国は選挙で選ばれた議員で構成された議会によって運営されます。孫文は国民党を結成し、議会政治に備えました。1913年に最初の選挙が実施され、国民党が多くの議席を獲得して第一党となりましたが、袁世凱は国民党を力で弾圧します。袁世凱に対抗した勢力は潰され、孫文は東京に亡命して中華革命党を結成し、巻き返しを図ることになりました。一方、反対派を一掃した袁世凱は正式に中華民国の総統に就任し、独裁体制を強化していきます。民主的な共和政国家を目指した辛亥革命でしたが、袁世凱の手によって独裁政権へと早変わりしてしまったわけですね。」
名もなきOL
「やっぱり、袁世凱は悪者ですよ。どう考えても、私利私欲で動いているとしか思えません。」
big5
「OLさんが怒るのはわかりますが、革命派が100%正しいわけではありません。ただ、袁世凱による独裁政権も長続きはせず、中国は群雄割拠の軍閥の時代へと向かっていきます。結果的には、辛亥革命は清を滅ぼすことは成功したものの、孫文が理想とした国家を建設することはできなかった、ということですね。
と、言ったところで今回はここまで。
ここまでご清聴ありがとうございました。またの機会を楽しみにしています。」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」


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