big5
「今回の主題はコソボの戦いとセルビアの英雄伝説と題しまして、本編(オスマン帝国の台頭とビザンツ帝国の滅亡)では名前と概要しか出てこなかった1389年のコソボの戦いの詳細と、コソボの戦いで生まれたセルビア人の英雄伝説について見ていきたいと思います。」
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「詳細篇ということで、解説はこの俺、small5も担当するぜ。けっこうマニアックな話になるが、よろしくな。」
big5
「まずはいつもどおり、年表から見ていきましょう。
| 年月 | バルカン方面のイベント | 他地域のイベント |
| 1360年? | ムラト1世 即位 | |
| 1361年 | オスマン帝国がアドリアノープルを攻略 | |
| 1366年 | オスマン帝国がアドリアノープルをエディルネと改称して遷都 | |
| 1389年 | 6月15日 コソボの戦い ムラト1世死去 バヤジット1世即位 |
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| 1392年 | (日)足利義満が南北朝を統一 | |
| 1396年 | ニコポリスの戦い | |
| 1402年 | アンカラの戦い バヤジット1世がティムールに敗北して捕えられる オスマン帝国の中断 |
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「さて、まずは1389年のコソボの戦いについて、本編では省略された詳細を見ていきましょう。まず、戦いがあったのは1389年の6月15日。場所はコソボ平原です。オスマン帝国側は、スルタンであるムラト1世(この年63歳)、ムラト1世の後継者であるバヤジット1世(この年29歳)とその弟のヤクブ(この年26歳)など、王族メンバーが参戦。対するバルカン半島スラヴ人勢力は、大将格としてセルビア大貴族のラザル・フレベリャノヴィチ(この年60歳くらい)、ボスニア王トヴルトコ1世(この年51歳)、ワラキア公ミルチャ1世(この年34歳くらい)などが主な参戦者です。兵力はハッキリしていませんが、オスマン帝国側はアナトリアのトルコ人主体だが、オスマン帝国に従属しているセルビア人やギリシア人も加わって27,000〜30,000、最大で40,000、スラヴ人連合はセルビア人を主力とし、ボスニア人、アルバニア人、ブルガリア人なども加わって12,000〜20,000、最大で25,000と見積もられています。」
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「次に戦闘経過を見ていこうか。まず布陣だが、オスマン帝国側はムラト1世が中央を指揮し、右翼はバヤジット1世、左翼はヤクブが指揮を執った。スラヴ連合側は、総大将格のラザルが中央を指揮し、右翼はラザルの臣下であるヴク・ブランコヴィチ(この年44歳)、左翼はボスニア王トヴルトコ1世の臣下であるヴラトコ・ヴコヴィチ(生年不詳)が率いていた。
セルビア軍は騎兵が先頭となって果敢にオスマン帝国軍に襲い掛かったが、オスマン帝国軍も負けじと応戦。激戦となったところで、スラヴ連合の右翼を率いていたヴク・ブランコヴィチがなぜか撤退を開始してしまった。自軍劣勢と判断したため、と考えられているが、その真偽は不明だ。この結果、元々兵力劣勢だったスラヴ連合は戦線を支えきれなくなって全軍撤退に追い込まれた。
戦闘中のどの時点の話なのか不明なのだが、おそらくオスマン帝国軍の勝利がほぼ確実になった頃、オスマン帝国総大将のムラト1世が、セルビア人貴族らしき人物に突然刺殺される、という事件が発生した。また、セルビア人総大将のラザル・フレベリャノヴィチも戦死、あるいは捕えられて処刑された、と死に至る経緯は不明なのだが、コソボの戦いで命を落とした。
結果として、コソボの戦いはオスマン帝国が勝利したといえるのだが、両軍の総大将が死亡しているのが特徴だな。しかも、死に至る経緯が両方ともハッキリしない、というのも特徴だ。このため、チェコの歴史冒険ゲーム『キングダムカムデリバランス』では、コソボの戦いを「大規模な戦いだが、はっきりとした勝敗がつかずに終了した」と説明しているぜ。」
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「次に、戦後の影響についてです。まず、コソボの戦いの後、オスマン帝国はドナウ川以南の支配権を確たるものとし、セルビア、マケドニア、ブルガリアなどのスラヴ系国家はオスマン帝国への従属を余儀なくされました。この結果を見ると、コソボの戦いの勝者はオスマン帝国と言えるのではないかと思います。なお、死亡したムラト1世の後を継いだのは、「雷光」の異名を持つバヤジット1世なのですが、バヤジット1世は弟のヤクブを、戦後まもなく殺害しています。スルタン即位時に、他の兄弟を殺害する、というオスマン帝国皇族の恐ろしい習慣は、この時に始まった、とみなされています。」
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「さて、今回の本題であるセルビア人英雄 ミロシュ・オビリッチについて見ていきましょう。ミロシュは、コソボの戦いの際にムラト1世を殺害した英雄だ、とセルビアでは考えられており、ミロシュを讃える絵画も多く作られています。」

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「19世紀にはセルビア正教会によって聖人とされ、1913年にはセルビア王ペータル1世が戦場で勇気を見せた兵士に贈る勇敢記章の通称が「ミロシュ・オビリッチ記章」でした。
1980年代以降、セルビアのナショナリズムが高揚した時には、政治家も盛んにミロシュ・オビリッチを愛国者として引用しました。このように、ミロシュ・オビリッチはセルビア人の英雄としての地位を得たわけですね。」
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「それでは、ミロシュ・オビリッチがセルビア人の英雄となるまでの経緯を見ていこう。結論から言うと、残されている史料は断片的で謎が多い、というのが現状だ。まずは、コソボの戦いからあまり時間が経っていない、初期の文献から見ていこう。」
@1389年7月9日 助祭イグナティイエがムラト1世が暗殺された、という話を記録。
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「今のところ、最も古い記録がこれとなっている。ただ、この記録はムラト1世が暗殺された、という話だけが残っていて、それがミロシュによるものだ、という話にはなっていないぜ。では、次だ。」
A1389年7月23日 ヴェネツィア共和国元老院がアンドレア・ベンボに宛てた指示書の中で、ムラト1世とその子のうち一人が暗殺された、という記述がされている。ただし、この情報は未確認情報である、という注記もされていた。
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「@よりももう少し具体的な話になっていますね。しかも、ムラト1世の子、ヤクブの死の話も事実と整合しています。ヴェネツィア共和国元老院からの指示書、という性質を考えても、当時ヴェネツィア共和国が把握していた情報として信頼できる情報だと思います。」
B1389年10月20日 フィレンツェ共和国書記長コルッチョ・サルターティ(1406年没)がスティエパン・トヴルトコ1世に宛てた書簡に、「トルコ人に対する勝利」という文言と、12人のキリスト教徒貴族が、オスマン軍の戦列を破ってムラト1世を討ち取った、という話を書いている。
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「こちらは、前出の2件とはやや違う内容だな。ムラト1世の死は共通しているが、その死因は暗殺などではなく、12人のセルビア人貴族による武功、という話になっているぜ。ボスニア王のトヴルトコ1世への手紙だから、スラヴ連合に好意的な内容になっているのではないか、と思うぜ。もちろん、フィレンツェには本当にこのように伝わっていたのかもしれない。」
C1416年 イタリア商人ベルトランド・デ・ミグナネッリの著作で、ラザル・フレベリャノヴィチ本人がムラト1世を討ち取った、と記載している。
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「こちらはコソボの戦いから27年経過してから書かれているので、情報の鮮度はやや落ちていると思いますが、その代わり情報の量はある程度集まった状態だったと予想しています。これによると、ムラト1世を討ったのはミロシュではなく総大将のラザルとなっており、セルビア人伝説とは異なる内容になっていますね。
ここまで見てきた史料は、時間的にはコソボの戦い発生後間もない時点での記録ではあるものの、当事者であるセルビアでもオスマン帝国でもない、周辺諸国の史料です。そこで、次は肝心のセルビアの史料ではどうなっているのか、見てみましょう。」
D1440年代 コンスタンンティン・コスティネチキがセルビア語で著した、ラザルの子ステファン・ラザレヴィチの伝記の内容
ムラト1世を暗殺したのは、高貴な生まれで、嫉妬にかられた者たちが、ラザルの前でその名誉を傷つけようとする人物だった。これに対し、彼は己の忠誠心を証明するため、脱走と見せかけて単身で戦列を離れ、機会をとらえてスルタン殺害という勇敢な企みによって晴らした。
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「この記述には、ミロシュの名前は出ていないものの、セルビア人英雄ミロシュ・オビリッチの伝説の原型が記されている、と評価されているぜ。今のところ、セルビア語文献の中で、ムラト1世暗殺の話が登場するのは、これが初出となっているそうだ。
この伝記は1440年代に著されたことを考えると、おそらくCの著書は読むことができただろうな。作者のコンスタンティンは、Cの著書など、いくつかの史料を読んで、この話を記述するに至ったのだと思うぜ。ただ、この時点でもまだミロシュ・オビリッチの名前は登場していない。
次は、もう一方の当事者であるオスマン帝国側の史料を見てみよう。」
D15世紀の詩人アフメディーの記述
「突然、血にまみれて敵の死体の中に隠れていたと思しきキリスト教徒の一人が立ち上がり、ムラトに駆け寄って短剣を突き立てた。」
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「オスマン帝国側の初期の史料では、ムラト1世の死についてこのような内容になっているそうです。ムラト1世を殺害したのはキリスト教徒で、死体の中に隠れていた、という内容です。セルビア人英雄伝説とは、やや違う描写になっています。そして、ムラト1世を殺害した者の名には触れていません。ムラト1世の暗殺者の名前が登場するのは、15世紀になってからです。」
E1465年 詩人エンヴェリ『デュストゥールナーメ』
「暗殺者ミロシュ・バンはセルビア貴族になる前は、オスマン帝国のスルタンの宮廷に仕えていたムスリムだったが、脱走して棄教した。伝えられるところによれば、スルタンは何度も彼を呼び戻そうとしたが、ミロシュは毎回帰ると返答しておきながら帰らなかった。コソボの戦いでは、ラザルが捕えられた時、黒い牡馬に乗っていたムラト1世のもとにミロシュがやって来て、「私はミロシュ・バン。我がイスラームの教えに帰り来て、御身の手に接吻しとうございます。」と言った。そしてムラト1世に十分近づいたところで、袖口に隠し持っていたダガーで刺し殺した。その後、ミロシュはムラト1世の傍らにいた者たちにより、剣や斧で細切れに切り殺された。」
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「ここで、ようやくセルビア人英雄ミロシュの名前が登場した。名字は異なるが、名前は同じなので、セルビア人英雄ミロシュのことだと考えていいだろう。この話は比較的現実的でありそうな話だ、というのもあって、歴史家のハリル・イナルツクはかなり重視している史料だ。
ただ、個人的には信用度という点では今一つだと思っている。なぜかというと、この書が作られたのは1465年で、コソボの戦いから76年も経過しているからだ。おそらく、当時の現場付近にいた人々は既に亡くなっており、著者のエンヴェリはそれまでに作られた史料を題材にして、この話を書いたはずだ。なので、エンヴェリの取捨選択の結果としての史料であり、ありそうな話だからと言って歴史事実とは言い切れない、と俺は思う。」
F15世紀のエディルネの学者オルチュ・ベイ
「オスマン軍は逃げる敵を追うのに気を取られてスルタン暗殺の隙を生んでしまった。そのキリスト教徒はみずから犠牲になると約束して、一人馬にいたムラトに近づいた。彼はスルタンの手に接吻すると見せかけて鋭いダガーでスルタンを刺した。」
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「Fの史料は、だいたいEと同じ内容ですね。違うのは、ムラト1世が暗殺された原因の始まりが「敵を追うのに気を取られた」としているところでしょうか。そのため、ミロシュは元はオスマン帝国に仕えていた、というくだりはありません。」
Gアテネの学者 ラオニコス・ハルココンディリス(1490年頃没)ギリシア語文献
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「Gでは、ムラト1世暗殺者の名前はミロエス(Miloes)としているぜ。ギリシア風の名前だな。」
「貴族の生まれで、みずから進んで暗殺という英雄的な行動を成し遂げようと決断した。彼はラザル侯から必要なものを貰い受け、馬に乗って脱走者のように見せかけ、ムラトの陣営へ走った。ムラトは戦いを間近にして自軍のただ中に立っていたのだが、脱走者を受け入れようとしたがっていた。ミロエスはスルタンとその護衛たちの元までたどり着くと、槍をムラトに向け、彼を殺した。」
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「Gはこれまでの史料の記述をほぼ取り込んで、もっともらしい話にまとめられている感じがしますね。Fでは、ムラト1世は一人でいた時に殺害された、となっていますが、戦場でスルタンが一人きりになる、という可能性はかなり低いです。ムラト1世の周囲には、常に護衛がいるとした方が現実的でしょう。また、ムラト1世が脱走者を受け入れようとしていた、ということにすれば、ミロシュのような暗殺者が付け入る隙ができる、というのももっともな話です。最後に、ムラト1世を殺害する時に使った武器が、ダガーではなく槍というのは、なんとも不思議な変更です。槍を持って近づいてくる時点で、護衛は止めようとしなかったのでしょうか。槍を持たせるくらいなら、隠し持っていたダガーにする方が現実的だと思います。」
H15世紀後半の歴史家 ミカエル・ドゥーカスの著書『ビザンツの歴史』
「若い貴族が戦場からの逃亡を偽装し、トルコ人に捕えられた後に「勝利への鍵を知っている」と言ってムラトに近づき殺した。」
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「Hはだいぶ簡略化された記述のようだ。ミロシュの名前も出てこず「若い貴族」となっている。ムラトへの近づき方がこれまでとはやや違うことが特徴だな。
と、これらがコソボの戦いにおけるミロシュ・オビリッチについての主だった文献史料だ。これまで見てきたように、史料によって内容は違っており、そもそもミロシュの名前にまで言及しているのはEとGの2つだけだ。これらの史料から言えることは、ムラト1世がセルビア人に殺害されたことはほぼ間違いないだろうが、誰がどのように殺害したか、については確固たる史料が無い、という状況だな。これらをふまえて、セルビア人英雄伝説は作られていったわけだぜ。」
ミロシュ・オビリッチの伝説へ
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「Dの史料では、ミロシュの名前は登場しないものの、ムラト1世を暗殺したセルビア人貴族がどのような経緯で暗殺に至ったのか、が記されています。これを、より具体的にしてセルビア人の英雄ミロシュ・オビリッチの話が伝えれることになりました。
まず、ミロシュはラザルの娘婿という設定になるのですが、これは15世紀半ばのヘルツェゴビナで初登場しました。16世紀には、さらに話が追加されて、ラザルが戦闘前夜の晩餐でミロシュを不忠者と咎める話が登場しました。そして、マヴロ・オルピーニの1601年の著作で、ラザルの娘たちが夫の勇敢ぶりを張り合う物語が登場しています。
こうして、セルビア人の英雄ミロシュ・オビリッチの物語が作られました。
ラザルの娘婿であるセルビア人貴族ミロシュ・オビリッチは、その忠義と武勇を妬んだ者たちによってラザル侯に讒言され、コソボの戦いの戦闘前夜にラザル侯に罵られるものの、自らの忠義を示すために脱走したと見せかけて単身で敵陣に乗り込み、見事にムラト1世を討ち取った。
という物語ですね。」
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「こうして見てみると、セルビアの人には悪いが、ミロシュ・オビリッチは後世の人によって作り上げられた英雄像だと俺は思うぜ。初期の文献に名前が一切登場しないこと、ミロシュ自身の詳しい経歴は謎に包まれていること、などがその根拠だな。」
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「そうですね。私もほぼ同意見です。ただ、オスマン帝国に長い間屈辱的な従属関係を強制されていたセルビア人が、自尊心を持ってトルコ人に抗うためには、ミロシュのような英雄を具現化することが必要だったんだと思います。実際、ムラト1世は何者かによって殺害されています。誰かはわかりませんが、おそらくコソボの戦いでオスマン軍と戦ったスラヴ連合の誰かだったのでしょう。その人をミロシュ・オビリッチとして英雄伝説となった、というのが一連の話の真相なんじゃないか、と私は思いますね。」
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