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自由と革命の時代

フランス革命 (French Revolution)

あらすじ

big5
「さて、次はフランス革命ですね。フランス革命は近代史の幕開けを告げる歴史上の一大イベントです。今からおよそ200年前の歴史事件にも関わらず、月単位で立て続けにイベントが起こります。登場人物の数や歴史用語もたくさん登場するので、非常に奥が深くて面白い反面、歴史嫌いの人や受験生からは「わかりにくい」と言われる話でもあります。」

Sans-culotte
サン・キュロットに扮した歌手のシュナール 画:ボワイユ 1792年作成

名もなきOL
「なんとなくイメージは掴めるんですよ。民衆が革命を起こして、王様が殺されちゃって、世の中が突然大変化しちゃった、ていうイメージは掴めるんです。でも、詳しい話になると、けっこう難しくて苦手ですね(^^;」
big5
「そこまでイメージが掴めているのなら、まずはあらすじを見てみましょう。
革命の発端は、アメリカ独立と同じく税金の問題でした。この頃のフランスは、アメリカ独立戦争でイギリスに一矢報いたとはいえ、ルイ14世のころから続く度重なる戦争と敗北で国家財政はほぼ破綻していました。しかし、フランス国民には既に重税が課されており、日常生活に苦しむ人々があふれかえっていたんです。そこで、当時の国王ルイ16世は、これまで一切税金を払ってこなかった貴族や聖職者に課税しようとして、1789年5月に三部会という会議を開きました。」
名もなきOL
「今まで貴族とか聖職者は税金を支払っていなかったんですね。ズルいなぁ。それで、三部会の結果はどうなったんですか?」
big5
「三部会は揉めに揉め、しかも話はどんどん飛躍し、平民の代表者たちが
フランス国民が保護される憲法を作れ!俺たちは憲法ができるまで絶対に解散しない!!
と、球戯場(テニスコート)で誓いを立てる、という事態に。しかも、生活苦にあえぐパリの民衆が武装蜂起しようとしてバスティーユ牢獄を襲撃したりと、革命はどんどん深刻になっていきます。バスティーユ牢獄襲撃は1789年の7月14日なので、三部会からわずか2か月です。」
名もなきOL
「すごく展開が早いですね!」
big5
「展開の早さはフランス革命の特徴ですね。どんどん深刻になっていく革命を見たルイ16世は、王妃であるマリ・アントワネットと共にパリから逃げようとしますが、フランス国境付近のヴァレンヌというところで、発見されて捕まってしまいます。これがヴァレンヌ逃亡事件ですね。」
名もなきOL
「王様が国を捨てて逃げようとしたんですね。」
big5
「ルイ16世とマリ・アントワネット、そして二人の子供たちはフランス国民の支持を失います。これに対し、マリ・アントワネットの兄であるオーストリアのレオポルト2世は、プロイセンと共にフランス革命政府に警告を行い、革命の進行にストップをかけようとしますが、まったく止まりませんでした。革命政府はそんなオーストリアに宣戦布告を行い、オーストリア・プロイセンの連合軍と戦争が始まります。」
名もなきOL
「革命の影響が、ヨーロッパの他の国を巻き込み始めたんですね。」
big5
「この戦争の中、1793年1月にルイ16世が処刑され、フランスは王国から共和国となりました。革命が自国に波及することを恐れた周辺諸国は、イギリス首相のピットの提唱で第1回対仏大同盟を結成。革命を武力で潰しにかかりました。」
名もなきOL
「ここに来て、フランスの周囲が敵だらけになったんですね。」
big5
「革命政府は経済問題や戦争に対応しながら、共和国としての体制を整えるために旧来の秩序(アンシャンレジーム)をぶち壊す改革を断行していきます。ただ、党派間の政治抗争も絡んでどんどん殺伐とした空気になっていきました。革命政府に反対する人々が次々と処刑される「恐怖政治」と呼ばれる状態になり、革命の空気は明らかに変わり始めました。」
名もなきOL
「最初のころの、貴族と聖職者への課税、という話の時は理解できたんですけど、政策に反対する人々を処刑して改革を進めるなんて、暴君みたいじゃないですか。そんな革命、嫌です。」
big5
「ですよね。それに加えて、周辺諸国との戦争はまだ続いています。いったいフランスはどうなるのか?そんな時に表れたのが、フランスの英雄・ナポレオンです。軍事の天才だったナポレオンは、各地の戦場でフランス軍を勝利に導く大活躍を見せ、フランス国民から英雄と称えられます。」

Napoleon in His Study
皇帝時代のナポレオン 画:ジャック=ルイ・ダヴィッド 1812年作成

名もなきOL
「ナポレオンって、フランス革命の中から登場してきたんですね。」
big5
「そうです。コルシカ島生まれの貧乏貴族の家の子だったナポレオンでしたが、革命の動乱を生き抜くうちにその才能を開花させ、フランスの英雄となります。そして、ついに民衆の支持を得たナポレオンがクーデターを起こす(ブリュメール18日のクーデター)ことで、革命はいったん閉幕となるんです。ここでは、この1789年から1799年のブリュメール18日のクーデターまでを、「フランス革命」として紹介していきますね。
ちなみに、フランス革命の終わりをいつにするかは、いくつかの説があります。ただ、私個人の見解では、ナポレオンのクーデターによって、事実上共和政フランスは終焉したと考えているので、ブリュメール18日のクーデターまでを「フランス革命」とし、その後は「ナポレオン時代」として別ページで解説していきますね。」
名もなきOL
「時間にすると10年間で、決して長くはないのに、内容は凄い濃いんですね。」
big5
「フランス革命は、研究対象として大人気です。史料も豊富に残っているし、個性豊かな登場人物が多いので、劇やドラマの元ネタになることも多いです。詳細を見ていくと際限がなくなってしまいますので、まずは重要ポイントを抑えていきましょう。まずは、いつもどおり年表から見ていきます。」

できごと
1789年5月 三部会招集
1789年6月 (17日)第三身分が国民議会の設立を宣言
(20日)球戯場の誓い
1789年7月 (14日)バスティーユ牢獄襲撃
1789年8月 (4日)封建的特権の廃止宣言
(26日)フランス人権宣言採択
1789年10月 ヴェルサイユ行進
1790年 聖職者基本法を決議
1791年6月 ヴァレンヌ逃亡事件
1791年8月 オーストリア&プロイセンがピルニッツ宣言を出す
1791年9月 立憲王政を定めた1791年憲法を決議
1791年10月 立法議会成立
1792年3月 ジロンド派内閣成立
1792年4月 オーストリアに宣戦布告
1792年7月 ラ・マルセイエーズが広まる
1792年8月 (10日)8月10日事件により、王権停止
1792年9月 (20日)ヴァルミーの戦いでフランス革命軍が初勝利
(20日)国民公会が招集される
(21-22日)王政廃止と共和政宣言
1793年1月 ルイ16世処刑
1793年2月 (13日)イギリス首相ピットの提唱で第1回対仏大同盟結成
(24日)徴兵制開始
1793年3月 革命裁判所設置
1793年6月 (2日)ジャコバン派独裁と恐怖政治が始まる
(24日)1793年憲法(ジャコバン憲法)決議
1793年8月 メートル法採用
1793年10月 革命暦採用
1794年7月 (27日)テルミドール反動
(28日)ロベスピエールら処刑
1795年8月 1795年憲法決議
1795年10月 総裁政府成立
1796年3月 ナポレオンのイタリア遠征開始
1796年5月 バブーフの陰謀
1797年10月 ナポレオンがイタリアでオーストリアに勝利
カンポ=フォルミオの和約
1798年5月 ナポレオンがエジプト遠征開始
1799年6月 第2回対仏大同盟結成
1799年11月 ブリュメール18日のクーデター
1799年12月 統領政府成立

貴族と聖職者も税金払ってね、で大荒れ三部会

big5
「さて、フランス革命の話はたいていここから始まります。1789年の5月にヴェルサイユ宮殿で開催された三部会ですね。議題は
「国家財政がたいへん苦しいので、今まで税金を払っていなかった貴族と聖職者も税金を払ってね
という、アメリカ独立のきっかけと同じく税金の話でした。」
名もなきOL
「それまで、フランスの貴族や聖職者は税金が免除されていたことにビックリです。まさに、特権階級だったんですね。」
big5
「ルイ14世以来、ヨーロッパの覇権を握ろうとして数々の戦争に参戦してきたフランスですが、結果的には敗北。アメリカ大陸の植民地もイギリスに奪われ、国家財政の苦しさはイギリス以上でした。財政立て直しのために、平民には既に重税を課していたのですが、それでも足りないということで、免税特権を持っていた貴族や聖職者から徴税する、という話になったわけです。」
名もなきOL
「なるほど〜。でも、貴族や聖職者は「イヤだ」って答えるでしょうね。」
big5
「はい、実際彼らの答えはNoでした。どうしても徴税するっていうなら、約150年もの間、開催されていなかったフランスの議会である「三部会」を開いてくれ、と要求されたので、ルイ16世(この年35歳)はやむを得ず三部会を開催することになったわけです。
と・こ・ろ・が、三部会は課税の問題が話し合われる前に、まったく別の話でもめまくります。」

Ludvig XVI av Frankrike portratterad av AF Callet
ルイ16世 画:アントワー=フランソワ=カレー 作成:1788年

名もなきOL
「何でそんなにもめたんですか?」
big5
どうやって決議するか?という話です。三部会は、3つの身分の代表者が集まって開かれる会議です。第一身分は聖職者。つまり、カトリックの神父たちの代表者ですね。第二身分は貴族の代表者。そして、第三身分が平民の代表者です。課税されようとしているのは、第一身分の聖職者と、第二身分の貴族です。なので、彼らは
第一、第二、第三、それぞれの身分ごとに投票を行って決めよう。
と主張しました。」
名もなきOL
「なるほど、それなら、第一身分と第二身分は課税拒否になるから、第三身分が課税承認しても、2対1で勝てる、というわけですね。」
big5
「そのとおりです。なので、第三身分はこの方法に反対。代わりに、一人一票で投票することを主張します。この時、第一身分と第二身分の合計が561人だったのに対し、第三身分は578人だったので、一人一票なら課税承認で勝てるわけですね。」
名もなきOL
「これは・・・もめますね。。」
big5
「そうなんです。課税の善し悪しはほとんど議論されず、議決方法をめぐってなんと40日間ももめ続けたそうです。まったく問題解決しそうにない三部会に業を煮やした第三身分は、6月17日に
「私たち第三身分の議会は、国民議会(Assemblee nationale)を設立して、そこで決めます。」
と、三部会から分離独立する、という手段にでます。2日後の6月19日、第一身分・聖職者は投票を行って国民議会に合流することを決議。これに焦った第二身分・貴族らはルイ16世に支援を求めます。」
名もなきOL
「あれ?三部会って、そもそも貴族の要請で開いたんですよね?」
big5
「そうですよ。思わぬ流れになり、焦って国王に泣きついたわけですね。当時のフランス貴族の大多数は、こんな感じの人間だったと思います。しかし、ルイ16世もこれを受けてしまいます。翌日の6月20日、ルイ16世は 「国民議会を名乗る第三身分には議場を使わせない」、ということで議場を閉鎖。これに対して国民議会は球戯場(テニスコート)に集まります。そこで、盛んに議論が交わされてこう誓いました。
我々は、憲法を制定するまで絶対に解散しない!!
これが、有名な球戯場の誓い(テニスコートの誓い)、です。教科書や資料集で、こんな絵を見たことがあると思います。」

Serment du Jeu de Paume - Jacques-Louis David

名もなきOL
「あ、この絵知ってる!教科書で見た覚えがあるわ。」
big5
「国民議会の強い意志に、貴族らもルイ16世も根負けしたのか、結局三部会は閉会となり第一身分と第二身分が国民議会に合流。国民議会が、憲法制定に向けて動き始めたわけです。」
名もなきOL
「もともと、貴族と聖職者に課税する、っていう話が、憲法制定するって話に変わってしまったんですね。何がどうなるか、人生はほんとにどうなるかわからないですね。」
big5
「これで、国民議会が憲法を話し合って決めれば「革命」にはならなかったのでしょうが、歴史はそうなりませんでした。この翌月、パリの民衆の怒りが爆発してバスティーユ牢獄襲撃事件が発生します。」


バスティーユ牢獄襲撃と革命の始まり

big5
「国民議会の態度に一度は譲歩したルイ16世ですが、その後反撃を考えます。軍隊を集めて、力で国民議会を潰そうとしたんです。この話がパリに広まると、民衆は騒然とし始めます。7月14日の朝、民衆はアンヴァリッド廃兵院に押しかけて武器を強奪して軍隊の襲撃に備えようとします。ただ、弾薬等が足りなかったので、パリ市内を流れるセーヌ川を渡って東に行ったところにあるバスティーユ牢獄を襲って、弾薬を奪い取りました。このパリ市民によるバスティーユ牢獄襲撃が、フランス革命の始まりとされていますね。」

Prise de la Bastille
バスティーユ襲撃 画:ジャン=ピエール 1789年作成

big5
「パリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃した、というニュースはフランス全土に広まりました。そして、生活苦にあえぐ農村部でもこの流れに応えるかのように、暴動が発生しました。領主が襲われて殺されたり略奪が行われました。領主側も軍を整えて反撃して農民らを殺すなど、たいへんな騒乱状態に発展してしまいます。」
名もなきOL
「たいへんですね!この時、ルイ16世はどうしていたんですか?」
big5
「ルイ16世は、パリから約20km離れたヴェルサイユ宮殿に住んでいたので、革命が勃発した7月14日は大好きな狩りをして過ごし、その日はゆっくり眠りました。翌朝、衣装係からバスティーユ牢獄襲撃事件の報告を聞いたルイ16世は「それは騒乱かね?」と尋ねたところ、衣装係は「陛下、騒乱ではございません。革命です。」と答えた、というエピソードが有名ですね。
バスティーユ襲撃の翌日、民衆に推されて、パリ市長にバイイ(この年53歳。球戯場の誓いで宣誓役を務めた)が任命され、革命を守る国民衛兵軍の指揮官としてラファイエット(この年32歳。アメリカ独立戦争に参加した自由主義貴族)が就任しました。余談ですが、フランスの国旗の元は、この時ラファイエットが青、白、赤の三色の帽子を国民衛兵らに渡したことなんだそうです。ちなみに色の意味は、元々パリ市を表現する青と赤の間に、フランス王であるブルボン家の色である白を間に入れたという、当時のラファイエットの考えや立場を表している、と言われています。後に、これはフランス共和国の国旗として定められています。」

Flag of France

名もなきOL
「へ〜、フランスの旗ってこの時にできたんですね。」
big5
「ここから革命は一気に進んでいきます。国民の過激な行動に恐れをなした貴族や聖職者らは、8月4日に「封建的特権の廃止」を宣言。26日には、ラファイエットが起草したフランス人権宣言が発表されました。」
名もなきOL
「封建的特権の廃止、ってなんですか?」
big5
「「封建的」というのは、中世から延々と続いてきた封建領主たちに認められていた既得権益のことです。ここでは、農奴制の廃止、教会へ治める十分の一税の廃止、領主裁判権の放棄が挙げられています。また、農民の重い負担であった年貢(貢租)は、20〜25年分を一括で払えば、以降は永久に年貢を支払われなくてもよい、ということになりました。これは「貢租の有償廃止」などと呼ばれていますね。」
名もなきOL
「年貢を払わなくてもいい、っていうのは農民にとってすごい嬉しいことだと思うんですけど、20年分を一括支払いって、生活苦の農民にはできることじゃないような・・・
big5
「はい、なのでこれを受けて一括支払いを行った農民はごくわずかだったそうです。この件は、さらに革命が進展すると、もう一度取り上げられ、その時は「無償廃止」ということになるのですが、その話は置いておきましょう。次にフランス人権宣言ですね。国民の自由と平等、圧政への抵抗権、国民主権、法の支配、信仰の自由、私有財産の不可侵などを歌っており、随所にフランスの啓蒙思想家ルソーの影響や、アメリカ独立宣言の影響がみられます。起草者はラファイエットなので、ラファイエットらしさがよく表れていると思いますね。主要な部分をいくつか抜粋したものがこちら↓

第1条 人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。社会的区別は、共同の利益にもとづいてのみ設けることができる。(人の自由と権利における平等
第2条 あらゆる政治的結合の目的は、人間の持つ絶対に取り消し不可能な自然権を保全することにある。これらの権利とは、自由、所有権、安全、および圧政への抵抗である。(抵抗権の主張
第3条 あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。(国民主権
第7条 いかなる者も、法が明確に定めた場合について、しかも法が規定した手続きによるものでなければ、告発も、逮捕も、拘留もされない。(法の支配
第17条 所有権は、ひとつの神聖で不可侵の権利である。(所有権の不可侵

というのが主だったところですね。」
名もなきOL
「人の平等とか、圧政への抵抗とか、まさにアメリカ独立宣言でもうたっていたことですよね。フランス革命が、アメリカ独立革命の影響を強くけていることがわかります。」

ルイ16世の権威失墜と革命戦争の始まり

big5
「このように国民の実力行使に屈する形で、貴族と聖職者はある程度の既得権益を放棄することとなり、さらに人権宣言も出され、フランスは新たな国となる・・・ハズでした。」
名もなきOL
「何か問題があったんですか?」
big5
ルイ16世は、封建的特権の廃止もフランス人権宣言も承認しないで放置していた、んです。国王の承認がないと、これらの法令は有効となりません。ルイ16世のこの態度に、国民議会も苛立ち始めます。さらに、この年の秋は凶作となってしまったのでパンの値段が高騰。パリ市民の暮らしは、毎日の食事にも事欠くありさまでした。その一方で、ルイ16世はヴェルサイユ宮殿でこれまでとあまり変わらない豪勢な生活を楽しんでいました。これに対し、過激な思想で共和政を目指すマラーは自ら刊行している『人民の友』で、パリ市民に再度の決起を促すなど、食い詰めた市民たちを扇動します。そして動いたのが、パリ庶民の女性だったんです。10月5日、約6000人の女性がパリに集まり、手に武器を持ってヴェルサイユ宮殿に向かい始めました。パリからヴェルサイユ宮殿はおよそ20kmなので、歩いていくとだいたい5、6時間はかかります。その道のりを踏破し、女性たちはヴェルサイユ宮殿に到着。ルイ16世はいつものように大好きな狩りに出かけていたのですが、帰ってきたらビックリ、たいへんな騒ぎになっていたわけです。ルイ16世は女性たちの気迫に負けて、国民議会が定めたことをすべて承認しました。それだけでなく、国王一家と議会も一緒にパリに連れて行かれたわけです。この事件を、ヴェルサイユ行進とか十月事件と呼んでいます。こうして、フランス王家は約100年ぶりにパリに住むことになり、革命が進行するのを目の当たりにするわけですね。」
名もなきOL
「なんか、フランス王家も落ちぶれましたね。市民の力に脅されて従ってますもんね。」
big5
「そうなんです。それから1年半の間、フランスは比較的平穏でした。国民議会は当初の目的である憲法制定に向けて動き出すのですが、その時に国民議会を主導していたのは、ラファイエットやミラボーらに代表されるフイヤン派でした。フイヤン派が目指したのは立憲王政です。つまり、国王はいるものの、憲法を定めて議会を設けて王権には制限を設け、経済活動の自由を認める、というのがフイヤン派の目標でした。この考えは、絶対王政に憲法を加える、という比較的小さい変化に留めておくもので、聖職者や貴族はもちろん、第三身分でも特に富裕層の市民にも支持されていたものです。」
名もなきOL
「なるほど。立憲王政か。それなら、ルイ16世も妥協して立憲王政で進めれば、自分の国王としての地位も保てるので、いいんじゃないかと思います。」
big5
「ところが、1791年4月2日にフイヤン派のミラボーが42歳で突然病死します。」

Boze - Honore de Mirabeau
ミラボーの肖像画 画:Joseph Boze  1789年作成

名もなきOL
「ミラボーさんが何かしていたんですか?」
big5
「ミラボーは演説が上手で、フイヤン派の立憲王政を主導している有力者の一人でした。ところが、その一方でルイ16世と秘密の取引を行っていたんです。そのミラボーを失ったことで、ルイ16世が不安に駆られてしまったわけです。その他にもいくつかの要因が積み重なった結果、ルイ16世と王妃のマリー・アントワネットは子供たちを連れて、パリを脱出しようとしました。これがヴァレンヌ逃亡事件です。ルイ16世たちはパリを抜け出すことに成功し、国境付近まで行くことはできたのですが、ヴァレンヌという街で発見されてしまい、捕まってパリに戻されることになりました。」
名もなきOL
「またしても、市民らに連れ戻されてしまったんですね。」
big5
「そうですね。ただ、この事件は立憲王政を目指すフイヤン派に大きなダメージを与えました。なにしろ、国家の支柱たるべき国王がパリを捨てて逃亡するというのはあってはならない事件ですし、王政の根本が崩れることになります。共和政を支持する派閥は、ルイ16世の廃位とすぐにでも共和政に切り替えるべきだ、と主張し始めます。フイヤン派の発言力は、どんどん弱くなっていきました。
8月になり、マリー・アントワネットの実の兄であるオーストリアのレオポルト2世はプロイセンと共同で
「フランスの秩序回復と王政復興はヨーロッパ各国の共通の利益であり、準備が整い次第行動を起こす」
というピルニッツ宣言(ピルニッツは、ザクセンにある城)を発表します。これで、フランス革命の勢いを削ぐのが目的でしたが、逆にフランス国民議会は「オーストリアに宣戦布告すべき」という声が強まっていきました。外国が革命に干渉するならば戦争も辞さない、という構えを見せたわけです。オーストリアとの開戦を強く主張したのは、ジロンド派と呼ばれる、共和政推進者の派閥です。ジロンド派はフイヤン派と異なり、王政ではなく共和政を目標としていました。ジロンド派のリーダーはブリッソだったので、ブリッソ派とも呼ばれましたが、ブリッソの仲間の多くはジロンド県出身者だったことから、ジロンド派と呼ばれるようになったそうです。」
名もなきOL
「でも、共和政推進派なら、ルイ16世も決して味方はしないでしょうね。フイヤン派を応援しないと、国王としての立場がなくなってしまいますよね。」
big5
「ところが、ルイ16世は途中からジロンド派を支持するようになるんです。ピルニッツ宣言から少し経った1791年9月3日、国民議会は憲法を制定しました。この憲法は、制定された年をとって1791年憲法と呼ばれています。1791年憲法は、ラファイエットらのフイヤン派が主導して作った憲法なので、立憲王政と制限選挙で選ばれた議員による政治を定めた憲法になっていました。目標であった憲法が制定されたので、国民議会は解散し、代わりに1791年憲法に基づいて行われた制限選挙で選ばれた議員で構成された立法議会が10月1日に成立します。」
名もなきOL
「ヴァレンヌ逃亡事件とか、トラブルは起こりましたけど、フイヤン派が目指した国作りが完成したわけですね。でも、さっきルイ16世は共和政を推すジロンド派を支持した、って言ってましたよね?」
big5
「そうなんです。ルイ16世は、フイヤン派が築いた立憲王政には満足しませんでした。そんな中、王妃マリ・アントワネットの母国であるオーストリアが革命に干渉して戦争の準備をしています。それに対し、ジロンド派オーストリアへの開戦を主張しているわけです。自身の逃亡未遂事件で、フイヤン派は発言力を失っています。そんなルイ16世が考えたのは、おそらく
戦争になればオーストリアが勝ち、フランスは元の絶対王政に戻れる
そんな考えだったのではないでしょうか。年が明けて1792年の3月、ルイ16世はジロンド派から大臣を起用して内閣を発足させ、1792年4月にオーストリアに対して宣戦布告を行いました。これが革命戦争の始まりです。」
名もなきOL
「うーん、ルイ16世の狙いはわかりますけど、だからといって共和派を内閣に登用して、しかも自国を戦争に負けさせて、元の絶対王政に戻す、なんてうまく行きそうにない気が・・・」
big5
「そうなんですよ。この時のフランスは、実に奇妙な体制でした。外見は立憲君主制ですが、内閣は共和政推進派。革命に干渉する、と言っているオーストリアと戦争を始めたものの、国王であるルイ16世や王妃マリー・アントワネットは、自国の敗北を願って敵国であるオーストリアに、フランス軍の情報を流している、という本当に奇妙な状態でした。そんな状態で勝てるはずもなく、フランス軍はオーストリア軍に敗れ続けます。」
名もなきOL
「ルイ16世とマリー・アントワネットの狙い通りになったんですね。」
big5
「オーストリアとの戦いに負けそうになっている時、一つの歴史が生まれました。現在のフランス国歌である「ラ=マルセイエーズ」の誕生です。7月11日、立法議会が「祖国は危機にあり」という非常事態宣言を出して、フランス全土から義勇兵の募集を始めました。この時、マルセイユからパリへ向かった義勇兵の部隊が、ラ・マルセイエーズを歌いながらパリに入ったことで、爆発的に広まったそうです。この歌は、4月にオーストリアに宣戦布告した際、ストラスブール市長の頼みで、工兵大尉のルージェ・ド・リールという人が一晩で作った曲でした。その曲が、パンフレットに載せられて紹介されたものの、その時は広まらなかったのですが、この時に一気に広まったそうです。」
名もなきOL
「タイミングよく、パリ市民の心に響くものがあったんでしょうね。」
big5
「7月14日はバスティーユ牢獄襲撃事件の日なので、革命記念日なんです。それもあって、パリにはオーストリアとの戦いに向かう義勇兵で溢れていました。そんな時に、義勇兵に決起を促した派閥があります。急進的な共和政を目標とするジャコバン派です。ダントン(Danton この年33歳)やロベスピエール(Robesoierre この年34歳)といったリーダー達に率いられたジャコバン派は、選挙に資格を求めない普通選挙を要求するなど、社会の底辺の賃金労働者や貧農(サンキュロットと呼ばれています)に支持されていました。各地から兵がパリに集まったこのタイミングで、ロベスピエールは「連盟兵への訴え」を発表し、立憲王政の打倒と人民政府の樹立を訴えて、武装蜂起を扇動しました。これを受けてサンキュロットの兵士たちが、銃を担いでルイ16世一家が住むテュイルリー宮殿の周りを行進して脅すなどの示威行為に出ます。驚いたマリー・アントワネットは、プロイセン軍を率いてパリに迫っていたブラウンシュヴァイク公に使者を送り、ジャコバン派とサンキュロットの兵士が震え上がるような声明を出してくれ、と頼みました。」
名もなきOL
「やっぱり、マリー・アントワネットはオーストリア軍と繋がっていたんですね。」
big5
「ブラウンシュヴァイク公は、「国王に危害を加えた場合は、パリを破壊する」と脅す宣言文を送ったのですが、これは逆効果でした。サンキュロットの兵士らは、むしろ敵国がルイ16世を保護しようとしていることに激高し、ジャコバン派がうたう立憲王政打倒に賛同し始めたんです。サンキュロットの兵士たちは、立法議会に王権の停止を要求しましたが、ジロンド派や一部のフイヤン派が占める立法議会は、返事をしませんでした。彼らにとってみれば、せっかくこぎつけた立憲王政を廃止することなんてできません。
8月10日、約2万のサンキュロット兵士らがテュイルリー宮殿に乱入し、ルイ16世を守るスイス傭兵らと激しい戦闘になりました。」

Tuileries10.Aug.1792

big5
「スイス傭兵は、ブルボン王家が古くから契約している国王個人の外国人近衛兵部隊です。当時は約600名が護衛の任務に就いていました。スイス傭兵は、厳しい規律と訓練を受けた精鋭部隊として有名でした。テュイルリー宮殿を守っていたスイス傭兵らは、雇い主であるルイ16世を守るために大軍相手に奮戦し、一時はサンキュロット兵士らを追い散らしますが、ルイ16世の態度が煮え切らなかったために、指示が不明確であったこともあり、最後は全滅してしまいます。立法議会を制圧したサンキュロットらは、王権停止を認めさせると同時に、男子普通選挙によって設立される国民公会の招集を布告させることに成功しました。そして、ルイ16世一家は監禁され、3日後の8月13日にタンプル塔に監禁されることになりました。
こうして、立憲王政フランスは幕を閉じ、国民公会による共和政フランスがスタートすることになります。8月10事件は、フランス共和政を樹立した大事件であるため、第二革命と呼ばれることもあります。ブルボン王家によるフランスの歴史は、ここでいったん幕を閉じたわけです。そして、9月20日には男子普通選挙で選ばれた議員による国民公会が招集され、翌日の9月21日から22日にかけて、国民公会は王政の廃止と共和政宣言を行いました。ついに、フランスは共和政国家となったわけです。」
名もなきOL
「8月10日事件で一気に「革命」っぽくなったんですね。社会の底辺のサンキュロットたちが、王宮に乗り込んで王政を廃止させて共和政を樹立するなんて、まさに「市民の革命」ですよね。」
big5
「そうですね。こうしてできた共和政フランスでは、8月10日事件を扇動するのに功績のあったジャコバン派の発言力が強くなりました。特に「8月10日の男」というあだ名がついたダントンは、事件の翌日の8月11日に司法大臣に任命されるという、大昇進を果たしています。
時を同じくして、革命戦争にも大きな成果が出ます。国民公会が招集された9月20日、ヴァルミーの戦いで、フランス軍がブラウンシュヴァイク公率いるオーストリア・プロイセン同盟軍に勝利したんです。これまで連戦連敗であった革命戦争でしたが、8月10日事件の後の大規模な戦闘でフランスは初勝利を掴んだわけです。この勝利は、国民公会と首脳陣に自信を持たせるのに十分な結果でした。」
名もなきOL
「8月10日事件の後、ヴァルミーの戦いでフランスが勝利した理由は、もしかしたらルイ16世とかマリー・アントワネットが情報を流さなくなったから、なのかもしれないですね。」

ルイ16世の処刑と第一回対仏大同盟

big5
「共和政となったフランスで、最初に議論になったのはルイ16世の処遇でした。立憲王政を目指す少数のフイヤン派、急激な革命を望まないジロンド派はルイ16世の処刑に反対でしたが、急激な革命を志すジャコバン派は当然死刑を求めます。この件は、もめにもめた結果、投票によってルイ16世の処刑が確定しました。
1793年1月21日、ルイ16世はパリのコンコルド広場でギロチンにかけられて殺されました。39歳になる年でした。王妃のマリー・アントワネットも、その後裁判にかけられて1793年10月16日に同じコンコルド広場で処刑されました。38歳になる年でした。」
名もなきOL
「こうしてみると、ルイ16世もマリー・アントワネットも、時代の波に翻弄された人生だったんだな、と思いますね。」
big5
「そうですね。フランス革命は人気のテーマなので、もっと個人としてのルイ16世とマリー・アントワネットを詳しく解説している本も多いです。世界史日本史研究室 北の陣でも、そのうち詳細篇を作ってより詳しく扱いたいテーマです。
それはさておき、まずは歴史の流れを見ていきましょう。ルイ16世が処刑された、というニュースはヨーロッパの周辺諸国を驚かせました。絶対王政のフランスが共和政に変わっただけでも驚きですが、国王を処刑するとなると、その危険度はもっと上がります。フランス革命に触発されて、自分の国の反乱分子が一斉に武装蜂起する可能性もありました。これに対して、イギリスの首相であるピットは、ヨーロッパ諸国に呼び掛けて1793年2月13日に第一回対仏大同盟を結成しました。同盟に参加したのは、まずはイギリス、そしてマリー・アントワネットの母国であるオーストリア、オーストリアと連携したプロイセン、ブルボン朝であるスペイン、そしてオランダも加わっています。」
名もなきOL
「フランスの周りがほぼすべて敵になったんですね。それと、第一回ということは、後で第二回とかがあるんですか?」
big5
「はい、後で出てきます。ただ、このページはだいぶ長くなったので、いったんここで締めます。続きはフランス革命(後編)で。」


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