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しのぎを削る列強

クリミア戦争 (Crimean War)

あらすじ

big5
「さて、今回のテーマはクリミア戦争(Crimean War)です。OLさんは、クリミア戦争と聞くと何を思い浮かべますか?」
名もなきOL
「確か、ナイチンゲールが傷ついた多くの兵士を助けたのが、クリミア戦争だったような・・・」
big5
「そのとおりです。有名な話ですよね。たぶん、多くの日本人にとってクリミア戦争は「ナイチンゲールが活躍した外国の戦争」というイメージを持ってるんじゃないか、と思います。それでは、戦争の名前にもなっている「クリミア」ってどこにあると思います?」
名もなきOL
「う〜〜ん・・・確か、中東のあたりだったような・・・」
big5
「残念、ハズレです。答えは、黒海の北岸です。地図で示すと、↓ですね。」


クリミア半島 北側から黒海に突き出るような半島

名もなきOL
「私が思ってた場所とちょっと違うな。。こんな場所だったんですね。今はウクライナか。海を渡ればトルコなんですね。」
big5
「はい。そこがクリミア戦争の原因に関わる重要ポイントです。当時、ロシアの国策は南下政策でした。まずは、黒海から地中海に出るルートを確保することで、軍事的にも経済的にも力を強めることができる、というのが南下政策の狙いです。そして、南下政策の標的は「瀕死の重病人」とあだ名されるオスマン帝国でした。例えば、黒海に駐留しているロシア艦隊が地中海に出るためには、絶対にオスマン帝国が支配するエリアを通る必要がありました。ここを通過できなければ、黒海艦隊は黒海の中だけを暴れまわるだけの艦隊に過ぎず、イギリスやフランスといった西欧諸国の艦隊と戦うことすらできません。ロシアにとって、船が南に行けるルートを確保することは、最重要課題だったんですね。もちろん、イギリスやフランスは、そんなロシアの意図は百も承知。オスマン帝国を放っておくと、いいようにロシアに領土を奪われてしまって、どんどんロシアが強大化してしまいます。これは面白くありません。そこで、イギリスやフランスは、何かと理由をつけてはロシアの南下政策を妨害しようとします。クリミア戦争は、南下したいロシアと、それを防ぎたいイギリス・フランスの国策同士の衝突が原因でした。」
名もなきOL
「あれ?オスマン帝国は参戦しなかったんですか?」
big5
「もちろん参戦してますよ。ただ、戦争の主力はロシア vs イギリス・フランスという構図になりました。当事国なのに、主力に数えられない、というのが当時のオスマン帝国の悲哀を感じさせますね。
このような国家同士の対立を背景としているのですが、クリミア戦争開戦の直接のきっかけとなったのが聖地管理権問題です。」
名もなきOL
「聖地って、エルサレムのことですか?」
big5
「はい、そうです。フランス皇帝に即位したナポレオン3世は、カトリック教徒の支持を得るために、オスマン帝国に聖地管理権を要求してこれを認めさせました。これに対抗して、ロシアのニコライ1世は、オスマン帝国に聖地管理権の譲渡とギリシア正教徒の保護を要求したんですね。ところが、オスマン帝国は「それはもうフランスのものだから」と言って拒否。それならば実力で、ということで1853年7月にロシアがオスマン帝国勢力圏に侵攻して始まりました
名もなきOL
「ということは、最初はロシア vs オスマン帝国、という構図だったんですね。」
big5
「はい。しかし、オスマン帝国ではロシアに勝てないことは明白。そこで、フランス、さらにイギリスがオスマン帝国側で参戦しました。さらに、イタリアのサルデーニャ王国は、国策であるイタリア統一のためにはフランスを味方に付ける必要がある、という宰相カヴールによって、あまり利害関係がないサルデーニャ王国もオスマン帝国側で参戦しました。」
名もなきOL
「ひとつの戦争に、直接関係しない他の国が複数参戦してくる、というのが近代戦争の特徴の一つですよね。」
big5
「はい、国の政策の範囲は、既に世界全体に広がり始めていたんですね。こうして始まったクリミア戦争は、やがて主戦場がクリミア半島の南東にあるロシアのセバストポリ要塞に移りました。セバストポリは、地図で示すと↓です。」

big5
「セバストポリ要塞の攻防戦はかなりの激戦となり、両軍に多くの戦傷者が出ました。激しい戦いの末、1855年にセバストポリがついに陥落した。これで、ロシアの敗色濃厚となったところで、1856年にパリ条約で講和が結ばれました。パリ条約の主な内容は
・オスマン帝国の領土は保全される
・すべての軍艦のトルコ海峡通過の禁止
となり、結果としてロシアの南下政策は阻止された、ということになりますね。」
名もなきOL
「とはいえ、勝ったイギリス・フランス・サルデーニャ・オスマン帝国も、特に得るものがあったわけではないんですね。そうなると、結果的には引き分けとも言えそうですね。」
big5
「はい。イギリスもフランスも、それぞれもっと自国の利益になる案件が他にありましたから、クリミア戦争は引き分けでも十分な戦果だ、と考えたのでしょう。一方、劣勢だったロシアは、軍の近代化の遅れを痛感し、戦争中に亡くなったニコライ1世の後を継いだアレクサンドル2世が、ロシアの近代化政策に取り組むことになります。年表にすると、こんなかんじですね。」

イベント
1853年
7月
ロシアがオスマン帝国の保護国であるモルダヴィア、ワラキアへ侵攻。
1854年
3月
イギリス・フランスが同盟してロシアに宣戦布告。
1854年
9月
セバストポリ攻防戦が始まる。
1855年
3月
ニコライ1世死去(59歳)。アレクサンドル2世(37歳)即位。
1855年
9月
セバストポリ陥落。
1856年 パリ条約締結。 クリミア戦争終結

聖地管理権問題

big5
「あらすじで述べたように、クリミア戦争の原因はロシアの南下政策と、それを防ぎたいイギリス・フランスの対立なのですが、戦争の直接の口実なったのが聖地管理権問題でした。」
名もなきOL
「ナポレオン3世が聖地管理権をオスマン帝国に要求して認められたのに、ロシアのニコライ1世は要求したのに認められなかったから、という話でしたが、そもそもどういう経緯だったんですか?」
big5
「当時、エルサレムはオスマン帝国の領土内にありました。エルサレムには、聖墳墓教会やベツレヘムの生誕教会など、キリスト教徒にとって特に重要な聖地があるんです。ここの管理権は、実は16世紀からフランス王が持っていたんです。ただ、フランス革命とナポレオン戦争の動乱の最中に、聖地管理権がギリシア正教徒の手に渡ってしまっていました。そこで、フランス皇帝に即位したナポレオン3世は、カトリック教徒達の支持を得るために、失われていた聖地管理権を再取得しようと考え、実際にオスマン帝国に認めさせたわけです。」
名もなきOL
「なるほど、ナポレオン3世の人気取りのための外交だったんですね。」
big5
「ところが、ロシアはこれに怒ったわけですね。他に、東方問題と呼ばれていた、バルカン半島における民族紛争もこれに絡んで複雑化していました。このように、ウィーン体制と神聖同盟、五国同盟による「主要国連携による旧秩序の回復」は、完全に崩壊してしまっており、主要国は自己の利益を優先し始め、そしてナポレオンによって広がった革命と民族主義思想は、旧秩序を打ち砕こうとしていたわけですね。」

セバストポリ攻防戦

big5
「約3年に渡ったクリミア戦争ですが、一番有名なのは1年に渡ったセバストポリ攻防戦ですね。1854年9月、ロシア軍はクリミア半島南東にあるセバストポリに立てこもり、ここを連合軍が包囲して始まりました。セバストポリは山で囲まれた入り江になっており、まさに天然の良港でした。ロシアはセバストポリの守りを固めて要塞化しており、セバストポリ攻防戦は激戦となりました。連合軍側の死傷者は約13人、ロシア側は約10万人と、両軍合わせて約20万人もの戦傷者を出す、という恐ろしい戦いになりました。この戦いの悲惨さを伝える作品の一つが、有名なロシアの文豪・トルストイ(Tolstoy)が書いた『セバストポリ』です。トルストイはセバストポリを守る砲兵部隊の将校として従軍しているんです。この時の実体験を基に書かれたのが『セバストポリ』なんですね。」
名もなきOL
「へ〜。トルストイって、軍人経験があるんですね。小説家のイメージが強いから、意外です。」
big5
「『セバストポリ』にも書かれているように、この時代の要塞攻防戦の主役は大砲でした。お互いに大砲を撃ちあって、相手の防壁を崩した後、歩兵隊が突入していく・・という流れになるのですが、この大砲を撃ちあう期間がかなり長いのが特徴です。防壁を崩すのに、どうしても時間がかかってしまうんです。約1年間にわたった理由の一つはこれですね。」

ナイチンゲール

big5
「クリミア戦争といえば、ナイチンゲールですよね。というわけで、ナイチンゲールの話も概要を紹介しておきましょう。」
名もなきOL
「久々に女性が主役の話だ。楽しみ楽しみ。」

Florence Nightingale CDV by H Lenthall
フローレンス・ナイチンゲール  制作年代:1850年代

big5
「ナイチンゲールがクリミア戦争にやってきたのは、1854年11月、34歳の時でした。赴任先はイスタンブルの対岸のスクタリというところにあった兵舎を急遽病棟に転用した、現代の病院とは似てもにつかない「汚い」病院でした。何といっても、第一の特徴は「不衛生」です。病室はろくに掃除されず、ノミやシラミがあちこちにはびこっており、さらにはネズミも当たり前のように這いまわっているという惨状でした。しかも、病院の周りには負傷兵を客とする賭博や売春用の掘っ建て小屋が立ち並んでいたんです。」
名もなきOL
「病院でそれはヒドイですね。これじゃ、治るケガも治らないですよ。」
big5
「実際、そのとおりだったようです。ナイチンゲールがまとめた資料によると、いわゆる「死傷者」のうち、戦場で死ぬ人数よりも、戦場で負傷してその後病院で亡くなる人数の方がかなり多かった、という話なんです。当時の病院は、負傷者を治療する場所というよりは、負傷者が死に追いやられる劣悪環境だった、といった方が正しいかもしれませんね。」
名もなきOL
「病院で助かるんじゃなくて、むしろ死に追いやられるなんて・・・酷すぎる。」
big5
「そんな病院の惨状を改革し、多くの負傷兵を助けたのがナイチンゲールでした。ナイチンゲールと約40人の看護婦たちは、病院をきれいに掃除し、壁を白く塗り替え、風通しをよくして環境改善に努めました。この辺の仕事は、看護婦の仕事では無くて大工の仕事ですよね。でも、人手が足りないなどの諸問題があったので、看護婦たちがやりました。さらに、看護婦を屋外の売春婦と区別するために制服と看護帽を採用。また、ロンドンから志願してやってきた料理人を招いて病院食を劇的に改良しました。こうして、従来はノミやシラミがあふれる汚いベッドに横たわり、粗末な食事と不衛生な環境でますます健康を害していった惨状が、清潔に選択された白いシーツがしかれたベッドに横たわり、優秀な料理人が作った温かいスープを食べれるという安らぎの病院に変身し、まさに戦場から天国にやってきたという感慨を抱く兵士で溢れかえるようになりました。そして、ナイチンゲールは夜になると、ランプを持って患者たちを見回り異常が起きていないことを毎晩確かめていました。そんなナイチンゲールについたあだ名が「クリミアの天使」です。」
名もなきOL
「大砲と銃弾の恐怖にさらされて、負傷した兵士たちが、そんなふうに看護してもらったら、「天使」だと思っても不思議じゃないですよね。ナイチンゲールさんはやっぱり凄い人だったんだ!」
big5
「ナイチンゲールの活動がロンドン・タイムズでほじられるようになると、ヴィクトリア女王は深く感動してナイチンゲールを賞賛。一躍有名人となりました。その後、1856年にパリ条約が締結されて戦争が終わり、最後に回復した兵士が退院した後、ナイチンゲールもイギリスに帰国しました。ナイチンゲールの偉業に対し、ロンドン市民らは英雄の凱旋のようなお祭りモードでナイチンゲールを迎えようとしましたが、彼女は偽名を使って船に乗り、密かに帰国したそうです。」
名もなきOL
「慎ましい人だったんでしょうね。獲得した名声を使って成り上がろう、みたいな野心は無かったんでしょうね。」
big5
「ナイチンゲールが凄かったのは、クリミア戦争での活躍だけではありません。帰国後、クリミア戦争中に集められた募金を使って、ナイチンゲール看護婦学校が建設されました。この学校は、今でもロンドン大学を構成するカレッジの一つになっています。ここで、厳しい選考試験を通った優秀な若い女性を教育・指導したことで、専門職としての「看護婦」という職業が生まれました。後進の育成にも尽力しました。また、ナイチンゲールの活動によって、看護という分野が広い意味での医学として確立され、これが現代医療の看護学に繋がっていくわけですね。もし、ナイチンゲールがいなかったら・・・・」
名もなきOL
「病院はあっても、看護婦さんはいなかった、かもしれませんね。」


パリ条約とその後

big5
「さて、約1年に渡ったセバストポリ攻防戦は、連合軍が制した後、両陣営は講和の交渉に入りました。講和が行われたのは、フランスのパリだったので、講和条約はパリ条約です。パリは講和条約の場になることが多いですね。OLさん、これまでに登場したパリで講和された戦争って覚えていますか?」
名もなきOL
「え〜っと、アメリカ独立戦争の講和条約はパリでしたよね。」
big5
「その通りです。あとは、七年戦争の講和条約も、パリ条約です。有名なものだけでもこの3つがあり、あまり有名でないものも含めると、かなりの数の条約がパリで結ばれています。歴史を勉強する人にとっては、困りごとの一つですね。「パリで結ばれる条約が多すぎる。」」
名もなきOL
「クリミア戦争のパリ条約の内容は、どんなものなんですか?」
big5
「主なポイントは以下の2つですね。

@外国軍艦の、黒海と地中海を繋ぐボスポラス海峡・ダーダネルス海峡の両海峡の通過禁止。
」 Aオスマン帝国は開戦前の領土を保全。

特に重要なのは@です。これにより、ロシアの黒海艦隊は自由に地中海へ出ることができなくなり、活動範囲は黒海だけに限られることになりました。これは、イギリス・フランスの意向が反映された結果ですね。」
名もなきOL
「結局、戦争前の状態を維持する、という結果だったんですね。」
big5
「はい、ロシアの野望は挫かれたわけです。クリミア戦争の敗因は、ロシアの近代化の遅れにある、と考えたアレクサンドル2世は、ロシアの近代化を進めるための改革に取り組むことになりました。その代表例が、5年後の1861年の農奴解放令ですね。
一方、フランスは戦争に事実上勝利した、ということでナポレオン3世の威信が高くなりました。そして太平天国の乱で苦しんでいる清に目を付けて、イギリスらと共にパリ条約と同年の1856年にアロー戦争に参加しています。
というわけで、次のテーマは太平天国の乱とアロー戦争です。」

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参考文献・Web site