Last update:2017,Oct,29

3.チンギス・ハンの遠征

モンゴル帝国の統治機構 千戸制

big5
「さて、モンゴル帝国が建国されたところで、国の基本的な仕組みを見てみましょう。まず基本的な単位が「千戸(せんこ)」です。千戸とは、兵士を1000人出すことができる集団のことです。この千戸を束ねるのが「千戸長」。チンギスが即位した1206年時点では、95の千戸があり、88人の千戸長がいました。千戸長の方が数が少ないですが、その理由は兼任している千戸長がいるから。つまり一人で複数の千戸を束ねている人がいるからです。なので、モンゴル高原の兵力は95,000くらいになります。」
日本史好きおじさん
「95,000ですか。大国のわりには少ない印象ですな。」
big5
「そうですね。ただ。モンゴル帝国の本領といえるモンゴル高原だけに限ると、それくらいの数字なのかもしれません。大軍を動員するときは、支配下に置いた地域からも兵士を徴用するので、日本に攻め込んできた時のように大軍を編成することはできます。」
日本史好きおじさん
「確かに。元寇の際も、元軍の構成はほとんどが高麗人と中国人で構成されていたようですな。」
big5
「話を千戸に戻しましょう。88人の千戸長は、チンギスの指示や命令を自分の千戸のメンバーに伝えるわけですが、一人で千人に伝えるのはなかなか大変です。そこで、千戸を10の百戸に分けて百戸長を任命し、10人の百戸長に指示・命令を伝えました。さらに、各百戸長の下には10人の十戸長がいて、百戸長はそれぞれの十戸長に指示・命令を伝え、十戸長がそれぞれの10人の兵士に指示・命令を伝える、というのが基本的な仕組みでした。図にすると以下のようになります。


big5
「この仕組みは、平時も戦時も同様に機能していたそうです。この制度を「千戸制」と呼んだりします。これは、センター試験にも出るかもしれないので、A君はしっかり覚えておきましょうね。」
高校生A
「はい。」

チンギス・ハンの遠征

big5
「さて、ここからチンギス・ハンの遠征とモンゴル帝国の拡大が始まります。まずは、チンギス・ハンの遠征の概要を見てみましょうか。」


名もなきOL
「こうして見ると、意外と少ない気がします。もっと、たくさんの国を征服したようなイメージがあったので。」
日本史好きおじさん
「ですが、最初の金遠征が1211年で、最後の西夏遠征が1227年ということは、16年間で4ヵ国を征服したことになりますな。4年で1国のペースなら、かなりの遠征事業だとも言えますな。」
big5
「続いて、チンギス・ハンの遠征を示した模式図を見てみましょうか」


big5
「実際の世界地図も合わせて見てみると、その征服領域の広さを実感できます。東は中国の首都・北京のあたりから西はイランのあたりまでに及びます。距離でいうと、およそ6000kmにもなります。」

1207年 シベリア南部征伐と西夏服属

big5
「1207年、チンギスは北方からの脅威を除くために、長男ジョチ(25歳)率いる軍を派遣し、シベリア南部の森林部族を討伐させました。」
日本史好きおじさん
「モンゴル帝国にとっては、最初の本格的な遠征になりますかな。どのような戦いだったのですか?」
big5
「それが、この遠征はまだよく調べられていないんです。ただ、この後、モンゴル帝国が飛躍的に拡大していった事実から考えると、北方から背後を突かれないように、服属させることが目的だったと思われます。

続いて、ゴビ砂漠の南を支配していたタングト族の国・西夏を服従させて、属国としました。西夏はモンゴル帝国の宗主権を認め、モンゴル帝国の要求に応じて兵士を供与する約束をしました。」
名もなきOL
「モンゴル帝国の要求に応じて兵士を供与する。。服属って、なんとなくわかるんですけど、どういう関係なんですか?」
big5
「現代風に言えば、モンゴル帝国が親会社になって、西夏が子会社になる、といったところでしょうか。両者は親子会社なので仲間です。親会社も子会社も、それぞれ別個の会社であるのと同じで、モンゴル帝国も西夏も国としては別物です。ただ、西夏はモンゴル帝国の子会社なので、親会社にはいろいろな面で逆らえません。基本的には親会社の意向に沿って動かなければならないわけですね。なので、モンゴル帝国が他の国と戦うから兵士を出せ、と言われれば、子会社である西夏はそれに従わなければならないわけです。」

1209年(1211年?) ウイグル族の従属とウイグル文字の導入

big5
「1209年(1211年?)、領土拡張を続けるモンゴル帝国に、カルルク族とタリム盆地(現在の中国新疆ウイグル自治区)のウイグル族が従属を申しでてきました。これがきっかけとなり、モンゴル族はウイグル文字を導入しました。ここで思い出してみましょう。冒頭でもお話したように、当時のモンゴル族は文字を持っていませんでした。そこでチンギスは、高度な文化を持つウイグル族が使っていた文字を導入したんです。チンギスの子供達も教えられたそうですよ。」

1211年3月 金遠征 開始

big5
「さて、ここからチンギス・ハンによる大規模な遠征が始まります。最初の大規模な遠征となったのが、中国北部を支配していた大国・でした。本編の冒頭でもお話しましたが、当時の金は東アジアエリアの大国の一つでした。モンゴルの遊牧民から見れば、自分たちとはかけ離れた大都会、みたいなものだったことでしょう。」
イサオン
「例えていうなら、古代ギリシアにおける私の故郷・アテネみたいなものだったんでしょうね〜。アテネも、そんじょそこらの田舎ポリスや北の蛮族マケドニアとは全然違う、文明国ですからね〜。」
big5
「アテネ以外のポリスは田舎で、マケドニアが蛮族かどうかはさて置き、金の話に戻りますね。
まず、「金」という国家について重要なポイントは、金は漢民族の国家ではなく、女真(「じょしん」と読む)族の国、ということです。これは、センター試験などのテストでもしばしば必要になる知識なので、A君は必ず覚えておきましょう。」
高校生A
「金は女真族の国、と。そういえば、近代に出てくる清も女真族の国でしたよね?」
big5
「そうです。そこも重要ポイントですね。つまり、女真族は歴史上2回に渡って中国を支配していたわけですね。金は北半分でしたが、清は中国全域を長期間に渡って支配しました。これは、基礎知識になりますので、しっかり抑えておきましょう。
金の首都は「中都」といいますが、実は「中都」は現在の北京の一部なんです。今でも、北京には中都の遺構が残っています。金の首都として栄えた中都は、人口100万を超える世界でも数少ない大都市で、城壁でしっかりと守られていました。
その時の金の皇帝は衛紹王(えいしょうおう:生年不詳)という人物でした。実はチンギスと衛紹王は面識がありました。皇族である衛紹王は、使者としてモンゴルに赴きチンギスと会談したことがありました。その時、チンギスは衛紹王を一目見て「この人は愚か者」と判断し、正使の衛紹王を無視して副使の人物とばかり話をしたそうです。このチンギスの対応に憤慨した衛紹王は帰国してからモンゴル討伐を進言したそうです(その進言は採用されませんでしたが)。その衛紹王が1208年に皇帝に即位した、という話を聞いたチンギスは「あのような愚か者が皇帝ならば、金を倒せる」と判断し、遠征の準備を開始したそうです。」
名もなきOL
「え〜、その話本当なんですか?なんだか失礼でないですか?いくら無能な人物だったからといって、使者なのに無視するなんて。衛紹王さんが怒るのも無理はないと思います。」
イサオン
「そうですね〜、自分がメインの使者なのに無視されたら、頭に来ますよね〜。でも、本当に衛紹王が無能な人物だとしたら、これは確かにチャンスですよ〜。」
big5
「遠征準備が整った1211年3月、チンギスはモンゴルの守備隊として2000の兵を残し、それ以外の全軍を率いて南下を開始しました。対する衛紹王は、配下の将軍に防衛を命じますが、金軍は各地で敗北。戦いはモンゴル軍優勢で進みました。劣勢の中、金の国情を示すような事件が起きました。1213年、金の将軍で胡沙虎という人物が、なんとクーデターを起こして衛紹王を捕らえ、その後殺害する、という事件が起きたんです。」
高校生A
「クーデターって、何が原因だったんですか?」
big5
「胡沙虎は金の貴族なのですが、以前からその素行に問題があったそうです。酒に酔って同僚を殴って負傷させたとか、そういう暴力事件が多かったみたいです。モンゴルとの戦争にあたり、胡沙虎も金軍を率いる将軍の一人になったのですが敗北。敗戦の責任を問われて処分されるのを恐れたため、と考えられています。」
日本史好きおじさん
「滅亡が近くなった国では、そういう話はよく出てきますな。」
big5
「トップの混乱はまだ続きます。衛紹王を殺害した後、後継者として衛紹王の甥が皇帝に即位しました。「宣宗(せんそう)」と言います。ところが、胡沙虎もその2か月後に、同じようにモンゴル軍との戦いに敗れて逃げてきた別の将軍に殺害されてしまいました。」
名もなきOL
「なんだかもう、ムチャクチャですね。」



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(続く)

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