big5
「さて、ここでは『源平合戦』という名で知られている、源氏の挙兵から平氏の滅亡までの激動の時代を見ていきたいと思います。この時代を描いた軍記物として有名なのが『平家物語』ですね。歴史のみならず、国語の授業でも平家物語の前文「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とか、「敦盛の最期」を習った人は多いと思います。」
名もなきOL
「中学生の時に国語で出てきた「敦盛」の話を今でも覚えていますね。当時は衝撃的でした。私と同じくらいの年の敦盛が戦場に出て戦って、敦盛を捕まえた熊谷直実が泣く泣く首を取る、という話でショックを受けたのを、すごくよく覚えています。」
big5
「「敦盛の最期」は、一の谷の戦いで登場する話ですね。『平家物語』は物語としての面白さを持たせるために脚色もされていますが、その分読みやすいのが特長です。ここでは、『平家物語』で有名なエピソードも紹介しつつ、最近の知見もふまえた「歴史」としての源平合戦を紹介していきますね。
まずは、年表から見てみましょう。」
年 | 源平合戦イベント |
1180年 治承4年 2月 |
(21日)高倉天皇退位 |
1180年 治承4年 4月 |
(9日)以仁王が平氏追悼の令旨を出す (22日)安徳天皇が即位 |
1180年 治承4年 5月 |
宇治川の戦いで以仁王、源頼政が敗死 |
1180年 治承4年 8月 |
源頼朝が伊豆で挙兵するも敗北 |
1180年 治承4年 9月 |
源義仲が信濃で挙兵 |
1180年 治承4年 10月 |
(20日)富士川の戦いで平氏が戦わずして敗走 (21日)源頼朝と源義経が黄瀬川で会見 |
1180年 治承4年 10月 |
源頼朝が侍所別当に和田義盛を任命 |
1180年 治承4年 12月 |
平重衡が東大寺・興福寺を焼く |
1181年 治承5年 閏2月 |
平清盛死去 |
1181年 治承5年 3月 |
州の股合戦で平知盛が源行家、義円率いる源氏軍を破る |
1182年 養和2年 |
西国を中心に凶作と飢饉に見舞われる(養和の飢饉) |
1182年 寿永元年 5月 |
元号が「寿永」に改元される |
1182年 寿永元年 9月 |
横田河原合戦で源義仲が城長茂率いる平家方の軍を破る |
1183年 寿永2年 5月 |
源義仲が倶利伽羅峠の戦いで平氏を破る |
1183年 寿永2年 7月 |
平氏の都落ち、源義仲が入京 |
1183年 寿永2年 10月 |
寿永二年十月宣旨で源頼朝の東国支配権が認められる |
1183年 寿永2年 閏10月 |
源義仲が水島の戦いで平氏に敗れる |
1183年 寿永2年 11月 |
源義仲が後白河法皇の御所を襲撃 |
1184年 寿永3年 1月 |
源範頼、源義経が源義仲を破る。義仲戦死 |
1184年 寿永3年 2月 |
一の谷の戦いで源義経が平氏を破る |
1184年 寿永3年 8月 |
源義経が左衛門少尉、検非違使に任じられる |
1184年 寿永3年 10月 |
源頼朝が問注所を設置 |
1185年 元暦2年 2月 |
屋島の戦いで源義経が平氏を破る |
1185年 元暦2年 3月 |
壇ノ浦の戦いで源義経が平氏を破る 平氏滅亡 |
名もなきOL
「こうしてみると、源平合戦のメインの部分ってたったの5年間の話なんですね。意外と短いな。」
big5
「そうですね。以仁王の令旨が出てから5年後には、平氏が滅亡しています。そう考えると、短い間で日本の権力者が入れ替わった、激動の時代だったと言えますよね。
世の中を大きく変化させた直接の原因になったのは、1180年。平氏政権に大きな不満を持っていた以仁王(もちひとおう)の令旨でした。以仁王自身は敗死しましたが、これをきっかけに日本各地で反平氏の勢力が蜂起。中でも、強大な力を持つに至ったのが源氏の嫡流である源頼朝と、信濃の源義仲(木曽義仲、とも)でした。」
名もなきOL
「2人とも有名人ですね。」
big5
「それまで我が世の春を謳歌していた平氏でしたが、ここに来て反乱勢力が独立してしまったわけです。そんな中、平氏の当主である平清盛が病死。さらにその後、養和の大飢饉で平氏が権力基盤としていた西日本を中心に国力が大きく減少してしまい、平氏の屋台骨は大きく揺らぎ始めました。」
名もなきOL
「本当に、悪いことって重なりますよね。これじゃ、平氏も厳しいハズだわ。。」
big5
「最初に平家を追い詰めることになったのが源義仲です。義仲は倶利伽羅峠の戦いで平氏を破り、そのまま京の都を占領。敗れた平氏は都落ちして西へ逃れます。これで源義仲は、頼朝よりも先に京都を抑えたわけです。ところが、田舎育ちの義仲やその配下たちは、京都で粗暴なふるまいが多かったため、大顰蹙。そこで、朝廷の後白河法皇は頼朝に「義仲を討ってくれ」と依頼その代償として寿永二年十月宣旨を出して、頼朝の東国支配権を認めました。大義名分を得た頼朝は、弟の源範頼、源義経率いる軍を送りだし、義仲を討伐しました。」
名もなきOL
「平氏よりも先に、源氏同士の争いが起きてたんですね。」
big5
「源氏って、けっこう一族の内紛が多いんですよ。詳しくは後程出てきます。さて、義仲を滅ぼした頼朝は、範頼と義経の軍を西に向かわせ、一の谷の戦い、屋島の戦い、そして最後は壇ノ浦の戦いで平氏を破り、ついに平氏は滅亡したわけです。
あらすじにするとこんなかんじです。それでは、本編に入りましょうか。」
big5
「1180年(治承4年)は、歴史の一大転換点となった年でした。まずは、直接の引き金となった以仁王の令旨について見ていきましょう。以仁王は、平家に冷遇されていた人物の一人でした。」
以仁王像 作成者:不明 作成年:1872年 蜷川親胤(蜷川式胤)模写
big5
「以仁王の父は後白河法皇で、母は藤原成子です。『平家物語』では、頭脳明晰で書道も上手な教養人で、天皇に相応しい方であった、と伝えています。ところが1168年、以仁王を飛ばして異母弟の高倉天皇が天皇に即位します。高倉天皇の母・平滋子は清盛の妻・時子の妹なんです。つまり、平家一族の女性が産んだ皇子を優先して天皇に即位させたわけですね。」
名もなきOL
「なるほど〜。それじゃぁ、以仁王もやりきれませんよね。」
big5
「さらに、1171年には高倉天皇の后として、清盛の娘である平徳子が迎えられました。これが、「建礼門院(けんれいもんいん)」の名で有名な徳子です。こうなると、清盛の意図は明確ですよね。」
名もなきOL
「高倉天皇と徳子の間に生まれた皇子を、次の天皇にするんですね。そうなると、清盛は天皇の祖父になり、その権力はますます強くなる、という算段ですね。」
big5
「そのとおりです。そうなったら、もう以仁王が出る幕はないでしょう。そして、それは現実のものになりました。1178年に徳子が平家待望の男子を出産すると、早速皇太子とします。この男子が、後の安徳天皇です。さらに、1179年には官位から約40名の貴族を外して、代わりに平家に縁のある貴族に官位を与えました。また、目の上のたんこぶである後白河法皇を鳥羽殿(とばどの)に幽閉。1180年2月には、高倉天皇を退位させ、1歳半の乳児であった安徳天皇を即位させる準備を推し進めました。」
名もなきOL
「きっと、清盛さんは安徳天皇の誕生が嬉しくて、舞い上がっちゃったんでしょうね。でも、このやり方なら平家に縁のない人から恨まれても仕方ないですね。」
big5
「そうですね、清盛の独断専横と取られても仕方のない内容でしょう。そして、これらの政策は以前から存在していた反平家の気運を爆発させるのに十分なものでした。この年、以仁王29歳になります。ついに、以仁王は平家追討の令旨(りょうじ)を出しました。」
名もなきOL
「令旨ってなんですか?」
big5
「天皇ではなく、親王などの皇族が出す命令書のことです。令旨があれば、平家追討の為に挙兵することの大義名分は十分ある、と考えることができます。もし、令旨なしで挙兵したら、それは単なる反乱という扱いになってしうので、令旨の有無は、大義名分の有無に大きく影響しますので、とても重要なんです。」
名もなきOL
「多くの人を動かすには、大義名分が必要ですもんね。」
big5
「以仁王の令旨に応え、京都近郊では、源頼政(この年76歳)、天台宗の三井寺(みいでら 正式名称は園城寺(おんじょうじ))、そして奈良の興福寺が以仁王に味方しました。しかし、京都方面では清盛の対応が速かったため、三井寺は僧兵らが抗戦したものの平家の攻撃を防ぎきれず、火をかけられて炎上。以仁王と源頼政は、奈良の興福寺に後退する途中、宇治川で平家の軍勢に追い付かれてしまい、源頼政は負傷して自害。以仁王は戦死して、挙兵は失敗に終わってしまいます。
しかし、全国に発せられた令旨によって、各地で反平家勢力が挙兵しました。その中でも大勢力に成長したのは、伊豆の源頼朝、信濃の源義仲の2人です。それ以外にも、甲斐の武田信義、紀伊の熊野別当湛増、土佐の源希義、伊予の河野通清、肥後の菊地隆直、豊後の緒方惟義と、反平家の挙兵は同時多発的に勃発しました。」
big5
「清盛は、以仁王と源頼政の蜂起は鎮圧したものの、京都から離れた地域の反乱は鎮圧できませんでした。中でも有名なのが、1180年10月の富士川の戦いです。平家軍を率いる総大将は平維盛(たいらのこれもり:1年前に亡くなった平重盛の長男 この年21歳)、副将として清盛の弟である平忠度(たいらのただのり この年36歳)です。『平家物語』では、その兵力は7万騎としていますが、『吾妻鏡』では4000騎とされています。対する源氏の軍勢は、『平家物語』では源頼朝率いる20万騎となっていますが、さすがにこれは誇張されているでしょう。ただ、『玉葉』でも4万騎となっており、いずれにしても源氏軍が平家軍をかなり上回っていたことがわかります。両軍は富士川を挟んで対峙し一夜を明かしたのですが、この夜に事件が起きます。源氏の軍が夜襲を仕掛けようとして富士川を渡る際に、驚いた数えきれないほどの水鳥が一斉に羽ばたきました。平家の軍はこの音でビックリしてしまい、大慌てで逃走してしまったのです。総大将である平維盛が京都に逃げ帰ってきた時、その軍はわずか10騎程度という状態でした。事の次第を聞いた清盛は激怒し、維盛を流罪にしようとしますが、周囲にとりなされて罰は与えられませんでした。」
名もなきOL
「兵力差が歴然としているなら、既に平家軍は戦意を失っていたのかもしれませんね。いずれにしても、ほとんど戦わないで敗走では、大敗北には変わらないと思います。」
big5
「こんなかんじで、頼朝の挙兵を鎮圧することには失敗したわけです。そんな中、更なる不幸が平家を襲います。まずは年が明けた1181年の閏2月、平清盛が熱病で死去します。この年63歳でした。」
名もなきOL
「この時点で大黒柱が倒れるのは痛すぎますね。」
big5
「さらに京都や西日本は凶作が続いた結果、1181年〜1182年にかけて飢饉が発生しました。養和の飢饉です。食べ物が無くなって餓死する人が続出。『方丈記』では、京都のあるお坊さんが餓死者の数を数えたところ、2か月間で約4万3000人いた、という記述されています。凶作は東日本でも発生していたようですが、平家が基盤としている西日本が凄惨な状況だったようで、平家は天災にも苦しめられたわけです。」
名もなきOL
「悪い事って、本当に重なって起きますよね。」
big5
「このような状況でも、1181年の州の股合戦、1182年の横田河原合戦など、いくつかの戦いがありました。災害で苦しい中、戦争も継続していたため、一般庶民の暮らし向きはかなり厳しかったのではないか、と思います。」
big5
「事態が大きく動いたのは、1183年です。平家は源義仲を追討するために軍隊を招集。『平家物語』によると、約10万騎の大軍で、大将は平維盛と平通盛(たいらのみちもり 清盛の弟・教盛の長男)でした。」
名もなきOL
「維盛さんって、富士川で敗走したあの維盛さんですよね?大丈夫かな・・・」
big5
「そうですよね。ただ、名誉挽回の機会が与えらた、とも考えられます。平家軍は義仲が築いた越前(今の福井県)火打ヶ城(ひうちがじょう)を落とすと、北陸道を進撃していきました。平家軍が加賀と越中の国境にある砺波山(倶利伽羅(くりから)峠)に差し掛かったあたりで、義仲軍が出撃。義仲軍の先陣を見た平家軍は山中で休憩を取ることとしました。これが、有名な1183年5月の倶利伽羅峠の戦いの始まりです。」
名もなきOL
「あ、これ知ってるかも。確か、牛の角に松明を付けて敵陣に突撃させて勝った、という戦いですよね?」
big5
「はい、火牛の計とも呼ばれる奇襲ですね。ただ、これが本当にあったかどうかは疑問なんですよ。というのも、『平家物語』に火牛の話は出てこないんです。『源平盛衰記』に出てくる話なんです。ただ、奇襲で大勝利した、というのは『平家物語』でも同様ですね。平家軍と義仲軍がにらみ合っている間に、義仲は密かに別動隊を派遣し、平家軍の背後に回り込ませました。日が沈んでから、突然正面にいた義仲軍が鬨の声を上げます。驚いた平家軍は、背後にも源氏の白旗がたくさんなびいているのを見て、いつの間にか背後にも敵が来ていることを知って慌ててしまいます。そんな中、正面の義仲軍が突撃を開始。浮足立った平家軍は敵のいない方に逃げようとしますが、逃げた先は深い谷だったんです。日暮れだったので、視界があまりよくなかったんですね。多くの平家軍の兵士が谷に落ちて亡くなり、大将の維盛と通盛はなんとか落ち延びることができましたが、7万騎の大軍はわずか2000騎にまで減少し、平家軍は京の都に逃げ帰っていきました。」
名もなきOL
「これは無残な敗北ですね。死者が多数出ている分、富士川の敗北以上の損失だったんでしょうね。」
big5
「義仲はこの勝利に勢いづき、平家の残党を蹴散らし、比叡山延暦寺と同盟して京の都に進軍します。一方、軍事力の大多数を失った平家に義仲軍を防ぐ手段はありませんでした。平家一族は、泣く泣く自分の屋敷に火を放ち、安徳天皇と三種の神器をたずさえて九州へ向かって落ち延びていったのです。これが有名な平家の都落ちですね。時に1183年7月、倶利伽羅峠の戦いから2カ月後のことでした。」
源義仲(木曽義仲)像 長野県木曽郡木曽町 徳恩寺所蔵 作成者・作成年代:不明
名もなきOL
「平家を京の都から追い払ったのって、源義仲なんですね。なんか、義経が平家を倒したイメージが強いので、なんとなく義経に負けて都落ちしたイメージがありましたけど、そうではないんですね。」
big5
「そうなんです。さて、平家を追い払って京の都を占領した義仲(この年29歳)は「朝日将軍」の称号を授けられ、一躍英雄となったのですが、その評判はすぐに地に落ちてしまいました。原因は、義仲の粗野なふるまいが後白河法皇や貴族らの反感を買ったこと、それから義仲軍の兵士らによる略奪暴行事件が日常茶飯事に起きたことで、都の民衆からも嫌われてしまったんです。」
名もなきOL
「文明国を軍事力で破った蛮族の軍隊みたいな存在だったんでしょうね。」
big5
「義仲の入京は7月だったのですが、10月には後白河法皇から源頼朝に対して寿永二年十月宣旨が出されました。」
名もなきOL
「これってどんな内容なんですか?」
big5
「一言でいうと、頼朝の東国(東海道・東山道)支配を調停が認めた、ということです。具体的な内容は実は明確に残っていないのですが、このような内容だったと歴史書が記載しています。
「東国の荘園はきちんと朝廷に年貢を納めること。源頼朝がそれを行うこと。」
つまり、源頼朝が朝廷から「徴税権」を認められた、と解釈できるわけですね。」
名もなきOL
「なるほど。でも、それを義仲が知ったら怒るんじゃないでしょうか?平家を破ったのは俺なのに、って。」
big5
「実際、かなり怒ったみたいですよ。ただ、義仲の立場はそれ以上に危うくなっていたんです。閏10月、現在の岡山県にある水島で、義仲が送った軍が平家軍に大敗。しかも、11月には後白河法皇とついに武力衝突を起こし、実力で後白河法皇を捕らえて幽閉。朝廷人事にも介入して、義仲に反抗的だった貴族49人を解任するなど、清盛を連想させるような荒業を行ったので、完全に朝廷を敵に回してしまいました。これを見た頼朝は、義仲を追討する絶好の機会であると考え、弟の範頼と義経を大将とする義仲追討軍を派遣しました。
事態は、義仲 vs 頼朝という、平家を蚊帳の外に置いた源氏同士の対決になったわけです。」
名もなきOL
「源平合戦っていう名前ですが、ここまで来ると日本の覇権をかけた争いのようになってきましたね。」
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