big5
「さて、今回のテーマはイタリア王国成立ですね。イタリア王国成立につながった戦争を、イタリア統一戦争(Second Italian War of Independence)と呼んでいますが、別名として「第二次イタリア=オーストリア戦争」という名前があります。イタリアが現在の領土を回復するまでに、オーストリアと戦った戦争を「イタリア=オーストリア戦争」と呼んで、1848年の戦いが第一次、そして1859年のこの戦いが第二次、とする考え方ですね。ちなみに、英語でもいろいろ名前があるのですが、標準的なのは「第二次イタリア独立戦争」となっていて、何を基準にするかでまちまちですね。私個人は、「イタリア統一戦争」とう名前はちょっと正しくない気もするのですが、他にちょうどいい名前もないので、ここでは「イタリア統一戦争」という名前で記述します。」
名もなきOL
「歴史イベントをどう呼ぶか、というのはなかなか難しい問題ですね。立場や受け取り方によっても違ってきますしね。」
big5
「まさにそのとおりです。それでは、あらすじから始めましょう。
1848年の革命の波に乗って、イタリアも国家統一に向けての騒乱がありましたが、結局は失敗してしまい、イタリアは分裂状態のままでした。そんな中、サルデーニャ王国の首相・カヴールはフランスの支援を得てイタリア統一を進めることを画策。1853年に勃発したクリミア戦争の際も、直接関係しないにも関わらず、フランスに味方して好感度を上げる努力をしていました。1858年、カヴールはフランス皇帝・ナポレオン3世と温泉保養地であるプロンビエールで会談し、プロンビエールの密約を交わします。その内容は、サヴォイアとニースをフランスに譲る代わりに、フランスはサルデーニャと共にオーストリアと戦う、というものでした。フランスを味方につけたサルデーニャ王国は、1859年4月にイタリア北部のロンバルディアに侵攻。こうしてイタリア統一戦争が始まりました。
1859年6月、ソルフェリーノの戦いで多大な損害を出しながらもオーストリア軍を破ったサルデーニャ・フランス連合軍でしたが、あまりの損害の大きさとフランス国内の非難の影響でナポレオン3世が戦争継続に二の足を踏んでしまいます。1859年7月、ヴィラフランカの和約を結んでフランスは単独講和して脱落してしまいました。ヴィラフランカの和約の内容は、ロンバルディア地方をサルデーニャ領とすることのみ。カヴールは怒り、首相を辞任までしてしまいました。しかし、冷静になって首相に復帰。今度は、住民投票を行わせて中部イタリア諸国がサルデーニャ王国への併合を望んでいることを明らかにします。この流れに納得できない、元青年イタリア党員で戦上手のガリバルディは、1860年に突如、赤シャツ隊(千人隊)と呼ばれる義勇軍を率いて南部イタリアに侵攻。シチリアとナポリを攻略して両シチリア王国をあっという間に征服してしまう、という事件が起きました。ガリバルディの突然の動きに驚いたカヴールでしたが、ガリバルディは占領した南部イタリアをサルデーニャ国王・ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上することを明言。こうして、イタリアの大部分を獲得したサルデーニャ王国は、1861年3月にイタリア王国成立を宣言。まだ、イタリアに帰属していない地域(未回収のイタリア)を残しながらも、ついにイタリア統一国家を樹立することに成功しました。
年表にすると、以下のようになります。」
年月 | イベント | 世界のイベント |
1858年 | 7月 プロンビエールの密約 | 6月 天津条約によりアロー戦争一時中断 8月 フランスがインドシナに侵攻(仏越戦争) |
1859年 4月 |
サルデーニャ・フランス連合軍がロンバルディアに侵攻(イタリア統一戦争 開戦) | |
1859年 6月 |
ソルフェリーノの戦いサルデーニャ・フランス連合軍が辛勝 | |
1859年 7月 |
ヴィラフランカの和約で講和(イタリア統一戦争 終結) | |
1860年 3月 |
中部イタリア諸国が住民投票でサルデーニャへの併合を決める | |
1860年 4月 |
サヴォイアとニースで住民投票が行われ、フランスへの併合が決まる | |
1860年 5月 |
ガリバルディが両シチリア王国へ侵攻 | |
1860年 10月 |
ガリバルディとヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が会見 | |
1861年 3月 |
イタリア王国成立 | |
big5
「さて、まずはこの時のイタリアの状況を地図で確認しましょう。『世界の歴史まっぷ』さんが、ちょうどいい地図を提供されていますので、それを使わせていただきます。ドイツも載っていますが、ここではイタリアの話だけしますね。」
名もなきOL
「えっと、サルデーニャ王国の領土は・・・サルデーニャ島とジェノヴァとトリノが含まれているイタリア北西部ですね。あと、薄紫色になっているサヴォイアとニースもサルデーニャ領なんですね。
それ以外でイタリアを領有しているのは、黄色(ヴェネツィア)と深緑(ロンバルディア)、そして青紫(南チロル、トリエステ)の部分、つまりイタリア北部がオーストリア領、黄緑色のイタリア中部、ローマ教皇領、そして南イタリアとシチリア島を治める両シチリア王国、ですね。」
big5
「ちなみに、中部イタリアは、実際にはさらにいくつかの小国に分かれていましたので、もっと群雄割拠状態でした。このように、イタリア統一戦争が始まる1859年時点では、イタリアは分裂状態だったわけですね。青年イタリアを結成したマッツィーニ、青年イタリアに加入して戦ったガリバルディらは、革命を起こして共和国として統一する、という目標を掲げていたのですが、結局は失敗してしまいました。そんな中、サルデーニャ王国の宰相・カヴールは、サルデーニャ王国がイタリアを統一するという目標を立て、そのためにはフランスと同盟してイタリア統一を進めるという戦略を立てました。」
名もなきOL
「なるほど〜。ヨーロッパの真ん中にあるイタリアだったら、周囲の強国の影響を受けずには済みまないですもんね。フランスを味方にすれば、オーストリアが支配しているイタリア北部を奪い取ることも可能ですし、イタリア北部を押えたら、中部、南部はサルデーニャ単独でも切り取ることはできそうですね。」
big5
「そういうわけです。1858年7月、天津条約によってアロー戦争が一時的に終結した頃、カヴール(この年48歳)はフランス北東部にある温泉街・プロンビエールを訪れました。目的は、第二帝政フランスの皇帝・ナポレオン3世(この年50歳)との会談です。2人は、以下の2つを取り決めました。
1.フランスは、サルデーニャがオーストリアと戦う時は、サルデーニャ側で参戦する。
2.戦後、サルデーニャはロンバルディアとヴェネツィアなどイタリア北部を領有する。
3.サルデーニャは、フランスに協力の見返りとして、サヴォイアとニースを割譲する。
これがプロンビエールの密約です。」
名もなきOL
「さすがにタダでは協力してくれませんね、フランスは。」
big5
「駆け引きは外交の基本です。強国が弱国に頼みごとをされたなら、相応の見返りを要求するのは基本です。国家運営は慈善事業ではありません。
こうして、カヴールはフランスを味方につけることに成功したのですが、3番にあるように、これは領土の割譲という代償を伴う支援でした。これが、後に大きな問題を引き起こすことになります。
1859年4月、サルデーニャ・フランス連合軍は、ロンバルディア地方に攻め込みました。この戦争には、後に登場するガリバルディ(この年52歳)もアルプス猟兵連隊を組織して参戦し、オーストリアの補給線を襲撃しています。オーストリアも、皇帝・フランツ・ヨーゼフ1世(この年29歳)が戦線に向かい迎撃しました。6月、ロンバルディア方面のソルフェリーノで両軍が激突します。ソルフェリーノの戦いです。」
big5
「ソルフェリーノの戦いは、サルデーニャ・フランス連合軍が勝利しましたが、死傷者の数は多く「辛勝」というべき勝利でした。ソルフェリーノの戦いの翌月7月、ナポレオン3世とフランツ・ヨーゼフ1世は2人で和睦の話を始めます。サルデーニャ国王のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(この年39歳)やカヴールは外して話が進められ、オーストリアはロンバルディアを、いったんフランスに割譲するという形式をとってから、サルデーニャに割譲する、ということで和睦することを決定。ヴィラフランカの和約です。自分たちの知らないところで、このような重大な話を勝手に決められたカヴールとヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は怒り心頭でしたが、フランスの支援なしで戦争を継続することはサルデーニャ王国には無理な話です。やむを得ず、ヴィラフランカの和約を追認することなりました。」
名もなきOL
「小国の悲哀を感じさせる話ですね。国際社会は厳しいな・・・。」
big5
「そうですね。カヴールは怒りのあまり、首相を辞任してしまいます。また、ガリバルディも納得のいかない終わり方に腹を立てました。こうして、イタリア統一戦争は実に中途半端なところで終わってしまったわけです。」
big5
「イタリア統一戦争はあっけない幕切れとなりましたが、イタリア統一の気運は大きな盛り上がりを見せました。ここからは、複雑な政治駆け引きが続きますので、まずは要点だけ見ていきます。
1860年3月、サルデーニャによるイタリア統一の動きは、イタリア中部の小国の民衆に「イタリア統一」の気運をたいへん盛り上がっていました。トスカーナ、モデナ、パルマなどでは、サルデーニャ王国への併合か、独立を維持するか、の住民投票が行われ、大差でサルデーニャ王国への併合が支持されました。これを好機ととらえたカヴールは、フランスに中部イタリア併合を認めさせることで、イタリア中部を確保しようとしました。ナポレオン3世は、イタリア中部併合を認める代わりに、プロンビエールの密約で求めたサヴォイア、ニースの割譲を要求。カヴールはこれを認めます。サルデーニャ王国は、中部イタリアを獲得する代わりにサヴォイアとニースを失ったわけですね。」
名もなきOL
「なんか、ナポレオン3世ってせこくないですか?そもそも、サヴォイアとニースはオーストリアとの戦いに協力する見返りだったわけですよね?それを、今になって、オーストリアがたいして関係ないイタリア中部の件で持ち出してくるなんて・・・」
big5
「そうですね。ナポレオン3世は、皇帝と言うよりは商社のビジネスマンというかんじがしますね、私は。ただ、イタリア統一にあたって難しいのが、ローマを領有する教皇領です。カトリック国であるフランスは、教皇領の保護者的な役割だったので、イタリア中部を領有するにあたって、フランスに認めさせるのはかなり重要な話なんですよ。
こうして、サルデーニャ王国によるイタリア統一は進んでいきました。しかし、この一件に関してガリバルディが動きます。ガリバルディはニース出身です。つまり、生まれ故郷が外国の手に渡ってしまったわけです。これを決めたカヴールに対して激怒したガリバルディは、1860年5月、独自に「千人隊(赤シャツ隊 とも)」という軍を編成し、南イタリアを治める両シチリア王国に攻め込みました。」
名もなきOL
「え!?1000人くらいの軍で、一国に攻め込んだんですか?」
big5
「そうです。ガリバルディ軍はシチリア島西岸に上陸すると、兵力優位である両シチリア王国の軍を破り、首都・パレルモに攻め込みました。パレルモの戦いでは、多くのパレルモ市民がガリバルディ軍の味方に付き、6月6日に陥落。翌月の7月には東部のメッシーナも占領して、侵攻開始からわずか2カ月ほどでシチリア島を制覇しました。」
名もなきOL
「ガリバルディさん、凄いですね!軍の指揮能力は、ナポレオン3世とかよりもナポレオンに近いんじゃないんでしょうか?」
big5
「OLさん、ナポレオン3世があまり好きじゃないんですね?まぁ、それはさておき、ガリバルディの軍事指揮力はかなり高いことは間違いないです。そして、このシチリア島の制覇でたちまち英雄となりました。ガリバルディの元には義勇軍約2万が加わり、軍は大きくなりました。ガリバルディはメッシーナ海峡を越えてナポリに向かい、9月7日にはナポリを征服。両シチリア国王は外国に逃亡しました。なんと、ガリバルディは一国を征服してしまったわけです。」
名もなきOL
「凄すぎですね、ガリバルディさん!カヴールさんも頑張ってたけど、ガリバルディさんに任せちゃった方が、イタリア統一は簡単にできちゃう気がします。」
big5
「そうですね。それくらい、当時のガリバルディへの人気と期待は高かったんです。実際、ナポリの次は教皇が治めるローマに進撃しよう、としていたくらいでした。しかし、ローマへの侵攻は、フランスとの全面的な対立を招くことになるため、ガリバルディ軍の中にもローマ侵攻だけは思いとどまるべき、という意見もありました。
一方、カヴールはガリバルディの快進撃に驚愕します。わずか数カ月で、両シチリア王国が滅ぶ、という大変化が起きたわけですからね。サルデーニャ王国は、国王・ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が軍を率いてナポリ方面へ向かいました。ここが歴史の分かれ目になります。果たして、ガリバルディはサルデーニャ軍とどう向き合うのか?もし、ガリバルディが自らの手でイタリア統一を成し遂げる、と考えれば戦争になるでしょう。ガリバルディの軍才があれば、それもできたかもしれません。1860年10月25日、ナポリの北、テアーノでガリバルディはヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と会見し、征服した南イタリアをヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上する、と伝えました。さらなる戦争は回避され、サルデーニャ王国は南イタリアも領土に組み込むこととなり、イタリア統一は大きく前進することになったわけです。
それから約半年後の1861年3月、サルデーニャ王国はイタリア王国を名乗りました。ローマやヴェネツィア、南チロルにトリエステと、まだ回復していない部分はあるものの、イタリア統一はほぼ成し遂げられたわけです。国王はヴィットーリオ=エマヌエーレ2世、宰相はカヴールです。細かい話ですが、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は新生イタリア王国の初代国王なのですから、ヴィットーリオ=エマヌエーレ1世と名乗るべきなのですが、彼は1世を名乗ることをかたくなに拒否しました。彼にとっては、イタリア王国はサルデーニャ王国の続きである、と考えていたのかもしれません。」
名もなきOL
「ガリバルディさんはどうなったんですか?」
big5
「ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世との会見の後、カプレーラ島の自分の家に帰ったんです。ガリバルディは、南イタリアを1年間支配すること、千人隊をイタリア王国の正規軍に編入することを求めましたが、カヴールはこれらの要求をすべて拒否。サルデーニャ側からは、大勲章の授与、将軍の地位、貴族の称号、城の譲渡、船の譲渡などを提案したのですが、ガリバルディはいずれも拒否しました。そして、自分の家に帰って一国民として過ごすことを決めたわけですね。」
名もなきOL
「ガリバルディさんって、凄く男らしいですね。引き際もカッコイイです。」
big5
「そうですね。実際、その後もガリバルディの人気はとても高かったんです。イタリア王国成立の翌月、1861年4月にアメリカで南北戦争が始まりました。この時、大統領のリンカンはガリバルディを将軍として迎えたい、とガリバルディをスカウトしたくらいです。結局、ガリバルディはこの話は断るのですが、当時のガリバルディの知名度の高さがうかがえるエピソードですね。
それからカヴールですが、彼はイタリア王国成立の3か月後、病に倒れて急逝しました。51歳になる年でした。カヴールは、政治・外交で活躍した人物なので、ガリバルディのような誰の眼にもわかりやすい活躍はしていません。しかし、若い頃からイタリア統一の重要性を掲げ、それに向かって邁進してきた精神力と能力は、常人には到底及びません。イタリア統一のための人生だった、というかのような最期ですね。」
名もなきOL
「そうですね。ナポレオン3世と組むこととか、サヴォイアとニースの割譲とか、結果から見ると間違いだったんじゃないか、と思ったりしますけど、それが無かったらガリバルディの活躍の場すらなかったかもしれないですよね。」
big5
「そして、最後に青年イタリアのマッツィーニについて。マッツィーニは、ガリバルディがナポリを征服した時にガリバルディに合流しているのですが、共和国によるイタリア統一を目指すマッツィーニは危険人物とみなされて、まったく表に出ることができませんでした。イタリア統一運動の後半は、カヴールとガリバルディの活躍ばかりですが、そもそもイタリア統一運動が普及していったのは、マッツィーニが結成した青年イタリアの成果といえるでしょう。
マッツィーニ、カヴール、ガリバルディの3人は、「イタリア統一の三傑」として、今でもイタリア国民の中で人気の歴史人物になっているそうですよ。
イタリア統一運動は、フランス革命と同じくらい奥の深い話になるので、研究もよくされています。詳細篇もありますので、是非見てみてくださいね。」
令和2年度 世界史B 問題1 選択肢2
・マッツィーニが、両シチリア王国を占領した。〇か×か?
(答)×。両シチリア王国を占領したのは、マッツィーニではなくガリバルディです。。
令和3年度 世界史B 問題29
・この問題文はどこの地域の説明か?
この島はオレンジやレモンがおいしかった。オリーヴやワインも特産品だ。この島はイタリア半島と北アフリカの間にあるので、昔からいろいろな地域の人が交易や植民のためにやって来ている。また、島の支配者も外からやって来ることがたびたびあったことも歴史の本で知ることができた。今この島はイタリアに属している。ガリバルディという人がイタリア統一の過程でこの島を占領したそうで、彼の名前を島の様々な場所で目にした。
(答)シチリア島。上記の通り、ガリバルディはシチリア島を占領しています。この問題文がシチリア島を指していることがわからないと、問題29の選択肢の正誤判定がかなり難しくなります。新しいタイプの出題形式なので、難しく感じた受験生も多いと思います。
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