Last update:2018,Apr,21

1.テムジンの時代 チンギス・ハン以前

モンゴル高原

big5
「モンゴル帝国の話に入る前に、まずは最初の舞台となるモンゴル高原について、基礎知識を確認しましょう。まず、モンゴル高原といえば、多くの人が思い浮かべるのはこんな風景ですよね。」


写真ACより クリエイター:たなっく さん

イサオン
「平な土地がこんなに広いとは・・・。世界は広いですね〜。山が多くて平地が少ないギリシャとはまったく異なりますね〜。」
高校生A
「ステップ、という草原地帯ですよね。広い草原で、遊牧民が羊を飼っているイメージがあります。」
big5
「そのとおりです。モンゴル高原は周囲を山脈に囲まれた面積約150万平方Kmもの広大な盆地です。海抜高度は平均して1200mと「高原」の名にふさわしく高い位置にあり、年間降水量は200mm(東京はおおよそ1500mm)ほどです。気候は内陸性気候で、1日の気温差も年間の気温差も大きいのが特徴です。現代の旅行のガイドブックなどに書かれていますが、夏の平均気温は19℃程度で湿度も低く、たいへん過ごしやすいのです。が、暑い日は40℃を超えることもしばしばあります。逆に冬はマイナス20℃〜30℃まで下がり、並大抵の寒さではありません。1日で見ても、朝と晩で気温が15℃違うこともしばしばあるため、日本と比べるとかなり変動が激しい気候だと言えます。そんなモンゴル高原は農業をするには難しい環境なので、モンゴル高原で生きる人々の生活は牧畜で支えらていました。ヒツジやヤギが食べる草は溢れんばかりにありますので、牧畜には適した環境だったわけですね。飼育する動物や馬、牛、羊、ヤギ、ラクダなどです。羊毛や獣皮は遊牧民の服となり、動物たちの乳や肉は食料となり、牧畜業でほとんどすべての生活を賄っていました。」
日本史好きおじさん
「なるほど。それで、家畜たちを率いてあちこちを自由気ままに移動して生活しているのですな。日本人とはまったく異なる文化ですな。」
big5
「ちなみに、遊牧民といえども自由気ままにステップを移動していたわけではありません。遊牧民族ごとに縄張りがありましたので、勝手に他の民族の縄張りに入ることはできませんでした。入った場合、小競り合いや戦争にまで発展することもあります。また、同じ民族内でも生活している集団ごとに、おおよその縄張りは決まっていました。Aさん一家の縄張りと、Bさん一家の縄張りは違うのが基本です。また、自分の縄張りの中であちこち気ままに移動していた、ということもありません。春夏秋冬の四季ごとに生活する場所は決まっており、季節が変わったら移動するというサイクルを繰り返していました。
なので、遊牧民族といえども、それぞれの部族が領有している「領地」というか「縄張り」はあったわけですね。それでは、次にモンゴルの遊牧民族状況について簡単なモデル図を見てみましょう。時代はモンゴル帝国の建国者である有名なチンギス・ハーンが生まれた頃です。」


big5
「物語の前半に登場するモンゴル高原とその周辺国家のだいたいの位置関係はこのようなかんじです。まず、チンギス・ハンが所属するモンゴル族は、バイカル湖という大きな湖の南東あたりが縄張りでした。そして、モンゴル族と敵対していたタタル族がその東を、メルキト族はその西を縄張りとしています。モンゴル族の南西に位置するケレイト族は、モンゴル族と同盟していた部族です。ケレイト族の西にはナイマン族の王国があり、その南にはカルルク族、さらに南にウイグル族がいました。そして、ケレイト族の南には石ころと砂だらけのゴビ砂漠が広がっており、ゴビ砂漠の南には西夏(読み方は「せいか」)が栄えていました。さて、中国方面を見てみましょう。この時代、中国の北部は中国東北部の女真族が建国した「金(読み方は「きん」)」王朝が支配していました。上図でひときわ大きい字で書かれていますが、これは国力の大きさをイメージしています。当時の金は世界的に見ても、たいへん繁栄していた大国でした。そして、金はモンゴル高原の遊牧民族に対する備えとして、長城を築いていました。いわゆる「万里の長城」の一部分になります。「万里の長城」は秦の始皇帝が最初に築きましたが、その後、中国の王朝がそれぞれ新規で建設したり、時の流れと共に風化していったりして、今に至ります。
なお、上図にはありませんが、中国南部は南宋という漢民族の王朝があります。以前は宋が中国全体を支配していたのですが、宋はやがて衰退し、中国北部を異民族に征服されてしまったんです。しかし、生き残った宋の王族が中国南部に落ち延びていたので、この時代の宋の国を「南宋」と呼んでいます。モンゴル高原の民族の位置関係は、これくらいを知っておけば当面は大丈夫かと思います。」

蒼き狼 モンゴル族に伝わる伝説

big5
「さて、これからチンギス・ハーンの話に入っていきますが、まずはチンギス・ハーンにまつわる伝説から見ていきましょう。こういう話は、世界史の教科書にはまず出てこないですし、テストに出る可能性もたいへん低いのですが、歴史小説やエピソードとしてはよく取り上げられる題材になります。
チンギス・ハーンを描いた小説は数多くありますが、日本で有名な小説の一つに井上靖氏が著した『蒼き狼』があります。この小説の題名の由来は、モンゴル族にまつわる伝説『蒼き狼』から来ています。どういう伝説かというと、以下のようなものです。
「昔、天の神の命を受けて生まれた青い狼がいた。青い狼の妻は、美しい褐色の牝鹿だった。彼らはオノン川の源流たるブルカン山に住み、やがて人間バタチカンが産まれた。バタチカンはモンゴル族の始祖となった。
バタチカンの子孫が迎えた妻に、アラン・ゴアという女がいた。アラン・ゴアは、夫の死後に3人の子を産んだ。アラン・ゴアは天の光によって妊娠した。産まれた三人の子の一番下の子ボドンチャルが、チンギス・ハンの祖先となった。」
という内容です。」
日本史好きおじさん
「つまり、チンギス・ハーンは蒼き狼の子孫、ということですな。」
big5
「そういうことです。それで、井上靖氏の小説の題名になったり、映画『蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜』というチンギス・ハンを主役にした映画が作られたりするわけです。」

テムジン誕生
big5
「蒼き狼の伝説を見たところで、いよいよチンギス・ハンの話を始めましょう。まず、チンギス・ハーンがいつ生まれたか、ですが、ここから既に謎なんです。1154年、1155年、1162年、1167年など候補はあるのですが、どれも確実ではありません。 ちなみに日本で有名なチンギス・ハーンの歴史小説「蒼き狼」では、1162年説が採用されています。」
名もなきOL
「なぜ謎なんでしょうか?チンギス・ハーンくらい有名な人なら、史料とかたくさんありそうな気がします。」
big5
「理由の一つは、当時のモンゴル部族は文字を持っていなかったから、です。自分達の歴史を残す手段が少なかったんですね。なので、チンギス・ハーンの生年を記録しているのは中国語で書かれた「元朝秘史」、ペルシャ語で書かれた「集史」などの(モンゴルから見た)外国語史料だけなんです。それら史料のうち、最も正しそうなのは1162年説なので、本コーナーでは1162年説を採用します。年齢の表記も、1162年に生れて既に誕生日が来ているという前提で、満年齢で記載します。
チンギス・ハーンの父はエスゲイ、母はホエルンといいます。両親もやはり生年は不明です。父・エスゲイは勇敢な戦士だったので「バータル(勇者の意)」の称号を持っており、次期族長の有力候補だったそうです。母・ホエルンがチンギス・ハーンを産んだ時、エスゲイは敵対していたタタル族との戦いに勝利し、タタル軍を率いていた将・テムジンを捕虜として連れ帰ってきました。テムジンは敵の将でしたが、その勇敢な戦いぶりにエスゲイも感心していたので、産まれたばかりの息子に「テムジン」と名付けました。このテムジンが、後のチンギス・ハンです。」
高校生A
「敵将の名前を自分の子につけるなんて、何か変な感じがします。他に意味があるのではないでしょうか?」
big5
「「テムジン」とは「鍛冶匠」という意味があるそうです。当時、鉄製品は日常生活においても戦いにおいても、とても重要なものでした。それら鉄製品を作る鍛冶屋さんになるには、修行を積んで技術を磨かなければなりません。そして、高い技術を持った鍛冶屋は人々の尊敬の対象になったそうです。
ちなみに中国語の史料では「鉄木真」と書かれます。「テムジン」という音を中国語で書くとこうなるそうです。日本人が、外国語をカタカナで書くのと同じで、いわゆる当て字ですね。当て字だとしとも、「鉄」が使われたのはただの偶然ではないかもしれません。
本コーナーではしばらくの間、チンギス・ハーンのことを「テムジン」と書くことにしますね。

次にテムジンの見た目、つまり容姿について。よく史料集などに使われる絵があります。実はこれ、チンギスの死後だいぶ経ってから想像して描かれたものなんです。モンゴル帝国が強大になり帝国内が平和になると、そもそも帝国の礎を築いたテムジンの肖像画を飾ることが、流行したそうです。なので、あちこちでテムジンの肖像画が描かれるようになりました。
史料の記述の方はどうなっているかというと、中国語史料の「元朝秘史」では、宋の国の人があるモンゴル軍の隊長から聞いたという話が載っています。それによると
・体はがっしりしている
・ひたいは広い
・ヒゲが長い
となっています。ペルシア語史料の「集史」では、チンギスを見たという人の話が載っています。それによると
・背が高い
・がっしりした体
・ネコのような目
・まばらな白いヒゲ
となっています。」
イサオン
「体ががっしりしている、というのが共通していますね〜。私たち古代ギリシア人のように、オリュンピア競技会なんかでしっかり鍛えていたんでしょうね〜。あと、ヒゲもあったんですね〜。古代ギリシア人も、モジャモジャのヒゲが立派な古代ギリシャ人の象徴でしたので、おそらくモンゴル人は私たちを見習ったんでしょうね〜。」
big5
「古代ギリシャ人を見習ったかどうかはともかく、テムジンら遊牧民は、ほぼ毎日馬に乗って家畜の世話をしていたので、自然に体は鍛えられていたのでしょうね。ただ、ヒゲについては「長い」ようですが、これはあごひげを伸ばしていたようです。テムジンの子どもや孫の肖像を見ると、古代ギリシャ人のようなあごからもみあげにかけて全体がヒゲモジャ、というわけではないみたいですね。」
名もなきOL
「テムジンに兄弟はいたんですか?」
big5
「はい、いました。テムジンは長男で、弟が三人いました。名前はそれぞれジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンと言います。それからテムルンという妹が一人いました。後は、父エスゲイの側室が産んだ二人の異母弟、ベクテルとベルグテイがいました。
家族の話というと、有名なエピソードが一つあります。テムジンが成長したある日、(中国の史料では9歳の時、ペルシャの史料では13歳の時)父のエスゲイはテムジンを連れてテムジンのお嫁さんを探しに出かけました。」
名もなきOL
「9歳でお嫁さんって早過ぎません?」
日本史好きおじさん
「13歳ということなら、武士の元服と比べても、昔ならあり得なくもないですな。。」
big5
「現代日本人の感覚からすると、かなりはやいですよね。さて、エスゲイとテムジンはフルン湖とボイル湖がある草原地帯に住んでいるコンギラト族を訪れました。ちなみに、テムジンの母・ホエルンはコンギラト族の人だったそうです。(ちなみに、ホエルンはオルクヌウト族出身で、略奪されてきた、という話もあります。)なんでも、昔からコンギラト族の女性は美しい、と言われていたそうですよ。
二人は、コンギラト族のデイ・セチェンという男と出会い、彼の娘のボルテを紹介されました。エスゲイもデイ・セチェンも、これはいいカップルだ、と話がすすんだので、デイ・セチェンの勧めで、テムジンはしばらくデイ・セチェンの家に預けられることになりました。事件はこの後に起こりました。エスゲイはテムジンを預けて一人で帰途についたのですが、途中で遭遇したタタル族に毒を盛られ、家に着いて間もなく亡くなってしまいました。」
高校生A
「え!?タタル族ってモンゴル部族と敵対している部族ですよね?それに毒を盛られるなんて、何かあったのですか?」
big5
「エスゲイは帰る途中で泊まるところを探していたところ、ちょうどよく誰かがキャンプしていたので、そこに合流したんですね。ところが、そのキャンプは敵対しているタタル族のキャンプでした。タタル族も、キャンプに入ってきた男がモンゴル族のエスゲイだと気付きました。しかし、厳しい自然環境のモンゴル高原に住む遊牧民の習慣として、キャンプに加わった人を断わったり、加わった人がは相手のおもてなしを断ることは、大変失礼なことだったそうです。エスゲイは、タタル族のキャンプで一夜を過ごしました。」
日本史好きおじさん
「凄い勇気ですな。」
big5
「「バータル」の称号を持つ男ですからね。しかし、翌朝の帰り道からエスゲイの体調は突然悪化しました。どうやら、タタル族はエスゲイに出した食事に毒を盛ったようです。エスゲイはなんとか家に帰り着きましたが、帰らぬ人となりました。」
日本史好きおじさん
「やはり失礼になっても、タタル族のキャンプは避けるべきでしたな。それにしてもタタル族のやり方はひどい。」

big5
「エスゲイの死はテムジン達の生活環境を激変させました。これまで、勇敢なリーダーであったエスゲイにしたがっていた遊牧民達の多くは、残されたテムジンらを見捨てて、他所へ移ってしまいました。中には、どさくさに紛れてエスゲイの家畜を奪って去った人もいたようで、最終的にテムジン一家はすべての家畜を失ってしまいました。」

名もなきOL
「かわいそう。遊牧民達も薄情ですね。彼らには彼らの生活があったんでしょうけど。」

big5
「まさにそのとおりだと思います。モンゴル高原での遊牧生活は厳しい自然との戦いでもありましたから、リーダーが判断を誤ると、そのグループ全体が危機に瀕することにもなります。遊牧民らにとって、リーダーが信頼できるかどうかは死活問題だったわけです。エスゲイの死後、後継者となるテムジンはまだ少年です。そんな少年に従っていたら命はない、と多くの遊牧民らは考えたのでしょうね。さて、父の訃報を聞いたテムジンは急いでオノン川のほとりにある家に帰りました。そして、母のホエルンや弟妹達と共に、生活再建にまさに命懸けで取り組みました。生活はかなり厳しかったようですが、林で木の実を取ったりしてなんとかしのいだようです。」

日本史好きおじさん
「少年時代の厳しい生活が、その後のチンギス・ハーンを育てたのかもしれませんな。」

big5
「そうですね。それが、テムジンの才能を開花させたのかもしれません。実際、まだ子供だったにもかかわらず、テムジンは一家の大黒柱として生活を立て直し、モンゴル族の中でも「将来が楽しみだ」と、期待されていたそうです。その一方で、そんなテムジンを恐れる人達もいました。その一つが、タイチウトというグループです。これについては説明が必要ですね。
当時、モンゴル族はタイチウトの他にキヤトというグループがありました。テムジンはキヤトに属しています。モンゴル族の族長はタイチウトとキヤトのどちらかから選ぶことになっていました。自分のグループから族長がでるからと、族長が自分のグループにいろいろと便宜を図ってやるので、生活に余裕ができたそうです。外国の珍しいものも入ってきたそうですよ。なので、キヤトとタイチウトは、普段はモンゴル族として団結していましたが、族長選びは熾烈だったそうですよ。
それで、タイチウトにとっては、キヤトのテムジンが有能だと嫌なんですね。特に、タイチウトのリーダー格だったキリルトクという男は、テムジンを敵視していました。」

日本史好きおじさん
「テムジンが将来モンゴル族の族長になったら、おいしいところを全部キヤトに持っていかれる、とでも思ったのでしょうな。」

big5
「たぶんそうです。それで、タイチウトはテムジンを追いかけ回してついに捕まえたんです。それから、テムジンに首輪のようなものをつけて、それにロープを結び、ゲルにつないで外に置いておきました。飼い犬みたいにです。」


モンゴル遊牧民のテント(「ゲル」といいます)とその内部
写真ACより クリエイター:MOON CHILD さん
ちなみに、日本でもモンゴルのゲルに泊まれる宿泊施設があります。栃木県那須温泉の「モンゴリアビレッジ テンゲル」です。


実際のゲルと違い、エアコンや冷蔵庫完備。トイレこそゲル内にはありませんが、ゲルの側に日本のトイレがあるので、気軽に楽しめます。(逆に言えば、真のモンゴル遊牧民体験にはなりませんが)モンゴルの民族衣装「デール」を着れるなど、エンターテイメントも豊富なので、楽しめます。
さらに、なんとビックリ、ゲル自体を買うこともできます。


時代は変わりましたね〜

名もなきOL
「そんなに虐げられていた時期があったんですね。有名なチンギス・ハーンからはとても想像できません。」

big5
「チンギス・ハーンって、やっぱり強いイメージが先行しますけど、当初はこんな屈辱的な扱いをされる弱い立場の人間だったんです。その彼が、史上最大の国の基礎を築き上げるわけですから、人生はわからないものですよ。私は辛い立場に立った時、チンギス・ハーンのこの話を思い出すようにしています。」

高校生A
「テムジンはその後どうなったのですか?」

big5
「夜になって大人達がお祭り騒ぎを始めると、テムジンの見張りが大人から子供に代わりました。見張りの子供が眠くなってウトウトし始めた隙をついて逃げ出したそうです。やがて大人達がテムジンが逃げたことに気づいて騒ぎはじめ、あちこちに追手を差し向けます。テムジンは、池のほとりの茂みに隠れていたのですが、追手の一人が隠れているテムジンに気付きました。そして、テムジンに近づいてこんな風に言ったそうです。
「ここには誰もいなかった、と伝えておくから、しばらくここに隠れていなさい。そして、追手がいなくなったら逃げるんだ。」」

日本史好きおじさん
「石橋山の合戦で敗れて隠れていた源頼朝を見つけた梶原景時のようですな。時代も近い。」

big5
「そうですね、よく似ています。タイチウトも一枚岩ではなかった、ということですね。彼のおかげでテムジンは脱出に成功し、命拾いしました。」

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