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「さて、今回のテーマは「鎌倉新仏教」と題しまして、鎌倉時代に誕生した新しい仏教について紹介していこうと思います。鎌倉時代は、政治的に見ても「貴族から武士へ政権が移った」という大きな変化を遂げた時代ですが、宗教面でも、現代まで残る数多くの新宗派が誕生した、という大きな変化があった時代でもありました。」
名もなきOL
「そうそう、宗派と開祖のお坊さんの名前をセットで暗記しなくちゃならなくて・・・正直なところ、この辺の話は苦手です。」
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「そうですね、たいていの人は試験対策としてこんな表を覚えさせられたのではないでしょうか。」
宗派 | 開祖 | 特色 |
浄土宗 | 法然 | ひたすら念仏を唱えれば極楽往生できる(専修念仏:せんじゅねんぶつ) |
浄土真宗 (一向宗) |
親鸞 | 法然の弟子。ひたすら阿弥陀如来にすがって念仏を唱える(絶対他力)、阿弥陀仏は悪人(凡人)を救済することである(悪人正機) 親鸞は自ら妻帯 子供も誕生 |
時宗 | 一遍 | 踊念仏 |
日蓮宗 (法華宗) |
日蓮 | 題目(法華経)に専念する、念仏や禅は徹底的に批判(立正安国論) |
臨済宗 | 栄西 | 公案(禅問答)と座禅で修行する(興禅護国論) |
曹洞宗 | 道元 | ひたすら座禅を組む(只管打坐:しかんたざ) 道元の教えをまとめた正法眼蔵 |
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「試験対策としては、この表を覚えていればだいたい答えられるので、暗記で終わってしまっている人がほとんどだと思います。でも、それだけではもったいないです。大人になってこそ「面白い」と感じるエピソードが多いんです。今回は、それぞれの宗派や開祖について、少し踏み込んで紹介していきます。まずは、いつも通り年表から見ていきましょう。」
年月 | 政治系のイベント | 仏教系のイベント |
1133年 | 法然誕生 | |
1141年 | 栄西誕生 | |
1173年 | 親鸞誕生 | |
1175年 | 法然が浄土宗の布教開始 | |
1180年 | 以仁王の挙兵 源平合戦始まる | 親鸞、比叡山に入って修行を始める |
1191年 | 栄西が興禅護国論を著し、臨済宗の布教を始める | |
1192年 | 源頼朝が征夷大将軍となる | |
1200年 | 道元誕生 | |
1202年 | 栄西が源頼家の保護を受けて京都に建仁寺を建立 | |
1205年 | 法然と親鸞が流罪 | |
1221年 | 承久の乱 | |
1222年 | 日蓮誕生 | |
1239年 | 一遍誕生 | |
1246年 | 道元が永平寺をひらく | |
1252年 | 日蓮が日蓮宗の布教を開始 | |
1274年 | 文永の役(元寇) | この頃、一遍が踊念仏の布教を始める |
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「さて、個々の話題に入る前に、まずは仏教の基本的なところから確認していきましょう。さて、お寺のお坊さんがやっている修行といえば、OLさんは何を連想しますか?」
名もなきOL
「お寺のお坊さんの修行、ですか。まずはお経を唱えること、ですね。それ以外には・・お掃除。雑巾がけとか、庭をきれいにしたりとか。あとは・・座禅ですね。」
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「そうですね、どれも代表的なお坊さんの修行ですね。最初に紹介する法然が開いた浄土宗は、このような仏教に一石を投じることになりました。」
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「法然が生まれたのは1133年。平安時代後期ですね。1118年生まれの平清盛や1123年生まれの源義朝よりも10年くらい後ですが、ほぼ同世代の人物と考えていいでしょう。法然は武士の家の子でしたが、出家して仏門に入り、比叡山で修行を始めました。当時、比叡山は日本における仏教の総合大学のようなものです。OLさんが思い浮かべた、お経や座禅など、一通りのことを学んで修行したわけですね。法然は修行に励み、名僧たちから「知恵第一の法然房」と呼ばれたりするなど、かなり優秀なお坊さんだったようです。」
名もなきOL
「その法然が浄土宗を開くことになったのは、何かきっかけがあったんですか?」
big5
「1175年(この年法然42歳)に、中国から来たお坊さんが書いた書物を読んで、「「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えさえすれば、阿弥陀仏の慈悲によって極楽往生ができる」という、浄土宗の中心的な教義に至ったそうです。さらに法然は、念仏だけを唱えていればいいのであって、その他の修行はしなくてもよい、としました。これを専門用語で専修念仏(せんじゅねんぶつ)と言います。例えば、座禅とかしなくていい、ということですね。」
名もなきOL
「へ〜、これは簡単ですね。「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、極楽に行けるなんて簡単でいいですね。でも、なんか簡単すぎる気もするな・・・」
big5
「そうですね。ただ、比叡山に入って厳しい修行をしたり、貴族のように立派な大仏やお寺を建てたりしなくても、極楽に行ける、という教えは、多くの人に広まっていきました。有名人物としては、武士では熊谷直実、貴族では九条兼実が法然の教えを受けて浄土宗を信仰しています。」
名もなきOL
「心をこめて南無阿弥陀仏、でいいんですもんね。これだけ簡単なら、一般庶民にも広まりやすいですよね。」
big5
「しかし、法然の浄土宗は比叡山延暦寺や南都(奈良の東大寺など)から見ると、極めて問題のある宗派でした。念仏さえ唱えればよい、ということになってしまえば、お寺のお坊さんが励んでいる諸々の修行のほとんどは無意味、ということになります。法然は比叡山や南都に批判され、さらに、法然の弟子が後鳥羽上皇の侍女を勝手に出家させてしまうという事件も起こり、1207年(この年法然74歳)に後鳥羽上皇の命により讃岐に流罪となりました。ただ、すぐに赦免されて戻って来たのですが、既にご高齢。1212年に死去しました。法然は死去しましたが、浄土宗の教えは弟子たちによって布教が続けられ、現在に至るまで続いています。ちなみに、浄土宗の総本山は京都の知恩院です。観光名所でもありますので、知恩院を訪れた際には、法然と浄土宗の教えを思い出してみてください。その他に、東京タワーの近くにある増上寺も浄土宗のお寺ですし、幕末の会津藩や新選組の屯所になった京都の金戒光明寺も浄土宗のお寺です。浄土宗の公式ホームページもありますので、リンクを貼っておきますね。」
浄土宗 公式サイト
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「次に紹介するのは親鸞(しんらん)が開いた浄土真宗です。名前が浄土宗と似ていますが、それもそのはず。親鸞は法然の弟子の一人で、その教えは浄土宗をさらに一歩進めたものなんです。
親鸞が生まれたのは1173年。世の中は平氏全盛期です。親鸞は幼少の頃から寺に預けられて出家し、法然と同様に比叡山延暦寺で修行しました。しかし、親鸞は延暦寺での修行には納得ができず、1201年(この年親鸞28歳。法然は68歳)に法然に弟子入りします。」
名もなきOL
「なるほど。法然さんと親鸞さんは師弟関係なんですね。あれ、ということは、親鸞さんも・・・」
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「はい、師匠である法然と共に1207年に流罪となりました。親鸞の配流先は越後の国でした。これ以降、親鸞は関東方面で独自の道を歩むことになります。まず、親鸞の一番の特徴と言えば、自ら妻帯したこと、つまり結婚してお嫁さんがいた、ということですね。子供も生まれています。」
名もなきOL
「あ、その話、聞いたことあります。お坊さんは、結婚してはいけなかったんですよね。」
big5
「はい。出家したお坊さんには特別な戒律があり、そのうちの一つが「女性との性交禁止」です。これに違反すると追放処分になるくらい厳しいルールです。ところが、親鸞は自らこのルールを破ってしまいまいした。いわゆる「破戒僧」ですね。でも、親鸞はこのことをあまり気にしていません。なぜだと思いますか?」
名もなきOL
「え〜〜っと・・・そっか、念仏さえ唱えれば極楽浄土に行けるんですもんね。」
big5
「そのとおりです。それが法然が説いた浄土宗の教えです。しかし、親鸞はこれをさらに一歩進めて、「念仏とは修行の一つではなく、阿弥陀仏への感謝の現れである。ただひたすら阿弥陀仏の力を信じてすがれ」という絶対他力と呼ばれる思想を推し進めました。この発想は、有名な悪人正機説にも繋がります。」
名もなきOL
「悪人正機説って、悪い人であっても、念仏さえ唱えれば極楽に行ける、という説ですよね?」
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「残念ながら、それはよくある誤解なんです。「悪人」とは「道徳的に悪い人」という意味ではなく、世の中の大多数の凡人のことを指しているそうです。なので、親鸞によれば私もOLさんも「悪人」ですね。阿弥陀仏の本願とは、世の中にいる大多数の「悪人」を救うことにあるのだ、君もあなたも阿弥陀仏が救ってくれる、だから感謝しよう、というのが正しい悪人正機説なんです。」
名もなきOL
「なるほど〜。でも、誤解しやすいですよね。」
big5
「はい、誤解しやすいです。実際、親鸞が布教していた時から既に「悪行をしても救われるなら、悪い事やりたい放題だ」と誤解する人が続出したそうです。そこで、親鸞の弟子の一人である唯円というお坊さんが、歎異抄(たんにしょう)を書き、世の中に広まる誤解を解こうとしました。なので、『歎異抄』は親鸞の思想や当時の状況を知る一級史料としてたいへん重要なんです。
親鸞の死後、浄土真宗は下火になりますが、親鸞の娘の一人が教団を継続させました。戦国時代前期には、本願寺の中興の祖である蓮如が多数の信徒を集めて強大化し、一向宗と呼ばれる一大勢力を築くことになるのですが、その話はまた別の機会に。
現在、浄土真宗もいくつかの宗派に分かれていますが、宗派の壁を超えた組織である「真宗教団連合」と、多数派と見られる京都にある本願寺派(西本願寺)と大谷派(東本願寺)の公式サイトへのリンクを貼っておきます。」
真宗教団連合
浄土真宗 本願寺派(西本願寺)
浄土真宗 大谷派(東本願寺)
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「続いて、浄土宗系でもう一つ生じた特徴的な宗派、一遍が開いた時宗(じしゅう)です。」
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「話の流れ上、3番目に登場しましたが、一遍の時宗は鎌倉新仏教の中では一番最後に登場しました。一遍の誕生年は1239年なので、既に法然も親鸞も亡くなって数十年が経過した鎌倉時代中期です。時宗の布教開始も1274年と、最初の元寇と同じ年です。
一遍は伊予の豪族河野一族の生まれでしたが、一遍の一族は承久の乱で上皇方について敗れており、かなり没落していたそうです。一遍も10歳の時に出家しています。その後、いろいろあって還俗したり出家したりをしていたのですが、1274年に熊野権現で「一生懸命に南無阿弥陀仏の札を配るべき」という声を聞いて開眼したそうです。一遍の教えは浄土宗らしく「とにかく念仏を唱えよ。」なのですが、さらに進めて「知恵も愚痴も、善悪も、貴賤も、極楽に行きたいという気持ちも捨てて念仏を唱えよ」というものでした。各地を旅した一遍は多くの農民や武士らに歓迎され、有名な踊念仏はこの時に自然発生的にできたそうです。踊念仏は、神奈川県相模原市にある無量光寺がYou tubeにアップロードしているものがあるので、リンクを貼っておきますね。」
名もなきOL
「太鼓とか鉦とか使って、なんだかお祭りみたいですね。」
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「はい。なので、踊念仏が各地の盆踊りの起源になった、という説もあります。
時宗は、当初はかなり広まったのですが、歴史の流れと共に浄土宗や浄土真宗に取って代わられてしまったのですが、現在も続いています。時宗の総本山は神奈川県の藤沢市にある遊行寺(ゆぎょうじ)です。こちらもリンクを貼っておきますね。」
時宗総本山 遊行寺
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「さて、ここまで浄土宗、浄土真宗、時宗を見てきました。多少の違いはあるにせよ、この3つは「念仏を唱えて阿弥陀仏に救いを求める」という点では共通しています。これを他力本願(たりきほんがん)と言います。他力本願は、現代ではもっと別の意味(他人の力ばかりあてにして自分から進んでやろうとしない)で使われることもありますが、本来は「他力=阿弥陀仏の力」です。それに対して、修行して自分の力で悟りを開こう(自力本願)とするのが、これから紹介する栄西(えいさい ようさい、とも)の臨済宗です。」
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「栄西が生まれたのは1141年なので法然よりも8つ下ですが、ほぼ同世代と考えていいでしょう。法然と同じく、少年の時に比叡山延暦寺に入って修行しました。栄西の経歴で特徴的なのは、中国の宋にも留学したことですね。余談ですが、栄西が宋から持ち帰ったものの中に「茶」があり、「茶」の栽培に成功したことで「日本茶」が広まっていきました。
さて、栄西が中国で学んだのが禅と密教です。源平争乱が源氏の勝利で終わり、奥州藤原氏と義経も滅んだ後の1191年、栄西は興禅護国論を著して、密教と禅による修行の重要性を説いた臨済宗の布教を始めました。ちなみに「臨済」というのは、栄西が宋で学んでいた時の師匠の名前です。臨済宗の特徴は禅ですが、公案(こうあん)と呼ばれるいわゆる「禅問答」が特徴です。禅を組みながら、師匠と問答することで修行するんです。後の時代に、頓智で有名な「一休さん」(一休宗純は臨済宗のお坊さんですね。」
名もなきOL
「へ〜、一休さんって臨済宗の人なんですね。アニメでも、座禅組んでいろいろ面白いことを考えていましたが、あれは臨済宗のやり方なんですね。」
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「また、臨済宗のもうひとつの特徴が鎌倉幕府の支援を受けたことです。公的な支援を受けたことで臨済宗は武士などに広まっていき、全国に拡大していきました。栄西は源頼朝の一周忌の法要を営んでいます。」
名もなきOL
「武士と座禅って、相性が良さそうですもんね。武士の精神修養とかになりますもんね。」
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「現在の臨済宗はいくつもの宗派に分かれていますが、ここでは代表して栄西が建立した京都の建仁寺の公式サイトのリンクを貼っておきますね。」
建仁寺
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「次に、栄西と同じ禅宗からもう一人、道元(どうげん)の曹洞宗です。道元が生まれたのは1200年で、法然・栄西・親鸞の平安時代生まれ組と、一遍、それから次に紹介する日蓮の鎌倉時代生まれ組の中間くらいに生まれました。道元も比叡山延暦寺で修行しますが、途中から栄西の弟子である明全に弟子入りして禅を深く学び始め、宋にも留学してさらに禅を学びました。そんな道元が至った結論は
「修行のために座禅があるのではなく、修行とその証であるさとりは一体(修証一如:しゅうしょういちにょ)であり、座禅の姿がそのまま仏である。身心全てをあげてただただ座れ(只管打坐:しかんたざ)」
というものです。一言で言うと「とにかく座禅する。」ですね。道元の教えをまとめた書物が正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)です。」
名もなきOL
「栄西の臨済宗と違って、ひたすら座禅なんですね。わかりやすいですが、これは実行が難しいんじゃないでしょうか。。」
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「ひたすら座禅って、かなり難しいと思いますよ。そんな道元が豪族の波多野氏に招かれて越前に入り、そこで建立したお寺が永平寺です。厳しい座禅修行で有名なので、OLさんもテレビなどで見たことがあると思います。リンクも貼っておきますね。」
永平寺
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「最後に紹介するのが、鎌倉新仏教の中でも異彩を放つ日蓮(にちれん)です。宗派の名前も「日蓮宗」で、数ある宗派の中でも唯一、開祖の名前がそのまま宗派の名前になっています。
日蓮が生まれたのは承久の乱が起きた翌年の1222年。鎌倉新仏教の開祖の中では後の時代に生まれていますね。日蓮は出生地である安房のお寺で出家して修行していたのですが、青年期には比叡山や高野山、南都など主要な寺を遊学していろいろと学びました。そうして日蓮が至った結論が
「法華経だけが正しい。南無妙法蓮華経の題目を唱えるべき。念仏や禅などはすべて間違いだ。」
という、かなり排他的なものでした。」
名もなきOL
「日蓮から見れば、ひたすら念仏を唱えればいい、という浄土宗の系統の教えはすべて誤り、禅を重視する臨済宗も、禅ばかりする曹洞宗も誤り、としたわけですね。それは、敵が増えてしまいますね。」
big5
「実際にそうなりました。日蓮は鎌倉まで出向いて、このような説法をあちこちで行いました。当然、浄土宗系のお坊さんや禅宗系のお坊さんの怒りを買います。また、鎌倉幕府は禅宗を保護・推奨していましたので、日蓮の批判は幕府にも及びました。日蓮の主張をまとめたのが立正安国論(りっしょうあんこくろん)です。日蓮は「念仏や禅などといった邪宗を野放しにしているようでは、やがて国に疫病が流行り、外敵が攻め込んできて国は滅ぶ」と主張しました。このような主張は当然のように幕府の怒りを買い、日蓮は捕らえられて処刑されようとします。処刑の日、刑場に引き立てられた日蓮が斬られようとしたまさにその時、突然暴風が吹き荒れ、処刑人が雷に打たれて即死するという事件が起きたため、死罪ではなく佐渡島への流罪となった、というのが有名な話ですね。」
名もなきOL
「日蓮さんには、神がかり的なエピソードもついているんですね。」
big5
「実際、日蓮が活動し始めたころに疫病が流行しましたし、間もなく元寇もありましたので、日蓮の宗派には信者が集まっていきました。こうして、日蓮宗はしっかりと日本に根付いて連綿と続き、創価学会と公明党の母体となりました。そういう観点からは、現代になって政治的な影響力を持った宗派、ともいえますね。
なお、日蓮宗の総本山は山梨県の身延(みのぶ)にある久遠寺です。こちらもリンクを貼っておきますね。」
久遠寺
big5
「と、以上で鎌倉新仏教の話を終えます。いかがだったでしょうか?」
名もなきOL
「あんまり仏教には興味なかったんですけど、いろいろな話が聞けましたし、意味まで知らなかった言葉の意味も知ることができたので面白かったです。」
big5
「鎌倉時代って、政治の面でも宗教の面でも、本当に変化が大きかった時代なんですよ。日本史といえば、戦国時代や幕末が人気ですよね。確かに、ネタも豊富ですし魅力ある人物も多いので、そうなるのも自然だと思うのですが、個人的には鎌倉時代もかなり面白いと思います。このページを読んで、鎌倉時代に興味を持つ人が増えれば、筆者としてたいへん嬉しいですね。
と、言ったところで今回はここまで。
ここまでご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」
令和2年度追試 日本史B 問題5 選択肢Y
・13世紀に、仏教の民間布教が多様に行われるなかで、念仏札の配布や踊念仏を行った人物は? 蓮如か一遍か?
(答)一遍。上記の通り、踊念仏を布教したのは一遍です。踊念仏がキーワードです。本編では省略しましたが、念仏札の配布、ということも一遍は行っていました。蓮如は戦国時代前期の人なので、そもそも時代が違います。
令和2年度追試 日本史B 問題13 選択肢ア
・博多には、入宋僧でのちに臨済宗の開祖とされる「ア」によって、禅宗寺院の聖福寺が創建された。アに入る人物は 栄西か道元か?
(答)栄西。上記の通り、臨済宗の開祖は栄西です。
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