Last update:2020,Jul,11

日本近代史

明治維新

2.不平等条約の改正への長い道のり

2−1.不平等条約の始まり
big5
「うぅ・・・長い10年だった・・・・
ようやく、ようやく、ようやく、資格試験に合格したぞ〜〜!!!」
名もなきOL
「管理人さん、おめでとうございます!でも、10年も勉強してたって本当ですか?」
big5
「・・そういえば、振り返ってみると、一生懸命勉強したのは、最初の1年と最後の1年くらい、かな??
真ん中の期間は、ダラダラなかんじだった気がする。。そう考えると、10年なんて、無駄に時間かかっちゃったなぁ・・・(涙)」
名もなきOL
「まぁまぁ、それでも合格できたんだから、良かったじゃないですか。時間はかかっても、努力は報われたんですから。」
big5
「そうですね、明治政府の不平等条約改正交渉に比べれば、私の10年なんて楽で短いものです。
というわけで、今回のテーマは「不平等条約の改正」です。これは、明治政府が抱えていた外交の課題でした。OLさんは、不平等条約の改正の話は、聞いたことあります?」
名もなきOL
「不平等条約って・・・・名前は聞いたことあるんですけど・・・。なんだっけ、外国人が日本で犯罪を犯しても、裁判できない、とかですよね?」
big5
「そうそう、それは治外法権と呼ばれる、不平等条約の一つですね。当時の日本は、外国に治外法権を認めていましたので、日本にとって不平等な条約でした。あともう一つは、関税自主権です。関税とは、自分の国に輸入されてくるモノにかける税金のことです。不平等条約では、「関税自主権がない」、つまり、自分の国に輸入されてくるモノに、自分で税金をかけることができない、という約束なんです。」
名もなきOL
「治外法権を認めるのが不平等、っていうのはわかるんですよ。要するには、外国人が日本で日本人からお金を盗ったり、殺人をしたとしても、日本の法律で裁けない、っていうルールですもんね。今も、たまに外国人犯罪者が日本で捕まってますけど、みんな日本の裁判所で裁かれますよね。もし、外国人の国の法律で裁判が行われたりするなんて、おかしいですよ。
でも、もう一つの「関税自主権がない」っていうのは、なんだかよくわからないんですよね。。。」
big5
「関税自主権は経済の話になるので、細かく考えると難しくなります。ただ、ポイントはそんなに難しくないです。関税自主権がなくて困る一番の問題は、自国の産業を外国製品から守れなくなる、ということです。
例えば、お米を例に考えてみましょう。日本では農家がお米を作っています。値段は、だいたい5kgで2,000円とします。ところが、とある外国Aがお米を日本に輸出したがっていました。外国Aでは、お米はとても安く作ることができるので、日本では5kgで500円で売ることができるとします。もし、外国Aから5kgで500円のお米がたくさん日本に輸入されたとしたら、どうなると思います?」
名もなきOL
「それは、日本の農家が困ると思います。同じ5kgで、2,000円と500円で、味がほとんど同じだったとしたら、500円のお米がよく売れるんじゃないかな〜。そうなると、日本の農家はお米が売れにくくなって、困ります。」
big5
「そのとおり。そこで、日本政府が自国の農家を守る方法の一つが「関税」です。例えば、『日本に輸入されてくるお米には「関税」をかけます。関税は5kgあたり3,000円です!』と、日本政府が決めたとします。そうなると、外国Aのお米は日本に入ってくるときに3,000円を関税として支払わなければならないので、500円でお米を売ったら大赤字です。少なくとも、3,000円より高く売らなければ赤字です。」
名もなきOL
「わかりました。それで、5kgで2,000円の日本の農家のお米は守られる、ということですね。」
big5
「ところが、関税自主権がない状態だと、この関税を自国だけで決めることはできないので、安い外国製品が多量に輸入されてしまって、その結果自国の産業が廃れていってしまう、という事態を招いてしまうわけですね。なので、関税自主権も非常に重要な要素なんですね。」
名もなきOL
「そんな不平等条約はいつから始まったんですか?」
big5
1858年に、徳川幕府とアメリカの間で締結された日米修好通商条約です。これをきっかけに、イギリス、フランス、ロシア、オランダとも同様の条約を結んだことが始まりですね。」

2−2.条約改正交渉 第1弾 岩倉使節団
big5
「さて、時代は変わって明治時代。新政府は、不平等条約の改正を外交目標の一つとし、早速行動を開始します。明治4年(1871年)、最初に交渉に乗り出したのは、幕末に活躍した公家の岩倉具視(いわくら ともみ)が率いて欧米を視察して回った岩倉使節団でした。」

Iwakura mission.jpg
不明 (photo was made in London) - 1. From the arabic Wikipedia [1] 2. Japanese class [2], パブリック・ドメイン, リンクによる

big5
「写真中央で座っているのが岩倉具視です。左端は木戸孝允、右端が大久保利通、右から2番目が伊藤博文です。」
名もなきOL
「あ、この写真、見た覚えあるなぁ。真ん中にでーんって座ってる人が偉そう、って思った記憶があります。それで、交渉の結果はどうだったんですか?」
big5
「岩倉使節団はアメリカで、不平等条約改正を提案しますが、アメリカからは『日本の法律はまだまだ整備されていないからダメ』と言われて、あえなく失敗しました。」
名もなきOL
「あら、岩倉さん残念。。」

2−3.条約改正交渉 第2弾 鹿鳴館作戦
big5
「続いて条約改正に取り組んだのが、明治維新で活躍した井上馨(かおる)です。

KaoruM13.jpg
不明 - 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

上の写真は1880年に撮影されたものということなので、44歳の時の写真ですね。さて、井上馨は、不平等条約改正のためには、日本を欧米風文化に変えて、「日本は文明国」というイメージを植え付けていくことで、条約改正に持っていこうとする作戦をとりました。1883年、東京の日比谷公園の近くに建てられた鹿鳴館(ろくめいかん)は、井上馨の欧化政策の象徴的な建物です。」
名もなきOL
「鹿鳴館、名前は覚えてます。毎日、ダンスパーティーとかしてたんですよね。」

Chikamatsu Kiken buto no ryakuke.jpg
Toyohara Chikanobu alias Y?sh? Chikanobu - 私蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

big5
「そうです。鹿鳴館では、外交官の接待パーティーなどが開かれ、「近代国家・日本」をアピールする役割を果たしたんですね。」
名もなきOL
「なるほど。・・・でも、それだけで条約改正までこぎ着けるかしら?」
big5
「もちろん、鹿鳴館だけが井上馨の条約改正への道筋だったわけではありません。鹿鳴館が建設される1年前の1882年(明治15年)から、井上馨はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツなど欧米列強の8ヵ国を招いて、数回にわたって不平等条約改正のための会議を行いました。欧米列強は「日本はまだまだ法律の整備が遅れている。」と批判したのですが、井上馨は外国人の土地所有や外国企業が日本国内で事業を行うことを認める「内地解放」を提案し、欧米列強を交渉の席に着かせることに成功したんです。」
名もなきOL
「へ〜、井上さん、なかなかやるじゃない。それで、会議はどういう結果になったんですか?」
big5
「1887年(明治20年)、国内で井上馨の改正案に反対する声が強くなり、井上馨は外務大臣を辞任。これまでの検討内容は白紙に戻りました。」
名もなきOL
「あらら、結局また失敗しちゃったんですね。でも、井上さんの案はどうして反対されたんですか?」
big5
「井上馨は、領事裁判権を撤廃させ、関税を引き上げる代わりに、欧米列強に対して
・外国人の土地所有と居住権を認める。(内地解放)
・今後日本は欧米列強を模範とした法律を整備して、それを施行する前に欧米列強に事前連絡する
外国人が裁判の原告・被告になる時は、裁判官の過半数を外国人として、英語を公用語とする
という交換条件、いってみれば取引だったんです。」
名もなきOL
「うーん・・・この内容だと・・・。。確かに、領事裁判権は無くなるんでしょうけど、外国人の裁判の時は裁判官の過半数が外国人って、実質治外法権と同じなんじゃないか、って思います。」
big5
「そうなんです。領事裁判権と比べると、半数未満ですが日本人の裁判官が入ることになるので、ある程度は改善されているかもしれませんが、外国人有利であることは間違いありません。この内容は、政府内部からも反対意見が相次ぎ、井上馨は辞任に追い込まれたんですね。」




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