big5
「さて、今回のテーマは共和政イギリスです。イギリスと言えば立憲君主制の国ですが、長い歴史の中で共和政だった時代が約10年と短いですがありました。ピューリタン革命で国王チャールズ1世が処刑された後、約10年間は共和政でした。イギリスでは共和政時代のイギリスを「コモンウェルス(Common Wealth)」と呼んでいます。」
名もなきOL
「共和政時代のイギリスはどんなかんじだったんですか?」
big5
「一言で言えば「怖い」時代だったのではないか、と思います。ピューリタン革命によって宗教の違いが浮き彫りになり、カトリック教徒などは多数が弾圧され、殺されています。共和政イギリスの指導者であったクロムウェルは敬虔なピューリタンでしたが、その分他の宗教にたいへん厳しくあたっています。」
名もなきOL
「宗教戦争って、人間を残虐な生き物に簡単に変えてしまうんですね・・怖いな。」
big5
「クロムウェルは成立した共和政イギリスを確固たるものとすべく、アイルランドやスコットランドに遠征を行いました。さらに、航海法を定めて中継貿易で繁栄していたオランダをイギリス市場から締め出し、さらに第一次英蘭戦争でオランダを破りました。護国卿に就任し、クロムウェルの独裁体制は完成しますが、間もなくクロムウェルは死去。息子のリチャードが護国卿を継承するも、維持できずに崩壊。共和政イギリスの歴史は幕を閉じ、ステュアート朝による王政が復活することになりました。
まずはいつもどおり、年表から見ていきましょう。」
年月 | イギリスのイベント | 世界のイベント |
1649年 | チャールズ1世が処刑され共和政となる(コモンウェルスの始まり) クロムウェルがアイルランド征服 |
(日本)慶安の御触書 |
1650年 | クロムウェルがスコットランド征服 | |
1651年 | 航海法成立 ホッブズが『リヴァイアサン』刊行 |
|
1652年 | 第一次英蘭戦争 開戦 | |
1653年 | 長期議会解散しクロムウェルが護国卿に就任 | (仏)フロンドの乱 終結 |
1654年 | 第一次英蘭戦争 終結 | |
1658年 | クロムウェル死去 息子のリチャードが護国卿に就任 | |
1659年 | リチャードが護国卿を辞任して亡命 | |
1660年 | チャールズ2世のブレダ宣言を議会が受諾 ステュアート朝復活 | |
big5
「時は1649年。議会と対立して敗れたイギリス王・チャールズ1世(この年49歳)は、クロムウェル(Cromwell この年50歳)らによって処刑され、イギリスは共和政国家となりました。クロムウェルらは、新国家を足元を盤石なものとすべく、敵対勢力はすべて排除する、という厳しい姿勢で臨みます。その最初の標的となったのが、カトリック教徒が多く、王党派が多いアイルランドでした。クロムウェルらは熱心なピューリタンなので、カトリックなどは到底相容れません。そのうえ王党派多いとなれば、チャールズ1世の子供達を担いでクロムウェルらに挑戦してくることは確実視されていたことでしょう。1649年6月15日、議会はクロムウェルをアイルランド総督に任命し、クロムウェルは自ら軍を率いてアイルランドに侵攻しました。
アイルランドに上陸したクロムウェル軍は勝利し、占領地で容赦なく略奪・虐殺を行っています。カトリック教会を焼き討ちしたり、避難していた女子供を満載した船を沈めたりなど蛮行が繰り返されました。驚くべきことに、このような蛮行をクロムウェル自身は「神の導き」と誇らしげに議会に報告していることですね。」
名もなきOL
「は?クロムウェルって、頭のおかしい人だったんですか?」
big5
「頭は正常だったと思いますが、信仰心が強過ぎて普通の人間が持っている人間性を失ってしまったのではないか、と私は思いますね。クロムウェルはピューリタンの中でも強い信仰心を持っていました。彼にとっては、ピューリタンのみが正しい信仰であり、カトリックやその他の宗教を信じる人々などは、とうてい受け入れられなかったのでしょう。よく似た事例として、中世の十字軍が挙げられます。イスラム教徒を殺害することが「神への貢献」とされていました。」
名もなきOL
「怖い・・。宗教の違いが、こんな蛮行を正当なものに変えてしまうんですね。。」
big5
「クロムウェルの遠征により、殺害されたアイルランドのカトリック教徒は数千人にのぼり、土地の3分の2はイングランド人に奪い取られました。これによって、アイルランド人のほとんどが小作人に身を落とし、イングランド人の不在地主に過酷に収奪され、アイルランドはイングランドに対する根強い恨みを持つことになります。いわゆるアイルランド問題の始まりと考えられています。」
big5
「年が明けて1650年、クロムウェルはアイルランドの後始末を部下に任せてイングランドに帰国しました。その一方、処刑されたチャールズ1世の子、チャールズ(後のチャールズ2世(この年20歳))はスコットランドに渡り、反議会派、反イングランド派を糾合してクロムウェルらに対抗する構えを見せました。議会は、アイルランドから戻って来たばかりのクロムウェルを総司令官に任命し、今度はスコットランド遠征に向かわせます。スコットランドの戦いでもクロムウェル軍は勝利し、1651年にチャールズ2世はフランスへ亡命しました。」
名もなきOL
「チャールズ1世の処刑から約2年でアイルランドとスコットランドの反革命勢力を力で潰し、クロムウェルらの共和政国家はその地位を着実なものとしたんですね。」
big5
「アイルランド、スコットランドで反対勢力を潰したイギリス議会は、1651年に航海法(Navigation Act)を定めました。航海法は、イギリスの歴史の中でもよく登場する重要な法律なので、これは知っておくべき基礎になります。」
名もなきOL
「航海法って、どんな法律なんですか?名前からすると、航海に関する法律みたいですが・・・」
big5
「確かに「航海に関する」法律ではありますが、簡単に言うと「イギリス市場からオランダを締め出す法律」です。この内容も重要です。なぜかというと、この後イギリスとオランダが3度に渡って戦う英蘭戦争の原因になるからです。
当時、オランダは世界中に商船を送って、中継貿易で繁栄していました。オランダの国土はたいへん小さく、面積だけで考えればヨーロッパの小国家に過ぎません。その小国家が、ヨーロッパの主要国に成長したの一番の要因が、大航海時代に積極的に海外に船を出して交易を行ったことでした。日本でも、鎖国体制が敷かれた後でもオランダだけはヨーロッパで唯一、長崎の出島で交易を認められていましたよね。イギリスにも、多数のオランダ船が様々な商品を運んできて、オランダ商人はたくさん稼いでいたのですが、イギリスの地元商人は面白くありません。そこで、議会は商人らの求めに応じて以下のようなルールを作りました。
イギリスにやってくる商船は
@ヨーロッパから来た商船の場合、交易できるのはイギリス船、生産国の船、あるいは最初の積み出し国の船
Aアジア、アメリカ、アフリカから来た商船は、イギリス船のみ
に限定したんです。」
名もなきOL
「なるほど、こうなるとオランダは遠くから運んできた商品をイギリスで売ることができなくなるんですね。」
big5
「一種の保護貿易政策、と見ることもできると思います。航海法はクロムウェルが作った法律というよりは、共和政となってクロムウェルらの議会が法律を決めるようになったからできた、イギリスの中小商人の法律、といったところですね。」
名もなきOL
「でも、これがオランダとの戦争の原因になっちゃうんですよね。」
big5
「はい。翌年の1652年、第一次英蘭戦争が勃発します。」
big5
「1652年5月29日。航海法に基づいてイギリスの役人が港にやって来たオランダ船を止めて臨検しようとしたところ、オランダ船がこれを拒否。商船護衛についていた両国の軍艦同士が互いに砲撃したことがきっかけとなって、第一次英蘭戦争が始まりました。
<暗記語呂合わせ>
向こ(65)うに(2)行けよ、オランダ船
第一次英蘭戦争は、イギリス優勢で進みました。というのも、イギリスは航海法成立の時点でオランダとの戦争を予測しており、戦争の準備を進めていたからです。一方のオランダは戦争の準備はしておらず、遅れを取って劣勢となっていました。オランダ提督・トロンプも戦死してしまいます。
1653年、クロムウェルは護国卿(ごこくきょう 英語はProtector)に就任し、議会も形だけにしたクロムウェル独裁体制を築きました。独裁者となったクロムウェルは、英蘭戦争の継続は望まなかったので、翌年の1654年にウェストミンスター条約が結ばれて講和しました。この時、クロムウェルはオランダにオラニエ公ウィレムをオランダ総督に絶対に就任させないことを要求し、オランダもそれを受け入れました。」
名もなきOL
「オラニエ公ウィレムっていうのは・・・え〜っと・・」
big5
「後のイギリス王・ウィリアム3世です。この時点ではまだイギリス王にはなっていません。ウィレムの妻・メアリは処刑されたチャールズ1世の娘ですので、クロムウェルから見れば王政復古で担ぎ上げられる可能性がある王族の関係者であるわけですね。当時のオランダも共和政だったので、共和政国家同士、かつての王族は危険な存在だったわけです。
こうして、第一次英蘭戦争はイギリスの勝利で幕を閉じました。しかし名称にもあるように、これはあくまで第一次。英蘭戦争は第二次、第三次と続くことになります。」
名もなきOL
「ところで、第一次英蘭戦争で出てきた「護国卿」って何ですか?名前からすると、国の守護者、っていうかんじですが・・」
big5
「名前の通り、共和政イギリスを守る偉い人、みたいな役職です。護国卿の権限には、以下のようなものがありました。
@コモンウェルス(イギリス共和国)の立法権は、議会と護国卿にある。
A官吏任命権、軍事権、外交権は護国卿にある。
つまり、護国卿は自分で法律を作れて、役人も任命して、軍事も外交も行うという、ほとんど国王と同じ権力を持った役職でした。むしろ、国王といえども議会が定めたルールには従わなければならない、というイギリス議会制の伝統が無い分、ほぼ完全な独裁者であった、と考えることができます。実際、クロムウェルの独裁権限を弱めようとした人々は、クロムウェルに国王即位を薦めました。これは、一見するとクロムウェルを信奉しているように見えますが、国王に即位すれば議会の決定に干渉されることになりますので、これは罠です。クロムウェルはこれに気づいたのか、国王即位はキッパリと断っています。」
名もなきOL
「なるほど、政治の世界の駆け引きですね。」
big5
「護国卿となって独裁体制を敷いたクロムウェルでしたが、およそ5年が経過した1658年(この年59歳)に急死してしまいました。息子のリチャードが護国卿を継承しますが、厳格な軍事独裁政権を嫌がる国民は穏健な長老派を支持するようになるなど、イギリス議会は権力闘争などで混乱。リチャードはこの事態を収拾できず、就任期間わずか8か月で1659年に護国卿を辞任し、フランスへ亡命していきました。」
名もなきOL
「優れた独裁者の後継ぎが失脚する、というのはよくある話ですね。」
big5
「まさにそのとおりです。当時、オランダに亡命していたチャールズ2世はこの事態を見てブレダ宣言を発表。議会を尊重することを約束する代わりに、王政を復活させよう、という内容でした。チャールズ2世のブレダ宣言を受けて、議会は受諾を決定。1660年にチャールズ2世は国王としてイングランドに帰国しました。これを王政復古と呼びます。
big5
「王政復古により、革命を推進した一派30名は死刑となり、既に死んでいたクロムウェルは墓を暴かれ、死体は斬首されて首は晒しものとされました。
こうして、約10年にわたる共和政は幕を閉じたわけです。」
名もなきOL
「わずか10年とはいえ、けっこういろいろな事件がありましたね。特にアイルランド遠征はヒドイものだと思います。」
big5
「そうですね。クロムウェルの遠征と略奪・虐殺によって、不在地主であるイギリス国教徒のイングランド人によって、カトリックの小作人となったアイルランド人が虐げられる、という構図ができてしまい、アイルランド問題の原因となったことは、長い目で見るとイギリスにけっこうな負の遺産を負わせることになりました。
また、航海法の制定と英蘭戦争も、共和政時代に始まったことも重要です。復帰したチャールズ2世も、航海法はそのまま受け継いで第二次、第三次英蘭戦争を勃発させています。これは、共和政だからこその政策ではなく、イギリス王国発展の過程で生じた政策と考えるべきでしょう。」
big5
「さて、動乱の時代のイギリスにおいて、近代史上たいへん重要な人物と考え方が登場しました。」
名もなきOL
「う〜〜ん、誰だろう?」
big5
「ホッブズ(Hobbes 1588-1679)が1651年(この年ホッブズ63歳)著した『リヴァイアサン』です。その著書の中でホッブズは、国家の仕組みについて従来の「王権神授説」とは異なる「社会契約説」を唱えたことが、たいへん重要なポイントですね。」
名もなきOL
「その話、なんか聞いた覚えがあります。「リヴァイアサン」っていう名前も聞き覚えが・・」
big5
「ちなみに「リヴァイアサン」というと、某有名ゲームに登場する召喚獣を連想する人が多いと思いますが、その元ネタは聖書に登場する怪獣なんです。それはさておき、ホッブズが唱えた社会契約説はたいへん重要なので、この話をしましょう。まず、それまでの国家に関する考え方から確認します。イギリスであれフランスであれ、国王は国家の政治・外交・軍事を司る最高権力者でした。簡単に言うと、国のトップですね。では、なぜ国王にはそのような権力が認められているのでしょうか?」
名もなきOL
「なぜ?う〜ん・・・昔からそうだから?あ、王権神授説だから「神様に認められたから」ですか?」
big5
「その通りです。国王が国家のトップとして君臨できるのは、神によってその権利を与えられたからだ、と。それが王権神授説ですね。しかし、ホッブズが考えた社会契約説はそのような理屈ではありません。国王が国家のトップとして君臨できるのは、民衆から国家の主権を譲渡されたからだ、と考えました。一般民衆が国家を形成しない自然のままの状態だと、自分の命を守ることに躍起になって揉め事と闘争だらけの「万人の万人に対する闘争状態」の世界になってしまうだろう、なので、民衆は国王に強力な権力を譲渡し、国王は国家に安定と秩序をもたらして民衆の生命を保護するのだ、という理屈です。これは一種の契約と考えられます。民衆は権利を譲渡する代わりに、国王による保護を受けることができる、というわけですね。このような考え方を社会契約説といいます。」
名もなきOL
「なるほど。社会契約説は筋が通っているように聞こえますね。個人じゃできない事も、人々がまとまることでできるようになる事も多いですし。」
big5
「著書の『リヴァイアサン』は、民衆から主権を譲渡され強力な力を持った国王を怪獣に擬しているんです。実際、リヴァイアサンの口絵となっている国王は、多くの民衆で構成されています。
big5
「社会契約説は、王権神授説とは一線を画す斬新な理論で、この考え方はジョン・ロックやルソーらに引き継がれて発展していくことになります。ホッブズはその先駆となった人なんです。ただ、ホッブズはあくまで絶対王政を支持していました。『リヴァイアサン』も亡命先のフランスで刊行されています。歴史の流れとして、共和政イギリスが成立した後に『リヴァイアサン』が刊行され、王権神授説ではなく社会契約説を唱えたことから、共和政支持者のように勘違いされがちなのですが、ホッブズは絶対王政支持者です。そこに注意しましょう。」
名もなきOL
「ちなみに、どうしてホッブズは絶対王政を支持したんでしょうね?」
big5
「おそらく、貴族の家庭教師として雇われていた期間が長かったから、と私は思います。ホッブズ自身は中産階級の出身で、時代的には共和政支持層に属しているのですが、オックスフォード大学を卒業した後、イギリス貴族の家庭教師となって生活していたので、思考が王政とそれに連なる貴族政が思想の基本になっていたのだと思います。
と、言ったところで今回はここまで。
ここまでご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」
big5
「大学入試共通テストでは、共和政イギリスの論点はたまに出題されます。優先順位は低めですので、時間が無い受験生はこの分野の学習は後回しにするのも一つの方法でしょう。ただ、令和になってからはまだ一度も出題されていないので、そろそろ出題されるかもしれません。」
平成31年度 世界史B 問題3 選択肢2
17世紀にイギリスで起こった出来事として、正しいものを選べ。
・チャールズ1世が処刑された。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、1649年にチャールズ1世が処刑され、イギリスは共和政国家となりました。
平成31年度 世界史B 問題10 選択肢4
・ジェームズ1世が航海法を制定し、オランダの中継貿易に打撃を与えた。〇か×か?
(答)×。上記の通り、航海法は共和政時代のイギリスで制定されました。ジェームズ1世が定めたものではありません。オランダの中継貿易に打撃を与えたのは、その通りです。
令和6年度 世界史B 問題6 選択肢4
・共和政期のイングランドで出された大陸封鎖令は、英蘭戦争の引き金になった。〇か×か?
(答)×。上記の通り、英蘭戦争の引き金になったのは共和政期に定められた航海法であり、大陸封鎖令ではありません。大陸封鎖令を出したのはフランスのナポレオンです。
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