Last update:2025,DEC,13

しのぎを削る列強

詳細篇 ポルトガルの帝国主義と王政の終焉

small5
「今回は「しのぎを削る列強」の詳細篇ということで、帝国主義時代のポルトガルの歴史を見ていくぜ!」

big5
「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。
この時代、ポルトガルはヨーロッパの中小国となっており、世界史の表舞台に立つことは稀でした。形式上は立憲君主制を樹立しているものの、軍人がクーデターで政権を握るなど政情不安も大きいです。大航海時代の遺産ともいえるアフリカ植民地はまだありましたが、英独仏の三大国とは比べるべくもありませんでした。そんなわけで、高校世界史ではほぼ省略されてしまっているのですが、ここでは省略されてしまったポルトガルの歴史を見ていきたいと思います。」

年月 ポルトガルのイベント その他のイベント
1851年 サルダーニャ将軍のクーデター (英) ロンドン万国博覧会
(中) 太平天国の乱 始まる
1853年 マリア2世死去 ペドロ5世即位 (欧州) クリミア戦争 開戦
(日) ペリー来航
1856年 リスボン−カレガード間に鉄道開通 (欧州) クリミア戦争 終結 パリ列国会議
1860年 (伊) イタリア王国成立
1861年 ペドロ5世死去 ルイス1世即位 (北米) 南北戦争 開戦
1867年 (日) 大政奉還
1875年 リスボン地理学協会創設されアフリカ内陸部進出が推進される
1884年 (欧州) ベルリン会議始まる
1886年 「バラ色地図」を公表
1889年 ルイス1世死去 カルロス1世即位
1890年 イギリスの最後通牒を受け、バラ色地図を諦める
進歩党のカストロ内閣は総辞職
1891年 共和主義者らの反乱
1892年 財政破綻宣言(1回目)
1902年 財政破綻宣言(2回目)
1904年 (日露) 日露戦争 開戦
1908年 2月:カルロス1世暗殺 マヌエル2世即位
1910年 10月:共和主義革命勃発 王政終焉し第一共和政始まる

サルダーニャ将軍の「刷新」

small5
「さて、最初に登場するのはポルトガルの将軍・サルダーニャ(1790〜1876年)だ。」

Saldanha
サルダーニャ 制作者:John Simpson (1782?1847) 制作年:1834〜1847年

big5
「サルダーニャはリスボンの名門貴族の子で、ジョゼ1世のもとで強引な上からの近代化を推進したポンバルの孫です。ナポレオンとの半島戦争、ブラジルでの戦争、ポルトガル内戦(ペドロ1世陣営)など、これまで見てきたポルトガルの戦争にはほとんど参加している歴戦の軍人でした。民衆反乱であるマリア・ダ・フォンテの乱を外国軍の力を借りないと抑えられないカブラル将軍の軍事政権に反旗を翻し、1851年にクーデターを起こして政権を握りました。」
small5
「サルダーニャは経済的にイギリス従属を余儀なくされている現状を打破すべく、「刷新」と名付けた改革を推し進めていったんだ。改革を推し進める、という点は爺っちゃんのポンバルと同じだな。」
big5
「刷新」の政治思想は穏健自由主義、とよく言われます。まず、政治面では憲法の一部を修正して直接選挙制を導入したんだ。結果として、保守派は「刷新党」、セテンブリスタ(自由主義急進派)は「進歩党」となり、二大政党体制となってしばらくは安定した政治体制が構築されているぜ。」
big5
「経済面では、イギリスの自由主義貿易体制にのっかる形で、ポルトガルの工業化を犠牲にする代わりに、農業に注力されました。1835年を基準にすると、40年後の1875年には耕地面積は約4倍に広がり、ワイン、オリーブ、果物などイギリス向けの農産物の生産・輸出が拡大しました。
この結果、鉄道敷設や道路整備が進められ、1856年にはリスボンとカレガード間で鉄道が開通しています。7年後にはスペインのマドリードを経てパリまで繋がりました。近代工業化の基本インフラである「鉄道」が整備され始めたわけですね。1877年には、フランスの技術者・エッフェルによって、ドーロ川にマリア・ピア鉄橋が架設されて、リスボンとポルトが鉄道でつながっています。」
small5
「当初、サルダーニャの刷新は上手くいっていたのだが、やがて各国で産業革命が進み、新大陸やアジアからもっと安い農産物がヨーロッパ市場に出回るようになると、競争激化によってポルトガル農業は失速していってしまう。中には、コーヒー生産が隆盛だったブラジルに移住したり、人口過剰に悩むアソレス諸島からハワイに移住するなど、ポルトガル国内から人口が流出してしまう、という問題も生じるようになったんだ。産業革命と経済構造の変化の影響は、ポルトガルにもしっかりと及んだわけだな。」

ポルトガルの帝国主義政策

small5
「ヨーロッパ各国で産業革命が進んだことにより、市場は広がったが競争は激化したことによって、経済は一時的に不況に陥ってしまった。列強は、自国製品を買ってくれる植民地をアフリカに求めるようになったんだぜ。これが経済面から見た帝国主義だ。ポルトガルは、大航海時代にアフリカ南部西岸のアンゴラと東岸のモザンビークに植民地を保有していたが、あまり開発には熱心ではなかったんだ。というのも、1836年に赤道以南での奴隷貿易が廃止されてしまったので、昔のように無料の使い捨て労働力を利用できない植民地経営に魅力を感じなくなったわけだな。
しかし、ポルトガルも不況になったことにより、アフリカ植民地の価値が見直されるようになると、1875年にリスボン地理学協会が設立され、アフリカ内陸部の探検、そして征服活動が支援されるようになったんだ。」
big5
「アフリカ進出競争が繰り広げられる中、1885年にドイツのビスマルクの提唱でベルリン会議が開催されました。」

Afrikakonferenz
ベルリン会議 製作年:1884年

big5
「ヨーロッパ諸国によるアフリカ分割のありかたについて議論が交わされました。もちろん、征服される立場のアフリカ先住民のことなんか知ったことではありません。ベルリン会議の席で、ポルトガルは歴史的所有権の原則を主張しました。およそ400年前から始まった大航海時代、アフリカ航路を開拓したのはポルトガルなので、広大なアフリカ沿岸部はポルトガルに所有権がある、という主張ですね。しかし、ヨーロッパの中小国であるポルトガルの主張が受け入れられるはずもなく、アフリカ分割の原則は先取り実効支配、という原則が適用されることになりました。つまり、武力などによって先に実効支配を確立した国がその地域を植民地にできる、という理論です。」
small5
「当時の世界情勢や価値観を表現している考え方だよな。というわけで、列強はアフリカ切り取り合戦を始めたんだが、ポルトガルもこれに参入したんだ。ポルトガルは、アフリカ南部西岸のアンゴラと東岸のモザンビークを繋げるという構想でバラ色地図を公表し、このエリアの原住民部族を蹴散らして支配領域を拡大していったんだ。」

Mapa Cor-de-Rosa
バラ色地図

small5
「しかし、これに立ちはだかったのが古くからの同盟国であるイギリスだ。イギリスのアフリカ分割のゴールはアフリカ縦断だ。エジプトのカイロから南アフリカのケープタウンまで、南北に貫通する広大な領域を植民地化しようと目論むイギリスとはまったく相容れない内容だったんだ、バラ色地図は。1890年、イギリスはポルトガルに対して、バラ色地図を破棄するよう最後通牒を突き付けた。拒否するなら戦争だ。
当時のポルトガルがイギリスと戦った勝てる見込みはほとんどなかった。当時のカストロ内閣はイギリスの圧力に屈してバラ色地図を撤回することになったのだが、この決断に対してポルトガル民衆や財界などから猛烈な批判にさらされてしまい、間もなく総辞職することになったぜ。そして、ここからポルトガルは再び混乱期を迎えることになる。」

王政の終焉と第一共和政

small5
「1891年、ポルトガルで共和主義者らが王政の打倒を掲げて反乱を起こした。この反乱はすぐに鎮圧されたんだが、これが王政ポルトガルの崩壊の第一歩となった。アフリカ進出事業は、莫大な費用と犠牲を払ったにも関わらずイギリスのせいで利得は少なかった。にもかかわらず、時のポルトガル王・カルロス1世は派手な生活など放漫財政を続けて2回(1892年と1902年)も財政破綻宣言を行って債権者たちに損害を与えた。そして、不倫もバレてスキャンダルになるなど、生活に困窮しはじめているポルトガル民衆に見放される事件ばかり起こしてしまった。国民は王家に対して冷たい視線を浴びせるようになり、共和主義者らは勢いづいたわけだ。」

S.M.F. El-Rei D. Carlos I de Portugal
カルロス1世 撮影日:1889年10月19日〜1908年2月1日

big5
「そしてついにその時が来ます。1908年2月1日、リスボン商業広場にてカルロス1世ら王族が行進している最中に、群衆の中から複数人が発砲。カルロス1世は即死し、長男のルイス・フィリペも致命傷を負って間もなく死去するという、衝撃的な国王暗殺事件が起こりました。なお、カルロス1世の死によって、ポルトガル王の地位は長男のルイス・フィリペに移ったのですが、致命傷を負った彼は20分ほど後に死亡しました。ギネスに「史上最短の国家元首」として記録されているそうです。生き残った次男のマヌエル2世(1889〜1932年 この年19歳)が即位しました。」
small5
「まだ若いマヌエル2世は「新王政」を称して改革に乗り出した。すっかり損なわれてしまった王家の印象改善に努めたのだが、もうこの頃には王政に見切りを付けている者がほとんどだったらしい。国政選挙では地方では王党派が有力だったのだが、リスボンでは共和政党が圧勝してしまった。
1910年10月3日の夜、リスボンで急進派共和主義者らによる革命が勃発する。革命軍は市街の中心地・ロシオに集結した政府軍と対峙していたが、4日になると海軍の急進派士官とカルボナリ党員がテージョ川に停泊していた軍艦を乗っ取り、王宮に向かって砲撃を開始した。マヌエル2世と王家一族はリスボンからエリセイラに逃れ、そこからヨットに乗って英領ジブラルタルへと落ち延びていった。
5日、共和政党指導部は群衆の歓呼に迎えられて高らかに共和政を宣言。こうして、1640年にスペインから再独立して始まったブラガンサ王朝は共和革命によって約360年の歴史に終わりを告げたんだ。臨時大統領としてテオフィロ・ブラガ(1843〜1924年 この年67歳)が選出され、ポルトガルは第一共和政としての歴史を歩み始めることになる。なお、革命を起こして政府軍と戦った急進派は、政権からはしっかりと排除されていたんだぜ。」

D. Manuel II, fotografia sobre papel (1.a metade sec. XX)
マヌエル2世 撮影者:不明 撮影年:1932年以前

big5
「こうして、帝国主義時代の最後に、ポルトガルは王政が倒れ共和政に移行する、という大きな変化がありました。この後、時代は世界大戦の時代となりますが、ポルトガルは独自の路線を進んでいくことになります。その話は、次章で扱うことにしましょう。
ここまで読んでいただきありがとうございました。」



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参考文献・Web site
・図説ポルトガルの歴史 著:金七紀男 発行:河出書房新社 2011年5月20日初版印刷
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