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「今回のテーマはイベリア半島の争乱です。キリスト教徒の視点からは「レコンキスタの始まり」とも言えます。レコンキスタというと、1492年にスペインが完成させた、という点がよく言われますが、そのレコンキスタの始まりは、これくらいの時期なんです。つまり、レコンキスタはおよそ400年かけて行われてきたわけですね。本章では、イベリア半島の争乱とレコンキスタの始まりの時代を見ていきます。
まずは年表から見ていきましょう。」
年月 | イベリアのイベント | 他地方のイベント |
1031年 | 後ウマイヤ朝が滅亡 | |
1035年 | アラゴン王国がナバラ王国から分離 | |
1056年 | ムラービト朝成立 | |
1076年 | ムラービト朝がガーナ王国を攻撃 アラゴン王サンチョ・ラミーレスがナバラ王位を継承 |
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1085年 | カスティーリャ=レオン王国のアルフォンソ6世がトレドを攻略 | |
1086年 | ザグラハスの戦いでムラービト朝がアルフォンソ6世を破る | |
1090年 | ムラービト朝がグラナダ王国を滅ぼす | |
1091年 | ムラービト朝がセビーリャ王国を滅ぼす | |
1092年 | エル・シッドがバレンシアを包囲 | |
1094年 | ムラービト朝がバダホース王国を滅ぼす エル・シッドがバレンシアを攻略 アラゴン王国がサラゴサ王国のウエスカを包囲開始 |
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1095年 | クレルモン公会議でウルバヌス2世が十字軍を提唱 | |
1096年 | アルコラースの戦いで、アラゴン王ペドロ1世がレオン・サラゴサ連合軍に勝利 | |
1099年 | エル・シッド死去 | |
1102年 | ヒメーナがバレンシアに火を放って退去 ムラービト朝がバレンシア獲得 | |
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「イベリア半島を治めていた後ウマイヤ朝は、3カリフ時代の一角を担う大国でしたが、次第に衰え始め、地方勢力の反乱をきっかけに1031年に滅亡しました。
この結果、イスラム勢力はセビリヤ、グラナダ、サラゴサ、トレドなどタイファと称される小王国が30ほど分立して争う時代になりました。また、キリスト教勢力にとっても勢力拡張の好機となり、イベリア半島は日本の戦国時代のような群雄割拠の時代になりました。」
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「このような状況の中、頭一つ抜きんできたのがレオン=カスティーリャ連合王国のアルフォンソ6世です。」
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「アルフォンソ6世は父の死後の分割相続でレオン王国のみを継承しました。しかし、その後兄弟で王位を奪い合うこととなり、いろいろあった結果、アルフォンソ6世が兄が継承したカスティーリャ王国も継承したため、レオン=カスティーリャ連合王国と表現されています。
アルフォンソ6世は、タイファ諸国の抗争をうまく利用しました。タイファ諸国に対して保護や援助を与える代わりに、けっこうな金額の貢納を取り立てました。タイファ諸国は、ライバルを倒すためにアルフォンソ6世の力を利用しようとしたのですが、それには大金が必要だったわけですね。タイファ諸国の中に、古都・トレドを治めるトレド王国がありましたが、トレド王国はアルフォンソ6世へ莫大な貢納を支払っている国の一つでした。貢納の原資はトレド市民に課せられた重税でした。そのため、トレド市民は親アルフォンソ6世派と反アルフォンソ6世派に分かれて争いを始めます。アルフォンソ6世はこれを利用し、1081年にトレドを包囲。1085年にはトレドは降伏しました。アルフォンソ6世のトレド攻略は、長いレコンキスタの歴史の中で最初の大都市征服とみなされています。
アルフォンソ6世は、この勢いで南のセビリア王国も征服しようとしたため、セビリア王国は、この頃モロッコ方面に興ったばかりで勢いのあるベルベル人のムラービト朝に救援を依頼することとなりました。ムラービト朝はこれを受け入れて遠征軍を派遣。1086年、サグラハスの戦いでアルフォンソ6世の軍を破りました。この戦いでアルフォンソ6世自身も片足を失うという大怪我をしています。ちなみにこの時、タイファ諸国も軍を出してアルフォンソ6世の軍と戦ってますが、彼らは惨敗しています。勝てたのはひとえにムラービト朝の軍事力の高さのおかげです。」
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「サグラハス勝利の勢いに乗りたいタイファ諸国でしたが、事態は別の方向に進んでいきました。その後のアルフォンソ6世との戦いの中で、攻城戦が上手くいかないことをきっかけにタイファ諸王が仲間割れを起こします。グラナダ王などは、一度は廃止したアルフォンソ6世への貢納を再開し、その財源としてグラナダ民衆に再び課税したため、民衆の支持は急激に下落しました。イスラム法学者らは
「タイファ諸王は弱い上に異教徒への貢納のためにコーランにない税金を民衆に課している。けしからん。ムラービト朝がイベリア半島を治めた方がいいのではないか」
と主張し始めました。こうして、タイファ諸王国は民衆・イスラム法学者らの支持を失い、ムラービト朝によって1090年にグラナダ王国が、1091年にセビーリャ王国が、そして1094年にバダホース王国が征服されました。この結果、ムラービト朝はイベリア半島の南半分を領土とすることになり、さらに勢力を拡大させることに成功したわけです。」
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「さて、ここでスペインでトップクラスの人気を誇る歴史上人物、エル・シッドが登場します。突如現れて急速に領土を拡大し始めたムラービト朝ですが、ムラービト朝の征服事業に強力な歯止めをかけたのがエル・シッドが治めるバレンシアでした。
まず、エル・シッドの経歴から簡単に見ていきましょう。まず、「エル・シッド」とは「我が君」という意味の呼称です。本名はロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール(Rodrigo Diaz de Vivar)エル・シッドは1043年頃の生まれと考えられており、父はカスティーリャの中小貴族でした。父の死後、レオン・カスティーリャ王のサンチョ2世に育てられましたが、サンチョ2世が暗殺され、アルフォンソ6世の治世になってからは不遇の時代を送っていました。ある時、エル・シッドが武功を立てたにもかかわらず、何かしらの理由である激怒したために追放されてしまい(この辺の経緯には諸説あります)、イベリア半島北東部を治めるタイファ諸国の一つであるサラゴサ王国に行き、そこで傭兵隊長として仕えることになりました。この時代のイベリア半島では、このようにキリスト教徒の元騎士が、イスラム教国に仕えるといったこともたびたび生じており、キリスト教とイスラム教の違いは対立軸の一つではあるものの、西欧世界のような決定的な対立関係ではなかったことが特徴です。
サラゴサ王国は、北のキリスト教国であるアラゴン王国がしばしば領土拡大を図った攻め込まれていましたが、エル・シッドの活躍で撃退に成功していました。しかし、ムラービト朝がイベリア半島に上陸し、サグラハスでアルフォンソ6世を破った後に状況は変化します。エル・シッドはアルフォンソ6世と和解したものの、アルフォンソ6世ともサラゴサ王国とも異なる独自の路線を進むことになります。彼が狙ったのは、タイファ諸国の一つ、バレンシア王国でした。」
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「当時、バレンシア王国を治めていたのは、元トレド王のアル・カーディルでした。バレンシアがサラゴサ王国の有力者に攻撃された時、エル・シッドはバレンシアに加勢してこれを撃退。アル・カーディルからエル・シッドへ貢納を支払うことを約束させました。一方で、アル・カーディルはアルフォンソ6世もに貢納しており、その原資はバレンシア住民へ課された税金だったので、バレンシア民衆からはあまり好かれていませんでした。そんな折、エル・シッドがアラゴン王国に攻め込んで不在の間に、バレンシアはムラービト朝の支配下に入ることになりました。エル・シッドは、バレンシアに置いてある自分の財産を引き渡すように求めますが、バレンシアの指導者らはこれを拒否。怒ったエル・シッドは1092年にバレンシアを包囲しました。その後間もなく、バレンシアとエル・シッドの間で和約が成立したのですが、バレンシア内で親ムラービト朝と反ムラービト朝(親エル・シッド、とも)に分かれて内紛に発展。エル・シッドは1093年に再びバレンシアを包囲し、飢えに苦しんだバレンシアは1094年に降伏。エル・シッドはバレンシアの支配者となりました。
バレンシアの支配者となったエル・シッドの政治は、民衆の声をよく聴いた善政だったそうです。また、たびたび周辺勢力やムラービト朝がバレンシアに攻め込みましたが、エル・シッドはこのすべてを撃退。彼の戦績には一度の敗戦もないそうです。また、エル・シッドの娘は北のナバラ王国の王子やバルセロナ伯に嫁ぎ、周辺勢力とも姻戚関係を結ぶほどでした。ここまで英雄的な活躍を見せたエル・シッドですが、1099年(エル・シッド55歳くらい)に死去。その後、妻のヒメーナがバレンシアを治めてムラービト朝の攻撃をしのぎますが、もう限界でした。ヒメーナは救援に来たアルフォンソ6世の勧めで、1102年にバレンシアに火を放ってレオン・カスティーリャ王国に退去。その後、ムラービト朝がバレンシアを征服しています。
このように、輝かしい数々の武勲に加え、騎士身分から一国の主にまで上り詰めたエル・シッドは、約800年に渡る歴史を持つレコンキスタの中でも異色の存在です。また、キリスト教徒でありながらイスラム教国も仕え、狂信的な宗教観も感じられません。今でもスペインの歴史の中でトップクラスの人気を誇っているのも納得ですね。」
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「さて、ここまでムラービト朝の動きを中心にして、イベリア半島の中部・南部の歴史を見てきましたが、ここで北東部を見ていきましょう。この頃、イベリア半島北東部で勢力を伸ばしたのがアラゴン王国です。最初のきっかけは、1076年に西隣のナバラ王が暗殺された後、誰がナバラ王位を継承するかの争いの中で、アラゴン王のサンチョ1世(サンチョ・ラミーレス)がアルフォンソ6世との競争に勝ち、ナバラ王位を継承したことです。
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「その後、サンチョ1世は南のサラゴサ王国へたびたび攻め込みましたが、アルフォンソ6世はサラゴサ王国から貢納を受けていたので、たびたびサラゴサ王国を支援しました。ここにも、単純なキリスト教 vs イスラム教、という図式では成り立たない当時のイベリア半島情勢が垣間見えますね。また、サラゴサ王国に傭兵隊長として仕えていた英雄エル・シッドにもしばしば撃退されており、領土拡大は全然進みませんでした。
そんな状況は、ムラービト朝のイベリア侵入で変わります。アルフォンソ6世は対ムラービト朝で掛かり切りになってしまい、エル・シッドはサラゴサの南のバレンシア王国の支配者となってムラービト朝と戦うようになったわけです。これは、アラゴン王国から見れば、これまで領土拡大を妨げていた2大要因が消えたことを意味していました。1094年、サンチョ1世はサラゴサ王国の重要拠点であるウエスカを包囲。サンチョ1世は包囲中に病死しましたが、息子のペドロ1世が王位を継ぎ、ウエスカ包囲も継続。1096年のアルコラースの戦いで、レオン・カスティーリャ&サラゴサ王国の連合軍を破り、ウエスカも降伏させました。ペドロ1世は攻略したウエスカを新拠点とし、さらにアラゴン王国を強国へと発展させていくことになります。」
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「本章で扱ったイベリア半島の争乱やレコンキスタ(前期)の論点は、大学入試センター試験では出題されません。試験前は、他の分野を復習しましょう。」
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