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「さて、ここからは鎌倉時代の話ですね。1189年に奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、実質的に日本全国の支配者となりました。その後、1192年に後白河法皇が死去した後、頼朝は征夷大将軍に任じられます。昭和〜平成前期の頃は、この時点で鎌倉幕府の成立、と教えていましたね。」
名もなきOL
「はい、私も学校で覚えました。「いい国作ろう鎌倉幕府」、でしたね。懐かしいなぁ。」
big5
「なので、ここからは頼朝が築いた鎌倉の政権を「鎌倉幕府」と書くことにしますね。さて、頼朝は1199年に死去。息子の源頼家(みなもとのよりいえ)が後継者となるのですが、幕府は十三人の合議制に移行し、早くも頼家 vs 古参家臣の対立が始まりました。この結果、頼家は敗北し、その後まもなく死去。代わりに弟の源実朝(みなもとのさねとも)が征夷大将軍に任じられます。」
名もなきOL
「私は頼朝さんは好きじゃないんですけど、やっぱり武士の世を作ったカリスマ的存在だったんでしょうね。カリスマが亡くなった途端、内部抗争が始まるっていうのはお決まりのパターンですよね。」
big5
「3代将軍となった実朝は、和歌や芸術を愛する文化人で、その治世は約15年にわたりました。その間、幕府内部は有力御家人同士の抗争もあったのですが、比較的平穏でした。ところが、1219年、鶴岡八幡宮にて実朝は2代将軍頼家の遺児・公暁(くぎょう)によって暗殺されてしまいました。実朝に子供はいなかったため、源頼朝から始まった源氏の将軍はわずか3代27年で終焉を迎えました。この後、鎌倉幕府は頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏が執権(しっけん)となって、事実上幕府を運営する執権政治が始まることになるわけですね。」
年 | イベント |
1190年 建久元年 12月 |
源頼朝が右近衛大将に任じられるも、4日後に辞任。 |
1192年 建久3年 3月 |
後白河法皇死去。 |
1192年 建久3年 7月 |
源頼朝が征夷大将軍に任じられる。 |
1199年 建久10年 1月 |
源頼朝死去。 |
1199年 建久10年 4月 |
十三人の合議制が敷かれる。 |
1200年 正治2年 1月 |
梶原景時の変 梶原氏が滅ぼされる。 |
1202年 建仁2年 7月 |
源頼家が征夷大将軍に任じられる。 |
1203年 建仁3年 9月 |
比企能員の変 比企氏が滅ぼされる |
1203年 建仁3年 10月 |
源実朝が征夷大将軍に任じられる。 |
1204年 元久元年 |
源頼家死去 |
1205年 元久2年 6月 |
畠山重忠の乱 畠山重忠の一族が滅亡 |
1205年 元久2年 閏7月 |
北条時政が北条政子、北条義時らに追放される。 |
1213年 建暦3年 5月 |
和田合戦 和田義盛の一族が滅亡 |
1216年 建保4年 |
源実朝が権中納言となる。 |
1217年 建保5年 4月 |
源実朝が唐船を作るも失敗。 |
1218年 建保6年 |
源実朝が内大臣となる。また、12月には右大臣となる。 |
1219年 建保7年 1月 |
源実朝が暗殺される。 |
big5
「まず、「征夷大将軍」という地位について見ていきましょう。征夷大将軍とは、名前の通り「夷」を征伐する将軍です。征夷大将軍は常設の地位ではないので、この時期、征夷大将軍に任じられる人はしばらくいませんでした。征夷大将軍の話が出てくるのは、頼朝による奥州藤原氏征伐の時です。出陣にあたり、頼朝は後白河法皇に「征夷大将軍」の位を求めますが、後白河法皇はこれを拒否したため、この時は征夷大将軍にはなれませんでした。」
名もなきOL
「奥州を攻める、という意味で、箔を付けたかったんでしょうね。」
big5
「OLさんは、頼朝には厳しいですね。確かにそれもあると思いますが、奥州征伐の大義名分を確実なものにする意味でも、朝廷から征夷大将軍に任命されれば、奥州藤原氏は朝敵扱いになります。政治的に見ても正しい要求だと思いますよ。ただ、この時は任じられませんでした。その代わりのように、奥州征伐が終わった翌年の1190年、後白河法皇は頼朝を右近衛大将(うこんえのだいしょう)に任命しました。右近衛大将は、常設の武官の最高職です。ところが、頼朝は任命からわずか4日後に、辞任してしまいます。」
名もなきOL
「え!?なんで辞めちゃったんですか?もったいない。。征夷大将軍になれなかった腹いせでしょうか?」
big5
「ある意味では腹いせかもしれませんが、おそらくもっと大きな狙いがったと思います。右近衛大将は確かに最高位の武官の職ですが、それは同時に既存の朝廷の臣下でもあります。頼朝は、朝廷からは独立した独自の武家政権を狙っていたのと考えると、右近衛大将の地位は嬉しいものではありません。既存の朝廷の組織に取り込まれてしまい、朝廷の影響を排除した武士による政府をつくることは難しい、と考えたのだと思います。後白河法皇もそれをわかっていて、征夷大将軍ではなく右近衛大将にしたんじゃないか、と思います。頼朝を朝廷の組織の中に収めておきたかったんじゃないか、と思いますね。」
名もなきOL
「なるほど。政治って奥が深いなぁ・・・。」
big5
「というわけで、頼朝は望んでいた征夷大将軍の地位を得られなかったのですが、状況が変わったのは2年後の1192年です。この年、後白河法皇が亡くなりました。65歳になる年でした。その4カ月後、念願がかなって頼朝はついに征夷大将軍に任じられました。
それから7年後の1199年、頼朝は相模川での橋供養に出席した後、突然体調を崩してそのまま亡くなりました。52歳になる年でした。突然の死の原因は、橋供養の帰りに落馬したことだ、と言われていますが、理由は定かではありません。」
名もなきOL
「なんか違和感が・・。カリスマであるはずの頼朝が亡くなったのに、死因がハッキリしない、というのはなんか変ですね。」
big5
「OLさん、鋭いですね。実は、頼朝は暗殺されたのではないか、という説もあります。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』では、頼朝が亡くなった日の記録に、頼朝の死について触れられていないんです。頼朝が橋供養に出かけて、その後落馬して・・というくだりは、頼朝死亡日から13年経過した日の記録に、思い出されたかのように書かれています。幕府の最重要人物である頼朝の死なのに、13年も経って思い出したかのように死因を書いているのは、意図的に何も書かなかったのではないか、と考えるのが自然ですよね。そのため、暗殺説や愛人に会いに行ったときに恨みを買って殺された説など、いろいろと説はありますが、現時点ではどれも推測の域を出ていません。もし、頼朝の死の真相に迫るような記録を発見することができたら、けっこうなニュースになると思います。」
big5
「頼朝の死により、鎌倉幕府の中枢では波風が立ち始めます。まず、最初の変化が十三人の合議制の始まりです。頼朝が亡くなってからわずか3カ月後、有力御家人13人が会議をして政治を行う、という体制が始まりました。13人のうち主要メンバーは、北条時政、北条義時、梶原景時、和田義盛、大江広元、三善康信、比企能員(ひきよしかず 頼家の妻の父)、といったところです。」
名もなきOL
「なんでまた突然十三人の合議制が始まったんでしょうか?」
big5
「後継者である源頼家は、この時まだ18歳になる年で、かなり若かったんです。老練な政治家である頼朝のように政治を行うことはできない、と判断されたのだと思います。また『吾妻鏡』には、こんなエピソードが記録されています。
「ある御家人たちの領土境界についての裁判で、頼家は「土地が広いか狭いかは運次第」と言って、自分で地図に境界線を引いて片付けた」
という話です。」
名もなきOL
「ヒドイ!それは適当過ぎる!そんな決め方されたら、訴えた人はたまったものじゃないですね。」
big5
「もしこれが本当の話なら、確かに頼家は鎌倉幕府の将軍としては不適格、と言えるでしょう。こんな将軍では、たちまち大きな揉め事を引き起こすのは明らかなので、それを防ぐために十三人の合議制を取り入れた、ということで筋が通ります。ただ、これも『吾妻鏡』の記録なので、本当にそういう話だったのか、という疑問は残りますね。
ただ、この十三人の合議制も、すぐに揉め事が起こりました。梶原景時の変です。梶原景時は、頼朝挙兵の際には平家方だったものの、石橋山の戦いで敗れた頼朝を見逃して、その後頼朝に従って厚遇された有力者です。義経ともいろいろ揉めたので、「義経が滅んだ原因は景時の讒言だった」、とよく言われています。
梶原景時の変の経緯は下のように記録されています。
「結城朝光という御家人が景時に「忠臣は二君に仕えずというが、まさにそのとおりだ。最近は薄氷を踏むような気持でいる。」と言ったことで、景時が頼家に「結城朝光が謀反を企んでいる」と伝え、結城朝光討伐の話が進められた。これを知った結城朝光はびっくり仰天し、和田義盛らに相談。日ごろから、景時の言動に反感を感じていた御家人66人が景時弾劾の連判状を作って頼家に景時処罰を求めた。頼家は景時がお気に入りであったが、重臣らがこぞって景時弾劾を要求するため抗しきれず、景時は鎌倉を追放された。それから間もなく、景時は一族を率いて京都に行こうとしたところ、駿河で地元の御家人らに襲撃されて合戦となり、一族もろとも戦死した。」
という話です。この時、梶原景時60歳くらいと推定されています。」
名もなきOL
「なんかこう、作り話っぽいような気がしますが、義経さんを悪く言っていた景時なら、いかにもありそうな話ですね。」
big5
「そうですね。この後に起きた事件のことも併せて考えると、景時追放は北条氏が仕組んだ策略ではないか、と考えることもできます。ですが、梶原景時の変の検証はまたの機会にすることにして、話を進めましょう。
梶原景時の変から約2年後の1202年、源頼家が征夷大将軍に任じられました。しかし、それから間もなくまたしても騒動が起きます。頼家の舅である比企能員の変(比企の乱、ともいう)です。まずは、『吾妻鏡』の記述から、事件の経緯を見ていきましょう。
「1203年、源頼家(21歳になる年)が重病で危篤となった。このため、北条時政は頼家の後継者として、頼家の弟の千幡(せんまん 11歳になる年。 後の源実朝)に関西38か国の地頭を譲り、頼家の嫡男である一幡(いちまん 5歳になる年)に、関東28か国の地頭および守護を譲ることを決めた。ところが、これでは分割相続で比企氏の勢力が削られる、と考えた比企能員は、時政討伐を娘を通じて頼家に提案。頼家もこれを承諾した。ところが、このやり取りを衝立の裏で聞いた頼家の母・北条政子(46歳)はこれを父の時政に知らせ、時政は大江広元に相談して比企能員征伐を提案。広元はハッキリ答えなかったが、暗に時政に同意した。時政は「相談事がある」と言って能員を屋敷に呼び寄せた。この時、能員は既に挙兵の準備をしていた。能員の一族郎党は「罠に違いない、行ってはならない」と能員を引き留めたが、能員は「行かなければ怪しまれる」と言って、武装を解いて平服で時政の屋敷を訪問。たちまち取り押さえられ、その場で殺された。そして、北条をはじめとした、有力御家人らが手勢を率いて能員の屋敷を襲撃。能員の一族郎党らは奮戦するも、多勢に無勢で敗北し、屋敷には火が放たれ、能員の一族は殺され、頼家の嫡男・一幡も焼死体で発見された。
これを知った頼家は激高し、時政討伐を命じるものの従う者はおらず、政子の命で頼家は出家。その後、伊豆の修善寺に追放された。」
という話です。」
名もなきOL
「話としては、そこまでおかしいとは思わないんですけど、『吾妻鏡』の記録となると、疑って見たほうがいいと思っちゃいますね。。」
big5
「そのとおりですね。最近の研究者は、比企能員の変は北条氏を首謀者とする有力御家人らの謀略、と考える意見が多いみたいですね。吾妻鏡の記述は、貴族の日記や『愚管抄』の記述と比較すると、おかしい部分が非常に多いです。実際、比企能員の変の翌月に、源実朝が朝廷から征夷大将軍に任じられていますが、貴族の日記によると「鎌倉から頼家の死を伝える使者が来て、後継者は弟の実朝となったとのことだった」と記録されています。ところが、この時点ではまだ頼家は死んでいないうえに、使者が鎌倉から京都まで行く日数を考えると、比企能員の変の日あたりに鎌倉を出立していないと間に合わない、という計算になるそうです。あらかじめ、比企能員を追い落とすと同時に、頼家は死んだことにして(危篤状態だったので、すぐに死ぬだろうと考えて)、後継者を政子が産んだ千幡にすることで北条氏の権勢を保とうとして早めに手を打った、と考える方が自然です。」
名もなきOL
「壮絶な権力争いですね。巻き込まれる女子供が可哀想です。頼家さんは、その後どうなったんですか?」
big5
「『吾妻鏡』では、翌年の1204年に死去した、とだけ書いています。頼朝に続いて、頼家も死についての記述が少なすぎます。こうして、頼家の短い治世と生涯は終わり、鎌倉幕府は3代将軍・源実朝のもとで再スタートを切ることになりました。ただ、実朝はこの時まだ12歳。とても政治が見れる歳ではないため、祖父である北条時政が政所別当として政権を握ることとなりました。これが執権政治の始まり、と考えられています。」
源実朝 制作者:豪信 制作年代:1939年
big5
「鎌倉幕府の実権を握った北条時政ですが、その権勢は長く続きませんでした。時政が失脚する原因となったのが、1205年の畠山重忠の乱です。畠山重忠は、武勇の誉れ高く、清廉潔白な人柄で、よく讃えられている武蔵の武士で、本拠を現在の埼玉県嵐山のあたりに構えていました。畠山重忠で一番有名なエピソードは、一の谷の戦いで源義経に付き従ったものの、崖を降りるにあたって馬が怯えて降りようとしなかったため、重忠が馬を担いで崖を降りた、という話ですね。」
名もなきOL
「あ、その場面、マンガで読んだ覚えがあります。凄い力持ちですよね。というか、さすがにそれは作り話ですよね。」
big5
「はい、たぶん後世の作り話ですね。どんなに重忠が怪力だったとしても、馬を担いで崖を降りるのは不可能でしょう。でも、そんな作り話ができるくらい、武勇に優れていた人だったのだと思います。さて、畠山重忠の乱の経緯を、これまでと同様に『吾妻鏡』で見てみましょう。
「1204年(元久元年)11月、実朝の正室として、京都の貴族・坊門信清の娘である坊門信子(ぼうもん のぶこ 11歳になる年)が迎えられた。その酒宴の席で、畠山重忠の息子の重保(しげやす 生年不詳)と、武蔵守であり北条時政の娘婿である平賀朝雅(ひらがともまさ 生年不詳)が口論となった。この時は周囲のとりなしで事なきを得たが、重保を恨んだ朝雅は、妻の母である牧の方(まきのかた 北条時政の後妻)に訴えた。牧の方は、夫の時政にこれを訴え、時政は畠山重忠を謀反の疑いで討伐すると決めた。時政が配下の者を集め始めたので、鎌倉では「何か起こるのか」と騒ぎになった。時政の息子の義時は、重忠討伐の話を時政から聞くと「重忠が謀反を企むわけがない。何の罪もない重忠を討つのはおかしい。」と止めたが、時政は耳を貸さなかった。まず鎌倉にいた重保が討ち取られ、すぐに重忠征伐のために義時を大将とする軍が編成された。一方、重忠は「鎌倉で騒ぎが起きている」という知らせを受け、手勢を率いて鎌倉に向かっていたが、なんと自分に対して追討軍が向けられていることを知って驚愕する。重忠は、二俣川でわずかな手勢と共に追討軍を迎え撃ったが、衆寡敵せず討死した。享年42歳。」
という話です。」
名もなきOL
「これは完全に北条時政と後妻・牧の方の横暴ですよね。好き勝手やりたい放題ですね。」
big5
「そうですね。しかし、時政と牧の方の横暴は長くは続きませんでした。翌月、牧の方が源実朝を暗殺して、平賀朝雅を将軍に据える、という陰謀が発覚しました。しかも、実朝の祖父である時政も、不承不承ながらも承知した、というのです。これを知った北条政子と北条義時は、源実朝を保護したので陰謀は失敗。時政は鎌倉から追放されて故郷の伊豆に帰り、牧の方は出家、そして京都にいた平賀朝雅は殺される、という事件が起きました。この事件を牧氏事件といいます。」
名もなきOL
「信じられない!後妻の言いなりになって孫まで暗殺しようなんて、とんでもないジーサンですよ。因果応報ってところでしょうね。それにしても、鎌倉幕府は陰謀と謀略の連続だったんですね。」
big5
「はい、頼朝の死後、幕府内部は大きく揺れていました。何か間違えれば、崩壊していたかもしれないですね。
さて、時政の追放後、時政の息子の北条義時が政所別当となり、鎌倉幕府は一時的に落ち着きを取り戻すのですが、騒動はこれで終わりではありませんでした。」
big5
「北条義時が政所別当となって以来、鎌倉幕府の実質的な権力者は北条義時とその母、北条政子でした。将軍である源実朝は成人していましたが、政治の実権は持っていません。その代わり、和歌がとても大好きな文化人タイプで、朝廷から送られてきた「万葉集」や「新古今和歌集」」を受け取ると大喜びする、という人でした。」
名もなきOL
「頼朝さんとはまた全く違うタイプですね。穏やかで良さそうですけど、謀略渦巻く鎌倉幕府の将軍にはあまり向いていないのかな、と思います。」
big5
「そうですね。でも、自分で政治を行おうとしたら、母や叔父の義時と対立することになります。その点、政治にはさほど興味を持たなかった実朝は、ちょうどいい「将軍」だったかもしれません。そんな折、1213年(建暦3年)、鎌倉で大事件が起きました。和田合戦です。」
big5
「せっかくなので、和田合戦の経緯も見て見ましょう。
1213年(建暦3年)、泉親衡という信濃の御家人が、亡き源頼家の息子・千寿を立てて北条氏を打倒する兵を挙げたが敗北する、という事件がありました(泉親衡の乱)。この事件に、和田義盛の息子の義直と義重、そして甥の胤長が関与したとして逮捕されたんです。和田義盛は源実朝に一族の赦免を願い出たところ、義盛の実子である義直と義重は解放されました。ところが、甥の胤長は解放されませんでした。そこで、義盛は一族98人を率いて鎌倉に赴き、胤長の赦免を嘆願しました。そこに北条義時が姿を現します。義時は
「胤長は謀反の張本人だから許すことはできない」
と言って、嘆願していた和田一族の前で縛り上げられた胤長を引き立てて、身柄預かり人の二階堂行村に引き渡しました。この義時の行動は和田一族に多大な屈辱を与えました。赦免嘆願が通らないばかりか、自分たちの目の前で捕縛された本人を引き立てられたわけですからね。」
名もなきOL
「これ、きっとワザとですよ。こうすることで、和田一族を挑発してるんですね。義時さんも、けっこう腹黒いタイプなんだろうな。頼朝さんに似てるかも。あんまり好きになれそうにないです。」
big5
「胤長は陸奥に流罪となりました。胤長の鎌倉の屋敷は、一族の者に引き渡されるのが慣例、ということで、和田義盛に引き渡され、義盛は代官を屋敷に置きました。ところがこの後、義時は突然、泉親衡の乱鎮圧に功があった別の御家人に引き渡す、と言って、義盛の代官を旧胤長屋敷から追い出しました。」
名もなきOL
「これも、和田義盛が怒るのをわかってやってますよね。」
big5
「これらの義時の仕打ちに、この年66歳になる和田義盛は怒り心頭。同族である三浦義村(45歳)から味方に付く、という約束を取り付けて、ついに挙兵に至りました。首都である鎌倉で、それなりの規模の軍勢が衝突するという、たいへんな事態になったわけです。しかし、義盛挙兵の噂は既に義時の耳に入っており、しかも義盛に味方すると約束した三浦義村は、義時に義盛挙兵を知らせると義時側で参戦する、という裏切りに出ました。」
名もなきOL
「義盛さん可哀想。そして、この三浦って男サイテーですね。義時よりも、こっちの方が腹立ちます。」
big5
「見方を変えると、三浦義村は義時の忠実な部下、とも言えるのですが・・。それはさておき、兵力で劣るはずの和田勢でしたが、義時の屋敷を真っ先に襲って火を放ちました。義時は、自分の屋敷を守ることは最初からあきらめていたようで、将軍・実朝の屋敷に守りを集中させていました。和田義盛の軍は実朝の屋敷を襲撃し、激闘が繰り広げられました。中でも、義盛の三男・朝比奈義秀(あさひな よしひで 37歳)は豪勇無双の勇士で、北条贔屓の『吾妻鏡』でも、その武勇を讃えられています。
戦闘は2日間にわたって行われましたが、次第に和田勢は不利になり、和田義盛はじめ主だった一族は皆討ち取られました。豪勇の朝比奈義秀は、生き残った兵を集めて落ち延び、その後一切消息不明となりました。
こうして、鎌倉で2日間に渡る大合戦に至った和田合戦は北条義時の勝利に終わり、和田義盛の一族はほぼ滅びました。」
名もなきOL
「和田義盛も滅ぼして、北条氏による幕府支配はますます進んだわけですね。」
big5
「北条氏による幕府支配体制が強化される中で、将軍であり源頼朝の実子である源実朝は、和歌や蹴鞠を好む貴族のような生活を送っていました。畠山重忠の乱のきっかけとなった酒宴も、実朝が正室として迎えた坊門信子の歓迎の宴でしたよね。信子の父の坊門信清は内大臣まで昇進した上級貴族で、信清の娘の一人、つまり信子の姉妹は後鳥羽天皇の女房となっています。実朝の姻戚関係は、まるで名門貴族のようなかんじです。このような実朝に対し、鎌倉武士たちの評価はあまりよくありませんでした。
また、実朝は中国(当時は宋)に行きたいと切実に願い、実際に宋から来た僧に唐船を作らせて由比ヶ浜に浮かばせたのですが、船は沈んでしまって失敗。宋に渡る夢も潰えてしまいました。」
名もなきOL
「きっと、実朝さんは幕府の将軍はイヤだったんでしょうね。性格的にも向いて無なさそうだし。でも、頼朝さんの子供だから、どうしようもないのかな。。上流階級の人も、たいへんですね。」
big5
「そんな中、1219年(建保7年)1月、事件が起きました。1か月前に朝廷より右大臣に任命された実朝は、その祝賀のために鶴岡八幡宮に参拝しました。その帰り、源頼家の息子であり、出家の身であった公暁(くぎょう)によって突然斬り殺されてしまいました。実朝、27歳になる年でした。
公暁は実朝の首を取って逃亡しましたが、しばらく後に追手によって殺されました。実朝には子供がいなかったため、後継者となれる男子はここで断絶してしまいました。将軍の地位を誰が継承するか、については様々な議論があったようですが、最終的には藤原氏から迎えることになります。もちろん、形だけの将軍なので、実権は北条氏が握ったままです。実朝の死によって、北条氏による執権政治が確実なものになった、と言うことができますね。」
名もなきOL
「実朝さんは、なぜ暗殺されてしまったんでしょうね?」
big5
「『吾妻鏡』で記されているのは、公暁は父である源頼家を殺害した真犯人は実朝である、と誰かに吹き込まれて、父の仇を討った、という説ですね。誰が公暁にそう信じさせたのか、についてまでは『吾妻鏡』は言及していないため、後世になっていろいろな説が生まれました。執権政治を確立した北条義時黒幕説、公暁と親しかった三浦義村説、さらには後鳥羽上皇説などがあります。また、特定の誰かが黒幕というわけではなく、公暁自身の野心(実朝を殺し、頼家の子である自分が将軍になろうとした)という説もあります。もし、実朝暗殺の真相を暴くことができたら、大ニュースになるはずですよ。興味がある方は、是非検証してみてください。」
名もなきOL
「私は、北条義時黒幕説に一票ですね。実際、実朝さんが死んで一番得しているのは北条義時と北条氏ですし。一番得した人が、一番の容疑者ですよ。」
big5
「こうして、源頼朝が樹立した鎌倉幕府は、頼朝の死後、政争が相次いだ結果、頼朝の息子たちが皆死んでしまう、という非常事態になりました。そして、これを好機と見た人物がいます。後鳥羽上皇です。次回は、後鳥羽上皇による倒幕作戦・承久の乱です。乞うご期待!」
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