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日本史 鎌倉時代

承久の乱

あらすじ

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「さて、前回は実朝が暗殺されて源氏将軍が3代で途絶えてしまった、というところで終わりましたね。今回は、実朝の死によって起こった鎌倉時代の大イベントの一つ、承久の乱(じょうきゅうのらん)を見ていきます。OLさんは、承久の乱と聞いたら何を連想しますか?」
名もなきOL
「後鳥羽上皇が幕府を倒そうとしたけど失敗して、隠岐の島に流された、っていう話ですね。上皇が幕府を倒そうとするとか、しかも負けたら島流しになるとか、武士の力が本当に強くなったことを示す話だな、って学生の時に感じたのを覚えています。」
big5
「そのとおりですね。承久の乱が鎌倉時代の大イベントに数えられる理由は、まさにOLさんが連想した話ですね。鎌倉幕府が危機を乗り越えて、逆に日本の実施質的な支配者であることを確定させた事件なんです。なので、とても重要なんですね。さて、まずはあらすじです。
実朝亡き後、幕府は揺れ動いていました。政争が相次ぎ、有力御家人の仲間割れが起こり、さらには将軍まで暗殺されて後継者がいない、という状態なので、内部事情はガタガタです。これを好機ととらえたのが後鳥羽上皇でした。1221年、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を出し、全国の武士に義時の打倒を命じます。上皇から義時追討の院宣が出た、ということで鎌倉の武士たちはさすがに動揺しました。院宣を無視して義時についたら、朝廷から逆賊の汚名を着せられることになります。そんな鎌倉武士たちをまとめたのが、当時尼将軍と呼ばれていた北条政子の演説でした。政子は演説で
「頼朝公が鎌倉に幕府を開いたことで、そなたらは官位や俸禄を与えられたうえに、大番役などの苦役も軽くなったではないか。頼朝公の恩は山より高く、海よりも深い。今こそ、名を惜しむ者は京都を攻めよ。それでも京都方に付く、というものは今すぐ名乗り出るがよい。」
と、武士たちに発破をかけました。この演説でほぼすべての武士達は上皇方と戦うことを決意。大軍となった幕府軍は、京都に向かって進撃して上皇方の軍を撃破。かくして、幕府軍の大勝利となりました。戦後、後鳥羽上皇は隠岐の島に流され、新たに後堀河天皇が即位。京都には鎌倉幕府の監視機関として六波羅探題(ろくはらたんだい)が置かれて朝廷と貴族らを監視することに。さらに、上皇方の土地は没収して東日本の御家人らを新たに地頭に任命(新補地頭)して、鎌倉幕府の支配をより拡大させることになりました。」

イベント
1221年
承久3年
5月
後鳥羽上皇が京都で挙兵。京都守護の伊賀光季を討つ。
1221年
承久3年
6月
北条泰時率いる幕府軍が京都を占領。六波羅探題を設置。
1221年
承久3年
7月
後鳥羽上皇らが流罪とされる。
1223年
貞応2年
新補立法が制定される。
1224年
元仁元年
6月
北条義時死去。
1225年
元仁2年
北条政子、大江広元死去。

将軍の後継ぎ問題

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「さて、話は実朝暗殺事件の直後から始まります。実朝の死により、頼朝の血を継ぐ男子はすべて死んでしまっていたので、誰を将軍にすべきかは鎌倉幕府の大問題となりました。」
名もなきOL
「そういえば、義時が自ら将軍に就く、という話はなかったんですか?腹黒いんだから、こういう時においしいところを持っていきそうな気がします。」
big5
「そう思ったかもしれませんが、政治的に見てもそれはマズイですね。なぜかというと、北条氏は頼朝の妻である政子の実家で、義時は実朝の叔父、ということで他の御家人よりも1ランク上の地位を保っていましたが、頼朝の血を継ぐ将軍がいなければ、「将軍の親族」という肩書は無くなります。そうなると、幕府創業の功臣の家、というだけになり、これでは他の有力御家人とあまり差がありません。そんな義時が将軍に就いたとしたら、北条に従おうとしない武士は言うことを聞かなくなり、幕府は瓦解していたのではないか、と思います。
鎌倉幕府の将軍は、武士の元締めになりますので、それなりに貴種であること、つまり高貴な家の人でなければなりませんでした。」
名もなきOL
「なるほど、大義名分と言うか、政治ってそういうものなんですね。私は政治家はムリだろうな。。」
big5
「貴種、という意味では、頼朝は源氏の棟梁であり、源氏の祖先は天皇です。頼朝と同格以上の貴種となると、やはり皇族になります。そこで、幕府は皇族の誰かを将軍として迎えたい、と朝廷に伝えました。当時の朝廷の実質的トップは後鳥羽上皇でした。」

Emperor Go-Toba
後鳥羽上皇(水無瀬神宮蔵)  制作者:藤原信実? 制作年代:1221年?

名もなきOL
「実質的トップ、ということは、名目上は別の人がトップだったんですね?」
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「はい、当時の天皇は順徳天皇で、後鳥羽上皇の第三皇子です。いわゆる、院政だったわけですね。後鳥羽上皇は、承久の乱で敗れた天皇というイメージが強いですが、実は文武に優れ、特に歌人として秀でていました。新古今和歌集の編纂を命じたことでも有名です。1200年頃には、西面の武士(さいめんのぶし)を新設して、既存の北面武士院と合わせて院の警護を強化したりと、鎌倉幕府の影に隠れがちでしたが、治績の多い上皇でした。そんな後鳥羽上皇は幕府の要請を断っただけでなく、逆に「摂津の長江・倉橋(現在の大阪府豊中市のあたり)の荘園の地頭が領主の言うことを聞かないから辞めさせろ。」と要求しました。」
名もなきOL
「なんでその2つの荘園の地頭を辞めさせるように要求したんですか?」
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「長江・倉橋の2つの荘園の領主は、伊賀局(いがのつぼね 亀菊(かめぎく)とも)という女性で、後鳥羽上皇の愛妾だったんです。」
名もなきOL
「なんだ、女性絡みだったんですね。。」
big5
「しかし、幕府は後鳥羽上皇の要求を拒否。「罪もないのに、功を立てて任じた地頭を辞めさせるわけにはいかない」という理由です。ここが、鎌倉幕府の存在意義の一つ、「御家人の領土の保障(本領安堵)」ですね。これで、上皇の要求を受け入れて、罪もない地頭を辞めさせたら、おそらく幕府は武士たちの支持を失って崩壊していったことでしょう。
最終的に、将軍後継者は頼朝の遠縁にあたり、名門藤原一族である九条道家(くじょうみちいえ)の子、九条頼経(くじょうよりつね 1219年で1歳)を迎えることとなりました。九条頼経は摂関家の一つである九条家から来たので、摂家将軍とか藤原将軍と呼ばれます。
将軍後継問題はこれで片が付いたように見えましたが、地頭免職要求など別件が絡んで揉めたため、後鳥羽上皇と北条義時の関係は険悪になりました。後鳥羽上皇は、この頃から挙兵の準備を進めていたようです。後鳥羽上皇の第一皇子の土御門上皇や一部の貴族は挙兵に反対したのですが、順徳天皇は父に賛同し、退位して息子の仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)を即位させました。」

承久の乱 経緯

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「1221年(承久3年)5月、後鳥羽上皇(この年41歳)は北面武士、西面武士、それから大番役で京都にいた武士らを動員して挙兵。まずは、動員に従わなかった京都守護の伊賀光季(いがみつすえ 生年不詳)の屋敷を襲撃して光季を討ち取りました。そして、全国各地の武士らに、北条義時追討の院宣を送りました。ポイントは、討伐対象は北条義時個人であること、です。鎌倉幕府全体を指してはいなかったんですね。そのため、多くの武士は動揺します。院宣に逆らえば逆賊の汚名を着せられますし、討伐対象は義時です。どちらに付くべきか、迷いに迷います。」
名もなきOL
「義時は人気無さそうですし、これは迷いますよね。」
big5
「そんな中、北条政子(この年64歳)が、屋敷に集まって騒いでいる御家人たちに、冒頭で紹介した名演説を行いました。」
名もなきOL
「人の心を動かす演説って、とても重要ですよね。64歳で、武士たちの前に立って演説する政子さんには憧れます。」
big5
「義時は時を置かずして幕府軍を出陣させることにしました。息子である北条泰時(ほうじょうやすとき この年28歳)と、弟の北条時房(ほうじょうときふさ この年46歳)を大将とし、総勢約19万の大軍を進発させました。これに驚いたのは後鳥羽上皇です。院宣を出したことで、幕府軍にはほとんど兵が集まらないであろう、と高をくくっていたのですが、幕府軍は想定外の大軍でした。急いで防備を固めたものの、上皇軍の守りはあっさり突破され、6月には京都を占領されて決着は着きました。
後鳥羽上皇は「今回の事件は奸臣の企てだ」と言って、義時追討の院宣を取り消し、代わりに上皇方の大将たちの追討を命じる院宣を出しましたが、時すでに遅しでした。後鳥羽上皇らは幽閉され、幕府の沙汰を待つことになったわけです。」

承久の乱 戦後

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「承久の乱は、戦後処理がどのように行われたか、も重要なポイントになります。まず、挙兵の首謀者である後鳥羽上皇は隠岐の島に配流、後鳥羽上皇に賛同した息子の順徳上皇は佐渡島に配流となりました。挙兵には反対した土御門上皇は、自ら望んで土佐へ配流となりました。」
名もなきOL
「いくら挙兵の首謀者とはいえ、上皇を島流しにするなんて、鎌倉幕府の力は強くなったんですね。」
big5
「そうですね。さらに、当時3歳だった仲恭天皇を退位させ、代わりに後鳥羽上皇の血筋ではない後堀河天皇を即位させました。天皇位まで幕府の力が及んだ、というのも注目点ですね。これを機に、皇位の継承は幕府の管理下に置かれるようになりました。そして、挙兵を推進した5人の上級貴族は、捕らえられて鎌倉に送られる途中で斬首されました。まるで、滅亡した平家の人々のような最期です。他にも、挙兵に参加した人々の領土は当然没収されました。その数、約3000にもなったそうです。
次に、京都の管理について。京都と朝廷の管理をより強化するために、六波羅探題(ろくはらたんだい)が設置されました。六波羅は、かつて平清盛の屋敷があったところですね。六波羅探題は北方と南方の2名が置かれ、初代は北条泰時と北条時房が就任しました。」
名もなきOL
「3000箇所も没収って、凄いですね。没収した土地はどうなったんですか?」
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「戦功のあった武士たちに配分されました。承久の乱の後に任命された地頭を新補地頭(しんぽじとう)、それ以前から地頭だったものを本補地頭(ほんぽじとう)、と分けて呼ぶこともあります。新補地頭の取り分は、前任の地頭と同様とされましたが、それでは少ない場合や前例がない場合には1223年(貞応2年)に幕府が定めた新補率法(しんぽりっぽう)を適用することも可能、としました。新補率法の規定では、地頭の取り分は
・総田畠面積の11分の1の給田畠と、1段あたり5升の加徴米
・山野河海の所出物の半分
・犯罪人の没収物の3分の1

となっています。厳密には、「新補地頭」という言葉は、この率法に基づく地頭が新補地頭となりますが、広い意味では承久の乱以降に任じられた地頭全般を指します。このあたりの詳しい話は、別ページで見ていきましょう。」
名もなきOL
「こういう、数字が出てくる話って苦手なんですよね。。」
big5
「新補率法の数字だけ見ても、よくわからないですよね。知らない単位ばかりですし。あまり細かい所は、専門家になりたいわけではないのなら、気にしなくてもいいですよ。
承久の乱で、上皇方に味方したのは西国の武士が多かったです。そのため、没収された土地も西日本に多かったです。そこに、戦功のあった主に東日本の武士が地頭に任じられたので、鎌倉幕府の支配が西日本にも広く浸透していくきっかけにもなりました。」

北条義時の死

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「こうして、承久の乱も終わって鎌倉幕府の支配体制が盤石のものとなってきた時、1224年に北条義時が死去しました。61歳になる年でした。義時の死はわりと突然だったため、暗殺説や毒殺説などもありますが、私は年齢相応の死だったんじゃないか、と思います。OLさんは義時が嫌いみたいですが、創業間もない鎌倉幕府を、様々な政争と争いを乗り越えて、北条氏の権勢を保ちながら安定させていったのは、かなりの政治力が必要とされるものだったでしょう。そう考えると、義時は源頼朝と似たような冷徹な政治家タイプだったと思います。」
名もなきOL
「確かに、最後まで生き残った感が強いですね。只者ではないことは間違いないと思います。」
big5
「義時の死の翌年、北条政子と大江広元も死去しました。どちらも、鎌倉幕府創業に大きな功績を残しています。彼らの死は、まさに時代の移り変わりを示しているかのようですね。義時の死後は、義時の嫡男・北条泰時が執権となり、鎌倉時代は新たな局面を迎えることになります。なお、これ以降、北条氏の嫡流を得宗(とくそう)と呼ばれることがあります。「北条氏」だと、北条の血縁者全員を含みますが、「得宗家」と言うと、北条氏の中でも嫡流の家系を指します。今後、解説などにしばしば登場する用語ですので、覚えておきましょう。ちなみに「得宗」とは、義時のことです。不思議なことに、「得宗」の由来はハッキリしていません。義時の法名にちなんでいる、という話もあるのですが、不明な点が多いそうです。
それでは、次回は鎌倉幕府の支配体制について見ていきましょう。乞うご期待!」




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・詳しくわかる高校日本史