big5
「今回のテーマは日本の軍国主義化と題しまして、1929年の世界恐慌の後、軍国主義化していった日本の歴史を見ていきます。」
名もなきOL
「この辺りの日本の歴史って、暗くて怖くて好きじゃないんですよね・・・」
big5
「そうですね。第二次世界大戦へと突き進んでいく時代の歴史になるので、暗い気持ちになるのは当然のことだと思います。でもだからこそ、どのようにして第二世界大戦へと歴史が流れていったかをしっかり勉強しておくことは、とても大事です。
「日本の軍国主義化」の重要ポイントは以下になります。
・次第に内閣が軍部を統制しきれなくなり、1931年に満州事変が勃発。傀儡国家である満州国を成立させた。
・1932年、急進派将校が五・一五事件で犬養首相を射殺。
・1933年、リットン調査団報告に基づき、国際連盟は満州国を承認しない代わりに満州における日本の利権尊重を提案したが、日本はこれを拒否して国際連盟を脱退。
・1936年、皇道派の陸軍将校らが兵を率いてクーデターを起こした二・二六事件発生。鎮圧されるものの、軍部大臣現役武官制復活で、名実ともに軍が政治に介入するように。
と、なります。さて、まずはいつも通り年表から見ていきましょう。」
年月 | 日本のイベント | その他のイベント |
1931年 | 3月 三月事件 9月 柳条湖事件 満州事変勃発 10月 十月事件 |
|
1932年 | 2月・3月 血盟団事件 5月15日 五・一五事件 9月 日満議定書が調印され満州国成立 10月 リットン調査団が結果を公表 |
|
1933年 | 2月 国際連盟総会でリットン調査団勧告が決議される 3月 日本が国際連盟を脱退 5月 日本が熱河省、河北省に侵攻した後、塘沽停戦協定締結 |
(独)ナチス政権成立 ドイツが国際連盟脱退 |
1935年 | 2月 天皇機関説問題 | (中)中国共産党が八・一宣言 |
1936年 | 2月26日 二・二六事件 3月 広田弘毅内閣成立 軍部大臣現役武官制復活 |
(中)西安事件 |
big5
「さて、まずは時代背景から確認していきましょう。1929年に発生した世界恐慌は日本にも甚大な影響を与えました。労働者、農家、中小商工業者は深刻な打撃を受け、明日の暮らしを心配している一方で、財閥は独占体制を強化し、政党は財閥と結びついて党利党略に勤しむ日々を過ごしていました。」
名もなきOL
「これは、フランス革命とか、「革命」が起きる時みたいな背景ですね。」
big5
「日本の軍国主義化は、一種の革命とも言えるかもしれませんね。さて、話を戻します。このような状況の中、軍の青年将校や右翼団体が、利権をむさぼる政党と財閥を糾弾し、さらには大陸進出によって国内経済の行き詰まりを打開する、という政策を主張するようになったんです。
彼らの中でも急進的な思想を持っていたのが、急進的少壮将校らの秘密結社桜会(指導者は陸軍中佐・橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長))です。これに大川周明(おおかわ しゅうめい)らが指導する右翼団体が、不平不満を持つ民衆を扇動し、クーデターを起こして当時の陸軍大臣・宇垣一成(うがき かずなり)を首相に据える、という計画を立てました。1931年3月、このクーデターは計画倒れとなって未遂に終わったのですが、当時の状況を物語る重要な事件として三月事件でと呼ばれています。未遂に終わったということもあり、宇垣が陸相を辞任することで幕引きがなされましたが、この後続発する軍事クーデターの前触れとなる事件となりました。」
名もなきOL
「経済の行き詰まりで国民が生活苦になっている現状を打開しようとしていたわけですね。それはわかるんですけど、方法が軍事クーデターと戦争、というのはとても賛同できないなぁ。。」
big5
「1931年9月18日、満州の奉天近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で南満州鉄道が爆破される、という事件が発生しました。この事件を柳条湖事件と呼びます。満州方面に駐留していた関東軍は、爆破は東北軍閥の張学良ら中国軍の犯行と発表し、関東軍を動員してあっという間に全満州を占領してしまいました。
しかし、後の調査によって、柳条湖事件は関東軍による自作自演だった、ということが判明しています。」
名もなきOL
「関東軍って、満州方面を守るために設置された軍の一部に過ぎないんですよね?その関東軍が、独断で戦争を起こした、ということなんですか?政府は何をしていたんですか?」
big5
「ここが今回の重要ポイント「日本の軍国主義化」の目玉ですね。当時の若槻礼次郎内閣は、戦争の不拡大方針を示していたのですが、関東軍はこれを無視。無視しても罰せられなかった、というのが当時の日本の政治状況でした。
また、ここで三月事件の続きと言える十月事件が発生しています。これは、桜会の橋本欣五郎、そして右翼の大川周明らは、関東軍の行動に便乗してクーデターを決行し、若槻内閣を武力で倒して軍事政権を樹立する、という計画を立てました。ところが、10月16日にこの計画が露見。橋本欣五郎らは憲兵に逮捕されて失敗に終わりました。」
名もなきOL
「橋本欣五郎はどうなったんですか?」
big5
「反逆罪で死刑にすべき、という論もあったのですが、結果は謹慎処分です。これは、事実上無罪放免された、と見ていいでしょう。クーデターを計画して逮捕されても無罪放免、という理屈が通るくらい、軍部の力が強かったことを示していますね。十月事件の影響もあり、12月には若槻礼次郎は辞職。代わって政友会の重鎮である犬養毅(いぬかい つよし 1931年で76歳)」
名もなきOL
「いわゆるシビリアン・コントロール(文民統制)が効かなくなってきた、というわけですね。まさに「軍国主義」ですね。」
big5
「一方、中華民国は日本の行動に対して抗議し、国際連盟に訴えました。国際連盟はこれを受けて調査委員会を設置して調査を行うことを決定しました。この後、この調査団のリーダーにイギリスのリットンが任命され、リットン調査団と呼ばれるようになります。
このような国際社会の動きを見た軍は、満州問題から諸外国の目をそらそうとして、騒動を起こすことを企画しました。年が明けれ1932年1月、上海で中国人を買収し、その中国人らに日本人のお坊さんを襲わせました。これを口実に、日本軍が中国軍に攻撃を開始。両軍で戦闘となりました。これを第一次上海事変と呼びます。
上海は列強の租界が集まっている場所です。そのため、軍の目論見通りに列強の目は上海に集中し、その圧力もあって5月に停戦協定が結ばれました。」
big5
「さて、話を少し戻して、1931年12月に成立した犬養内閣の話をします。」
名もなきOL
「犬養さんは私も覚えています。名字が珍しいですし、殺されちゃった首相、ということで有名ですよね。」
big5
「そのとおりです。犬養内閣は約半年程度で終わった短命内閣でしたが、重要な政策を一つ実行しています。それは金輸出の再禁止です。犬養内閣で大蔵相を務めた高橋是清(たかはし これきよ 1932年で78歳)は、行き詰まった経済を立て直すために、1930年に解禁されていた金の輸出を、大蔵大臣就任日である12月13日に再び禁止し、さらに17日には緊急勅令を出して金貨への兌換を停止しました。これにより、日本の金本位制は終焉し、事実上の管理通貨制度の始まりとなりました。」
名もなきOL
「う〜〜ん・・・経済の話って難しくてよくわからないです・・・」
big5
「そうですね、経済って難しいんですよ。経済は重要なのですが、とても難しいので思うようにはなかなかいかないんです。なので、初学者がわからなくても無理はないですね。初学者はとりあえず
満州事変で犬養毅内閣が成立した後、大蔵大臣の高橋是清が金本位制を停止し、管理通貨制度を開始した
と暗記しておきましょう。結果として、日本経済は持ち直し、安定化させることに成功しました。そのような功績を残したため、高橋是清は近代日本の財政家として評価されることが多いです。その一例の小論文を紹介しておきます。」
レジーム・チェンジとしての高橋是清の財政金融政策
著:岩田規久男 「金融経済研究」第40号、2018年1月
名もなきOL
「是清さん、凄い人なんですね!でも、経済立て直しが成功したのに、軍部の暴走は止められなかったんですよね。いったい何があったんですか?」
big5
「それは血盟団事件と五・一五事件です。」
big5
「1932年2月、そして3月のことです。まだ満州での戦いは継続中で、犬養内閣が成立して間もない頃の話です。井上日召(いのうえ にっしょう 1932年で46歳)を指導者とする右翼テロリスト組織・血盟団が政治、経済の要人を諸悪の根源として暗殺することを計画し、1932年2月に元大蔵大臣の井上準之助(この年63歳)が、3月には三井財閥の総帥であった団琢磨(この年74歳)が拳銃で射殺される、という事件が発生しました。これを血盟団事件と呼びます。日本における右翼の歴史イベントである他、そしてテロリズムのはしりとして位置づけられることが多いです。
当時、財閥は世界恐慌後に買い占めた米ドルを、高橋是清の金本位制停止とそれに伴う大幅な円安ドル高時に大量に売りさばいて巨利を得た、として一般民衆からも非難されていました。三月事件や十月事件の項でも説明したように、当時は政党不信に財閥批判が強烈な時期だったことを象徴するかのような事件ですね。」
名もなきOL
「現代でも、目の玉が飛び出そうなほど高い給料をもらっている会社社長のニュースとかが出ますけど、彼らは恨まれるというよりは尊敬されている、という感じが強い現代とはだいぶ違いますね。」
big5
「そして、最も重要なのはそれから間もない1932年5月15日の五・一五事件です。」
big5
「五・一五事件は、名前の通り1932年5月15日、海軍の青年将校の中でも急進的な一派が、首相官邸に押し入って首相・犬養毅を拳銃で射殺した、という大事件です。犯行グループは、三月事件や十月事件で、犯行に加わらなかったメンバーなどが加わっており、目的は軍部政権の樹立にありました。ちなみに、標的となったのは犬養毅だけではなく、警察や銀行、立憲政友会の本部なども狙われたのですが、いずれも失敗に終わっています。
ちなみに、実行犯らはその後裁判にかけられましたが、一番重い刑でも無期懲役、その他は懲役刑となっています。ちなみに、反乱罪は死刑とされていました。」
名もなきOL
「首相を殺害してこの判決、というところが当時の世相を反映していますね。怖いな・・。。」
big5
「犬養の死後、首相には退役海軍大将の斎藤実(さいとう まこと 1932年で74歳)が就任。これまで対立していた軍部・官僚・政党による挙国一致内閣が結成されました。」
big5
「さて、日本国内で三月事件、十月事件、血盟団事件、そして五・一五事件と右翼系団体によるクーデター未遂事件やテロ事件が頻発している中、満州では関東軍がほぼ全域を占領し、3月に満州国を建国。満州国の皇帝として清のラストエンペラーであった溥儀(ふぎ 1932年で26歳)が擁立されて執政に就任しました(1934年からは皇帝に即位)。9月には日本と満州国の間で日満議定書が交わされ、満州国は実質的に日本の傀儡国家となりました。」
big5
「それから間もない1932年10月、国際連盟が派遣したリットン調査団の調査報告が世界に公表されました。さて、ここで問題です。リットン調査団の調査結果はどのようなものだったでしょうか?」
名もなきOL
「えっと・・・・ほとんど覚えていないんですけど、日本が不満足な内容で国際連盟を脱退することになったんですよね。」
big5
「そうですね、意外とリットン調査団の調査報告内容って、部分的にしか取り上げられないことが多いんですよ。リットン調査団の報告の主な内容は以下のようになります。
@柳条湖事件とその後の日本軍の活動は、自衛的行為とは言い難い。
A満州国は、地元住民の自発的な意志によって建国された、とは言い難い。
B一方、満州を発展させた日本の貢献は自明であり、満州国における日本の権益は尊重されるべきである。
@とAは教科書にも書かれている話ですが、Bは省略されていることがたいへん多いですね。国際連盟は日本と満州国をすべて否定したわけではなく、名目上は中華民国を宗主としながらも、実質的には日本が多くの利権を持つ傀儡国家とすべき、という内容だったんです。」
名もなきOL
「Bの話があったなんて、初耳です。そうなると、満州事変も国際連盟に対する見方も変わりますね。これまでは、日本の悪い行動が世界中から非難された、という印象だったんですが、国際連盟の提案は帝国主義時代の考え方を色濃く残していたんですね。」
big5
「しかし、日本がこだわったポイントは満州国が国際的に承認される、という点でした。1933年2月、リットン調査団の報告と提案内容について国際連盟総会で投票が行われ、賛成42票、反対1票、棄権1票(棄権はタイ)という結果で決議されました。この結果を受けて、翌月の3月に日本は国際連盟を脱退したわけですね。
一方、中華民国とは戦闘が続いていたのですが、日本軍が熱河省、河北省を占領したところで1933年5月に塘沽停戦協定(「塘沽」は「タンクー」と読む)が結ばれ、一時停戦となりました。」
big5
「さて、上記のように満州事変と国際連盟脱退に至る過程で発生した五・一五事件などによって、日本の軍国主義化が進んでいったのですが、ここで軍国主義化の一因となった天皇の役割について議論が巻き起こります。天皇機関説問題です。」
名もなきOL
「天皇機関説ってどんな説ですか?」
big5
「天皇機関説とは、国家を一種の「法人」と考え、国の統治権は法人たる国家にあるのであって、天皇は国家の最高機関として統治権を行使している、という憲法学説の一つですね。
現代日本に例えていうなら、日本という国は一つの会社みたいなものであり、天皇は社長として会社を経営している、という考え方、といえるでしょうか。憲法学者である美濃部達吉が唱えた学説です。」
名もなきOL
「なるほど。そんなに違和感がある感じもしないのですが、これが問題になったんですか?」
big5
「はい、なりました。1935年2月、貴族院議員の菊池武夫が「美濃部達吉の天皇機関説は国体否認の反逆思想である」と激しく攻撃し始めたんです。美濃部もこれに反論し、たちまち論争となりました。
天皇機関説に対抗していたのは、上杉慎吉らが唱えていた天皇主権説です。これは名前の通り、国家の主権は天皇にあるという考え方で、日本国憲法の「国民主権」の対極に位置する考え方ですね。日本が軍国主義化していく中で、天皇の存在とその意義が、日本国民をまとめるうえでたいへん重要な意味を持つようになったわけですね。
結果、8月に時の岡田啓介内閣が国体明徴声明を発し、天皇が統治権の主体である、つまり天皇主権説が政府の公式見解である、と発表しました。この発表には、軍や右翼の圧力がしっかりと入っていたことは間違いありません。」
名もなきOL
「この考え方が、第二次大戦中の日本の政策の源となっていくわけですね。」
big5
「そして本章最後のテーマである二・二六事件が発生します。天皇機関説問題から年が明けた1936年2月26日、右翼と結んだ軍の皇道派がおよそ1500名の兵士を動員してクーデターを実行。内大臣の斎藤実、大蔵大臣の高橋是清、陸軍教育総監の渡辺錠太郎など、閣僚らが白昼堂々と殺害される、という大事件が起こりました。」
名もなきOL
「五・一五事件の時は、急進派将校と右翼が実行犯でしたが、二・二六事件は兵士1,500名が参加しているなんて、本当に反乱だったんですね。ところで、皇道派って何ですか?漢字からなんとなくイメージできますが・・・」
big5
「二・二六事件を理解するうえで欠かせないのが、軍内部における皇道派と統制派の対立ですね。軍国主義化が進んでいた日本ですが、軍隊も決して一枚岩ではなく、軍人たちは様々な考えを持っていました。大きく分けると、皇道派と統制派に分けられます。
皇道派:政党、元老、財閥などの支配層を倒し、天皇親政を目指す。指導者は荒木貞夫、真崎甚三郎など
統制派:軍は官僚と結んで「高度国防国家」となることを目指す。指導者は永田鉄山など
二・二六事件を引き起こしたのは、天皇親政を目指す皇道派でした。」
名もなきOL
「天皇親政って、ルイ14世の親政とかじゃあるまいし・・時代錯誤な考え方なんじゃないか、と思います。」
big5
「現代人ならそう思えますが、軍国主義へと進みだした当時の日本の軍人の中には、このような考える人がいても不思議ではないですね。また、右翼の中でも北一輝(きた いっき)や西田税(にしだ ちから)らは「日本改造法案大綱」などを著して、皇道派の思想に大きな影響を与えていました。
東京ど中心部で発生したこの大騒動は、結局は鎮圧されて主だった実行犯は死刑など重罪が課せられました。これで、軍の力は削がれたかのように見えますが、実際には力を削がれたのは皇道派だけで、代わりに統制派が軍をほぼ完全に支配する強力な存在となりました。閣僚3名を失った岡田啓介内閣は辞任。代わって、官僚出身の広田弘毅(ひろた こうき 1936年で58歳)内閣が成立しました。広田弘毅は、二・二六事件の首謀者らを厳しく処罰したのですが、その代わりであるかのように、軍部大臣現役武官制を復活させることを認めました。」
名もなきOL
「軍部大臣現役武官制っていうのは・・・」
big5
「軍部大臣現役武官制とは、その名の通り、軍部大臣(陸軍大臣と海軍大臣)は現役の大将・中将に限る、という制度です。軍部大臣が現役の軍人だと、内閣と軍の意見が割れた時、軍部大臣が辞任することで内閣を倒すことができたんです。つまり、内閣は軍の同意なしで政策を決めることができなくなるんです。このため、大正時代になってから軍部大臣の資格を退役軍人などに広げることで、現役軍人が内閣に入ることを防いでいたのですが、広田弘毅は現役軍人が必ず内閣に入ることを認めてしまいました。これで、日本の軍国主義化はほぼ確立された、と考えてよいでしょう。満州事変は、追認されたとはいえ関東軍の勝手な行動は法律違反でしたし、内閣はそれに歯止めをかけようとすることもできました(結果的にかかりませんでしたが)。しかし、軍部大臣現役武官制により、内閣は軍の同意得ずして政治を行うことはできなくなってしまったわけです。」
名もなきOL
「なるほど、そういう仕組みになっていたんですね。知りませんでした。今回は、そんなに古い話じゃないはずなのに、いろいろ知らないことが多いことに気づかされました。」
big5
「第二次大戦とその前の時代の話は、あまり触れられたくない部分でもありますからね。でも、だからこそこの時代の歴史を学ぶことはたいへん重要なんじゃないか、と思います。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」
この解説は、管理人の趣味で作成しております。解説が役に立ったと思っていただければ、下記広告をクリックしていただくと、さらなる発展の励みになります。