big5
「ナポレオンが失脚した後、ヨーロッパはウィーン体制の下で「革命前の秩序回復」を目指しましたが、七月革命や二月革命など、自由と革命を求める時流に逆らうことはできず、ウィーン体制は発足後、約30年で崩壊した、というのがこれまでの話でしたね。そんな中、ヨーロッパの島国イギリスでは、大陸諸国とはやや異なる、独自の道を歩んでいます。それは、やがて大英帝国と呼ばれる、世界の覇者への道でした。」
名もなきOL
「今、世界の共通語とされているのが英語になってる所以ですね。あぁ、英語苦手。やだな。。」
big5
「この時代のイギリスの特徴の一つは、まず自由主義の発達です。フランスなどの大陸国家が革命前の旧体制の復活を目論んだのに対し、イギリスではそれに逆行するかのように、自由主義的改革が発展しました。」
名もなきOL
「そういえば、ラテンアメリカ諸国の独立ラッシュの時も、独立を鎮圧しようとした神聖同盟に対して、イギリスはカニングさんがラテンアメリカへの不介入を宣言してましたね。イギリスだけ、価値観が他のヨーロッパ諸国と違うんでしょうね。」
big5
「はい、当時のイギリスの国策を反映しています。産業革命により、いち早く工業化していたイギリスは、経済面でも新しい政策を必要としていました。そのため、穀物法や航海法といった、新時代にそぐわない古い法律を廃止し、自由貿易主義を推進しています。国内でも、非国教徒向けの政策や労働者保護政策も進めて、まさに新しい社会への礎を築いていったんです。これらの諸改革により、19世紀後半のイギリスは、ヴィクトリア女王のもとで繁栄を謳歌する時代へと繋がっていくわけですね。」
名もなきOL
「まさに、世界のリーダーみたいなかんじだったんですね、この頃のイギリスは。」
big5
「その一方で、忘れてはならないのがアヘン戦争です。アヘン戦争のきっかけは、自由貿易主義政策の延長線上で起こっています。しかし、重要なのはアヘン戦争が、その後の欧米列強による清(当時の中国を支配していた王朝)の侵略のきっかけとなり、さらには日本で幕末動乱のきっかけとなったことです。
今回は、いち早く自由主義政策を進めていったイギリスについて、分野ごとに見ていこうと思います。」
年 | イギリスのイベント | 世界のイベント |
1828年 | 審査法 廃止 | ウィーン議定書調印 |
1829年 | カトリック教徒解放法 成立 | ギリシア独立戦争 終結 |
1830年 | 七月革命 ベルギー独立 |
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1831年 | マッツィーニが「青年イタリア」を結成 | |
1832年 | 第一次選挙法改正 | |
1833年 | 奴隷制度廃止 東インド会社の商業活動停止 一般工場法 成立 |
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1837年 | チャーティスト運動始まる ヴィクトリア女王 即位 |
|
1839年 | 反穀物法同盟 結成 | 林則徐が欽差大臣となり、アヘン取り締まりを開始 |
1840年 | アヘン戦争 開戦 | |
1842年 | 南京条約 締結 アヘン戦争 終結 | |
1846年 | 穀物法 廃止 | |
1848年 | フランスで二月革命 マルクスが「共産党宣言」を発表 |
|
1849年 | 航海法 廃止 | ローマ共和国成立 オーストリア・ロシア連合軍がハンガリー民族運動を武力で鎮圧 オーストリアがサルデーニャとミラノを破る フランスがローマ共和国を破る |
big5
「まず、宗教面での自由主義的改革を見ていきましょう。時系列的にも、これが先に行われていますし、話もわかりやすいので。」
名もなきOL
「そういえば、イギリスの宗教って、キリスト教でも独特のイギリス国教なんですよね。」
big5
「はい、そのとおりです。この頃からおよそ250年前、時の国王ヘンリ8世が王妃と離婚するがために、教皇から離反して自分自身をトップに据えた宗派を作り出したことで始まりました。その後、イギリス国教徒を優遇し、他の宗教の信者には不利益を与えてきました。そのひとつが、1673年に制定された審査法です。これは、国教徒でなければ公職には就けない、という法律です。国教徒でなければ、役人などにはなれず、政治に直接関与するような高位の仕事もできなかったわけですね。19世紀に入り、自由主義の風潮が高まる中で、審査法が問題視されるようになり、1828年春、議会で廃止が決定されました。」
名もなきOL
「宗教上の問題は、これで改善されたんですね。よかったよかった。」
big5
「いえ、これで終わりではありません。よく間違いやすいのですが、審査法が廃止された後も、カトリック教徒だけは公職には就けなかったんです。1828年の夏、アイルランドのクレア州の補欠選挙で、カトリック協会の指導者であったオコンネルが当選したのですが、カトリック教徒であるがために政府はオコンネルに議員資格を与えませんでした。これに対し、アイルランドの多数派であるカトリック教徒らが激高し、暴動に発展する恐れも生じたため、年が明けた1829年、カトリック教徒解放法を可決しました。これで、カトリック教徒であっても、議員のような公職就任が可能となり、先ほどのオコンネルも議員と認められました。ちなみに、これらが決定された時の首相は、ナポレオン戦争の英雄・ウェリントン(Wellington)です。」
名もなきOL
「イギリスって、宗教面では本当に独特ですよね。でも、審査法の廃止とカトリック教徒解放法で、宗教面では自由が認められたんですね。」
big5
「はい。ただ、実質的なカトリック教徒に対する差別や偏見は、法律のようにある日から消えてなくなることはありません。特にアイルランドはカトリック教徒が多いので、カトリックの問題はアイルランドの独立問題として継続されるんです。アイルランド問題は、現代でもイギリスの社会不安の一つとして残っていますね。」
名もなきOL
「宗教って、ほんと大変だな。。わたし、日本人でよかった、ってこういう時は思います。」
big5
「次に出てくるのが、このページの目玉の一つである第一次選挙法改正です。議会政治の歴史が長いイギリスで、選挙法の改正がこの時期に行われたことは、とても注目に値しますし、これが当時のイギリスの世相をよく反映している、と考えられているんです。なので、重要度が高いです。」
名もなきOL
「第一次選挙法改正が重要だ、というのはわかったのですが、どういう点を変えたんですか?」
big5
「ポイントは以下の2つです。
@腐敗選挙区を廃止
A産業資本家(ブルジョワジー)に選挙権を与えた
まず、@について。イギリスの下院の選挙は小選挙区制で行われていたのですが、選挙区の設定や議員数の配分は、なんと16世紀のまま変化していなかった、つまり約300年前の選挙区と議員数で選挙を行っていた、んですね。さすがに時代の流れについてこれません。人口が激減して選挙権を持つ人が数十人しかいないのに、けっこうな数の議員を選出できる選挙区があったり、その一方で人口が多いにも関わらずわずかな数の議員しか選ばれない、という矛盾も生じていました。このような選挙区は腐敗選挙区と呼ばれ、第一次選挙法改正で廃止され、代わりにマンチェスターやリヴァプールなどの工業都市に議席が追加されました。」
名もなきOL
「これは妥当な改正ですよね。」
big5
「次にAについて。産業革命の進行により、産業資本家(ブルジョワジー)という階級が都市部に増えてきました。会社経営者や株主など、貴族ではないものの、一山当てて財産を築いた人たちですね。彼らの経済力や発言力は無視できないものになっていたため、一定以上の財産を持っている人々に選挙権が付与されたんです。これにより、全イギリス国民に対する有権者の割合は3%から4.5%に上がったそうです。」
名もなきOL
「増えたといっても、全体から見ると微々たる割合ですよね。この内容だと、多くの農民や労働者たちは納得できなかったんじゃないでしょうか?」
big5
「そうですよ、納得できませんよね。なので、1838年、アイルランドの下院議員オコーナー(O'Connr 当時44歳)らが主導する、都市の労働者たちへの選挙権付与を求める運動が、1837年から活発になりました。この運動をチャーティスト運動と言います。これも、受験によく出る歴史用語ですね。」
名もなきOL
「チャーティスト運動、労働者に選挙権くて、と。メモメモ・・・。ちなみに、なんで「チャーティスト運動」っていう名前なんですか?」
big5
「オコンナーらは、選挙権の付与を「人民憲章(People's Charter)」という書類に盛り込んで請願運動を行ったので「Chartの人々→Chartist(チャーティスト)」、となったようですね。」
名もなきOL
「それで、チャーティスト運動の結果はどうなったんでしょうか?」
big5
「失敗に終わりました。何回か、チャーティスト運動が盛り上がりを見せることがあったのですが、都市の労働者らに選挙権が与えらえるのは、もうすこし後の時代になってからです。今回の選挙法改正が「第一次」なので、第二次、第三次も今後登場します。
第一次選挙法改正について、もう一点だけ。第一次選挙法改正を実行したのは、ホイッグ党のグレイ(Grey)首相でした。1838年時点で74歳、とお爺ちゃんでした。」
big5
「余談になりますが、OLさんは紅茶の銘柄でアールグレイって聞いたことありません?」
名もなきOL
「もちろん。飲んだこともありますよ。私は、スキでも嫌いでもないですが、アールグレイ好きな友達がいます。」
big5
「アールグレイって、実はEarl Greyと書いて「グレイ伯爵」、という意味なんです。そう、第一次選挙法改正で名を残したグレイ首相のことなんですよ。当時、イギリスでは紅茶が一般家庭でもたしなまれるようになっていました。それに伴い、どうしたらより紅茶をおいしく飲めるか、ということも開発されるようになって、その結果生まれたブレンドの一つが「アールグレイ」なんだそうです。実際に、グレイが「アールグレイ」を開発したあるいは開発に関与したのか、は不明のようですが、たまに出てくる「へ〜」な話です。」
big5
「続いて社会保障の面での自由化を見ていきましょう。まず、最初に採り上げたいのは奴隷制度廃止です。高校世界史の授業ではあまり取り上げられないことも多いようなので、ここで概要だけでもお伝えしたいと思います。
1833年は様々な自由主義的改革が行われた年で、そのうちの一つが奴隷制度廃止です。これにより、イギリス本国とその植民地で、奴隷を使うことが全面的に禁止されました。」
名もなきOL
「え!?凄いじゃないですか!アメリカでは、南北戦争の時にようやく奴隷解放宣言が出されたのに、イギリスはそれよりも先に奴隷制度廃止を実現させていたんですね。」
big5
「そうですね。これについては、イギリス領だけで有効な法律なので、アメリカをはじめその他の国では引き続き奴隷が使用されていました。ただ、そうだとしてもイギリスのような大国が、奴隷制度廃止を決定した意味は大きい、と思います。そして、この奴隷制度廃止法案が可決の知らせを、ひときわ特別な思いで喜んだのがウィルバーフォース(1833年時点で74歳)です。」
名もなきOL
「このお爺さんが、奴隷制度廃止に関与していたんですか?」
big5
「関与していたどころか、奴隷制度廃止はウィルバーフォースの生涯をかけた仕事だったんですよ。
若い頃、ウィルバーフォースは、聖職者になるか、政治家になるか迷っていたのですが、ジョン・ニュートンという牧師に出会ったことで政治家になることを決意しました。牧師のジョン・ニュートンは、若い頃黒人奴隷貿易船の船長を務めていたのですが、非人道的な商売に心を痛め、自分がやってしまった過去の過ちを悔いて、船長をやめて牧師の道を選んだ、という過去がありました。ジョン・ニュートンの話を聞いたウィルバーフォースは、奴隷貿易の実態を調べ、その人道的な立場から奴隷貿易の廃止に取り組み始めました。」
名もなきOL
「すごい、偉い人じゃないですか。ウィルバーフォースさんには頑張ってほしいです!」
big5
「黒人奴隷貿易は、一昔前のイギリスにとっては重要な商売でした。大西洋三角貿易の一角をなす奴隷貿易は、国家の重要産業であり、非人道的だから、という理由だけで廃止できるほど簡単ではありませんでした。ですが、産業革命によって成長した産業資本家らは、奴隷を労働力とする産業について「自由な経済」の観点から批判したりするなど、人道的な観点以外からも奴隷貿易に反対する声も増えてきました。そんな時代背景の変化も受けながら、ウィルバーフォースは仲間達と共にあの手この手で活躍し、奴隷貿易賛成派の議員たを上手く出し抜いて、1807年には奴隷貿易廃止法案を可決させました。ウィルバーフォース、48歳の年のことでした。」
名もなきOL
「困難な仕事を成し遂げたんですね。すごいな、ウィルバーフォースさん。」
big5
「すごいですよ、ここまで長期間にわたって自分の信念を貫いて、しかもそれを実現させる、というのは並大抵の政治家にできることではありません。しかし、1807年に廃止できたのは「奴隷貿易」だけです。奴隷制度自体は残っていました。その後も、ウィルバーフォースは奴隷制度廃止に向けた運動を地道に続けていました。1824年(この年65歳)、病気にかかったことを機に議員を辞職しましたが、奴隷制度廃止に向けての活動は仲間達を支援しながら続けました。1832年に第一次選挙法改正が行われ、産業資本家に選挙権が付与されると、彼らの声が強く政治に反映されるようになりました。その結果、選挙では奴隷制維持を指示する議員が数多く落選し、代わって産業資本家が支持する議員が議席を増やします。これにより、自由貿易の推進と同時に人道的な観点から、奴隷制度廃止法案も可決された、というのが大筋の流れです。
この知らせを聞いた時、ウィルバーフォースはインフルエンザで危篤状態だったのでしたがたいへん喜び、それから3日後の1833年7月29日の早朝にこの世を去りました。ウィルバーフォースの遺体は、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。その像がこちらです。」
big5
「ウィルバーフォースと奴隷制度廃止の話はとても興味深いので、私も時間を見つけて詳細篇を作りたい、と思っています。ちなみに、ウィルバーフォースと奴隷制廃止に関しては映画もあるので、それも紹介しておきますね。」
映画『アメイジング・グレイス』 制作年代:2006年(日本公開は2011年3月)
名もなきOL
「ちょっとウィルバーフォースさん、カッコよすぎじゃないですか。私、ファンになっちゃいそう。」
big5
「映画もぜひぜひ見てみてください。これは一見の価値があります。
さて、本編の「イギリス自由主義的改革」に戻りましょう。先ほども述べたように、第一次選挙法改正の影響で、イギリス議会では産業資本家が望む政策が立て続けに実行された年でした。同じ1833年、東インド会社の商業活動が全面停止されました。これは、貿易の自由化を望む産業資本家たちの要望に基づいたものです。東インド会社は、ほぼ国営の超巨大企業なので、民間企業の成長を阻害してしまう、という意見が強かったんです。これで、東インド会社はインド統治という政治に特化した機関となりました。事実上、「会社」ではなくなったんですね。
貿易の自由化が促進された結果、多くのイギリス民間企業が中国との貿易に参画し始めたのですが、彼らが進めたのはアヘンの密貿易でした。これが、7年後の1840年アヘン戦争の原因となります。
一方、事実上「会社」ではなくなった東インド会社は、24年後の1857年インド大反乱の責任を取らされる形で解散されるのですが、1833年時点ではまだ「商業活動の停止」です。受験では、この辺をひっかけて点差がつくようにしたりされますので、要注意です。」
名もなきOL
「ウィルバーフォースさんみたいな立派な人がいる一方で、アヘン戦争なんて非道な戦争もする国なんですね、イギリスって。なんだか複雑な気分。。」
big5
「そして、1833年成立でもう一つ重要な法律が一般工場法です。これは、産業革命の進行で増えた労働者たちを守る法律です。」
名もなきOL
「一般工場法ってなんか不思議な名前ですね。一般工場ってことは、普通の工場、ってことですか?」
big5
「はい、どのような工場にも適用される、という意味です。なぜこのような名前なのかというと、これまで一部の業種の工場に限った法律はあったのですが、実効的な意味を持たない法律ばかりで効果がありませんでした。産業資本家の中にも、劣悪な環境と低賃金で酷使される労働者の現状を改善すべし、という声も強まったため、一般工場法が成立しました。主な内容は
1.労働時間は1日12時間まで。
2.9才未満の児童労働は禁止。
3.工場監督官の設置を義務付け、労働時間が守られているか監督しなければならない。
という内容です。」
名もなきOL
「1日8時間労働、児童労働は禁止、という現代日本から見ると、これでもかなり厳しい内容ですね。」
big5
「現代と比べるとそうですね。ただ、一般工場法成立以前は、資本家(経営者)のやりたい放題でした。特に、年端もいかない児童を鞭で打ってしごく様子なんかは、奴隷制度とあまり変わらないんじゃないか、と思います。」
big5
「続いて、経済面での自由主義的改革の話です。ここでは、穀物法と航海法という、2つの保護貿易政策が廃止されたことが重要ポイントになります。まずは、穀物法から見ていきましょう。
穀物法は比較的新しい法律です。成立したのは1815年、ナポレオン戦争が終結しウィーン会議をやってた時期ですね。戦争が終わり、ヨーロッパでは穀物の生産量が増え、イギリスにも低価格の小麦が輸入されるようになりました。」
名もなきOL
「食料が安く買えるのは、一般庶民にはありがたい話ですよね。」
big5
「そうですね、特に安月給で長時間労働だった当時の労働者には大事なことです。ところが、これを打ち砕いたのが穀物法でした。穀物法は「小麦価格がある一定の数値よりも安くなった場合、小麦の輸入を禁止する」という内容です。つまり、安い輸入小麦がイギリス国内に入るのを防ぎ、国内の農業、特に地主や貴族の収入を守る、というものだったんです。」
名もなきOL
「自国の産業を守る、というのは必要だと思うんですけど、地主たちの利益確保のために庶民の暮らしが厳しくなるのはダメですよね。」
big5
「当時、議会政治の先進国であるイギリスでさえ、まだ第一次選挙法改正も実施されていません。選挙を通して庶民たちの声を政治に届ける、ということはできません。そこで、一部の民衆は実力行使に出ます。1819年、マンチェスターに約8万人の労働者らが集まり、選挙法改正と穀物法反対を訴える大集会が開かれました。しかし、議会は騎兵隊を突入させて武力で鎮圧。女性や子供を含む12人が亡くなりました。この事件は、ワーテルローの戦いにちなんで、ピータールー事件とかピータールーの虐殺と呼ばれています。」
big5
「この後、経済状況は良くなったので、民衆の不満も和らいだのですが、穀物法のような保護貿易政策に反対する産業資本家らは、自由貿易の実現を求める機運が高まったんです。自由貿易を是とする彼らは、マンチェスターで成功した人物が多かったのでマンチェスター学派と呼ばれています。1839年、マンチェスター学派の代表格であったコブデンとブライトが中心となって、反穀物法同盟を結成。穀物法の廃止に向けて活動を始め、その結果1846年に穀物法は廃止されました。」
名もなきOL
「穀物法は制定されてから廃止まで約30年かかったんですね。けっこうかかりましたね。」
big5
「保護貿易政策がすべて悪い、とは一概には言えませんからね。さて、経済の自由主義改革の最後は、1849年の航海法の廃止です。航海法はこの時点で約200年前、クロムウェルの時代に制定された法律です。」
名もなきOL
「航海法って、どんな法律でしたっけ?」
big5
「イギリスの港に入れる船の国籍を制限する法律です。ヨーロッパ圏内からの輸入はイギリス船 or 積み荷の生産国、ヨーロッパ圏外からの輸入はイギリス船のみ、として、自国の貿易産業を保護する内容でした。当時は、これによって中継貿易で利益を上げていたオランダと戦争になっています。
しかし、これまで見てきたようにマンチェスター学派らのように自由貿易を推進する動きが強くなったため、航海法も廃止となったわけですね。
このように、ナポレオン時代の後イギリスでは、産業革命によって登場した産業資本家(ブルジョワジー)の政治力が高まっていき、彼らが望む自由主義政策を他国に先駆けて取り入れていきました。ただ、この時期に起きた忘れてはならない事件がアヘン戦争です。アヘン戦争の原因は、貿易商人らのアヘン密輸なんです。というわけで、次のテーマはアヘン戦争です。」
big5
「さて、まず名前の由来にもなっている「アヘン(opium)」ですが、これは麻薬です。タバコのようにして吸引すると、ハイな気分になるので、鎮痛薬として使われてきたのですが、中毒性があるので、吸わないでいると身体にも精神にも悪影響を及ぼします。だからといって、習慣的にアヘンを吸っていると、精神錯乱を起こして廃人のようになる、という恐ろしいものでした。そのため、現代では多くの国がアヘンを禁止しています。しかし、19世紀前半のイギリスでは、一部の貿易商がインド産のアヘンを中国の清に密輸して大きな利益を得る、というアヘン密貿易が横行していたんです。」
名もなきOL
「ヒドイ話ですよね。当時はアヘンがそこまで有害なものだ、という認識は無かったんですか?」
big5
「いえ、有害なものだとしっかり認識されていました。アヘンが流行っていた中国沿岸部では、アヘン中毒患者が増えたために、1839年、清は林則徐(りんそくじょ)を欽差大臣に任命し、アヘンの禁止を徹底させました。林則徐は、アヘンの吸飲者・販売者は死刑にすると宣言し、アヘンを密輸しているイギリス商人らには、アヘンの全量引き渡しを命じました。しかし、イギリス商人らは従わなかったため、強制的にアヘン2万箱を押収し、全部燃やしてしまいました。これに対し、イギリス商人らと政府は「自分たちの財産が侵害された」という理由で、清に対して損害賠償を請求。それが拒否されると宣戦布告して、1840年、アヘン戦争が始まりました。」
名もなきOL
「ちょっと待ってください。イギリス商人が文句言うのは筋違いですが、気持ちはわかります。でも、なぜイギリス政府までアヘン密輸を支持したんですか?」
big5
「それは茶の輸入による大幅な貿易赤字を減らしたかった、という国家財政の問題があったから、です。イギリスといえば紅茶文化ですが、この頃からイギリスで紅茶の習慣が広がっていき、貴族だけではなく市民らも紅茶をたしなむようになりました。そのため、インドや中国から茶葉の輸入額がうなぎ上りに増大し、銀がイギリスから流出してしまう、という問題があったんです。それを解決する策が、アヘンの密輸だったんです。この理由のために、時のイギリス外相・パーマーストンは、自由貿易の推進と貿易赤字解消のためにアヘン貿易を継続させようとしました。それを清が妨害しようというなら、戦争で清を打ち負かして、武力で従わせる、という考え方です。このような当時のイギリスの外交スタイルをパーマーストン外交、と言います。自由主義も、行き過ぎると戦争に繋がっていく、という世の中の仕組みを端的に示していると思いますね。」
名もなきOL
「イギリスって、紳士の国じゃなかでしたっけ?これじゃ、完全に悪役のヤクザと同じですね。ガッカリ・・・」
big5
「そうですね。ただ、アヘン戦争開戦については、イギリス国内でも反対の声が強かったんですよ。議会で軍隊派遣を決める討論で、当時、野党の一議員だったグラッドストン(Gladstone)は、議会で以下のように反対演説を行いました。
『たしかに中国人には愚かな大言壮語と高慢の癖があり、しかも、それは度を超しています。しかし、正義は中国人側にあるのです。異教徒で半文明的な野蛮人たる中国人側に正義があり、他方のわが啓蒙され文明的なクリスチャン側は、正義にも信仰にももとる目的を遂行しようとしているのであります。』(出典:近藤和彦『イギリス史10講』)
その他にも人道的な観点から、アヘンを売って儲けるという商売を保護する理由は無い、として反対する声もあったのですが、最後は投票の結果、開戦に賛成が271票、反対が262票という、わずか9票差でアヘン戦争開戦が決定されました。」
名もなきOL
「倫理よりも金が勝ったんですね。イギリスには本当にガッカリです。。」
big5
「戦争は、一方的にイギリスが清を蹴散らす展開でした。およそ200年前だったら、互角の勝負だったのかもしれませんが、産業革命を経て近代国家となったイギリス軍と、中世よりも少し発展した程度の清軍では軍事技術に大きな格差があり、まともな勝負にはならなかったんです。戦争には勝てない、と悟った清はやむを得ずイギリスの要求を呑むことになりました。1842年、南京条約が結ばれてアヘン戦争は終結します。その主な内容は
1.清は上海・寧波・厦門・広州・福州の5港を開港して貿易を行うこと。
2.上の5港におけるイギリスの領事裁判権(治外法権)を認めること。
3.上の5港における関税は5%とすること(関税自主権がない)。
4.香港島(現在の香港全体ではなく、香港本島のみ)をイギリスに割譲する。
5.公行を廃止すること(=自由貿易を認めること)。
6.賠償金として2100万ドルを支払うこと。
という、不平等条約です。ちなみに、アヘン貿易については、一切触れられておりません。つまり、今後も非公式に行われることになったわけです。やがて、同様の条約は日本も結ばされることになります。」
名もなきOL
「この頃の日本って・・、そうかまだ江戸時代ですね。」
big5
「はい。それがアヘン戦争がもたらしたもう一つの結果、欧米列強による東アジア侵略の始まりです。アヘン戦争で、軍事力の格差を実感したイギリスは、清や日本といった、周辺諸国を武力で脅して半植民地化する、という作戦を展開していきます。イギリスのこの動きに、フランス、ロシアが続き、さらにはアメリカも加わるわけですね。日本では幕末動乱と明治維新が起こり、清はこれまでとは打って変わった苦難の歴史が始まることになります。これについては、また別のページで解説していきますね。」
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