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「
いつもどおり、まずは年表から見ていきましょう。」
| 年月 | 日本のイベント | 世界のイベント |
| 1285年 弘安8年 |
霜月騒動 | |
| 1293年 永仁3年 |
平頼綱の乱 | |
| 1297年 永仁5年 |
永仁の徳政令 | |
| 1324年 正中元年 |
正中の変 | |
| 1331年 元弘元年 |
元弘の変 | |
| 1332年 元弘2年 |
楠木正成、護良親王らが討幕の挙兵 | |
| 1333年 元弘3年 |
足利高氏(尊氏)、新田義貞らが挙兵し、鎌倉幕府と北条一門は滅亡 | |
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「元寇の後間もなく、1284年に第8代執権・北条時宗(この年33歳)が死去すると、幕府の政治は乱れ始めました。時宗の死の翌年の1285年(弘安8年)に霜月騒動と呼ばれる事件が発生しました。
時宗の後継者となったのは、時宗の息子・北条貞時(ほうじょうさだとき 1272-1311年)なのですが、まだ12歳なので、政治は貞時の母の兄である安達泰盛(あだち やすもり 1231-1285年)でした。」
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「しかし、安達泰盛と激しく対立したのが、御内人(みうちびと)の代表格であった平頼綱(たいらのよりつな ??-1293年)です。御内人とは、鎌倉幕府と御恩と奉公の関係で結ばれた御家人ではなく、北条得宗家に仕えている郎党らのことです。通常の郎党と異なり、執権の直々の家来なので、ある意味では御家人よりも権力に近い人たちですね。そんな御内人のボスは内管領(うちかんれい)といいます。
御家人の代表格であった安達泰盛と、御内人を代表する内管領の平頼綱は、政治方針をめぐって激しく対立しました。1285年、平頼綱は安達泰盛が謀反を企んでいる、として突如屋敷を襲撃。泰盛は激しく抵抗しましたが、急な攻撃を防ぎきることはできず、泰盛とその一族はほとんどが自害しました。霜月騒動の範囲は鎌倉だけではありませんでした。日本各地で、泰盛派 or 泰盛派と見られていた御家人らが襲撃されて殺されています。この時殺された御家人の中で有名だった人に、元寇で武功を挙げた少弐景資(しょうに かげすけ 1246-1285年)がいます。」
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「こうして、主だった御家人を排除することに成功した平頼綱は、まだ若い執権・貞時をいいように操り、御内人に都合のいい政治を行うようになりました。ただ、平頼綱はやり過ぎてしまったのか、次第に北条貞時に疎まれるようになってしまい、1293年に、貞時に討たれて死んでいます。ですが、その子孫は再び御内人として権力をふるうようになっています。こうして、鎌倉幕府の体制は、お飾りのようになってきた執権と、その家来の御内人が実権を握る形に変化しました。これは、かつての将軍と御家人の御恩と奉公による体制が崩れ、北条一門とその取り巻きが政権を握り、御家人を支配するような体制に変質していったことになります。そして、この変質によって御家人達の幕府に対する忠誠心は揺らぎ始め、鎌倉幕府は崩壊に至ります。」
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「鎌倉幕府崩壊の話の前に、朝廷側の問題についても触れておく必要があります。両統迭立(りょうとうてつりつ)です。両統迭立とは、持明院統(じみょういんとう)と呼ばれる、後深草天皇から始まる子孫の系統と、大覚寺統(だいかくじとう)と呼ばれる亀山天皇子孫の系統の皇子が、幕府と相談しながら交代で即位する、という継承運用のことです。
この問題は、後嵯峨天皇(1220-1272年)の不明瞭な意図から始まりました。後嵯峨天皇は退位するにあたり、息子の後深草天皇に位を譲って退位し院政を行っていたのですが、後深草天皇の跡継ぎには、後深草天皇の子ではなく、自分の次男の亀山天皇(1249-1305年)を即位させました。さらに、亀山天皇の後継者には亀山天皇の子の後宇多天皇(1267-1324年)を即位させようとしていたと伝えられています。これに納得できない後深草天皇は反対運動を展開し、さらに妃たちとその一族の権力争いも絡んで揉め事となったため、結局幕府が介入して「交代で皇位につくように」と指導することで、一応の解決をみた、という経緯です。
このように、天皇の系譜が持明院統と大覚寺統という2つの系譜に分かれて争っていたことが、後の南北朝時代の一因になります。」
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「朝廷は持明院統と大覚寺統が交互に即位。そして幕府は執権と内管領が私欲にまみれた政治を行うようになり、世の中は乱れ始めていました。そんな中、大覚寺統から天皇に即位したのが後醍醐天皇(1288-1339年)です。」
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「後醍醐天皇は、これまでの天皇とはまったく異なるタイプ天皇でした。まず、当然のように行われていた院政を廃止し、天皇親政体制を復活させました。人材登用を積極的に行い、天皇親政体制を強化しました。そして、討幕を計画します。
この時、幕府の執権は北条高時(ほうじょう たかとき 1304-1333年)、内管領は長崎高資(ながさき たかすけ ??-1333年)です。」
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「古典として有名な『太平記』などでは、この頃の幕府政治は極めて乱れていた、と書いています。長崎高資は賄賂をもらって私腹を肥やし、北条高時は闘犬に明け暮れていた、という具合です。後醍醐天皇の討幕計画は1324年(正中元年)に漏れてしまい、関わった公家らが幕府に捕えられて失敗に終わりましたが(正中の変)、後醍醐天皇は討幕を諦めませんでした。1331年(元弘元年)に再び討幕計画が露見し、後醍醐天皇は大和の笠置山(かさぎやま)に逃れましたが、追討に来た幕府軍に捕えられ、隠岐の島に流されました。
幕府は後醍醐天皇を退位させ、持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう 在位:1331-33年)を即位させることで、一連の討幕計画に終止符を打った、かのように見えたのですが、これで終わりではありませんでした。1332年(元弘2年)、後醍醐天皇の子息である護良親王(もりよししんのう(もりながしんのう とも)1308-35年)や河内の豪族楠木正成(くすのき まさしげ 1294?-1336年)、播磨の赤松氏など、幕府に不満を持つ武士が次々と反乱を起こしました。幕府はこれらの反乱を鎮圧するために、足利高氏(あしかが たかうじ 1305-1358年)らを派遣したのですが、1333年(元弘3年)なんと足利高氏は幕府を裏切って反乱軍に合流。六波羅探題を攻め落としました。さらに、上野の御家人である新田義貞(にった よしさだ 1301-1338年)が鎌倉に攻め込みました。北条一族らは抗戦するものの敗北。一族はほぼ自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。」
年代暗記ゴロ合わせ
1333年 鎌倉幕府滅亡
一味散々(1333)鎌倉幕府
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「こうして、史上初の武士による幕府政権となった鎌倉幕府は、約150年の歴史に終止符を打つことになりました。隠岐の島から解放された後醍醐天皇は京都に戻り、天皇が自ら政治を行う建武の新政を始めることになるのですが・・・
この続きは次回で見ていきましょう。今回も最後までご覧いただきありがとうございました。」
2018年度(平成30年度) 日本史B
問題13 次の空欄に当てはまる語句を選べ。
「1293年に大地震にみまわれた鎌倉では、余震の続くなかで得宗家の北条貞時が内管領の
(ア) を殺害している。」
選択肢 @三浦泰村 A平頼綱
解答 A平頼綱
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