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中世

モンゴル帝国

あらすじ

big5
「今回のテーマはモンゴル帝国です。13世紀はモンゴルの時代と表現されることが多いのです。実際、モンゴル帝国は13世紀初頭からチンギス・ハーンによって突如強大な軍事国家となり、瞬く間にユーラシア大陸を席巻。チンギスの子孫は西アジアや東ヨーロッパ、ロシア方面までに至る広大な領土を征服しました。領有面積では、今のところ史上最大になります。」

Mongol Empire map 2
Wikipediaより モンゴル帝国の領土拡大の変遷

名もなきOL
「こうして見ると、本当に広いですね。1200年代は、モンゴル帝国との関連が無かった国は、アフリカとアメリカ大陸くらいしかないですね。」
big5
「政治面だけでなく、経済面、文化面でも東西交流が盛んになった、ということも重要な点です。
それでは、いつもどおりまずは年表から見ていきましょう。」

年月 モンゴル帝国のイベント 他地方のイベント
1206年 テムジンがモンゴル高原を統一しチンギス・ハーンと称する
1218年 ナイマン部が支配していた西遼(カラ=キタイ)を征服
1220年 中央アジアのホラズム朝を征服
1227年 西夏を征服
チンギス・ハーン死去
1229年 オゴタイが第2代ハンに即位
1234年 金を征服
1235年 首都カラコルムを建設
1236年 バトゥの征西始まる
交鈔の発行開始
1241年 ワールシュタットの戦い(リーグニッツの戦い)でバトゥがドイツ・ポーランド連合軍を破る
オゴタイ死去
1246年 グユクが第3代ハンに即位
1251年 モンケが第4代ハンに即位
1253年 チベットの大理を征服
1258年 フラグの征西でアッバース朝滅亡
1259年 高麗が服属
1260年 フビライが第5代ハンに即位

モンゴル帝国の急拡大

英雄 チンギス・ハーン

big5
「さて、まずは何といってもチンギス・ハーンの話から始めましょう。チンギス・ハーンはモンゴル帝国を建国した英雄として有名ですが、青年時代はたいへんな苦労を重ねた苦労人でした。少年期に部族のリーダーだった父親を殺されてしまったり、敵対部族に捕えられて囚人生活を送ったり、結婚したばかりの奥さんを敵対部族に一時的に奪われてしまったりと、本当にモンゴル帝国の建国者なんだろうか?、と疑問に思うくらいの社会的地位だったんです。」

YuanEmperorAlbumGenghisPortraitチンギス・ハーン 制作年:14世紀 制作者:不明

名もなきOL
「歴史上の偉人って、苦労を重ねている人が多いイメージがありますが、チンギス・ハーンもその一人なんですね。」
big5
「チンギス・ハーンの最初の名前はテムジンといいます。「チンギス・ハーン」となったのは、1206年。モンゴル高原の勢力争いを勝ち抜いて諸部族を統合し、クリルタイと呼ばれるモンゴル諸部族長の会議で、モンゴル民族全体のリーダーに選ばれた時です(この年、44歳くらい)。中国では太祖(たいそ)と呼ばれます。
チンギス・ハーンは優れた軍事指揮官でした。同じモンゴル遊牧民のナイマン部の指導者クチュルクを破りました。クチュルクは西に逃げ、1211年に西遼(カラ=キタイ)を乗っ取る形で征服しましたがチンギス・ハーンはこれを追って1218年にナイマン部を駆逐して旧西遼を支配下に置きました。
この勢いで、1220年には中央アジアの強国として君臨していたホラズム朝に攻め込んでブハラやサマルカンドなどの主要都市を攻略して事実上占領しました。ちなみに、ホラズム朝の王子・ジャラールは落ち延びて抵抗を続けましたが、1231年に逃亡先で殺害されてホラズム朝は滅びています。
1227年には、中国北西部を支配していたタングート族の西夏に攻め込んで滅ぼしました。ただ、チンギス・ハーン自身は西夏が滅ぶ直前に死去しました(この年65歳)。」
名もなきOL
「チンギス・ハーンの在位は約20年だったんですね。その間に西遼、ホラズム朝、西夏を(厳密には西夏滅亡前にチンギスは亡くなっているが、実質的にチンギスが西夏を滅ぼした。)下して、モンゴル帝国の礎を築いたんですね。
チンギス・ハーンって超有名ですけど、彼が攻め込んだ国々は日本で知名度があまりないせいか、具体的にどこに攻め込んだのか、についてはほとんど覚えていませんでした。簡単に言うと、モンゴル高原から西の方に領土を広げたんですね。」

第2代ハン オゴタイの治世とバトゥの征西

big5
「さて、チンギスの跡を継いだのは三男のオゴタイです。チンギスが亡くなったのは1227年ですが、オゴタイが第2代ハンに推戴されたのは1229年です。」
名もなきOL
「あれ?1年少々の空白期間があるんですね。この間に何かあったのですか?」
big5
「はい、クリルタイが開催されました。
これはモンゴル帝国の後継者を決める特徴的な制度ですね。詳細は割愛しますが、簡単に言うとチンギスの息子たちの間で、誰が後継者になるかで揉めたんです。結果的に三男のオゴタイが選ばれ、クリルタイが開かれ正式にオゴタイがハンに即位しました。このような後継者の決め方は、のちのモンゴル帝国の歴史に大きな影響を与えることになります。」

YuanEmperorAlbumOgedeiPortraitオゴタイ   制作年:14世紀 制作者:不明

big5
「オゴタイの治世で、モンゴル帝国はさらに大きく領土を拡大することになります。まず、中国北部を支配していた女真族の国・を攻撃して1234年に征服。これで、中国の北半分を領土に組み込みました。
1235年には首都となるカラコルムの建設を開始しています。カラコルムは、のちに第5代ハンにフビライが現在の北京の近くに新しい首都を建設るまでの約30年間、モンゴル帝国の首都として繁栄しました。巨大化するモンゴル帝国には、ヨーロッパのカトリック文化圏からも注目されるようになります。これはオゴタイの治世ではなく、第3代のグユクの治世の話なのですが、特に有名なのは、教皇・インノケンティウス4世の命令でヨーロッパから送られたフランチェスコ会の修道士・プラノ・カルピニが1246年(この年、プラノ・カルピニ64歳)にカラコルムを訪問しています。」
名もなきOL
「64歳って、けっこうなお歳ですよね。きっと大変苦労した旅だったんでしょう。プラノ・カルピニさんはどういう目的でモンゴル帝国に来たんですか?」
big5
「1241年のワールシュタットの戦いでカトリック勢力が大敗したことを受けて、モンゴル帝国の脅威を強く感じた教皇インノケンティウス4世はモンゴル帝国の懐柔と偵察、そしてキリスト教の布教です。
プラノ・カルピニはグユクのハン即位式に参加し、教皇の親書を渡しました。教皇はモンゴル帝国と友好関係を築くことを求めたのですが、グユクは当然のようにこれを拒否。それどころか、ヨーロッパ諸国の臣従を要求したので、交渉は決裂していますね。」
名もなきOL
「この時点では、モンゴル側が譲歩しなければならないポイントがないですからね。決裂しても仕方ない話だと思います。」
big5
「さて、話をオゴタイの治世に戻します。
1236年にはお金、紙幣である交鈔(こうしょう)の発行を始めました。
また、1236年はもう一つ大きなイベントがありました。バトゥの征西です。」

Цар Батий на престол?玉座のバトゥ 『集史』の挿絵

big5
「バトゥはチンギス・ハーンの長男であるジュチの次男です。つまり、チンギス・ハーンの孫にあたりますね。1236年(この年バトゥ29歳)、バトゥを総司令官とした大規模な遠征軍がヨーロッパに向けて出発しました。バトゥ遠征軍はノヴゴロドなどのロシア方面に侵攻。降伏しない都市や諸侯らを徹底的に攻撃してモンゴルの支配下に置きました。ロシア方面をほぼ征服したバトゥは、さらにポーランド・ハンガリー方面に侵攻。この過程で起こった有名な戦いが、1241年のワールシュタットの戦い(リーグニッツの戦い、とも)です。バトゥ率いるモンゴル軍約10万は、ドイツ・ポーランドの諸侯連合軍約2万を完膚なきまでに打ち破り、東ヨーロッパを恐怖に陥れました。」
名もなきOL
「モンゴル軍って、こんなところまで攻め込んできたんですね。モンゴルからポーランド方面まではるばる攻めてくるって、本当にすごいですね。」
big5
モンゴル帝国は本当に広いんです。ワールシュタットの戦いで大勝したモンゴル軍ですが、ここで(モンゴルにとって)一大事件が起きました。この年の12月、オゴタイ・ハン(この年55歳)が死去したんです。バトゥはせっかくの勝ち戦の戦果を放り捨ててモンゴルに帰っていきました。モンゴル軍の侵攻に震え上がっていた東ヨーロッパ諸侯は胸をなでおろしたことでしょうね。」
名もなきOL
「なんでバトゥは急いで引き返してしまったんですか?」
big5
モンゴルのハンはクリルタイで決められるから、ですね。チンギス・ハーンも2代目のオゴタイ・ハンもクリルタイで選ばれています。なので、バトゥはクリルタイに参加するために急いで帰る必要があったわけですね。」
名もなきOL
「なるほど。自分が不在の会議で次のハンが決められたら、いろいろ厄介なことになりそうですもんね。権力争いって怖いな。。」
big5
「実際、オゴタイの跡を継ぐ3代目ハンの選出は揉めに揉めて、約5年経った1246年にグユク(この年40歳 オゴタイの長男)にようやく決まりました。」

第4代 モンケ・ハンの治世とフラグの征西 4ハン国

big5
「第3代グユクは、即位から約2年後の1248年に死去してしまい、再びモンゴル帝国は後継者を誰にするかで揉めます。それから3年後の1251年にモンケ(この年42歳 チンギス・ハーンの4男トゥルイの長男)が第4代ハンに選出されました。
モンケ・ハンの時代も、モンゴル帝国は拡大路線を継続しました。特に有名で重要なのが、フラグの征西です。フラグはモンケの弟です。1253年、フラグは大軍を率いてペルシア方面に向かい、1258年にはイスラム教のカリフを務めていたアッバース朝を滅ぼしてペルシア方面における覇権を確立しました。」
名もなきOL
「カトリック勢力圏の次はイスラム勢力圏に攻め込んだんですね。モンゴルは本当に世界を股にかける帝国になったんですね。」
big5
「フラグが遠征軍を率いてイスラム勢力圏に向かっていた1254年、カトリック圏からの使者としてルブルックが首都・カラコルムを訪問してモンケ・ハンに謁見しました。ルブルックも、プラノ・カルピニと同じフランチェスコ会の修道士なのですが、ルブルックを派遣したのは教皇ではなくフランス王・ルイ9世で、その目的は十字軍と協力してイスラム勢力を攻撃しよう、というものでした。」
名もなきOL
「話題がタイムリーですね。モンケさんはどう返事したんですか?」
big5
「拒否です。前回同様、フランスに貢納と従属を要求して再び決裂しました。ただ、この話はいろいろと紆余曲折があったようで、ルブルック派遣に至るまでいろいろな経緯があったようです。いずれにしろ、モンゴル帝国はカトリックの協力など不要で、自力でイスラム勢力圏を切り取ったわけですね。
1259年には、朝鮮半島の高麗もモンゴル帝国に屈服して属国となり、モンゴル帝国はユーラシア大陸の東から西までに広がる史上初の巨大帝国となりました。
一方で、この年にモンケ・ハン(この年50歳)が死去。翌年の1260年に有名なフビライ(モンケ・ハンの弟。フラグの兄)が第5代ハンとなり、モンゴル帝国は新たな時代を迎えることになります。
さて、ここでモンゴル帝国の4ハン国の話をしましょう。広大な領土を治めるために、チンギス・ハーンの子孫らをそれぞれの地域の当主(ハン)として治めさせました。それぞれの地域の当主は「ハン」を名乗ったので、これをハン国(ハンが治める国)といいます。特に重要なのが以下の4つのハン国です。

国名 建国者 支配エリア 特徴
オゴタイ・ハン国
1224~1316年
オゴタイ
(チンギス三男)
外モンゴル西部
首都:エミール
最も早く衰退し、チャガタイ・ハン国に併合された
チャガタイ・ハン国
1227~1370年
チャガタイ
(チンギス次男)
中央アジア
首都:アルマリク
ネストリウス派キリスト教を保護
内紛で東西分裂。ティムールに滅ぼされる
キプチャク・ハン国
1243~1502年
バトゥ
(チンギス長男ジュチの子)
西シベリア
首都:サライ
ロシア諸侯国を支配し、ビザンツ帝国とも通交
モスクワ大公イヴァン3世の自立を契機に滅亡
イル・ハン国
1258~1411年
フラグ
(チンギス四男トゥルイの子)
イラン・イラク ガザン・ハンにより早くからイスラム化
ティムールに滅ぼされる

名もなきOL
「こうして表にして見てみると、モンゴルに近いオゴタイ・ハン国とチャガタイ・ハン国はわりと早く滅んでしまった一方で、遠く離れたロシア方面に建国されたキプチャク・ハン国とイル・ハン国はけっこう長続きしたんですね。ところで、オゴタイ・ハン国とチャガタイ・ハン国は建国者の名前が国の名前になっているからわかりやすいですけど、なんでバトゥ・ハン国ではなく「キプチャク・ハン国」で、フラグ・ハン国ではなく「イル・ハン国」なんですか?」
big5
「実はこれらの正式な国名というのは議論されているんです。日本では、漢字表記の「金帳汗国」の発音をカタカナで書いた「キプチャク・ハン国」が用語として定着していますね。最近では、バトゥの父であるジュチの系統の国、ということで「ジュチ・ウルス」(ジュチの国、の意味)を推奨する学者もいます。ここでは、「キプチャク・ハン国」で通しますね。イル・ハン国の「イル」はテュルク語で「仲間」を意味し、この「仲間」の君主が「イルハン」という称号を用いていたことに由来しています。ただ、これについても一部の学者は「フラグ・ウルス」(フラグの国、という意味)の方がふさわしい、と主張しています。ここでは「イル・ハン国」で通しますね。
OLさんが感じたように、オゴタイ・ハン国とチャガタイ・ハン国は比較的短期で滅んでしまいましたが、キプチャク・ハン国は軍事力でロシア諸侯を支配していました。これはタタールの軛(くびき)と言われており、ロシアの歴史に外国人支配の時代を刻んでいます。一方で、イスラム圏に切り込んだイル・ハン国は、早いうちにイスラム教に改宗して征服先に同化する政策を進めたのが特徴ですね。」

モンゴル帝国の政治体制

千戸制

big5
「さて、ここからはモンゴル帝国の政治体制を見ていきましょう。まずは遊牧民らしい千戸制です。千戸制とは、1000人の兵士を提供する遊牧民の集団を一単位として、管理するシステムのことです。それぞれの集団の指揮官としてモンゴル帝国建国時の功臣が任命されたました。全部で96の集団が作られたそうです。モンゴル帝国はなぜ強かったのか?という話はしばしば登場しますが、その一因としてこの千戸制が上げられます。千戸制により、軍隊を速やかに招集して戦力を集められたことが、戦争に強かった理由の一つ、ということですね。」
名もなきOL
「モンゴルが強かった理由は、他にどんなものがあるんですか?」
big5
「いくつもあるので、下に列挙しておきます。
・軽装備のモンゴル騎兵のみで構成される軍隊は1日に約70km(通常の歩兵軍は1日約20~30kn)移動できる。
・モンゴルの馬は小柄だが持久力がある。
・モンゴル騎兵が使った弓が強力で、馬上から射るのにも適していた。
・軍事訓練を兼ねた巻き狩りを行い、練度が非常に高かった。
・馬の多角的な活用。高速で移動できる乗り物であると同時に、馬は必要物資の供給源であった。馬の皮は渡河時の浮袋や鎧の材料となり、馬の肉は食料となり、馬の血は水代わりに飲用された。
・厳格な軍紀「ヤサ」を厳正に運用していた。
・征服先の国が使っていた攻城兵器や火器「てつはう」などを採用した。
・捕えた敵の捕虜を前線に出して人間の盾とした。
・イスラム商人と交流し、もたらす情報や資金を有効に活用した。
などですね。」
名もなきOL
「いろいろありますね。でも「捕えた敵の捕虜を前線に出して人間の盾とした」というのは、だいぶ卑怯だと思います。」
big5
「そうですね。現代の国際法では禁じられている捕虜の使い方です。ただ、上記の内容は研究者らが調べた内容をまとめたものですので、常日頃から「捕虜を盾にしていた」わけではないと思います。」

交鈔の発行と人種階級

big5
「モンゴル帝国の内政の特徴の一つが交鈔(こうしょう)の発行です。紙幣、紙のお金ですね。」

Yuan dynasty banknote with its printing plate 1287交鈔

名もなきOL
「この時代でもう紙幣が使われていたんですね!でも、偽造されたりしなかったんでしょうか?」 big5
「偽造はされたみたいですね。交鈔の中央の下部に「偽造したものは死罪」と書いています。偽造者は命がけだったんですね。
ただ、研究結果によりますと、主に都市部などでしか流通しなかったそうです。ただ、紙幣でしたら、金貨よりも軽くて量が多くなっても持ち運び可能なので、有名なマルコ・ポーロの『世界の記述』にも言及されています。ただ、モンゴル帝国後期には銀の準備不足や濫発されたことで経済混乱を招いてしまいました。
続いて、人種階級(人種ピラミッド)について。広大なモンゴル帝国には実に多くの人種が生活していました。そのため、人種によって支配階級と被支配階級がおおむね決まっていました。順位は以下のようになっています。
1.モンゴル人 約100万人(1.4%)
2.色目人 約100万人(1.4%)西域の諸民族(ウイグル人、タングート人、イラン人など)
3.漢人 約1,000万人(13.8%)金の支配下にいた中国人(女真人、契丹人、高麗人など)
4.南人 約6,000万人(83.4%)南宋支配下の漢民族
このうち、1番と2番のモンゴル人と色目人が支配階級となり、3番と4番の漢人と南人は被支配階級です。このように、モンゴル人をトップにいただいていたので、モンゴル人第一主義と言われています。」
名もなきOL
「征服者であるモンゴル人がトップになるのはわかるのですが、2番目は色目人なんですね。中国系民族は数は多くても支配される側だった、というのは意外な気がします。」
big5
中国の歴史は、北方の異民族に支配されている期間がけっこうあるんです。モンゴル帝国に支配されるより前にも、晋が滅んだあとの五胡十六国時代では異民族が中国に侵入して王朝を樹立していますし、宋王朝も後半は北半分を遼や金に支配されていました。ただ、中国全土を支配下に置いた異民族は、モンゴル民族が最初ですね。
さて、ここまでモンゴル帝国の歴史の概要を見てきました。長くなってきたので、いったんここで切り上げて、フビライが即位した後のの時代は次の章で扱うことにします。

と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問

big5
「大学入試共通テストでは、モンゴル帝国のネタはよく出題されております。優先的に勉強しておくのがおススメです。」

平成31年度 世界史B 問題14
チンギス=ハンの事績について正しく述べた分を選べ。
@ホラズム=シャー朝(ホラズム朝)を倒した。
Aワールシュタットの戦いで、ドイツ・ポーランドの諸侯の連合軍を破った。
B大都を都に定めた。
Cチャハル(チャハル部)を従えた。
(答)@。上記の通り、チンギス・ハンは1220年に中央アジアのホラズム朝を征服しています。Aはチンギス=ハンの孫のバトゥの事績、Bはフビライの事績、Cのチャハル部は知名度が低いですが、モンゴル高原の遊牧民族の一つで、17世紀に後金のホンタイジ(清の建国者)に征服されています。

令和2年度 世界史B 問題29 選択肢4
・元の都で、プラノ=カルピニがカトリックの布教を行った。〇か×か?
(答)×。やや難しい問題。上記の通り、プラノ=カルピニはカラコルムを訪問してカトリックを布教しています。この時代、まだ元は成立していないので、元の都で布教することはできません。プラノ=カルピニではなく、モンテコルヴィノであれば〇になります。

令和2年度追試 世界史B 問題19 選択肢a
・大理がモンゴルに征服された。〇か×か?
(答)〇。やや難しい問題。大理とはチベットにあった国の名前です。ハンに即位する前のフビライが指揮を執った遠征で、1253年に征服されています。

令和2年度追試 世界史B 問題34 選択肢3
・ジャワは、チンギス=ハンが送った軍の遠征を受けた。〇か×か?
(答)×。チンギス=ハンはジャワに遠征軍を送っていません。ジャワに遠征軍を送ったのはフビライです。

令和4年度 世界史B 問題7 選択肢3
・テムジンが、クリルタイでハンとなった。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、テムジンはクリルタイでハンに選出され、チンギス・ハーンと名乗るようになりました。


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参考文献・Web site