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自由と革命の時代

七月革命と二月革命 ウィーン体制の崩壊

あらすじ

big5
「タレーランが提唱し、メッテルニヒが主導した「ウィーン体制」。フランス革命以前の状態を正とする保守的な枠組みは、各地で頻発する自由主義運動に揺らぎ始めました。さらに、ギリシア独立、ラテンアメリカ諸国の独立など、ヨーロッパ周辺で旧秩序を破壊する独立戦争と革命が続くと、その影響はヨーロッパ諸国にも及び始めます。1830年にフランスで七月革命が発生すると、ウィーン体制は大きく揺らぎました。その後も各地の自由主義運動はまったく衰えを見せず、ついに1848年にフランスでニ月革命が勃発してフランスは再び共和政国家(第二共和政)になったんです。」
名もなきOL
「やっぱり、フランスが革命の先陣を切っていったんですね。さすが、革命発祥の地ですね。」
big5
「ナポレオンは敗退しましたが、フランスでは革命の息吹は消えなかったわけですね。二月革命でフランスが共和政になったことにより、ウィーン体制は終わりを告げて新たな時代を迎えるわけですね。
ウィーン体制の後半は、七月革命とその影響、二月革命とその影響、の2つに分けて考えると理解しやすいと思います。それでは、いつもどおり年表から見ていきましょう。」

自由主義・民族主義運動 ウィーン体制維持イベント
1830年 フランスで七月革命 勃発
ベルギーがオランダから独立
ポーランドで11月蜂起
1831年 イタリア反乱(中部イタリア反乱)
マッツィーニが「青年イタリア」を結成
ロシアがポーランド反乱を鎮圧
オーストリアがイタリア反乱を鎮圧
1848年 フランスで二月革命 勃発
オーストリアでウィーン三月革命 勃発
プロイセンでベルリン三月革命 勃発 フランクフルト国民議会招集
ミラノ蜂起 サルデーニャがオーストリアに宣戦布告
ベーメン独立運動
ハンガリー民族運動
オーストリアがベーメン独立運動を武力で鎮圧
1849年 ローマ共和国成立 オーストリア・ロシア連合軍がハンガリー民族運動を武力で鎮圧
オーストリアがサルデーニャとミラノを破る
フランスがローマ共和国を破る


七月革命とその影響

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「さて、ウィーン体制を大きく揺るがす事件となったのが、1830年7月にフランスで起こった七月革命(July Revolution)です。一言でいうと、専制的なブルボン家の王・シャルル10世(73歳)が追放されて、ブルジョワジーの支持を得たオルレアン家のルイ・フィリップ(57歳になる年)がフランス王に即位した、という事件です。7月に発生したので「七月革命」となっていますが、個人的にはもっと別の名前にしてほしかったですね。安直すぎると思うので。七月革命は、事件そのものよりも絵の方が有名ですね。この絵です。」

Eugene Delacroix - La liberte guidant le peuple
民衆を導く自由の女神  画:ドラクロワ  作成:1830年10月〜12月

名もなきOL
「あ、この絵見たことあります!赤・白・青のフランス国旗を掲げて、いかにも革命っぽい絵ですよね。女神が胸出してるところが、個人的に残念なんですが・・。でも、なんで七月革命が起きたんですか?」
big5
「シャルル10世が、フランスを革命前の絶対王政に戻すべく、自由主義を弾圧するために実施した様々な反動的な政策に、パリ市民の怒りが爆発したから、ですね。もう少し詳しく説明すると、こんな経緯になります。
ウィーン議定書により、フランスはルイ16世の弟であるルイ18世がフランス王に即位しました。ルイ18世は、所有権の不可侵や法の下の平等など、フランス革命がもたらした新しい価値観を部分的に継承し、議会と制限選挙も残すなどの「立憲王政」で政治を行いました。しかし、1824年にルイ18世が69歳で亡くなると、後継者となったのはルイ18世の弟であったシャルル10世(この年67歳になる年)です。シャルル10世はルイ18世とは異なり、フランスを絶対王政に戻すような反動政策を取りました。例えば、フランス革命で亡命した貴族らに巨額の年金を支払ったり自由主義的な本の出版を禁止するなどです。」

Charles X of France 1
シャルル10世肖像画  画:ヘンリ―・ボーン  作成:1829年

名もなきOL
「ウィーン体制に対する反発が各国で発生してるのに、時代に逆行した政策を進めてしまったんですね。」
big5
「シャルル10世は、1830年、七月革命が起きる前に地中海を挟んで南のアルジェリアに侵攻して占領しました。戦争で「フランスの敵」を作ることで、国民の批判をそらそうとしたわけですね。アルジェリアは、第二次大戦後まで約100年間、フランス領として支配されることになります。」
名もなきOL
「そういえば、カミュが著した『ペスト』は、フランス領アルジェリアの港町・オランが舞台になってましたね。なるほど、その舞台設定の由来はシャルル10世の侵攻にあるわけですね。」
big5
「しかし、アルジェリア征服はフランス国民を満足させることはできませんでした。1830年7月27日、パリで発行禁止処分を受けた新聞の印刷所で暴動が始まったことが直接の引き金となって、市民らが武装蜂起したんです。それから3日間、パリで激しい市街戦が展開され、市民らがパリを占拠。この3日間のパリ市街戦を『栄光の3日間』と呼んだりしています。シャルル10世はイギリスに亡命して、代わりにブルボン家の親戚にあたるオルレアン家のルイ・フィリップがフランス王に即位しました。」
名もなきOL
「七月革命って、革命といっても王様が交代しただけで収まったんですね。」
big5
「うーん、フランス革命ほど急進的にはならなかった、という意味では合ってますが、絶対王政に戻りかけたフランスを立憲王政に戻した、という点では重要ですね。ルイ・フィリップは銀行家などの富豪から支持を得て、彼らの商売を助けるような政治を行ったので「株屋の王」というあだ名をつけられています。これは悪い意味でのあだ名なのですが、その一方で資本家を優遇する政策により、フランスはイギリスに比べると遅れながらも産業革命が始まることになりました。ちなみに、選挙も継続して行われたのですが、その内容は一定額以上の税金を納めている富豪に限られており、全国民の1%くらいしか選挙権を持っていない制限選挙でした。」
名もなきOL
「富豪たちだけで選挙を行うことで、自分たちに有利な政治が行われるように操作していた、というわけですね。選挙権って、やっぱり大事なんだな〜」
big5
「さて、大国であるフランスで革命が起き、しかもそれが成功したというニュースは、ヨーロッパ世界に大きな波紋を投げかけました。まず、七月革命の直後、1830年のうちにオランダ南部がベルギーとして独立します。これは、まさに七月革命の影響でした。七月革命が起きた翌月の8月、ブリュッセルの劇場で、ナポリのスペインからの独立をテーマにしたオペラが上演された後、それを見ていた観客らが街頭に立って独立を謳いはじめたことがきっかけになって、オランダ南部に独立運動が広まったので音楽革命と呼ばれることもあります。」
名もなきOL
「音楽革命っていっても、音楽自体が劇的に変わったわけではないんですね。でも、なんでベルギーは独立したんですか?」
big5
元々、ベルギーはスペイン領だったんですよ。1581年にオランダが独立宣言を出した時も、ベルギーはスペイン領として残っていました。理由はいろいろありますが、大きな理由の一つは宗教の違いですね。オランダはプロテスタントが多いのですが、ベルギーはカトリックの方が多かったんです。
それで、スペイン継承戦争の講和条約である1714年のラシュタット条約により、ルイ16世の孫であるフィリップがスペイン王に即位する引き換えとして、オーストリアがベルギーをスペインから獲得しました。それから約100年、オーストリア領になっていましたが、フランス革命とナポレオンによってフランス領になります。そして、ウィーン議定書ではオランダ領となっていたんです。」
名もなきOL
「革命前の状態、という正統主義の例外の扱いを受けていたんですね。革命前に戻すなら、ベルギーはオーストリア領になるべきですもんね。」
big5
「そうなんですよ。正統主義は基本原則ではありますが、各国の思惑が入り混じって例外も多いです。ベルギーの帰属はその一例ですね。
というわけで、七月革命に触発されて、ベルギーはオランダから独立することになりました。これで、ウィーン体制の一角は崩れ始めたんです。
そして、七月革命の影響はベルギー独立だけでは収まりませんでした。ベルギーの次は、ロシア支配下にあるポーランドで、1830年11月に大規模な武装蜂起が発生したんです。この事件も、月に由来して11月蜂起と呼ばれています。この蜂起は一時的に成功し、ポーランド独立宣言も出されたのですが、1831年に入るとロシアが本格的な軍隊を投入して武力で鎮圧。ポーランドの反乱は失敗に終わりました。ポーランドが独立するのは、第一次大戦後を待たねばなりません。」
名もなきOL
「ポーランドは苦難の連続の歴史なんですね。」
big5
「七月革命の影響は、まだあります。次はイタリアです。1831年2月、モデナ、ボローニャ、パルマの中部イタリアの3国家でオーストリア支配からの独立を掲げた反乱が勃発しました。この反乱は、フランス革命にも参加していた革命家・ブオナロッティ(この時70歳)が指導してカルボナリなどの秘密結社が中心になって発生したのですが、これもオーストリア軍によって鎮圧されました。」
名もなきOL
「カルボナリの反乱に続いて、これも失敗してしまったんですね。」
big5
「確かに中部イタリア反乱は失敗に終わりましたが、これはイタリア独立運動の大きな転換点になりました。それは、マッツィーニ(この年26歳)による「青年イタリア」の結成です。」
名もなきOL
「26歳って若いですね。だから名前も「青年イタリア」なんですね。」
big5
「マッツィーニは、カルボナリのような秘密結社の活動では、イタリアの独立を達成することはできない、と考えて1831年12月に「青年イタリア」を組織。青年イタリアは、秘密結社ではなく公然とした政党でした。理念として「独立・統一・自由平等」を明確に掲げ、秘密結社の活動よりももっと多くの人々を巻き込んだ大規模なものにしよう、と考えたわけです。」

Giuseppemazzini
マッツィーニの写真  作者:不明  作成年代:1870年代

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「青年イタリアを率いるマッツィーニは、武装蜂起とゲリラ戦術でイタリアの統一と独立を成し遂げようと努力することになるのですが、その話は別の機会に譲りましょう。次は、いよいよウィーン体制の崩壊です。」


二月革命とウィーン体制崩壊

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「さて、七月革命でひとしきりヨーロッパが揺れ動いた後、しばらくは比較的平穏な日々が過ぎていました。もちろん、何もなかったわけではないのですが、ウィーン体制を揺るがすような大事件は起きなかったんです。ところが、七月革命の騒動から18年経った1848年、大きな変化が起こります。それが、再びフランスで発生した革命・二月革命です。」
名もなきOL
「二月っていうことは、これも2月に発生したんですか?」
big5
「はい、1848年2月22日と、2が3つ並ぶ日に発生してます。」

Horace Vernet-Barricade rue Soufflot
Painting of Battle at Soufflot barricades at Rue Soufflot on 24 June 1848
画:オラース・ヴェルネ  作成:19世紀

名もなきOL
「なんでまたフランスで革命が起きちゃったんですか?」
big5
「一番大きな要因は、首相であるギゾー(Guizot この年61歳)の反動保守的な政策、ですね。」
名もなきOL
「ギゾーって面白い名前ですね。象さんみたい。ところで、反動保守的な政策って、具体的にどんなことだったんですか?」
big5
「「改革宴会」という、政府を批判する集会を禁止したことが直接のきっかけです。せっかくなので、この時期のフランスで大幅に増えはじめた職業について説明しましょう。新たな職業とは、労働者です。」
名もなきOL
「労働者って、今でいうサラリーマンのことですか?」
big5
「そうですね。ただ、もう少し具体的に言うと工場労働者をイメージするとだいぶ近いと思います。さて、1830年の七月革命で成立したルイ=フィリップによる七月王政は、大富豪などのブルジョワの中でも上層部の市民たちを優遇する政策をとってきました。その結果、フランスでも産業革命が進行します。産業革命が進行するとどうなるか?一番大きな変化は、都市部の工場で働く労働者が増加することです。」
名もなきOL
「そうですね!思い出しました。「ああ野麦峠」の映画で有名な、群馬の富岡製糸場とかですよね。日本では、明治政府が殖産興業政策の中で、生糸の大規模生産が発展しましたが、それを支えたのは農村出身の女工さんたちでしたよね。」
big5
「そのとおりです。それが「労働者」です。産業革命が始まったことにより、フランスで労働者の数がどんどん増えていったわけですね。ところが、この頃の労働者の扱いはヒドイものでした。安月給に長時間労働、そして危険な作業と、現代日本のブラック企業がごく普通に感じるくらいの過酷さだったみたいですね。その一方で、工場を経営する資本家は安い労働力を使って大きな利益を上げてどんどん儲かっていきます。七月王政政府も、そんな大富豪たちだけの選挙によって選ばれた議会によって運営されているわけです。そうなると、労働者たちはどう考えると思います?」
名もなきOL
「自分たちにも選挙権をくれ!と思うわけですね。なるほ。労働者の意見を政治に反映させるためには、労働者も選挙権を持つ必要がある、というわけですね。納得です。」
big5
「そういう流れで、ルイ=ブランなど労働者の待遇改善を求める政治活動を展開したんです。ルイ=ブランは、初期の社会主義者とされることが多いですね。
ところが、当時のフランス首相であったギゾーは、労働者の要求は当然のように認めませんでした。選挙権も与えません。それどころか、政府批判をする政治的な集会も禁止しました。自由な言論の制限ですね。そこで、政府に反対する人々は「宴会」と称して政治集会を開きます。これが「改革宴会」です。宴会に偽装した政治集会ですね。ギゾーは改革宴会も禁止したので、ついに労働者らの怒りが爆発。武力蜂起に至ったわけです。」
名もなきOL
「なるほど。二月革命は、労働者の意見を無視したことと、言論統制がきっかけになったわけですね。」
big5
「さて、二月革命で国王のルイ=フィリップも首相のギゾーも亡命し、パリには臨時政府ができました。これがフランス革命以来、2番目に成立した「フランス共和国」だったので第二共和政と呼ばれています。臨時政府の閣僚は11名だったのですが、その内訳を見ると7名はブルジョワ共和派、2名が急進共和派、そして残りの2名が労働者代表であるルイ=ブランともう一人、という顔ぶれでした。数で見ると、半数以上はブルジョワ共和派なんですね。臨時政府は、ルイ=ブランが中心となって労働者対策である国立作業場を設置しました。」
名もなきOL
「国立作業場・・・というと、国営の工場みたいなものですか?」
big5
「だいたいそんなイメージですね。ただ、実際には土木工事をしていました。ただ、国立作業場の労働者として登録されると、仕事がなくても1.5フランの賃金を支払うなど、行き過ぎた内容だったために、たちまち経営が悪化。さらに、4月に革命派が求めていた男子普通選挙が行われると、意外な結果になりました。当初は、選挙権の拡大により、多くの労働者がルイ=ブランら社会主義者に投票すると思われたのですが、結果は900議席中約500席がブルジョワ共和派、300議席が王党派、社会主義者は100議席のみで、ルイ=ブランは落選、というものだったんです。この結果を見た臨時政府は、「労働者を保護する政策は多数派に支持されない」と考えて、赤字を垂れ流す国立作業場を閉鎖します。」
名もなきOL
「そんなことしたら、労働者たちが怒ってまた暴動になるんじゃ・・・」
big5
「はい、なりました。6月に再び暴動発生です。「六月暴動」ですね。ですが、労働者が中心になった六月暴動は武力で鎮圧されてしまいました。こうして、第二共和政は落ち着きを取り戻し、12月に大統領選挙を実施。この選挙で大統領に就任したのがルイ=ナポレオンです。」
名もなきOL
「え?ナポレオン?もしかして親戚?」
big5
「はい、親戚です。ナポレオンの甥ですね。第二共和政フランスの大統領となったルイ=ナポレオンは、やがてクーデタを起こして皇帝に即位しナポレオン3世となるのですが、その話はまた別の機会に。
こうして、フランスは二月革命によって第二共和政となりました。これは、フランス革命以前の秩序を正とするウィーン体制を根本から揺るがす大きな変化だったわけですね。」
名もなきOL
「この流れからすると、二月革命の影響はフランスだけに留まらなかった、のですね?」
big5
「はい、そのとおりです。まずはメッテルニヒのオーストリアから見ていきましょうか。フランス二月革命の影響は、メッテルニヒ(この年75歳)のお膝元であるオーストリアのウィーンに飛び火しました。1848年3月13日、ウィーンの民衆が暴動を起こして宮殿を包囲。メッテルニヒは辞任し、時の皇帝・フェルディナント1世は憲法制定や自由主義の実現を約束させられる、という事態になりました。これはウィーン三月革命と呼ばれる事件です。」
名もなきOL
「メッテルニヒはどうなったんですか?」
big5
「洗濯籠に隠れて民衆が取り込む宮殿を脱出し、イギリスに亡命しました。」
名もなきOL
「メッテルニヒはこの時もう75歳のお爺ちゃんだったんですね。まぁ、それも仕方ないかな。」
big5
「ただ、ウィーン三月革命も一時的なもので終わりました。フランスで六月暴動が鎮圧されたことがきっかけとなり、政府は自由主義者らを弾圧。オーストリアはフランスと異なり、絶対主義の帝国として存続することになりました。」
名もなきOL
「他にも影響が出た国はあるんですか?」
big5
「プロイセンですね。プロイセンでも自由主義者たちの活動が盛んでした。そんな中、ウィーン三月革命でメッテルニヒが逃亡したことが伝わると、時の国王・フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は3月18日に出版の自由や憲法制定を約束します。これはベルリン三月革命と呼ばれる事件です。」
名もなきOL
「1848年って、大事件続出だったんですね。」
big5
「ベルリン三月革命の結果、5月にドイツのフランクフルトで普通選挙に基づいた議会が開催されました。これを「フランクフルト国民議会」と呼んでいます。フランクフルト国民議会では、憲法制定とドイツ国家の統一が議論されたのですが、ドイツ統一について大ドイツ主義小ドイツ主義、どちらを取るかで議論が紛糾します。」
名もなきOL
「大ドイツ主義と小ドイツ主義って、何が違うんですか?」
big5
「大ドイツ主義は、プロイセンやドイツ連邦(旧神聖ローマ帝国諸国)に加え、オーストリアも含めて国家統一すべき、という考え方で、小ドイツ主義はオーストリアを除外してプロイセンとドイツ連邦で国家統一すべき、という考え方です。一見、大ドイツ主義の方がいいのではないか、と思いますよね。ここで問題になるのは、オーストリアの支配領域にはドイツ人だけではなく、ハンガリー人やチェコ人など、複数の民族が含まれていたことです。オーストリアを含めて統一ドイツを作ると、既にオーストリアが支配しているハンガリーなどが除外されてしまうため、オーストリアは大ドイツ主義に反対したんです。」
名もなきOL
「なるほど〜。大きすぎるのも考え物ですね。それで、フランクフルト国民議会は小ドイツ主義を採用したんですね。」
big5
「そうです。ただ、ベルリン三月革命は珍しい幕切れになります。」
名もなきOL
「珍しい幕切れ?」
big5
「フランクフルト国民議会が、プロイセン王を国王とする統一ドイツ国の憲法を作成したのですが、フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は憲法の受け取りを拒否。それどころか、軍隊を送ってフランクフルト国民議会を解散させ、反対する者にも軍隊を送って武力で鎮圧する、という行動に出たんです。こうして、憲法も統一ドイツも否定されて、ベルリン三月革命は幕を閉じたんです。」
名もなきOL
「途中で梯子を外された、っていうかんじですね。プロイセン王が「憲法作っていいよ」って言って始まったのに、完成したら「そんなものいらない」って言われたわけですもんね。」
big5
「まさにそうです。フリードリヒ=ヴィルヘルム4世から見たら、二月革命の勢いに押されて「yes」と言ったものの、時間が経って状況が落ち着いたら本音の「No」で答えた、というところだったんでしょうね。」


・ベーメン民族運動

big5
「さて、次の影響はベーメン(ラテン語名:ボヘミア)です。ベーメンはチェコ人が多く住んでいるところで、当時はオーストリアの支配下に置かれていました。二月革命、ウィーン三月革命でメッテルニヒが失脚したことで、チェコ人にも自治独立の動きが活発になったんです。1848年3月、プラハにチェコ市民が集結すると、封建的負担の廃止やチェコ語とドイツ語の平等使用などを要求し、オーストリアもそれを承認。チェコには仮政府が成立しました。」
名もなきOL
「言語の平等使用、っていう条件が特徴的ですね。」
big5
「ただ、そんなベーメンにはいくつかの問題がありました。特に問題になったのは、ズデーテン地方にはドイツ人が多数住んでいること、です。つまり「ベーメン=チェコ人の土地」という単純な図式ではないんですね。ズデーテン地方が含まれている関係で、ベーメンもドイツ連邦に加盟していたんです。そのため、フランクフルト国民議会にベーメンも呼ばれたのですが、チェコ人の指導者・パラツキー(この年50歳)はこれを拒否。むしろドイツ人に対抗する目的で6月にスラヴ民族会議を開きました。」
名もなきOL
「そっか、民族という分類では、ドイツ人はゲルマン民族、チェコ人はスラヴ民族に属しますからね。」
big5
「スラヴ民族をまとめて、オーストリア支配からの脱却を考えたパラツキーでしたが、残念なことにスラヴ民族会議に参加したのはほとんどがチェコ人。期待していたポーランド人などはごく少数しか参加しなかったんです。これに対し、革命の勢いに押されていたオーストリアが逆襲に転じてプラハを攻撃。スラヴ民族会議は解散させられて、ベーメンの独立運動は鎮圧されました。
こうして、1848年のベーメン独立運動は失敗に終わったわけですが、スラヴ民族会議はその後のパン=スラヴ主義運動の端緒となりました。また、ドイツ人が多く住んでいるズデーテン地方は、第二次世界大戦前にも再登場する地域名ですね。」


・ハンガリー民族運動

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「さて、次の影響はハンガリーですね。」
名もなきOL
「二月革命の影響って、本当に広いんですね。」
big5
「そうですよ。これは、当時のオーストリアが多数の民族で構成されている帝国だった、ということが大きな原因ですね。さて、オーストリア帝国の中でも重要だった地域がハンガリーです。1848年4月、ハンガリー人指導者・コシュート(この年46歳)がハンガリー民族運動を展開したのに対し、オーストリアは立憲君主制の憲法制定や言論・出版の自由を認めてハンガリーに新しい内閣が発足しました。この内閣でコシュートは財務大臣に就任しています。ただ、ハンガリーも大きな問題を抱えていました。」
名もなきOL
「今度はどんな問題ですか?」
big5
当時のハンガリー自体も、多民族で構成されている地域だった、ということです。「ハンガリー=ハンガリー人の国」という単純な図式ではないんですね。ハンガリーで多数派なのは、マジャール人という系統不明の元遊牧民族です。ハンガリー議会や政府を支配しているのもマジャール人でした。少数派として、スラヴ民族のクロアチア人、セルビア人、スロヴァキア人、さらにはラテン系のルーマニア人が含まれており、ハンガリー領自体が多民族で構成される帝国だったわけですね。」
名もなきOL
「うーん、欧州情勢は複雑怪奇。。」
big5
「そんな中、フランスで六月暴動が鎮圧され、ベーメン民族運動もオーストリアに武力で鎮圧されるなど、革命側の状況が不利になると、オーストリアはハンガリーに逆襲を始めます。1848年10月、オーストリアはハンガリーに宣戦布告。オーストリア軍には、マジャール人主導のハンガリーに抵抗するクロアティア人なども多数加わっていました。1849年1月にはハンガリーの中心都市ブダペストが占領されますが、コシュート率いるハンガリーも反撃に転じて5月にはブダペストを奪還。戦いは均衡していました。そこで、オーストリアはロシアに援軍を要請。ロシア軍の参戦によって、ハンガリーは戦力差を覆せず降伏。コシュートはオスマン帝国に逃亡し、ハンガリーの自治獲得は失敗に終わりました。この後ハンガリーは自治権を失い、ドイツ人総督が統治するオーストリア帝国の州の一つとして統治されることになりました。」


・ミラノ蜂起と第一次イタリア独立戦争

big5
「さて、次はイタリアです。イタリア北部の大都市・ミラノでは、オーストリア支配に対する反感がかなり高まっていました。そんな折に二月革命、ウィーン三月革命が勃発したことがきっかけとなり、1848年3月18日にミラノ市民が武装蜂起しました。これは「ミラノ蜂起」と呼ばれています。ミラノを守備していたラデツキー(この年82歳)と120人のオーストリア兵と、ミラノ市民の間で5日間にわたる市街戦が展開された後、3月22日にオーストリア軍をミラノから追い払い、ミラノ共和国として独立を宣言しました。この勝利は「ミラノの5日間」と呼ばれています。」
名もなきOL
「これは反乱どころではなく、革命みたいですね。」
big5
「そうですね、なので「ミラノ革命」と呼ぶこともあります。さて、ミラノ蜂起の成功は、カルボナリの反乱などで醸成されていた「イタリア独立・統一」運動に火をつけました。動いたのは、イタリア北西の国・サルデーニャ王国です。国王のカルロ・アルベルト(この年50歳)は、臣下のカヴール(この年38歳)などに押されて、ミラノを支援するためにオーストリアに宣戦布告。ロンバルディアに進撃してオーストリア軍との戦いが始まりました。ここまでくると、事態はミラノだけの問題ではなく、イタリア北部の独立戦争という様相を帯び始めます。そのため、この一連の戦いを第一次イタリア独立戦争と呼ぶこともあります。」
Carlo Alberto busto
カルロ・アルベルト肖像画  作成:1848年頃

名もなきOL
「1848年のオーストリアって、あちこちで反乱が起きてまさに火の車状態だったんですね。」
big5
「そうですね。しかし、イタリア方面は態勢を立て直したラデツキーにより、巻き返されていきます。ラデツキーはサルデーニャ軍を何度かの戦いで破り、序盤の劣勢を挽回していきました。それに対して、足並みが揃わないのはイタリア側でした。カルロ・アルベルトは保守的な人物だったので、ミラノ共和国のような共和派をあまり信用しなかったんです。これにより、イタリア側は連携がうまく取れず、ラデツキー率いるオーストリア軍に惨敗。年が明けた1849年には、イタリア側の敗北は決定し、ミラノも再びオーストリアの支配下に置かれました。カルロ・アルベルトは責任を取って王位を息子のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(この年29歳)に譲り、自身はポルトガルに亡命して間もなく死去しました。」
名もなきOL
「一致団結するって難しいですね。」


・ローマ共和国の成立と崩壊

big5
「さて、二月革命の最期を締めくくるのは1849年に成立したローマ共和国の話です。ローマでもイタリアの独立と統一を求める運動は強くなっていました。時の教皇・ピウス9世は身の危険を感じてナポリに亡命し、1849年2月9日、ローマ共和国の建国が高らかに宣言されました。ローマ共和国は青年イタリアのマッツィーニ(この年44歳)を指導者として迎え、様々な自由主義的改革を実行していきました。」
名もなきOL
「マッツィーニさん、ついに念願がかなったわけですね。でも、オーストリアは黙っていないでしょうね。」
big5
「ところが、先に動いたのは、オーストリアではなくフランスのルイ・ナポレオンだったんです。第二共和政フランスの大統領となっていたルイ・ナポレオンは、教皇・ピウス9世の復帰を大義名分に掲げてローマに侵攻を開始。フランス vs ローマ共和国の戦いが始まりました。これに対し、イタリア各地で義勇軍を集め、2万5000〜3万の兵を率いてローマ共和国に合流したのがガリバルディ(この年42歳)です。」
Giuseppe Garibaldi portrait2
ガリバルディ  作成:1861年頃

big5
「ローマ共和国は危機に瀕していました。北からはフランス軍、南からはフランスに味方したナポリ王国軍が迫っていたんです。対するローマ共和国は、士気は高いものの兵力も劣り装備や訓練の面も低く、質も量もフランス軍には到底かないませんでした。しかし、ガリバルディ率いる部隊の奮戦により、フランス軍を破って敗走させることに成功します。」
名もなきOL
「ガリバルディさん、凄いですね!」
big5
「ガリバルディは軍事の才能に長けた人物でした。ガリバルディは、敗走したフランス軍を追撃してさらに戦果を挙げることを主張しましたが、マッツィーニは反対。その間に、態勢を立て直したフランス軍が再度攻撃に転じてしまいます。圧倒的な実力差と物量差でついにローマ共和国を占領。マッツィーニとガリバルディはそれぞれ外国に亡命し、ローマ共和国は短い歴史を閉じることになりました。」
名もなきOL
「イタリア統一・独立への道のりは険しいんですね。オーストリアだけでなく、フランスまで介入してきたら、どんなに頑張っても独立は難しいと思います。」
big5
「そうですよね。そこで、サルデーニャ王国のカヴールはフランスと同盟してオーストリアを破り、サルデーニャ王国がイタリアを統一する、という長期計画を立てて戦略を練り始める、という新たな展開を迎えることになるのですが、続きは別ページで扱いましょう。
さて、1848年はヨーロッパで自由主義を求める革命が続発した激動の一年になりました。結果として、大きく変化したのは第二共和政が成立したフランスだけでしたが、多民族国家のオーストリアの問題は表面化しましたし、オーストリア支配下にある民族運動は消えたわけではなく、一時的に武力で抑えつけられただけです。ドイツ・イタリアでは統一国家の機運が高まり、両国の次のテーマは「統一国家」になります。ヨーロッパは新たな時代を迎えるわけですね。」


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