big5
「さて、ここでは世界的にもとても有名なレオナルド・ダ・ヴィンチについて紹介していこうと思います。さて、話を始める前にまずは彼の名前から。日本では、彼のことを「ダヴィンチ」と呼ぶことがたいへん多かったので、「ダヴィンチ」という呼び方が定着してしまっています。ですが、この呼び方はあまり正しくありません。なぜかというと、「ダヴィンチ」とは彼の名字ではなく、「ヴィンチ村出身の」という意味だから、です。レオナルド・ダ・ヴィンチ、という呼び名の意味は「ヴィンチ村出身のレオナルド」という意味なんですね。
なので、このページでは彼のことを「レオナルド」と表記することで統一します。幸い、他に「レオナルド」という名前の有名な歴史人物がいないので、これで不都合はあまりありません。」
名もなきOL
「私も「ダヴィンチ」で覚えてますね。「ダヴィンチの絵」とか、たぶん普通に言っちゃってるかな。」
big5
「さて、レオナルド・ダ・ヴィンチといえば、OLさんは何を連想しますか?」
名もなきOL
「レオナルド、といえばやっぱり、モナリザですね。」
big5
「レオナルドの代表作ですね。子供のころ、モナリザを見てすごく怖かったことを覚えていますが、今、改めてよく見ると、本当に緻密に描かれていることにビックリします。レオナルドの作品で、有名なものは他にもああります。こんな絵を見たことはありませんか?」
名もなきOL
「あります!なんだっけな、確か『ダヴィンチコード』とかにも出てきた、よく出てくる絵ですよね。これも、レオナルドの作品なんですね。」
big5
「そうです。この絵の重要な点は、レオナルドの人体描画に関する科学的アプローチという特徴を示している絵、なんです。ウィトルウィウスという建築家が書いた本に「神殿建築と同様に、人体は調和された比率がある」という記述があり、それを読んだレオナルドが人体についての科学的に正しい姿を描いたんですね。例えば
・身長は肘から指先の長さの4倍と等しい
・肩幅は身長の4分の1と等しい
というかんじです。これを、絵に描いたのがウィトルウィウス的人体図、なんです。」
名もなきOL
「人を描くのに、そのような科学的な考え方を取り入れているんですね。賢い人なんですね。」
big5
「そうですね。これ以外にも、レオナルドは科学的な考察やアイディアをメモとして数多く残しており、その知識の深さや観察力は、同時代の他の画家をかなり凌駕しています。そのため、レオナルドは「ルネサンスの天才」と呼ばれることもありますね。
その一方で、レオナルドはルネサンスで活躍した芸術家の中では、かなり異質な存在でした。それでは、レオナルドの代表作を見ながら、彼の人生を見ていきましょう。」
年 | レオナルドのできごと | 世界のできごと |
1452年 4月15日 |
イタリアのフィレンツェで誕生 | |
1453年 | (1歳) | 百年戦争 終結 オスマン帝国がコンスタンティノープルを攻略し、ビザンツ帝国が滅ぶ |
1466年 | (14歳) フィレンツェの芸術家ヴェロッキオの工房に弟子入り | |
1472年 | (20歳) マスター(親方)の資格を与えられる | |
1478年 1月 |
(26歳)サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作依頼を受ける(最初の制作依頼) | |
1481年 5月 |
(29歳)『東方三博士の礼拝』の制作依頼を受ける | |
1482年 | (30歳)ミラノ公国に滞在開始 | |
1495年 | (43歳)『最後の晩餐』の制作開始 | |
1498年 | (46歳)『最後の晩餐』完成 | |
1499年 | (47歳)軍事技術者としてヴェネツィアに雇用される | フランスがイタリアに侵攻(第二次イタリア戦争 開戦) |
1502年 | (50歳)軍事技術者としてチェーザレ・ボルジアに雇用される | |
1516年 | (64歳)フランス王フランソワ1世に招かれ、アンボワーズ城近くのクルーの館に住む | |
1517年 | (65歳) | ルターが95箇条の論題を発表 宗教改革の始まり |
1519年 5月2日 |
(67歳)死去 アンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬される | |
big5
「レオナルドの幼少期は謎だらけです。父はピエロ、職業はフィレンツェの公証人。母はカテリーナといい、農家の娘だった、と考えられています。生まれた場所はトスカーナのヴィンチ村です。「ダ・ヴィンチ」の由来ですね。両親は正式な結婚をしていたわけではないので、レオナルドは私生児でした。」
名もなきOL
「レオナルドのお母さんは、いわゆる「お妾さん」だったんでしょうね。ちなみに、公証人って何ですか?」
big5
「現代の職業でいうと、司法書士が一番近いかんじですね。法律の専門家です。勉強しないとなれない職業なので、それなりに経済的に恵まれていました。ところが、レオナルドは妾の子なので、一般庶民と同様にまともな教育はされませんでした。「万能の天才」と評されるレオナルド・ダ・ヴィンチですが、実は無学です。そして、彼は様々な分野の知識を吸収していきますが、ほぼ独学だったようですね。
そんなレオナルドの幼少期は、おそらく母と共にヴィンチ村で過ごしていただろう、と考えれています。探究心は生まれつき強かったようで、ヴィンチ村の少年らから読み書きを教わり、野山でスケッチをして過ごしていたようです。
レオナルドが、芸術家としての道を歩み始めたのは14歳の時。当時、フィレンツェでトップクラスの芸術家のヴェロッキオの工房に弟子入りしたことから始まりました。ちなみに、ほぼ同時期に同じくヴェロッキオの工房で弟子として働いていた人物にボッティチェリがいます。『ヴィーナスの誕生』で有名なルネサンス芸術家の一人ですね。
レオナルドは、ヴェロッキオの工房で、当時の絵画に必要な知識と技術を身につけました。ヴェロッキオとレオナルドが共同で作った、という絵が残っています。下の『キリストの洗礼』という絵です。」
名もなきOL
「ルネサンス風の絵ですね。ルネサンスの絵って、サイゼリヤでよく見る絵ですよね。私はこういうかんじの絵は好きです。それで、共同制作っていうことは、レオナルドはどの部分を描いたんですか?」
big5
「左下にいる2人の天使を描いた、と考えられています。この絵には逸話が一つあります。
共同で描いたこの絵を改めて見たヴェロッキオは、レオナルドの絵の上手さに驚き、自らの筆を折った、つまりもう絵は描かないことにした、という話です。本当にそうなのか、は不明です。」
名もなきOL
「う〜ん、素人目にはよくわからないですけど、天使だけが格別に上手く描けているわけじゃないと思います。でも、レオナルドさんはこの頃には一人で全部描ける画力はあったんでしょうね。」
big5
「そうですね。1472年、20歳の時にレオナルドは「マスター」の資格を与えられます。つまり、もう一人立ちできるくらいの実力がある、ということですね。さらに数年後の1478年には、ヴェロッキオとの共同制作は行わなくなり、レオナルドは一人の画家として仕事の依頼も受けるようになりました。ここから、天才、そして個性的なレオナルドの人生が本格的に始まります。」
big5
「さて、1478年。レオナルドは26歳です。新進気鋭の芸術家ですね。独立したてのレオナルドが最初に制作依頼を受けたのは、ヴェッキオ宮殿にあるサン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画でした。」
名もなきOL
「いよいよレオナルドの芸術家デビューですね!どんな絵かな?」
big5
「それが、無いんです。」
名もなきOL
「あら、失われてしまったんですね。残念。」
big5
「いえ、そうではなくて、そもそも完成してないんです。レオナルドは、依頼された仕事を完成させなかったんですよ。」
名もなきOL
「えぇ!?独立して最初の仕事なのに?普通、独立して最初の仕事って、やる気満々で取り組んで仕上げるもののような・・・」
big5
「意外なのですが、レオナルドは引き受けた仕事をなかなか完了させない、という職業画家として大きな問題があるんですよ。当時の芸術家は、教会や貴族などのお金持ち達がお客さん(パトロン)となり、彼らが頼む絵画を描くことで収入を得ていました。なので、パトロンの期待にどれだけ応えられるか、が芸術家の収入に直結し、ひいては社会的地位にも繋がるわけです。ところが、レオナルドは、いわゆる「完璧主義」だったようで、自分が納得いくまで絵を完成させませんでした。」
名もなきOL
「」
big5
1481年5月に引き受けた『東方三博士の礼拝』の絵も(下参照)、製作途中でレオナルドがミラノに行ってほっぽり出してしまったので、未完成で終わっているんです。」
名もなきOL
「・・・すっごい意外です。天才・レオナルドが仕事を未完成のままにしておくなんて・・・。でも、よくそれで生き延びてこれましたね。」
big5
「私もそれを知った時はかなりビックリでした。意外過ぎますよね。若い頃は、収入もかなり少なく、売れない芸術家だったようですよ。そして、これは私の予想なのですが、しばしば仕事を完成させられなかった理由は
1.完璧主義で、準備や調査に時間をかけ過ぎる → 本体の制作が遅れる
2.興味のある分野が広く、とことん追求する性格 → 調べ始めると止まらない → 依頼された仕事は後回しになる
なんじゃないか、と思います。おそらく、周囲の芸術家達は
「レオナルドって、こだわり強すぎだよね。依頼主が満足すればOKなんだから、妥協してさっさと仕上げりゃいいのに(笑)」
と言っていたんじゃないか、と思います。」
名もなきOL
「自分なりのこだわりを持つのも大事だと思うんですけど、納期は守りましょうよ。私の後輩がこんなタイプだったら、物凄く苦労しそうだわ。」
big5
「多くの場合、天才は常人では理解できない感覚を持っていますからね。だからこそ、「天才」なのかもしれないです。そして、もう一つ重要なことが。
このような芸術家だったレオナルドは、多くの作品を手掛けたはずなのですが、現在、レオナルドの絵として残っているのは13点くらい、です。なお、13という数については、諸説あります。15だったり、17だったりしますが、有名人の割にはかなり少ないことに変わりはありません。」
名もなきOL
「きっと、気に入らなくて捨てちゃった絵とか、山のようにあるんでしょうね。・・あれ?でも、ウィトルウィウス的人体図とか、そういう絵はもっといっぱい残ってるんじゃなかったでしたっけ?」
big5
「それは手稿(メモ)ですね。」
big5
「さて、未完成の仕事をいくつも抱えたレオナルドに、転機が訪れます。フィレンツェの実質的な支配者であるメディチ家の推挙で1482年にミラノ公国へ行き、しばらくミラノに滞在することになりました。ミラノ公というパトロンを得たわけです。ここで、世界的に有名な『最後の晩餐』を描きました。まず、絵を見てください。」
名もなきOL
「これも有名な絵ですね!映画『ダ・ヴィンチコード』でも、鍵になってた絵ですね。」
big5
「そうです。『最後の晩餐』は、レオナルドがミラノ滞在時に描かれたものでした。この作品は、未完成ではなく最後まで完成させています。最後の晩餐で採用されている技法の一つが「遠近法」です。近くにあるものを大きくし、遠くにあるものを小さくすることで、遠近感を出す技法ですね。遠近法自体は、レオナルド以前から既に用いられていましたが、レオナルドは「一点透視図法」を使っています。消失点は、中央のキリストの右のこめかみあたりです。後の時代の修復で、ここに釘を打った跡が発見されました。
さて、OLさん。この絵を見て、何か気づきませんか?」
名もなきOL
「う〜ん、そうですね。まず、全体的にぼやけてますよね。傷んでるのかな?もう500年も経ってますからね。」
big5
「そうです、まず「傷みが激しい」というのが最初の特徴です。ただ、傷んでる理由は500年経っているから、だけではないんです。絵の描き方に大きな問題がありました。」
名もなきOL
「絵の描き方?」
big5
「まず、『最後の晩餐』は「壁画」です。紙に絵を描くのではなく、壁に絵を描くんですね。当時、壁に絵を描くときはフレスコ画と呼ばれる技法を使うのが普通でした。まず、壁に漆喰を塗って、それが乾いてしまう前に絵の具である顔料を乗せることで、壁自体をその色にする、という技法です。こうすることとで、描いた絵は壁とほぼ一体化するため、かなりの長期間にわたって色彩を維持することができます。レオナルドと同時代に、フレスコ画で描かれた絵の代表例がこれですね。」
名もなきOL
「わ、凄い鮮やか。今見た最後の晩餐とはだいぶ違いますね。レオナルドもフレスコ画で描けばよかったのに。。なんでそうしなかったんですか?」
big5
「フレスコ画は壁画の保存には向いていますが、大きな欠点がありました。まず、絵の具を受ける漆喰が乾く前に絵を完成させなければならない、という時間的制約が強いこと、ですね。次に、重ね塗りができない、ことです。レオナルドは、絵の質を上げるために何度も重ね塗りをしているんです。『モナ・リザ』も重ね塗りで描いています。ところが、フレスコ画では乾いてしまったらそれで終わりなので、重ね塗りはできないんですね。レオナルドは、このような欠点のあるフレスコ画を採用せず、テンペラという、紙に描くのと同じ方法で『最後の晩餐』を描きました。テンペラは、顔料を卵などに溶かして絵の具にして、それを塗る方法ですね。なので、重ね塗りも可能ですし、フレスコ画のような時間制約もありません。納得いくまで描くことができます。」
名もなきOL
「なるほど、こだわりが強いレオナルドさん向きの方法ですね。でも、卵を使った絵の具で壁に絵を描く、ということは・・・カビとか生えそうですね。」
big5
「そうなんです。テンペラでも、保存状態がよければ十分長持ちするのですが、この壁画は修道院の食堂の壁画なんですね。つまり、多くの人が出入りして、この部屋で飲み食いするわけです。スープの湯気とかが多ければ、湿気は当然高くなります。テンペラは湿度の変化に弱いです。そのため『最後の晩餐』は、完成してから20年後には、絵の具が剥がれ落ちたりしてどんどん損傷していったんです。」
名もなきOL
「・・・この絵、もしかして実は色々失敗してるんじゃ・・」
big5
「もちろん、レオナルドはテンペラでは湿度変化に耐えられないであろうことを知っていたようです。そこで湿度変化への対策として、乾いた漆喰の上に薄い膜を作ってその上に絵を描く、というフレスコ画の要素を取り入れた方法を使ったそうですが、結果を見ると残念ながら失敗していますね。
その後、『最後の晩餐』はたびたび修復されてきました。ところが、その修復は必ずしも高品質なものではありませんでした。絵の具が剥がれ落ちた部分は描き直しされたのですが、原画にはない絵が描き足されたりして、レオナルドの原画は少しずつ失われていきました。極めつけは、壁画の中央下の部分です。ここだけ、絵にそぐわない土色の長方形(上辺は弧になっている)部分がありますよね。これ、食堂と台所をつなげるために、壁を壊してしまったんです。」
名もなきOL
「凄いですね。世界的に有名な絵とは思えない扱いを受けてきたんですね。。」
big5
「『最後の晩餐』が美術史の中でもたいへん重要な作品であることは間違いないですが、別の意味でも伝説となった絵なんです、『最後の晩餐』は。」
big5
「このあたりから、レオナルドの「軍事技術者」としての側面を見ることができます。」
名もなきOL
「画家が途中で軍事技術者を兼業するって、いうのは普通じゃないですよね。さすが、天才・レオナルド・ダ・ヴィンチ。」
big5
「1499年、フランスがミラノに攻め込んできました。第二次イタリア戦争です。この戦争でミラノは敗北し、レオナルドもミラノを離れることになりました。それから3年後の1502年、レオナルドはイタリアの梟雄チェーザレ・ボルジアに軍事技術者として雇われました。レオナルドは、都市を要塞化する設計図を描いたり、戦車や重火器などの兵器を考案したりしています。こういう分野に詳しいルネサンスの画家って、レオナルドだけですね。
その一方で、画家の仕事も続けていました。有名な『モナ・リザ』はこの頃(1503-06年)くらいに制作を始めた、と考えられています。」
名もなきOL
「下線が付いている部分が気になりますね。制作を始めた、なんて。もしかして、完成するまでかなり時間がかかったんですか?」
big5
「はい、だいたいOLさんの予想通りかと思います。『モナ・リザ』はフィレンツェの裕福な絹商人だったフランチェスコ・デル・ジョコンドが、新居への引っ越しと次男アドレアの誕生祝に、妻であるリザ・デル・ジョコンドの肖像画を発注したのが始まり、だったそうです。ところが、描き始めるとレオナルドはかなりのめりこんでしまったようで、結局、依頼主に納品することはできませんでした。」
名もなきOL
「う〜〜ん、やっぱりその、レオナルドが天才だというのはわかるんですけど、お客さんにきちんと納品できない、っていうのは社会人として重大な問題があると思いますね。」
big5
「そうですよね。ただ、『モナ・リザ』が高く評価されるようになったのは、納品しなかったことも理由の一つなんじゃないか、と思います。というのも、レオナルドは『モナ・リザ』を持ち歩いて、時間を見つけては重ね塗りを続けていたそうです。『モナ・リザ』で評価されている技法の一つが「スフマート」と呼ばれるもので、これは輪郭をハッキリ描かずにぼかして描くことで、よりリアルに表現する、という技法です。『モナ・リザ』の口元はスフマートで描かれており、これによって特徴的な微笑を描き出している、と評価されています。時間をかけないとできない技、ということですね。」
big5
「1516年、64歳になっていたレオナルドは、フランス王フランソワ1世(21歳)に招かれ、フランスのサンボワーズ城の近くのクルーの館に住むことになりました。」
名もなきOL
「イタリア人のレオナルドが、フランス王に招かれる、って凄いですね。それだけ、レオナルドの力が評価された、ってことなんでしょうね。」
big5
「フランソワ1世は、学問や芸術の保護に熱心な王でした。レオナルドのような芸術家を保護したりして、フランスの芸術レベルを引き上げるきっかけを作った、と評価されています。フランソワ1世はレオナルドに年金を与えて厚遇していました。レオナルドは、弟子らと共に安らかに過ごしていたそうです。
それから約3年後の1519年5月2日、クルーの館にてレオナルドは死去しました。67歳になる年でした。臨終のときは、駆け付けたフランソワ1世に抱きしめられて天に召された、と記録されており、それを描いた絵画もあるのですが、これが真実であるかどうかはわかりません。」
名もなきOL
「そういえば、レオナルドさんは結婚していなかったんですか?」
big5
「はい、独身でした。子供もいません。結婚や自分の家庭を持つことにはあまり興味がなかったのかもしれないですね。そのため、「レオナルドは同性愛者で、弟子らはレオナルドの愛人でもあった」という説もあったりしますが、あくまで推測です。」
名もなきOL
「レオナルドさんみたいな天才だと、奥さんはかなり苦労したでしょうね。ある意味、独身でいて正解だったかも。」
big5
「レオナルドは、フランソワ1世に厚遇されてけっこうなお金を残したうえに、『モナ・リザ』のように納品しないで持ち運んでいた絵も多かったんです。死後、レオナルドの遺産は弟子や周囲の親しかった人々に分配されました。弟子の中で、特に有名なのがサライです。」
名もなきOL
「なんでこの人が有名なんですか?」
big5
「サライというのは「小悪魔」という意味のあだ名です。本名はジャン・ジャコモ・カプロッティといいますが、ここでは「サライ」で統一しますね。サライとレオナルドの付き合いはかなり長く、1490年、サライが10歳の時にレオナルドの住み込み弟子として働き始めました。1490年というと、レオナルドは28歳で、ミラノ公国で活動していた頃です。サライは容姿端麗で、レオナルドのお気に入り弟子の一人でしたが、レオナルドのお金を少なくとも5回は盗んでいます。」
名もなきOL
「え!?5回もお金を盗んだんですか?お金を盗む時点でアウトですけど、それが5回も起こるっていうことは、レオナルドは・・・」
big5
「はい、お金を盗まれた時は「盗人、嘘つき、強情、大食漢」と言って罵るのですが、結局許して元の鞘に戻っていたんですね。サライは、レオナルドの相当のお気に入りだったことがうかがえます。先述した、レオナルド同性愛者説は、レオナルドの相手はこのサライに違いない、と考えていますね。そして、サライは、『洗礼者聖ヨハネ』のモデルだった、と考えられています。」
名もなきOL
「確かに、女性的な顔つきですね。女性の絵、でも通じますね。・・・なんか、レオナルド同性愛者説も、説得力ある気がしてきました。それにしても、ポーズが特徴的ですね。」
big5
「特徴的なポーズの右手は、天国を指していると考えられています。表情も、モナ・リザに似た感じですよね。やはり、スフマート技法で描かれています。これが、おそらくレオナルドの最後の作品だろう、と考えられています。
さて、ここまでレオナルド・ダ・ヴィンチの人生を概観してきました。レオナルドは、ルネサンス後期を代表する天才芸術家だ、と言えるでしょう。ただ、その一方で、依頼された作品を完成させられなかったり、『最後の晩餐』のように、保存という面では失敗していたりと、意外な一面を持つ天才でもありました。私が個人的に最も面白かったのは、『モナ・リザ』は依頼主に納品せずに持ち歩き、何年もかけて重ね塗りして、じっくり作った、という話ですね。昔の芸術家は、依頼主の仕事をこなすことで生計を立てます。なので、彼らが制作した作品は「依頼主が欲しかったモノ」であるわけです。そういう意味では、現代の芸術家とはそもそもの制作過程が異なるわけですね。ところが、レオナルドの場合は、現代の芸術家に近い感じがします。レオナルドは、依頼主の欲しいものよりも、自分が作りたいものを優先する傾向がかなり強かった、と思います。そういう意味でも、かなり「異質な天才芸術家」だったと思いますね。
そして、レオナルドの死は新たな時代の訪れでもありました。レオナルドが亡くなる2年前の1517年10月31日、ドイツでルターが95箇条の論題を発表しました。宗教改革のきっかけとなったのは、贖宥状(免罪符)の販売です。贖宥状販売の目的は、ルネサンス期で大盛り上がりを見せた、カトリック総本山の華麗な建築物や美術品を作るための資金稼ぎだったんですね。ルネサンスの芸術家、レオナルドの死後、ヨーロッパは宗教改革の騒乱が始まるわけですね。まさに、時代の変わり目にこの世を去った、と言えるでしょう。」
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