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古代

アレクサンドロス大王の遠征とヘレニズム時代

あらすじ

big5
「今回のテーマは歴史人物の中でも特に有名なアレクサンドロス大王です。「東方遠征」とか「アレクサンドロスの東征」という用語も有名なので、覚えている人も多いと思います。さて、ここで問題です。アレクサンドロスの東方遠征は、どこまで到達したでしょうか?」
名もなきOL
「たしか、ペルシア辺りまで行ったような・・・」
big5
「残念、もっと東です。ペルシアからさらに東に行き、インド北西部まで行ったんです。↓の「世界の歴史まっぷ」さん作成の地図をご覧ください。」

名もなきOL
「広い!ギリシアにオリエント世界が加わって、さらにインドの北西部分にまで勢力範囲が広がっています。これまでで一番大きな国ですね。」
big5
「そうなんです。アレクサンドロス大王の東方遠征では、大王の天才的な軍事指揮官としての能力が注目されますが、世界史の流れという点で考えると、二つの世界が一緒になった、という点がとても重要視されています。二つの世界とは、ギリシア世界とペルシアなどの東方世界ですね。アレクサンドロスが築いた大帝国は短命で崩壊しますが、この広い地域で支配者として君臨したギリシア人達によってギリシア文化が広まり、各地の地元の文化と融合して新たな文化が生まれました。これがヘレニズム文化です。」
名もなきOL
「なるほど、アレクサンドロス大王の遠征は人と文化の交流を促進することにもなったんですね。戦争はキライですが、それが国際交流のきっかけにもなったんですね。」
big5
「そうですね。それでは、いつもどおりまずは年表から見ていきましょう。」

年月 ヘレニズム世界のイベント 他地方のイベント
前338年 カイロネイアの戦い マケドニアのフィリッポス2世がギリシア軍を破る
前337年 フィリッポス2世を盟主とするコリント同盟(ヘラス同盟)結成
前336年 フィリッポス2世暗殺され、アレクサンドロス大王即位
前334年 アレクサンドロス大王 東方遠征開始
グラニコス河畔の戦い
前333年 イッソスの戦いでアレクサンドロス大王がダレイオス3世を破る
前332年 アレクサンドロス大王がエジプト征服
前331年 ガウガメラの戦いでアレクサンドロス大王が再び勝利
前330年 ダレイオス3世が部下に裏切られて殺される アケメネス朝滅亡
前327年 アレクサンドロス大王がインド遠征に出発
前325年 アレクサンドロス大王がバビロンに帰還
前323年 アレクサンドロス大王死去 後継者争いの争乱(ディアドコイ戦争)始まる
前301年 イプソスの戦い カサンドロス朝マケドニア、リシマコス朝、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトの4王国に分裂
前287年 ローマでホルテンシウス法成立
前281年 クルペディオンの戦いでリシマコスがセレウコスに敗れる
前276年 アンティゴノス2世がマケドニア王に即位 アンティゴノス朝マケドニアの始まり
前255年頃 ギリシア人移民から成るバクトリアがセレウコス朝から独立
前248年頃 パルティアがセレウコス朝から独立
前241年 アッタロス1世がペルガモンを支配 アッタロス朝ペルガモンの始まり 第一次ポエニ戦争 ローマ勝利で終結
前215年 マケドニアとローマの戦争が始まる
前168年 ピュドナの戦いでマケドニアがローマに敗れて滅ぶ
前146年 ギリシアがローマの属州になる
前139年頃 バクトリアがスキタイ系遊牧民の大月氏に滅ぼされる

アレクサンドロス大王の東方遠征

フィリッポス2世とマケドニア強大化

big5
「今回の主役であるアレクサンドロス大王の話の前に、アレクサンドロス大王の母国であるマケドニアから見ていきます。アレクサンドロス大王は超有名人ですが、「大王はどこの国の王様だったか?」と聞かれると、意外と正答率が低いのでしっかり覚えておいてください。ちなみに、現代ではギリシアの北に「北マケドニア」という国がありますが、これは第二次世界大戦後にスラヴ系民族が古い地名を取ってつけた国名ですので、アレクサンドロス大王のマケドニアとはちょっとしか関係ありません。
古代ギリシア世界ではマケドニアは北の方にある田舎の国でした。ギリシア人の国でしたがポリス社会ではなく、国王が支配する王国です。一夫多妻制など、本土のギリシア社会とは異なる部分も多かったので、本土ギリシア人からは「ギリシア人とはやや違う、開発途上の田舎民族の国」と思われていました。」
名もなきOL
「軽く見られていたわけですね。」
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「ところが、アレクサンドロス大王の父であるフィリッポス2世の時代になると、大きく状況が変わり始めたんです。フィリッポス2世は、幼少の頃は当時のギリシア世界のリーダー格だったテーベで人質として滞在していたのですが、そこで軍の制度や戦術などを学び、帰国して国王に即位してから改革に取り組みました。その結果、重装歩兵から成るファランクスは、約6mもある長い槍を装備したマケドニア式ファランクスとなり、さらに騎兵隊を組織して戦術に取り入れるなど、多くの改革を断行してマケドニアを強い軍事国家へと変貌させました。」

Phillip II, king of Macedonia, Roman copy of Greek original, Ny Carlsberg Glyptotek, Copenhagen (36420294055)フィリッポス2世像 ローマ時代に複製されたもの

名もなきOL
「アレクサンドロス大王のお父さんも、力のある人だったんですね。」
big5
「はい。アレクサンドロス大王が東方遠征で成功した基礎を築いたのは、父であるフィリッポス2世なんです。
強国となったマケドニアに対し、アテネでは論争が起きました。マケドニアをギリシア世界のリーダーとして認めようとするイソクラテスらの親マケドニア派と、マケドニアを認めないデモステネスらの反マケドニア派です。この論争はデモステネスらの反マケドニア派が勝ち、アテネはテーベと共にマケドニアと戦うことになりました。前338年、カイロネイアの戦いです。フィリッポス2世(この年44歳)は、自分が養成したマケドニア軍を率いて戦い、アテネ・テーベ軍を圧倒して勝利しました。なお、当時はまだ王子だったアレクサンドロス大王(この年18歳)も騎兵隊の指揮官として参戦しています。」
名もなきOL
「これでは、ギリシア世界もマケドニアを認めないわけにはいかないですね。カイロネイアの戦いは、マケドニアの力が示された戦いだったんですね。」
big5
「翌年の前337年、フィリッポス2世はギリシアの諸ポリスをまとめてコリント同盟(ヘラス同盟)を結成させました。フィリッポス2世が盟主となり、ギリシアの諸ポリスはその覇権を認めることになったんです。反マケドニア派のデモステネスは逃亡して再起を図りましたが、計画は成功せずのちに殺されています。なお、スパルタだけはこの同盟に加わっていなかったことは、テストなどでもよく出題されるポイントですね。
フィリッポス2世は過去のペルシア戦争などへの報復を掲げてペルシア遠征を発表し、その準備を進めていたのですが、前336年、娘の結婚式の最中に部下に斬られて殺されました。46歳になる年でした。後継者となったのが、20歳になるアレクサンドロス大王です。アレクサンドロス大王は、父・フィリッポス2世が準備していたペルシア遠征を引き継ぐことになりました。」
名もなきOL
「ペルシア遠征って、元々はお父さんのフィリッポス2世の計画だったんですね。それにしても、アレクサンドロスは20歳で国王だなんて、若いな〜。」
big5
「その若きアレクサンドロスが東方遠征で大成功したので、「軍事の天才」と称されるわけですね。それでは、次はアレクサンドロス大王の遠征について見ていきましょう。」

アケメネス朝ペルシアとの戦い

big5
「父・フィリッポス2世の死から2年後の前334年、アレクサンドロス大王は軍を率いてペルシア遠征に出発しました。この年号は、有名なゴロ合わせがあるので紹介しておきますね。私もこれで覚えています。

さぁさぁし(334)っかり東方遠征だ
名もなきOL
「これ、単純で覚えやすいですね。私もこれで覚えることにします。」
big5
「アレクサンドロス大王の遠征は、まさに快進撃と呼べる勝利の連続でした。まず、緒戦となったグラニコス河畔の戦いでペルシア軍を撃破。ペルシア領内に侵入します。翌年の前333年、時のアケメネス朝ペルシアの王であったダレイオス3世は、アレクサンドロス大王の軍よりもかなり多い兵を動員して自ら率いて迎え撃ちました。イッソスの戦いです。兵力で負けているにも関わらず、アレクサンドロス大王はダレイオス3世の軍を打ち破って大勝利を収めました。ダレイオス3世は命からがら落ち延びていきましが、この時、戦場まで連れてきていた母や妻、子供たちなどを回収する余裕もありませんでした。そのため、アレクサンドロス大王に捕らえられてしまったんです。」

Battle of Issus mosaic - Museo Archeologico Nazionale - Naples 2013-05-16 16-25-06 BW イッソスの戦い 噴火で埋もれたローマの街・ポンペイで発見された有名なモザイク画

名もなきOL
「戦闘で大敗したうえに、母や妻子まで捕らえられるなんて、ダレイオス3世のダメージは測り知れないですね。」
big5
「そうですね。ですが、ダレイオス3世はこれで終わったわけではありません。よく誤解されるのですが、イッソスの戦いでダレイオス3世は敗れましたが死んではいません。落ち延びて2年後にガウガメラの戦いに臨んでいます。しかし、OLさんがいうようにダメージは相当なものだったでしょう。イッソスの戦いの後、アレクサンドロス大王は南に向かい、前332年にはエジプトを征服。エジプトの神官からファラオと認められました。この時に、地中海沿いに築いた都市・アレクサンドリアは、その後ヘレニズム文化の中心地のひとつとしておおいに繁栄しています。」
名もなきOL
「大王は街もたくさん作っているんですね。アレクサンドリアと名付けられた新しい街は70くらいあった、と聞いています。その中でも一番有名なアレクサンドリアが、エジプトのアレクサンドリアですね。」
big5
「エジプトを一通り回った後、前331年にアケメネス朝ペルシアの都の一つであるバビロンに向かいます。一方、イッソスで大敗したダレイオス3世でしたが、軍を立て直して再びアレクサンドロスに挑みます。両者の決戦となったのがガウガメラの戦い(アルベラの戦い)です。」

Battle of Gaugamela
ガウガメラの戦い 制作者:Jan Brueghel 制作年代:1602年

big5
「ガウガメラの戦いで、ダレイオス3世は再びアレクサンドロスの軍を大きく上回る兵力を率いていたのですが、結果はアレクサンドロスの圧勝。一度ならず、二度までも兵力劣勢をひっくり返したアレクサンドロス大王は「軍事の天才」と称される所以の一つです。ダレイオス3世は戦場から落ち延び、バビロンも捨てて東に逃げるのですが、翌年の前330年に部下に裏切られて殺されました。アケメネス朝ペルシアは、アレクサンドロス大王の東方遠征で滅亡となりました。」

インド遠征と東方融和政策

名もなきOL
「ペルシア遠征は大成功となったわけですね。でも、遠征はこれで終わったわけではないんですよね?」
big5
「はい。バビロンに入城し、戦後処理が一段落した後、アレクサンドロス大王はインドへの遠征を発表。これには部下たちもビックリしたことでしょう。ペルシア遠征で既に故郷・マケドニアから遠く離れた異国まで来ているのに、さらに遠くへ行こうというわけですからね。前327年、アレクサンドロス大王はペルシア人を加えた遠征軍を率いて出発。西北インドでその地の支配者と一戦交えて勝利しますが、慣れないインドの熱帯地方気候にも体力を奪われ、ついに部下たちが遠征に反対。やむを得ず、アレクサンドロス大王は撤退を決意しました。なお、撤退といっても来た道を戻るのではなく、アラビア海沿岸まで出て、広大な不毛地帯を西に向かって進むという難行軍を経てバビロンまで帰る、というルートです。この遠征で、多くのギリシア人が病気などで亡くなりました。」
名もなきOL
「兵士たちにとっては、戦闘よりも遠征と強行軍の方が辛かったかもしれませんね。それにしても、アレクサンドロス大王はまるで冒険家ですね。天才的軍事指揮官というのもそうだと思いますが、私は好奇心旺盛な探検家なんじゃないか、と思います。」
big5
「そうですね。もしアレクサンドロス大王がフィリッポス2世の子ではなく、ギリシア市民の子として生まれていたら、大冒険家として名を残したかもしれませんね。
こうしてアレクサンドロス大王の東方遠征でアケメネス朝ペルシアは滅び、ギリシアから西北インド付近までを支配地とする、この時点で史上最大の帝国を築き上げました。アレクサンドロス大王は、この広大な帝国で東西融和政策と呼ばれる政策を実行しています。その主だったものは・・・
@ペルシアの宮廷儀礼(跪拝(きはい)礼)を導入。マケドニアの部下たちも、アレクサンドロス膝まずいて礼をしなければならない。
Aマケドニア兵士とペルシア人女性の集団結婚式。自らもダレイオス3世の娘と結婚
Bペルシア人をマケドニア人と対等に扱う。インド遠征時も、多数のペルシア人兵士を軍に加えた。
C各地の総督に現地人を採用。
Dギリシア語を共通語(コイネ)とした。
というものです。」
名もなきOL
「集団結婚式の話を高校で先生が話していたのを覚えています。「民族融和」の象徴ですよね。でも、それ以外の政策も、征服されたペルシア人にかなり優しいですね。ペルシア人は良かったかもしれませんが、元々大王に従っていたマケドニア人は納得できなかったのではないでしょうか?」
big5
「はい、かなり不評だったみたいです。ペルシアよりもさらに東に遠征した時も、部下からかなり不満が出ましたし。それでもアレクサンドロス大王は、今度はアラビア遠征を発表。南のアラビア半島に進攻しようとしましたが、それから間もない前323年、突如亡くなります。33歳になる年でした。アレクサンドロス大王は死ぬ間際に「後継者は最も強い者」と言った、と部下の将軍たちが言い始め、我こそがアレクサンドロス大王の後継者だと主張して争いが始まりました。これをディアドコイ戦争と言います。ディアドコイとは「後継者」という意味です。」
名もなきOL
「英雄の死後は内紛が起きる、というのは古今東西共通の原理ですね。ディアドコイ戦争の始まりで、広大なアレクサンドロスの帝国は分裂することになったんですね。」

ヘレニズム世界の発展

ディアドコイ戦争

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「前323年にアレクサンドロス大王が亡くなった後、後継者の座をめぐってディアドコイ戦争が始まった、という話を前章の終わりに話しました。この章では、ディアドコイ戦争のその後を見ていきます。ただ、時間にするとおおよそ300年くらいの歴史があり、細かく見ていくとネタは豊富なのですが、ここでは高校世界史で扱うレベルに基づいて話を進めていきますね。」
名もなきOL
「大学入試センター試験レベル、ということですね。」
big5
「アレクサンドロス大王の死後から、国家運営の主導権をめぐって有力武将らの争いが始まりました。なにしろ、若くして亡くなったアレクサンドロス大王には後継者になれるような息子などの男の血縁者がいなかったからです。ただ、正妻である東方出身の女性・ロクサネが妊娠中でした。そこで、知的障害がある大王の異母弟をフィリッポス3世として仮の王とし、ロクサネの子が男の子だったら、その子を王とする、という話になりました。結果、ロクサネは男の子を出産。男の子はアレクサンドロス4世として即位します。」
名もなきOL
「それなら、アレクサンドロス4世が後継者、ということで決着がついて・・とはならなかったんですね?」
big5
「はい、なりませんでした。後見人らが主導権争いを起こして内乱となり、結果としてフィリッポス3世もアレクサンドロス4世も数年後に殺されてしまい、アレクサンドロス大王の血筋は途絶えてしまったんです。その後、有力武将の一人であるアンティゴノスが大きな力を持つようになり、その勢いでマケドニア王を自称するようになります。有力者が実力で王を名乗るようになったわけですね。
しかし、優勢だったアンティゴノスも前301年のイプソスの戦いで敗北して滅亡してしまいます。 この時点の勢力図が『世界の歴史まっぷ』さん作成の地図にありましたので見てみましょう。」

名もなきOL
「(1)カサンドロス朝マケドニア(マケドニア本国)
(2)リシマコス朝
(3)セレウコス朝シリア
(4)プトレマイオス朝エジプト
の4つの勢力になったんですね。」
big5
「はい。ただこの4体制も長続きしませんでした。カッサンドロス朝マケドニアはその後間もなく滅び、小アジアで力を持っていたリシマコス朝も前281年のクルペディオンの戦いでセレウコス朝に敗れて滅びました。代わって、前276年にアンティゴノスの孫であるアンティゴノス2世が復権して、アンティゴノス朝マケドニアを建国。結果として
(1)アンティゴノス朝マケドニア
(2)セレウコス朝シリア
(3)プトレマイオス朝エジプト
の3王国になりました。以後、国の興亡はまだあるものの、この3王国で比較的安定するようになったので、ディアドコイ戦争は終結した、とみなされることが多いですね。」



ヘレニズム世界の変遷と終焉

big5
「ディアドコイ戦争が終わり、ようやく安定したヘレニズム諸国でしたが、いくつか重要な国家が誕生していますので、それを見ていきましょう。
まず領土が広い<セレウコス朝では東部が独立する、という事態になっています。前255年頃には中央アジアのギリシア人移民が主となってバクトリアという国を建てて分離独立。その西隣では前248年頃に地元のペルシア人が主体となってパルティアという国を建てて分離独立しています。この2国は名前も独立時期も似ているので、混同しやすいですね。知名度としては、のちにローマの強敵として再登場するパルティアの方が有名です。」
名もなきOL
「セレウコス朝の領土は、ほぼ旧アケメネス朝ペルシア領ですもんね。そこに、支配者がギリシア人だから、いろいろうまくいかないことは多そうですね。」
big5
「そして、ヘレニズム文化という観点で重要なのが前241年に成立したアッタロス朝ペルガモンです。小アジアのペルガモンに首都を置いたアッタロス朝はヘレニズム文化がおおいに発達し、ペルガモンはエジプトのアレクサンドリアと並ぶヘレニズム文化の中心地となりました。これはあとでヘレニズム文化の話で再登場します。
その後、ヘレニズム諸国は安定していましたが、今度は西から新たな脅威が迫ってきていました。ローマです。前215年にマケドニアがローマと戦いを始めた頃から、時代の中心はローマに移りはじめました。数回にわたった戦争のすえ、前168年のピュドナの戦いでローマに敗北して滅亡。前146年にはギリシア全体がローマの属州として吸収されました。一方、東側では、セレウコス朝から独立したギリシア人主体の国・バクトリアが中央アジアから侵入してきた遊牧民の大月氏(だいげっし)によって前139年頃には滅ぼされました。」
名もなきOL
「大月氏だなんて、変わった名前ですね。しかも突然漢字だし。」
big5
「大月氏という名は中国語での名前なんですよ。中国の歴史書に記された名前が、日本でもそのまま使われています。中央アジアといえば、遊牧民族の歴史なんです。この後にも、いろいろな名前の遊牧民族が登場しますが、大月氏は最初の方に登場する重要遊牧民族の一つです。
この後も、セレウコス朝やプトレマイオス朝は、国家としてまだ存続していますが、歴史の主役はローマになります。最後は、前30年にプトレマイオス朝エジプトの最後の女王・クレオパトラがローマに敗れて自殺したことで、最後のヘレニズム国家は滅びました。時代はローマ帝国の時代になります。


と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回はヘレニズム文化の話になります。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問

big5
「大学入試共通テストでは、アレクサンドロス大王とヘレニズム時代のネタはたまに出題されています。古代史は、最初の方で習うので試験前には内容を忘れがちです。他の分野に比べて優先度は低いものの、試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」

令和2年度 世界史B 問題6 選択肢b
・ガンダーラ美術は、古代ギリシアの美術(ヘレニズム美術)に影響を与えた。〇か×か?
(答)×。文章の意味を確認するのにちょっと時間がかかって迷うかもしれませんが、これは逆です。ヘレニズム美術がガンダーラ美術に影響を与えているので、この文は誤りとなります。

令和4年度追試 世界史B 問題23
(問題)ポリュビオスは著書であるローマの「歴史」の中で、ローマと比較すべき過去の大国として3つ挙げている。一つ目はギリシアとの戦争がヘロドトスの史書の主題ともなった(エ)で・・(中略)・・3つ目は(オ)を挙げて次のように述べている。
(オ)はまずヨーロッパ内の支配領域を広げたが、これはヨーロッパ全域のほんの一部分にすぎない。その後、(エ)を滅ぼしてアジアにも覇権を拡大した結果、史上最大の地域と人口を配下に従えたと称賛されるようになったけれども・・・・
(エ)にあてはまる語と、(オ)の国が支配下に入れなかった地域との組み合わせとして正しいものを選べ。
(エ)アッシリア or アケメネス朝
(オ)イベリア半島 or エジプト

(答)(エ)アケメネス朝(オ)イベリア半島。上記のように、ギリシアと戦争し、それがヘロドトスの「歴史」にも描かれたのはアケメネス朝であることは基本的な知識。(オ)については、あてはまる言葉ではなく(オ)が支配していない地域を選ぶという、一ひねり入った問題だが、(オ)は(エ)のアケメネス朝を滅ぼしているのでアレクサンドロス帝国であることがわかる。アレクサンドロス帝国はイベリア半島は支配していないので、(オ)イベリア半島が正解となる。


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参考文献・Web site