Last update:2023,Oct,28

広がる世界・変わる世界

ユグノー戦争とブルボン朝の始まり

big5
「今回のテーマはユグノー戦争とブルボン朝の始まりと題しまして、近世フランスの歴史について見ていきたいと思います。さて、まずは用語の確認ですね。題名にもなっているユグノーって何のことでしたっけ?」
名もなきOL
「ヘヘン、覚えてますよ。プロテスタントの人々のことです。」
big5
「惜しい!もうちょっと言うと、プロテスタントの中でもフランスに住んでいるカルヴァン派の人々のことですね。
カルヴァン本人はスイスで宗教改革を進めましたが、その思想はヨーロッパ各地に広まり、特に商工業者らによって信仰されるようになりました。フランスでもカルヴァン派(ユグノー)の数が急速に増加し、一大勢力を形成するようになり、一部の貴族もカルヴァン派を信仰するようになったんです。このような時代背景の中で、カトリック vs ユグノー(カルヴァン派)という宗教対立に加えて、フランス貴族らの勢力争いが加わって、1562年からおよそ35年という長期間にわたって断続的に内戦が勃発しました。これをユグノー戦争と呼びます。ちなみに、この頃の日本は戦国時代後半。織田信長による天下統一が進められていた時期です。

ユグノー戦争の重要ポイントは以下になります。
・1562年~1598年という約35年間にわたって繰り広げられたフランス国内のカトリック vs ユグノー(カルヴァン派)の戦争であること。
・1572年、サン・バルテルミの虐殺で多数のユグノーが殺された。
・1598年、カルヴァン派だったアンリ4世がカトリックに改宗する代わりにカルヴァン派信仰を認めたナントの勅令でようやく終結した。

と、なります。まずは主要論点から見ていきますね。さて、まずはいつも通り年表から見ていきましょう。」

年月 フランスのイベント その他のイベント
1558年 (英)エリザベス1世即位
1559年 アンリ2世死去 フランソワ2世即位 (英)統一法を発布し、イギリス国教会体制を確立
1560年 フランソワ2世死去 シャルル9世即位 (日)桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破る
1562年 ユグノー戦争 開戦
1571年 (西・土)レパントの海戦 
1572年 サン・バルテルミの虐殺
1574年 シャルル9世死去 弟のアンリ3世が即位
1580年 (西)スペインがポルトガルを併合
1581年 (蘭)オランダ(ネーデルラント連邦共和国)が独立を宣言
1582年 (教皇庁)グレゴリウス暦を制定
(日)本能寺の変 織田信長死去
1588年 (英・西)アルマダの海戦
1589年 アンリ3世が暗殺されヴァロワ朝断絶 ブルボン家のアンリ4世が後継者となりブルボン朝始まる
1590年 (日)豊臣秀吉が天下統一
1598年 アンリ4世がナントの勅令を発し、ユグノー戦争終結

連続する幼王即位と権力争い

big5
「ユグノー戦争はカトリック vs ユグノーという宗教戦争である、ということは冒頭に述べた通りです。ですが、ユグノー戦争には新教 vs 旧教の対立に王侯貴族の勢力争いが加わったことで、より複雑になりました。
事の始まりは1559年にアンリ2世が馬上槍試合で重傷を負ったこと。これが原因でアンリ2世が間もなく死去した後、息子のフランソワ2世(この年15歳)が即位したのですが、翌年の1560年にフランソワ2世も病気を悪化させてしまって死去。弟のシャルル9世が後継者となりましたが、シャルル9世はこの年10歳になる少年でした。」
名もなきOL
「短かい間に国王が相次いで亡くなってしまったんですね。これは、揉め事の原因になるに違いないわ。」
big5
「実際、そうなりました。摂政として幼王を補佐したのはフランソワ2世、シャルル9世兄弟の母であるカトリーヌ・ド・メディシス(長いので以後「カトリーヌ」と表記)でした。「メディシス」は、イタリアの名門・メディチ家のことを指しています。カトリーヌはメディチ家の娘なんですね。」

Catherine de Medicisカトリーヌ・ド・メディシス 制作者: Francois Clouet 制作年:1565年

big5
「カトリーヌは新教派と旧教派の争いを仲裁しようとしましたがうまくいきません。カトリーヌのやり方は生ぬるいということで、旧教派諸侯の中にはカトリーヌを批判し、敵対的になる者もいました。1562年、旧教派リーダー格で、ヴァロワ王家の親族でもあるギーズ公爵がユグノーを虐殺する事件が発生したことが直接の引き金となり、約35年にわたるユグノー戦争が始まりました。」

サン・バルテルミの虐殺 1572年

big5
「ユグノー戦争は、カトリック側にはスペイン、ユグノー側にはイギリスなど、周辺諸国の援軍も加わって大規模な戦争となりました。戦争は断続的に続いたのですが、ユグノー戦争中に発生した有名で悲惨な事件がサン・バルテルミの虐殺です。」

Francois Dubois 001サン・バルテルミの虐殺 制作者:Francois Dubois  制作年:1572〜1584年

big5
「カトリーヌはカトリックとユグノーの和解を進めるために、シャルル9世の妹であるマルグリート(カトリーヌの娘)と、ユグノー諸侯のリーダーであるナバラ王アンリ(名門貴族であるブルボン家の当主で、後のアンリ4世)の政略結婚を実行しました。」
名もなきOL
「なるほど。これなら、上手い具合にカトリックとユグノーが政治面で和解できそうですね。」
big5
「1572年8月24日、この日はサン・バルテルミ(英語基準では「聖バーソロミュー」)の祝日でした。二人の結婚を祝うために、フランスのあちこちからユグノーらがパリに集まっていました。カトリックのマルグリートと、ユグノーのアンリの結婚式は、奇妙な形で進行していきましたが、その裏で密かにユグノーらの暗殺計画が準備されていたんです。暗殺計画の首謀者が誰なのか?については、カトリーヌであるとする説や、カトリック諸侯のリーダーであるギーズ公とする説、さらにはスペイン王フェリペ2世とする説など、様々な説があり定かではありません。
当初は、ナバラ王アンリなどのユグノー派の主だったメンバーが狙われていたようなのですが、騒動が始まるとカトリックのパリ市民も加わって、あまり関係のないユグノー商人一家を殺害するなど暴走し、実に多くのユグノーが殺害されました。被害者の数は、少なく見積もってもパリだけで2000人、地方で3000人。多いものだと2万人以上、とするものもあります。」
名もなきOL
「集団心理の効果で暴走してしまい、犠牲者の数が大幅に増えた、というところでしょうか。怖いですね。。」
big5
「サン・バルテルミの虐殺事件を知ったユグノーらは大いに怒り、ユグノー戦争は再び激化していきます。一方で、シャルル9世は「王室に対するユグノーの陰謀を阻止すべく虐殺を命じた」と宣言。熱烈カトリック教徒のフェリペ2世はこのニュースを聞いて「生涯で始めて笑った」といい、また教皇グレゴリウス13世は「ユグノー撲滅」を記念して式典を行うなど、カトリック側はサン・バルテルミの虐殺を「賞賛すべき立派な行い」とみなしました。現代人から見れば、ただの悲惨な虐殺事件にしか見えませんが、当時は宗教的な「大義名分」のもとに賛美されてしまうという、「正義」の怖さを示している事件じゃないか、と私は思います。
さて、この事件の中で、ナバラ王アンリは捕らえられて強制的にカトリックに改宗させられますが、後に脱出。ユグノーのリーダーとして再び戦いを始めます。」

ブルボン朝の始まりとナントの勅令

big5
「1574年、シャルル9世が若くして死去(この年24歳)。王妃との間に生まれて成長している子はいなかったので、弟のアンリ3世(この年23歳)がフランス王を継承しました。この後、フランス王アンリ3世、ギーズ公アンリ、そしてナバラ王アンリの3人のアンリが争う「三アンリの戦い」と呼ばれる三つ巴の争いになります。
アンリ3世と母后カトリーヌは新教と旧教の和解を図りましたが、なかなかうまくいかず両者の争いは続きました。アンリ3世自身はカトリックですが、ユグノーにも寛容的に接しようとする姿勢が強硬派のカトリックの反感を買ってしまい、1589年、ドミニコ会所属の狂信的な修道士に暗殺されてしまう、という事件が起きました。
アンリ3世に王位継承者となれる男子はいなかったので、ヴァロワ朝はここで断絶。フランス王位を継承したのは、ユグノーのリーダーであるナバラ王アンリでした。ナバラ王アンリはフランス王・アンリ4世(この年36歳)となり、ここからブルボン朝フランスが始まりました。」

King Henry IV of Franceアンリ4世 制作者:Frans Pourbus the Younger  制作年:?

名もなきOL
「アンリ4世って、見た目がけっこう優しそうなおじさんですね。」
big5
「そうですね、アンリ4世は当時も今も、歴代フランス王の中でも有名で人気があります。その理由の一つは、ナントの勅令を発して長期にわたったユグノー戦争を終わらせた
ことでしょうね。
まず、フランス王となったアンリ4世は、自分自身はカトリックに改宗します。そうしなければ、カトリックが大多数を占めるパリではアンリ4世を王として受け入れることは不可能のだったからです。でも、それではこれまで従ってきたユグノーの支持を失うことになります。
そこで、1598年、ナントの勅令を発し、フランスはカトリックの国であるものの、ユグノーにも信仰の自由を認めることを決定しました。こうして、およそ35年にわたって続いたカトリックとユグノーの争いはようやく終焉を迎えることになったわけですね。」
名もなきOL
「ようやく宗教戦争が終わったんですね。サン・バルテルミの虐殺とか、昔の宗教戦争は本当に怖いですね。フランスに平和をもたらしたアンリ4世はその後どうなったんですか?」
big5
「1610年(この年、アンリ4世57歳)、狂信的なカトリック教徒によって突然殺されてしまいました。実行犯はその場で逮捕され、裁判の結果「単独犯行」として処刑されましたが、黒幕は他にいたのではないか、と考える研究者は多いです。

と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」


大学入試 共通テスト 過去問

big5
「大学入試共通テストでは、ユグノー戦争のネタはたまに出題されます。試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」

・令和4年度再試 世界史B 問題20 選択肢B
「(略)ナントの王令を完全に廃止するに越したことはないと余は判断した。」
上記資料は、ブルボン家のアンリ4世によって宣言されたものである。〇か×か?
(答)×。「ナントの勅令を廃止する」、とあるのでこれはナントの勅令を廃止させたルイ14世の宣言であることがわかります。アンリ4世ではありません。アンリ4世は、ユグノー戦争後半でフランス王となり、自らはカトリックに改宗する一方でナントの勅令によってユグノーに信仰の自由を認めることになりました。

・令和5年度 世界史B 問題7 選択肢C
(問題文)前の文章と家系図を参考にしつつ、前の図について述べた分として最も適当なものを選べ。
・アンリ4世が父からナバラ王位を継承したことを著している。〇か×か?
(答)×。家系図を見るとジャンヌ=ダルブレが(1572年までナバラ女王)と書いてあるので、父ではなく母からナバラ王位を継承した、ということが考えられます。実際、アンリ4世は母からナバラ王位を継承しています。これは暗記事項というよりは、資料読み取り問題と考えるべきです。





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