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「今回の主題はフィンランド大公国です。中世のフィンランドでも触れたように、フィンランドは国家としてまとまっておらず、スウェーデン領として統治されていました。そんなフィンランドが初めて一つの国となったのが、ロシア皇帝を国家元首とするフィンランド大公国です。今回は、フィンランド大公国建国までの歩みと、大公国としての初期の歴史を見ていきます。
まずはいつもどおり、年表から見ていきましょう。」
| 年月 | フィンランド | その他 |
| 1806年 | (仏)ナポレオンが大陸封鎖令を布告 | |
| 1808年 | (露・瑞) ロシアがスウェーデンに侵攻 フィンランド戦争 | |
| 1809年 | フィンランド戦争 ハミナ講和条約によりフィンランド大公国成立 | |
| 1821年 | スカンジナヴィア主義者のアードルフ・アルヴィドソンがロシア批判の咎で追放される | |
| 1848年 | (仏) 二月革命 (墺) ウィーン三月革命 ウィーン体制の崩壊 |
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「フィンランド大公国の成立には、意外なことにナポレオンが関与しています。ナポレオンは1805年のアウステルリッツの三帝会戦でオーストリア・ロシアの連合軍を破りました。敗れたロシアは、ナポレオンと直接対決することを避け、一時的にナポレオンに協力する姿勢を取りました。ナポレオンは1806年に大陸封鎖令を出して、欧州諸国にイギリスとの貿易を停止させる、という経済的な締め付けをはじめたのですが、当時のスウェーデン国王は大のナポレオン嫌いだったので、イギリスと友好を深めて大陸封鎖令は無視していました。そこで、ナポレオンはロシアにスウェーデン攻撃を要請。これを受けて、1808年にロシアはスウェーデンに侵攻しました。この戦争はフィンランド戦争と呼ばれます。
フィンランド戦争は序盤からロシアが優勢で、スウェーデン領フィンランドの重要都市を次々に占領。1809年9月17日、ハミナ講和条約が締結され、スウェーデンからフィンランドが割譲され、フィンランドはロシア皇帝を元首とする「フィンランド大公国」となりました。ロシア皇帝の支配下とはいえ、史上初のフィンランド人国家です。
時のロシア皇帝アレクサンドル1世は、フィンランド戦争がまだ終わっていない1809年2月に、フィンランドの都市ポルヴォーで身分制議会を召集。3月15日にはスウェーデン統治時代と変わらないフィンランドの地位と、身分制議会そして議員の地位も保証すると宣言し、フィンランド知識人らの支持を得ました。3月29日、アレクサンドル1世はフィンランド大公国の建国を宣言し、身分制議会の各身分(聖職者、貴族、市民、農民)の代表者は忠誠を表明しました。」

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「さて、フィンランド大公国の仕組みについて見ていきましょう。これは簡単な図で示したいと思います。
フィンランド大公(ロシア皇帝)
↓
フィンランド国事委員会長官(フィンランド人)
↓
フィンランド総督(ロシア人)
↓
セナーッティ(議会)
フィンランド大公;国家元首。ロシア皇帝が兼任。
フィンランド国事委員会長官:フィンランド総督とロシア皇帝を繋ぐパイプ役としてロシアのサンクトペテルブルク宮廷に出入り。皇帝と直接話す権利も持っていました。しかも、この長官はフィンランド人。
フィンランド総督:フィンランドに常駐。ロシア人
セナーッティ:いわゆる議会。14人のフィンランド人で構成され、経済と司法を担当。
このように、フィンランドには大きな自治権が与えられていたことが特徴です。これは、ポーランドなど他のロシア支配下に置かれた属国と比べると格段に優遇されていました。アレクサンドル1世が、フィンランドを優遇した理由として考えられている一番の理由は「スウェーデンからの切り離しを優先した」です。フィンランドは500年以上という長期間にわたってスウェーデンに統治されていました。このフィンランドを他属国のように扱うと「スウェーデン統治の方が良かった」と思われて、ロシア統治に反発されると困る、という実利的な理由だった、という見方をされることが多いです。
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「さて、ナポレオンが敗北し保守的なウィーン体制がヨーロッパを支配する一方で、ヨーロッパ各地に広まった自由主義思想は、少しずつ発言力を増していき、やがて政治運動に発展していきました。スウェーデン、ノルウェー、デンマークの北欧三国は、地理的に近いだけでなく、言語・文化歴史に似ているところも多かったので、スカンジナヴィア主義と呼ばれる、北欧諸国が一つの国家としてまとまるべき、という思想が流行するようになりました。フィンランドも北欧諸国の一つなので、スカンジナヴィア主義は主に知識人の間で流行しました。」

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「オーボ王立アカデミー教授のアードルフ・アルヴィドソンは、スカンジナヴィア主義を推進していたのですが、スウェーデンの新聞にロシアを批判する記事を寄稿したことが発覚したため、追放されるという事件が1821年に発生しています。アルヴィドソンはスウェーデン語を母語とするフィンランド人だったので、スウェーデンに亡命し、そこでスカンジナヴィア主義の啓蒙活動を続けたのですが、フィンランド民衆にはほとんど広まりませんでした。広まらなかった理由はいくつか考えられますが、考えられる理由の一つはスカンジナヴィア主義の捉え方の違いではないか、と言われています。フィンランド人にとってのスカンジナヴィア主義には、当然のようにフィンランド人もスカンジナヴィア人となっており、フィンランドの独自性を強く認識しています。しかし、スウェーデンなど3カ国にとってのスカンジナヴィア主義は、フィンランドは北欧諸国の一角というよりはスウェーデン領という捉え方が多かったそうです。実際、フィンランド語や文化は北欧3国とは性質が異なっている、という背景もありました。

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「このように、北欧諸国で流行したスカンジナヴィア主義はフィンランドでは流行らず、1848年のフランス二月革命に端を発するヨーロッパ諸国の「諸国民の春」の時期でも、フィンランドでは自由主義運動は活発にはなりませんでした。
というわけで、今回はここまで。ここまで読んでいただきありがとうございました。」
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