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自由と革命の時代

エジプト実質独立とムハンマド=アリーの台頭

あらすじ

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「今回の舞台はエジプトです。古代文明の時代は世界の最先端を進んでいたエジプトですが、ローマに支配されてから後は外国勢力による領土の一部としての歴史を歩んできました。革命の時代、エジプトはオスマン帝国の領土の一部でしたが、英傑・ムハンマド=アリーの登場により、歴史が変わりはじめました。ムハンマド=アリーはエジプトの近代改革を推し進めて国力を増強させ、2度のエジプト=トルコ戦争を経て、ロンドン会議でエジプト総督位の世襲化が認められ、事実上の独立を果たしました。ムハンマド=アリーが開いた、事実上のエジプト王国はムハンマド=アリー朝と呼ばれています。」
名もなきOL
「ムハンマド=アリーさんって、一代で自分の王国を持つことになったわけですね。かなりの立身出世ですね。」

ModernEgypt, Muhammad Ali by Auguste Couder, BAP 17996
ムハンマド=アリー  制作者:Auguste Couder  制作年代:1841年

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「中東方面の近代史で、立身出世の代表例にはだいたい挙げられますね。ヨーロッパ世界でも、東方問題における重要人物の一人として注目されていました。」
名もなきOL
「東方問題って何ですか?」
big5
「東方問題とは、ウィーン体制におけるヨーロッパ主要国の連携を揺るがしかねない、オスマン帝国以東の様々な問題のことです。ウィーン体制を支えたのは、メッテルニヒの外交と四国同盟(五国同盟)神聖同盟などのヨーロッパ諸国の連帯組織でした。しかし、ウィーン体制を構成するメンバーの利害関係は一致しているわけではありません。東方問題は、ヨーロッパで起きている問題ではないものの、それに関与するヨーロッパ諸国が自国の利益を優先してそれぞれ違う意見と態度を取るために、ウィーン体制の維持に支障が出る、というのが当時のヨーロッパ国際問題でした。その東方問題の代表例が、ムハンマド=アリーの台頭だったんです。
まずは、いつもどおり年表から見ていきましょう。」

年月 イベント 世界のイベント
1769年? ムハンマド=アリー誕生
1789年 フランス革命
1798年 ナポレオンのエジプト遠征に対し、アルバニア人非正規兵部隊の副隊長として出陣
1803年 ムハンマド=アリーがアルバニア人部隊の司令官に就任
1804年 ナポレオンがフランス皇帝に即位
1805年 ムハンマド=アリーがオスマン帝国エジプト総督に就任
ワッハーブ王国がメディナを征服
トラファルガーの海戦 アウステルリッツの三帝会戦
1811年 ムハンマド=アリーがマムルークを掃討
1814年 ウィーン会議始まる ウィーン体制の始まり
1818年 ムハンマド=アリーがワッハーブ王国を滅ぼす
1820年 スーダン遠征 開始(1822年まで)
1821年 ギリシア独立戦争開戦 ムハンマド=アリーはオスマン帝国を支援
1830年 クレタ島、キプロス島を領土に加える フランス七月革命
1831年 第一次エジプト=トルコ戦争 開戦
1833年 第一次エジプト=トルコ戦争 終結
ロシア・オスマン帝国がウンキャル=スケレッジ条約締結
1839年 第二次エジプト=トルコ戦争 開戦
1840年 ロンドン会議で第二次エジプト=トルコ戦争終結
エジプトにムハンマド=アリー朝成立
1848年 ムハンマド=アリーがエジプト総督を退任 フランス二月革命
1849年 ムハンマド=アリー死去

エジプト総督就任

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「ムハンマド=アリー(Muhammad Ali of Egypt)は1769年にオスマン帝国領だったカヴァラという港町(現在のギリシャ領テッサロニキ付近)で生まれたそうです。父のイブラーヒーム・アーガータバコ商人で、街道警備を担当する非正規部隊の隊長も兼任していたそうです。母はカヴァラ市長の親戚だったそうですね。幼少期の話は不明点が多く、出世した後のムハンマド=アリーも、幼少期の事を話すことはほとんどなかったため、記録が残っていないそうです。「私はアレクサンドロス大王の故郷で、ナポレオンと同じ年に生まれた。」と人に言うのが好きだったそうです。
そんなムハンマド=アリーが出世する機会となったのが1798年から始まったナポレオンのエジプト遠征です。オスマン帝国は、ナポレオンを倒すべく各地から軍を招集してエジプトに送りました。ムハンマド=アリーは、それらの軍勢の一つ、アルバニア人非正規軍部隊の副隊長として従軍し、エジプトに向かいました。ナポレオンが撤退した後もエジプトに残って頭角を現し、1803年にはアルバニア人部隊の司令官となり、1805年にはエジプトのウラマー(宗教指導者)らの支持を得て、エジプト総督に就任しました。この年、ムハンマド=アリーは36歳になる年でした。」
名もなきOL
「ナポレオンが皇帝になった年の翌年に、ムハンマド=アリーはエジプト総督になったんですね。総督だと、皇帝に比べると幾分ランクが下がる印象ですが、それでも大出世ですよね。」
big5
「それがですね、総督といっても、ムハンマド=アリーのエジプト総督は大きな権限が認められており、「王」に近いんですよ。総督になったのも、ウラマーらの支持を得て就任しており、オスマン帝国のスルタンはこれを追認する形で認めています。つまり、オスマン帝国の地方長官、というよりは、形式上はオスマン帝国に従っているけどほぼ独立国に等しい「王」、みたいな地位だったんです。そのため、ムハンマド=アリー朝が実質的に始まったのはこの時点、1805年のエジプト総督就任と考えられることが多いですね。」
名もなきOL
「なるほど、総督といってもほぼ王様なんですね。貴族出身でもないのに、36歳で王様になるなんて、かなりの立身出世ですね。」

改革と遠征

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「エジプト総督となったムハンマド=アリーは、エジプトの近代化を進めるべく、様々な政策と実行していきました。具体的には、以下の内容がムハンマド=アリーによる近代化政策として挙げられています。
(1)灌漑用水の導入と商品作物としての綿花栽培を奨励
(2)領国の人口調査を行い、政府が直接徴税する仕組み
(3)外国人技術者を採用し、近代的な工場の建設を進め、紡績業、織機業、兵器生産業を発展させる。
(4)自国民の留学生をヨーロッパに派遣。
(5)公教育の実施とアラビア語に翻訳された本の印刷。
(6)軍隊の近代化」
名もなきOL
「かなり広い分野に及んでいますね。なんか、日本の明治維新みたい。」
big5
「そうですね。日本人研究者の中には、ムハンマド=アリーの改革を「明治維新を50年も前に実行した」と評す人もいます。ムハンマド=アリーの政策は、富国強兵政策だったと言えますね。
さて、エジプト国内の改革を進める一方で、敵対勢力の排除も進めました。1811年には、それまでエジプトの支配階級として君臨していたマムルーク(元々はオスマン帝国の奴隷戦士)らを騙し討ちにして粛清しました。約400人ものマムルークが惨殺されるという惨劇になりましたが、これによって旧支配者階級であったマムルークは没落し、エジプトにおけるムハンマド=アリーの支配は完全なものになりました。」 名もなきOL
「マムルークの粛清は、フランス革命で貴族らが目の敵にされたのと似ていますね。怖いな。。この時代に生まれなくてよかった。」
big5
「そうですね。次は、ムハンマド=アリーの遠征の話をしましょう。
ムハンマド=アリーは富国強兵政策を進める一方で、軍事遠征も行いました。ムハンマド=アリーの遠征で主要なものは以下の2つです。
(1)1818年:アラビア半島のワッハーブ王国を滅ぼす。
(2)1820〜1822年:スーダン(エジプトの南にある国)を侵略して版図に加える。」
名もなきOL
「(1)の「アラビア半島のワッハーブ王国」って何ですか?」
big5
「イスラム教の一派であるワッハーブ派が、アラビアの豪族・サウード家と結びついて1744年頃に建国した国です。ワッハーブ派は、ムハンマドアリーが誕生した18世紀半ばくらいに、イブン=アブドゥル=ワッハーブが興した派で、その教えは『コーラン』と『スンナ』の純粋な実践を説くものでした。この頃のイスラム教は、神秘主義(スーフィズム)や聖者崇拝など、元々のイスラム教徒から逸脱していると批判しました。「原点回帰」を説いたわけですね。」
名もなきOL
「宗教改革の一つですね。「聖書に帰れ」としたルターに似てますね。」
big5
「ワッハーブ派はオスマン帝国から独立してワッハーブ王国を建国し、1803年に聖地のメッカ、1804年にはメディナを攻略して勢力を拡大しました。そんなワッハーブ王国に対し、オスマン帝国は自力で鎮圧することができません。そこで、エジプト総督のムハンマド=アリーにワッハーブ王国の討伐を命じたんです。ムハンマド=アリーは、息子のイブラーヒムに近代化された軍を付けて派遣。ワッハーブ王国を滅ぼしました。これで、ワッハーブ派の勢力は一時的に衰えます。」
名もなきOL
「ムハンマド=アリーの力を示している事件ですね。それにしても、オスマン帝国の衰退ぶりが目立ちますね。ところで、「ワッハーブ派の勢力が衰えたのは一時的」ということは、その後盛り返したんですか?」
big5
「はい。ムハンマド=アリーの時代よりも後になりますが、1900年代にサウード家は勢力を取り戻して、1932年にサウジアラビアを建国して今に至ります。「サウジアラビア」とは、「サウード家のアラビア」という意味なんです。サウジアラビアは、イスラム教国の中でも、かなり伝統的なイスラム教を実践していますよね。それは、彼らがワッハーブ派だからなんです。ワッハーブ王国は、サウジアラビアの前身となった国なんですね。」
名もなきOL
「サウジアラビアで女性の社会進出が問題になるのも、ワッハーブ派の教義に反するからなんですね。そして、サウジアラビアの元になったワッハーブ王国は、ムハンマド=アリーに滅ぼされた、と。なるほど、繋がりました。」

ムハンマド=アリーの反乱 第一次エジプト=トルコ戦争

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「ワッハーブ王国遠征後も、ムハンマド=アリーはオスマン帝国の凋落ぶりを体感することになります。1821年から始まったギリシア独立戦争です。オスマン帝国の支配からの独立を目指すギリシアを、ロシアやフランス、イギリスが支援し、オスマン帝国と戦った戦争ですね。ムハンマド=アリーはオスマン帝国の要請を受けて出兵していますが、オスマン帝国は敗北。1830年のロンドン会議でギリシアの独立が認められました。ムハンマド=アリーは、出兵の報酬としてギリシア南部のクレタ島とキプロス島を獲得しています。」
名もなきOL
「戦争に負けたのに、ムハンマド=アリーは領土を広げたんですね。」
big5
「ですが、ムハンマド=アリーはこの報酬に不満でした。ムハンマド=アリーはシリア総督の地位を要求しましたが、オスマン帝国はこれを拒否。1831年、ムハンマド=アリーは、息子のイスマーイール率いる軍をシリア方面に送りました。第一次エジプト=トルコ戦争です。」
名もなきOL
「あらら、これ、オスマン帝国はマズイんじゃないですか?実力者のムハンマド=アリーが刃向かってきたら、対抗できなさそうですね。」
big5
「はい。なので、オスマン帝国はロシアの支援を受けることにしたんです。これは、ロシアの南下政策をいい機会です。」
名もなきOL
「よりによってロシアですか!けっこう前から、ロシアはオスマン帝国の領土を奪っている宿敵ですよね。敵の支援を受けなければならないほど、オスマン帝国は力を失っていたんですね。。」
big5
「話はそれだけでは終わりません。ロシアが南に勢力を広げると、イギリスやフランスなどの主要国はパワーバランスが傾くことを恐れます。彼らはロシアに有利にならないように動くわけですね。その一方で、ウィーン体制は小主要国の連携で秩序を維持する仕組みですから、その体制にヒビが入ります。これが東方問題ですね。」
名もなきOL
「主要国が連携して秩序を維持する、ってけっこう難しいんですね。会社が団結するのが難しいのと一緒かな。」
big5
「結局、第一次エジプト=トルコ戦争は1833年にイギリス・フランスがオスマン帝国に干渉して終結しました。ムハンマド=アリーにシリア統治権を認めさせて、終わりにしました。しかし、その裏でロシアとオスマン帝国はウンキャル=スケレッシ条約を結び、艦隊が黒海と地中海を繋ぐボスフォラス海峡、ダーダネルス海峡の両海峡を通過することを認めたんです。
こうして、ロシアは念願だった地中海へ進出する道を獲得したわけです。それは、イギリス・フランスがロシアに対する警戒心を強めることになりました。ウィーン体制が崩壊した原因の一つは、東方問題だったわけですね。」

第二次エジプト=トルコ戦争とロンドン会議

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「さて、シリア総督の地位も獲得したムハンマド=アリーが次に要求したのは、自分が獲得した地位を息子に継承させる(世襲化)ことでした。世襲化が認められれば、エジプトは実質的に独立国となるわけですね。一方、オスマン帝国は強大化したムハンマド=アリーを良く思うハズがありません。1839年、オスマン帝国はムハンマド=アリーの要求を突っぱねて、再び戦争となりました。第二次エジプト=トルコ戦争です。」
名もなきOL
「ムハンマド=アリーって長生きですね。1769年生まれだったら、この年70歳ですね。」
big5
「元気で、野心もまだまだ旺盛なお爺さんですね。
さて、これまで力を見せつけていたムハンマド=アリーでしたが、第二次エジプト=トルコ戦争では一転して苦戦します。まず、ロシアはオスマン帝国を支援。更なる利益をオスマン帝国から引き出そうとしました。イギリスは、ムハンマド=アリーが強大化してインド支配に悪影響を及ぼすことを警戒し、オスマン帝国を支援。そしてフランスは、エジプトとは親しくしていたのですが、中立の立場をとりました。そのため、ムハンマド=アリーは緒戦でオスマン帝国の軍を破ったものの、その後はロシア、イギリスと戦って敗北。この戦争のケリをつけるために、1840年にロンドン会議が開催されました。
ロンドン会議に参加したのは、イギリス・ロシア・オスマン帝国にプロイセンとオーストリアです。中立を守ったフランスは参加していません。ロンドン会議で、以下の内容が決まりました。
(1) ムハンマド=アリーはシリアをオスマン帝国返還する。
(2) ムハンマド=アリーのエジプト総督位の世襲化を認める
この条約はロンドン4国条約などと呼ばれています。
また、翌年の1841年にはイギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンの上記4国にフランスを加えて、5国海峡協定が結ばれました。ボスフォラス、ダーダネルスの両海峡は、どの国も通行禁止ということに逆戻りし、ロシアは地中海への通路を失うことになりました。ウンキャル=スケレッシ条約は数年で破棄されたわけですね。
結果として、ムハンマド=アリーはシリアは失ったものの、実質的にエジプト独立国として認められることになりました。こうして、ムハンマド=アリーが開いたエジプトはムハンマド=アリー朝と呼ばれています。この時代の立身出世を成し遂げたわけですね。ナポレオンと比べると知名度は低いですが、セントヘレナ島に流されて生涯を終えたナポレオンと比べると、ムハンマド=アリーは自分の王朝を開いてそれを子孫に残した、という結果を残していますね。そういう意味では、ナポレオンよりも成功したと言えます。」
名もなきOL
「エジプトが実質独立した後、オスマン帝国はどうなったんですか?たぶん、どんどん没落していったんだろうな、と思いますけど・・・」
big5
「ムハンマド=アリーからシリアを奪回したものの、それはイギリス・ロシアの支援があったからです。オスマン帝国単独では、敗北していたでしょうね。一連の事件を経て、オスマン帝国のアブデュルメジト1世タンジマート(別名は「恩恵改革」)と呼ばれる近代化改革を進めていくことになりました。」
名もなきOL
「改革を断行しないと、この時代の国際社会では生き残っていけなさそうですもんね。」
big5
「ムハンマド=アリーは1848年(この年79歳)に息子のイスマーイールにエジプト総督位を譲って退位。その後、1849年8月2日に死去しました。80歳になる年でした。エジプトは、ムハンマド=アリーの子孫が運営していくのですが、後に大きな問題が起きてしまうのですが・・それはまた別のページで紹介しましょう。
そして、ヨーロッパのウィーン体制は東方問題と呼ばれた一連の事件で、主要国の利権の対立が浮き彫りになってきました。「主要国の連携による秩序維持」は、もう崩壊寸前です。そして、1848年のフランス二月革命を機に、ウィーン体制は崩壊に至るわけですね。この話については「七月革命と二月革命 ウィーン体制の崩壊」で説明していますので、まだ読んでない方はぜひぜひ読んでみてください。」



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