big5
「今回のテーマは古代ギリシア前編です。古代ギリシアは残っている史料も多く、研究もよくされてきましたので、古代史の中では情報量はローマの次くらいに多いです。
内容盛りだくさんの古代ギリシアですが、その中でもこれまでのオリエント諸国と決定的に違うのが民主政治が発展したことです。」
名もなきOL
「エジプト、ヒッタイト、アッシリア、バビロニア、そしてアケメネス朝ペルシア。全部、王様による専制政治体制ですね。確かに、その中で民主政治をやっていたのは目立ちますね。」
big5
「現代では、政治体制として民主主義を取り入れていることが標準的になっています。しかし、古代では民主主義はむしろ少数派でした。また、古代ギリシアも最初から民主主義だったわけではなく、長い歴史と様々な事件を経て民主主義を実現させているんです。
というわけで、今回は古代ギリシアの民主政治の発展の歴史を見ていきましょう。まずはいつもどおり、年表から見ていきましょう。」
年月 | 古代ギリシアのイベント | 他地方のイベント |
紀元前8世紀 | ポリスの形成進む | |
前776年 | 記録に残る最古のオリンピック 開催 | |
前750年頃 | 海外植民活動活発化 | |
前683年 | アルコンの任期が1年となる | |
前664年 | アッシリアがエジプトを占領 | |
前632年頃 | キュロンの反乱 | |
前620頃 | ドラコン立法 | |
前594年 | ソロンの改革 | |
前561年 | ペイシストラトスの僭主政治始まる | |
前525年 | アケメネス朝ペルシアがオリエントを統一 | |
前510年 | 僭主ヒッピアスが追放される | |
前508年 | クレイステネスの改革 |
big5
「古代ギリシアは現代のギリシアとほぼ同じところに誕生しました。ミケーネ文明などの古代文明が滅んだ後、北方からいくつかの民族がギリシア方面にやって来て住み着き始めたのが古代ギリシアの始まりと考えられています。ギリシア方面はあちこちにポリス(Polis ちなみに警察はPolice)と呼ばれる街を作りました。そして、このポリスがそれぞれ独立した国として発展していきました。一つの街でありながら、一つの国という扱いだったので、日本語では「都市国家」と訳したりしますね。ポリスはかなりたくさんあったそうですがん、まずはアテネ(アテナイ、とも)とスパルタの2つを覚えましょう。高校世界史では、3番目のポリスとしてテーベが登場しますが、まずはアテネとスパルタの2つが基本です。」
名もなきOL
「スパルタって「スパルタ教育」のスパルタですか?」
big5
「はい、そうです。詳しくは後述しますが、スパルタはものすごく厳しい軍事国家であり、スパルタ市民たちには厳しい軍事教育が課せられていました。なので、たいへん厳しい教育を「スパルタ教育」と言ったりしますね。
さて、話を戻します。古代ギリシア人といっても、細かく見るといくつかの部族に分けられています。アテネを築いたのはイオニア人と呼ばれる部族で、スパルタを築いたのはドーリア人、そしてテーベを築いたのはアイオリス人です。」
big5
「ギリシア本土でポリスの形成が進む一方で、海外への植民活動も活発だったのが特徴です。ギリシア世界はギリシア本土だけの話ではなく、エーゲ海全体、さらには地中海沿岸部にも広がっていたわけです。下の地図を見てみてください。」
big5
「地図で青く塗られている部分が、ギリシア人の植民市が築かれたエリアになります。ギリシア本土はもちろん、エーゲ海を挟んで東側にも植民市がありますし、黒海沿岸やアフリカ北岸、イタリア半島南部にシチリア島、そして南フランスにまで植民市が築かれました。」
名もなきOL
「地図で見ると、本当に広いエリアに及んでいたということがよくわかりますね。」
big5
「主だった植民市を紹介しておきます。
・マッシリア:現代の南フランスの街・マルセイユの起源
・ネアポリス:現代のイタリアの街・ナポリの起源
・シラクサ:シチリア島
・ミレトス:エーゲ海東岸
・ビザンティオン:現代のトルコの街・イスタンブルの起源
他にも、ギリシア人植民市が起源の街はあるのですが、長くなるので省略します。このように、古代ギリシア人は積極的に海外へも進出していったわけですね。」
名もなきOL
「はい、質問です!どうして古代ギリシア人は積極的に海外に進出していったんでしょうか?何か理由があるんですか?」
big5
「いい質問ですね。答えは「詳細は不明」です。昔はよくこんな説明がなされていました。
「ギリシア本土は山がちで平地が少なく、多くの人口は抱えきれなかった。ポリスの形成が一段落した後、余剰人口が新天地を求めて海外へ出ていった」
ただ、最近の研究では、ポリスの形成と海外植民はほぼ同時期に進んでいたのではないか、と考えられており、必ずしも余剰人口を海外に送り出していた、というわけではないようです。
これは私の意見なのですが、ギリシア人の冒険心なのではないか、と思います。ギリシアは山がちなうえに、入江も複雑に入り込んでいるので、古代から船が移動手段として発達していました。なので、冒険心旺盛なギリシア人が、新天地を求めて船出していったんじゃないか、と思っています。」
big5
「ここで、古代ギリシアを理解するうえで欠かすことのできない文化的な側面を紹介します。まず、古代ギリシア人は自分たちのことをヘレネスと呼んでいました。自分たちの土地はヘラスと呼びます。後に、ギリシア文化とオリエント文化が融合した文化・ヘレニズム文化が誕生しますが、ヘレニズムの語源はこのヘレネスとヘラスです。また、ヘレネス以外の人々はバルバロイ(聞き取れない言語を話す人、という意味)と呼んで蔑視していました。英語のbarbarian(野蛮人)の語源になっています。」
名もなきOL
「中国が、自分たちの周囲の外国を野蛮と呼んで蔑んでいたのと似ていますね。」
big5
「そうですね。古代ギリシア人であるヘレネスは、バルバロイとは違う存在でした。そして、ヘレネスには共通の文化がありました。その中でも重要なのがオリンピアの祭典、つまりオリンピックです。オリンピックは、ペロポネソス半島の北西にあるオリンピアで4年に1回開催されました。記録に残っている最古のオリンピックは、前776年に開催されています。よく、古代ギリシアのオリンピックはアテネで開催されたとか、ギリシア北部にあるオリンポス山の近くで開催された、と名前が似ているので誤解されがちですが、ペロポネソス半島のオリンピアで開催されていました。このオリンピックに出場し、優勝するのは大変な名誉とされました。また、古代ギリシアのポリスは、たびたび戦争もしていたのですが、オリンピック開催期間中は休戦となりました。」
名もなきOL
「オリンピックの起源は古代ギリシアだったんですね。そして、当時も開催期間中は平和だったんですね。」
font color="green">big5
「次に、古代ギリシアで使用された文字がアルファベットです。言うまでもなく、現代のヨーロッパ世界で標準的に使われている文字ですね。アルファベットは、フェニキア人が使っていた線文字を、ギリシア人がよりわかりやすく改変したもの、と考えられています。
そして、歴史的に特に重要なのがデルファオイの神託です。」
名もなきOL
「デルフォイの神託って何ですか?」
big5
「まず、デルフォイというのは町の名前です。ギリシア中部の山間部にありました。デルフォイにはギリシア神話の中でも有名なアポロンの神殿があり、ここの巫女は神の声が聴ける、ということだったんです。そのため、古代ギリシア人は悩み事や重要な決断が必要な場面で、デルフォイを訪れて神の言葉を聞いて、決断する人が大勢いました。」
名もなきOL
「それは凄い、影響力があったんですね。」
big5
「上で海外植民活動の話をしましたが、それに関しても、デルフォイの神託を受けて・・・という話がとても多いです。古代ギリシア人にとって、デルフォイはとても神聖で重要な場所だったんですね。
と、特に重要な古代ギリシア文化を紹介してきましたが、これはごく一部。古代ギリシア文化だけで一つの本が欠けるくらいの内容があります。古代ギリシア世界は地中海世界に広がっていきましたが、ギリシア人は共通の神々と文化を共有して、独自のギリシア文化と歴史を刻んできたわけですね。それでは、次は古代ギリシアの代表ともいえるアテネの民主政治への過程を見ていきましょう。」
big5
「さて、古代ギリシアにおいてアテネは民主政治を行っていたのですが、アテネ成立時点から民主政治だったわけではありません。最初はオリエントと同じような王政だったのですが、王政は廃止されて少数の貴族による貴族政治が行われていました。
アテネでは古くから「市民」を保有している財産の量によって4つの等級に分類していました。以下のようになります。
第1級(500石級):年に穀物500メディムノス以上を産出する土地を持っている者。
第2級(騎士級):年に穀物300-500メディムノス以上を産出する土地を持っている者。なお、馬を飼って戦争では騎兵として参戦するので「騎士級」の名がついた。
第3級(農民級):年に穀物200-300メディムノス以上を産出する土地を持っている者。
第4級(労働者級):年に穀物200メディムノス以下の者。
このうち、第1級と第2級が「貴族」、第3級と第4級が「平民」になります。」
名もなきOL
「財産の量で分ける、って珍しいですね。こういう身分制度って、たいてい生まれで決まると思うんですけど、そうではなくて財産なんですね。」
big5
「基本的に親の財産を子供が相続するので、生まれが無関係とは言えませんが、確かに特徴のある身分制度だと思います。
さて、アテネの政治を担当していたのは、9人のアルコン(日本語訳は「執政官」)と呼ばれる役職の人で、当然のように貴族から選ばれていました。前683年に、アルコンの任期は1年と決められたので、それ以降は貴族が順番にアルコンに就任して、政治を運営していたわけですね。アテネでは、市民全員が参加する「民会」があり、これが最高意思決定機関ではありましたが、市民全員が参加するので人数が多すぎです。そこで、アルコンが提案する内容に賛否を示す、という形で意思決定をしていました。」
名もなきOL
「近代資本主義国家のブルジョワ政権みたいなものだったんでしょうね。」
big5
「このような体制では、当然「平民」は不満を持ちます。そして、その「平民」が発言力を付け始めたことで状況が変わりました。平民の発言力の源は重装歩兵です。古代ギリシア世界では、経済発展につれて武器防具が平民でも買える値段まで安くなり、自分で武器防具を買って重装歩兵として戦場に出る平民が増えてきたんです。そして、重装歩兵が集まってファランクスという密集隊形をとって戦う部隊が軍の主力になりました。当時、国を守るために戦争に参加するのが市民の義務です。なので、平民も重装歩兵として戦うのなら政治に参加できるはず、と要求するようになりました。」
ゲーム:Rome Total Warより 重装歩兵のファランクス隊形
名もなきOL
「当然ですよね。平民の言うことは筋が通っています。」
big5
「しかし、貴族たちも「はいわかりました」とすぐには認めなかったので、貴族 vs 平民という対立が始まります。この対立は、時間をかけて少しずつ平民側の勝利に動いていくことになります。まず最初のイベントが、前620年頃に行われたドラコン立法です。」
名もなきOL
「ドラコン立法って何ですか?」
big5
「ドラコンというのはアテネの人の名前です。当時、アテネでは様々なルール(法律)があったのですが、成文化されておらず、たびたび貴族の都合のいいように解釈されていました。そこで、ドラコンは従来のルールを成文化することで誰の目にも明らかにし、公平性を高めたわけですね。」
名もなきOL
「これ、地味ですけど重要ですね。「貴族はルールを知っているけど平民はルールを知らない」、という状態では、同じ土俵で話をすることができませんもんね。」
big5
「そのとおりです。ドラコン立法に続いて、前594年にソロンの改革が行われました。ソロンというのはアテネの人の名前です。ソロンはアルコンに就任し、「調停者」として貴族と平民の対立を解消すべく改革を行いました。主な内容は下の2つです。
@借金の帳消しと債務奴隷の禁止
A市民4等級に権利と義務を定めた財産政治の施行
@は、主に農民の救済策になります。貨幣経済が発展していたアテネでは、お金の貸し借りがよく行われていました。この時、貧乏な市民はお金を返すことができなくなると、自分自身を相手の奴隷にすることで返済の代わりとする、という債務奴隷が増えているという問題がありました。上で説明したように、農民は重装歩兵であり軍夫主力です。その農民が奴隷に転落していますと、それは軍事力の低下に直結します。なので、ソロンは農民を助けることでアテネの軍事力低下に歯止めをかけたわけですね。
Aは、先述のアテネ市民4等級にそれぞれ権利と義務を明確にしました。アルコンについては、従来通り貴族のみがなれるのですが、第3級の農民級には新設された400人会議への参加枠を設けました。これにより、農民級にも政治に参加できる分が増えるようになりました。この政治体制を財産政治と呼びます。財産政治は、従来の貴族政治とは異なり、国への貢献度を参政権に繁栄させた制度なんです。ソロンの改革は、貴族のメンツを保ちながらも、平民の不満を和らげて、さらにアテネの軍事力低下問題も解決の道筋をつけたということで、とても優れた改革と評価されています。」
名もなきOL
「そうですね、バランス感覚に優れていたんでしょうね、ソロンさん。」
big5
「こうして、ドラコン立法とソロンの改革によって、平民の発言力はググっと上がってきました。貴族政治から財産政治へ切り替わり、民主政治は発展し始めたのですが、ここで逆行するようなイベントが起きます。」
big5
「ソロンの改革の後も、貴族・平民間の階級闘争は続いていました。前561年、ペイシストラトスが主に貧農の支持を得て事実上の独裁者となり、政治を動かすようになりました。これを僭主政治(僭主:せんしゅ)といいます。」
名もなきOL
「僭主ってなんですか?」
big5
「一言で言うと、非公式の独裁者ですね。公式に指導者としての役職に就いているわけでもないのに、何だかんだで政治を行っている、という人を「僭主」といいます。ペイシストラトスは、反対派によって2回もアテネを追放されているのですが、そのたびにアテネに復帰し、僭主としてアテネの政治を支配してきました。」
名もなきOL
「それだと、まったく「民主政治」じゃないですね。アテネにもそんな時期があったんですね。」
big5
「「非公式な独裁者」なんて、かなり悪いイメージがありますよね。確かに、民主政治を良しとする観点から見れば、僭主政治は悪い政治形態でしょう。しかし、ペイシストラトスの政治は貴族の力を削ぎ、平民を支援する政策だたので、平民からの支持は高かったようです。また、文化・芸術の振興や経済発展にも尽力したので、評価もされています。これは、現代人にも重要なメッセージを持っていると思います。つまり「政治形態だけで良し悪しの判断はできない」ということですね。
しかし、僭主政治が受け入れられたのはペイシストラトスだけでした。ペイシストラトスの死後、息子のヒッピアスが僭主となったのですが、暴君になってしまったので前510年にアテネを追放されてしまいました。」
名もなきOL
「独裁者というと、たいてい暴君になってしまう気がします。ペイシストラトスは例外的な人だったんでしょうね。」
big5
「僭主ヒッピアスが追放されてから間もない前508年、アルコンに就任したクレイステネスが改革に乗り出しました。クレイステネスの改革です。クレイステネスの改革の要点は以下の3つになります。
@陶片追放(オストラシズム)の制度創設
A従来のアテネの血縁的な4部族制を改め、10のデモス(区)を設定し、区ごとに将軍職(ストラテゴス)を選出する。
B上記の10のデモスからそれぞれ50人を選出して500人評議会を設置。民会にかける議案の予備審議などを行う。
特に重要で特徴的なのが陶片追放ですね。」
名もなきOL
「陶片追放って聞いた覚えがあります。確か、悪い人を追放する仕組みでしたっけ?」
big5
「はい、だいたい合っています。これは、僭主政治を予防する仕組みです。僭主になりそうな人がいた場合、市民らが投票して6000票以上の票が集まると、その人は10年間アテネを追放される、という仕組みです。下のような陶器の破片に名前を書いて投票する、という方法だったので、陶片追放という名前になっています。」
名もなきOL
「面白い仕組みですね。でも、これで本当に僭主政治を予防できるんでしょうか?この制度は、別のことに悪用されそうな気がします。」
big5
「はい、悪用されました。10年間も対象者をアテネから合法的に追放できますので、政治権力争いで競争相手を潰すための手段として使われることの方が多かったんです。そのため、前400年代には廃れました。ちなみに、上の陶片に書かれている「テミストクレス」とは、後のペルシア戦争で大活躍したテミストクレスです。救国の英雄といってもいいテミストクレスは、その後の政争で敗れて陶片追放でアテネから追い出されてしまった、というのも、重要な事実だと思います。
AとBは、あまり細かい仕組みは覚えなくてもいいと思いますが、将軍職(ストラテゴス)は知っておく必要があります。というのも、クレイステネスの改革で、平民の政治参加がさらに促進された結果、従来までリーダーであったアルコンの重みがだんだん失われてしまい、しばらく後にアルコンは市民の中から抽選で選ばれるようになりました。よく取れば、アルコンが市民に開放された、ということですが、悪く取れば、不適格者もアルコンになりえてしまう、という問題もあります。そのため、アルコンは名誉職的な位置づけとなり、10人のストラテゴスが指導者的な役職に変化していきました。
クレイステネスの改革により、アテネの民主政治の仕組みはほぼ完成しました。貴族政治から始まり、貴族 vs 平民の階級闘争を経て、古代アテネは民主政治体制を築いたわけですね。一方その頃、東のオリエント世界では、アケメネス朝ペルシアがペルシア方面からエジプト、小アジアにまたがる広大な領域を支配する大帝国に成長していました。アケメネス朝ペルシアの次の標的はギリシアです。
<年号暗記語呂合わせ>
ゴーヤ(508)で改革クレイステネス
ゴーヤとクレイステネスの改革に関係が無いのが残念ですが、今のところ私が知っている覚え方はこれです。
big5
「最後に、史上まれにみる軍事国家となったスパルタについて見ていきましょう。
スパルタがポリスとして成立したのは紀元前10世紀くらい、と考えられています。ペロポネソス半島の南のラコニア地方にドーリア人が侵入し、先住していたアカイア人や他のドーリア人を支配下に置きました。」
big5
「スパルタの政治の仕組みはかなり特殊です。まず、2人の王がいます。ただし、スパルタの2人の王は、みなさんが想像するようなオリエントやヨーロッパの王とは異なり、軍司令官の役割に集中していました。政治は担当しません。2人いるのは、1人が遠征軍を率いて出発する時、もう一人が留守を預かったり、あるいは一方が戦死してしまっても、すぐにもう一人が司令官の役割を引く継ぐことができるため、と考えられています。ちなみに世襲です。これは、一般的な王と同じですね。」
名もなきOL
「国王といっても、担当するのは戦争だけなんですね。戦士国家の象徴みたいですね。」
big5
「スパルタで政治などを担当していたのは、5人のエフォロス(日本語訳は「監督官」という)でした。エフォロスは、30歳以上のスパルタ市民から選出されます。いちおう、スパルタにも民会はありますが、基本的にはエフォロスが決めたことを追認するくらいしかできなかったようです。
なお、ゲルシア(長老会)という60歳以上のスパルタ市民28人と2人の王で構成される組織もあります。当初は、長老会が政治の主導を握っていたのですが、エフォロスが設置されてからは「選出されたエフォロスを任命する」という形式的な名誉機関になっています。スパルタにも約800年くらいの長い歴史がありますが、政治の仕組みはほぼ変わらなかったようです。保守的、閉鎖的な風潮のスパルタでは、アテネのような変化はあまり起きなかったみたいですね。」
名もなきOL
「スパルタ市民、というのはどういう人だったんですか?」
big5
「いわゆるスパルタ人で、屈強なスパルタ戦士たちを指しています。スパルタ人には3つの階級がありました。1番上がスパルタ市民で、スパルタ戦士となって戦う(戦わなければならない)人々です。2つ目はペリオイコイと呼ばれる、スパルタ人の周囲に集落に住んでいた人々で、日本語では「周辺民」とか「劣格市民」とか訳されています。ペリオイコイはスパルタ市民のような参政権はないので、民会にも参加できませんし、増してやエフォロスになることは不可能です。普段は農業や商工業に従事していましたが、戦争になったら従軍しなければならないという、兵役義務が課せられていました。」
名もなきOL
「アテネの話から考えると、ペリオイコイが不満を持ってスパルタ市民と対等の扱いを求めそうですね。」
big5
「そうですね。そういう動きもあったかもしれませんが、そうはなりませんでした。そして、一番下の階層がヘイロタイ(英語では「ヘロット」日本語訳は「隷農」)です。ヘイロタイはいわゆる奴隷で、国家所有の労働力でした。仕事は、スパルタ人の農地を耕作することです。ペリオイコイと違い、兵役義務はありませんでしたが、スパルタ市民の戦闘訓練の課程で殺害対象になる(スパルタ戦士の訓練課程の中に「ヘイロタイの首を取ってくる」というのがある)など、人というよりも家畜に近いような扱われ方をされていました。」
名もなきOL
「怖い。スパルタって、本当に特殊な国だったんですね。」
big5
「私の手持ちの資料集によると、スパルタ市民は約5000人に対して、ペリオイコイは2万人、そしてヘイロタイは5万人くらいいた、となっています。つまり、スパルタ市民は自分たちの10倍くらいいるヘイロタイらを力で抑え込む必要があったわけです。それもあって、スパルタ市民は7歳から厳しい訓練を受けなければなりませんでした。女性も、強い子を産むためには強くなければならない、ということで、かなり厳しい訓練を課せられていました。
」
古代ギリシアを代表するアテネとスパルタの歴史は以上の通りです。古代ギリシアは史料も豊富なので、もっと細かい話もあるのですが、それらは機会がありましたら「詳細篇」で取り扱いたいと思います。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」
big5
「大学入試共通テストでは、上記で扱った古代ギリシアのネタは時折出題されています。古代史は、最初の方で習うので試験前には内容を忘れがちです。古代ギリシアについては試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」
令和2年度 世界史B 問題4 選択肢2
・扇動政治家(デマゴーゴス)出現防止のため、陶片追放の制度が定められた。〇か×か?
(答)×。上記の通り、陶片追放は僭主出現防止のためです。デマゴーゴス出現防止ではありません。
令和2年度 世界史B 問題4 選択肢4
・スパルタは、イオニア人のポリスである。〇か×か?
(答)×。上記の通り、スパルタはドーリア人のポリスです。イオニア人のポリスの代表例はアテネです。
令和2年度追試 世界史B 問題31 選択肢1
・モスクワ大公国で、ヘイロータイが使役された。〇か×か?
(答)×。上記の通り、ヘイロータイはスパルタの国有奴隷です。モスクワ大公国ではありません。
令和3年度 世界史B 問題5 選択肢2
・(1789年フランス革命以前の「嫌われた体制」とは)征服された先住民がヘイロータイとされた。〇か×か?
(答)×。上記の通り、ヘイロータイとは古代ギリシアのスパルタの隷農のことです。フランス革命に直接の関係はありません。
令和3年度 世界史B 問題29 選択肢4
・(地域1:シチリア島では)ギリシア人やフェニキア人が、植民市を建設した。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、古代ギリシア人の植民市の一つはシチリア島のシラクサです。ちなみに、フェニキア人(カルタゴ)も、シチリア島に植民市を築いていますので、この文章は正しいです。
古代 目次へ戻る
この解説は、管理人の趣味で作成しております。解説が役に立ったと思っていただければ、下記広告をクリックしていただくと、さらなる発展の励みになります。