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中世の始まり

中世のアフリカ

あらすじ

big5
「さて、今回は中世時代のアフリカに存在した国々の歴史を見ていきます。」
名もなきOL
「アフリカの中世って、どんな時代だったのかしら?ほとんどイメージ湧かないです。」
big5
「それも仕方ないです。アフリカの歴史は中世になっても史料不足が多く、不明点は多いです。ですが、それは決して「歴史が無い」ということではありません。
さて、それではいつもどおり、まずは年表から見ていきましょう。なお、古代のアフリカと同様に年代については不明な点が多いので、ここに記載されている年号は一部を除いて「だいたいこれくらい」の精度となっていることをご留意ください。」

年月 中世アフリカ世界のイベント 他地方のイベント
4~8世紀 ガーナ王国成立
10世紀 アフリカ東海岸都市にイスラム商人が住み始める ⇒ スワヒリ語の形成
1066 ヘースティングスの戦い ⇒ ノルマン朝イングランド成立
1076年 ムラービト朝がガーナ王国の都を征服
⇒ガーナ王国衰退の始まり
1090年 カネム王・ウメがイスラム教に改宗
1095年 第1回十字軍
1204年 第4回十字軍がコンスタンティノープル占領
1240年頃 マンディゴ人の英雄スンジャータがマリ王国を建国
1324年 マリ王マンサ・ムーサのメッカ巡礼
1339年 百年戦争 開戦
1348年 ヨーロッパで黒死病(ペスト)流行
1352年 イブン=バットゥータがマリ王国を訪問
14世紀末 コンゴ王国建国
1417年 明の鄭和艦隊が東海岸諸都市に来訪
1440年頃 ジンバブエ・モノモタパ王国 繁栄
1453年 コンスタンティノープル陥落しビザンツ帝国滅亡
英仏百年戦争 終結
1464年 ソンガイ族の首長・ソンニ=アリがソンガイ王国建国
1473年頃 ソンガイ王国がマリ王国から独立

ガーナ王国

big5
「最初はガーナ王国の話から始めます。まず、「世界の歴史まっぷ」さん作成の地図を見てみましょう。」



名もなきOL
「西にある縦の赤線で囲われているところがガーナ王国ですね。現代だとこの辺りは・・・あれ?マリとかモーリタニアのあたりですかね?今のガーナはギニア湾沿岸ですし。中世のガーナ王国は今のガーナとはほぼ別の場所にあるんですね。」
big5
「そうなんです。名前が同じなので誤解しやすいですよね。中世のガーナ王国はアフリカ西部の内陸国です。現在のガーナよりも約1500kmも北にありました。
さて、ガーナ王国の歴史はハッキリしない部分が多いのですが、その理由の一つは、文字を持たない文化だったことです。なので、ガーナ王国に関しては周辺諸国の記録から断片的に拾えないんですよ。そのため、ガーナ王国がいつ頃建国されたのか、についても4世紀〜8世紀の間、と400年も幅がありますし、首都がどこであったかもハッキリしません。そして、滅んだのがいつなのかもハッキリわかりません。アフリカ北部のムラービト朝が、1067年にガーナ王国の都を攻略して略奪した、という記録が残っているので、少なくとも滅亡はそれ以降になるはずですが、それ以上はわかりません。」
名もなきOL
「やっぱり「文字」って重要なんですね。文字があれば、紀元前の記録だって残っているのに、文字が無いと紀元後のことでも不明になっちゃうんですね。」
big5
歴史は記録で作られる、とはまさにそのとおりですね。さて、それでもガーナ王国についてある程度の事はわかっています。一番の特徴は、塩と金のサハラ縦断交易で繁栄していた、ということです。サハラ砂漠は広大な砂漠ですが、現代でも一部地域では岩塩が取れます。また、ギニア方面には金鉱があるため、金の採掘も行われていました。特にワンガラというところでは、金が豊富に取れるのに塩がまったく取れなかったので、ガーナで金と同じ量の塩を交換していたそうです。」
名もなきOL
「金と塩を同じ量で交換、って本当ですか?塩と同じ値段で金が買えるなんて、現代じゃ絶対あり得ないですね。」
big5
「このような交易を経て、イスラム文化圏、さらにはキリスト教文化圏にアフリカ産の金が運ばれていたそうです。ガーナ王国は表にはあまり出てこないですが、経済的な影響力は大きかったと思われます。1067年にムラービト朝に攻撃されたのも、豊富な金が狙われたようですね。
その後、ガーナ王国は徐々に衰退していったのか、いつの間にか歴史の表舞台から退場していきました。」
名もなきOL
「アフリカにそんなにたくさん金があったなんて、かなり意外でした。歴史がハッキリしないというのもあって、けっこうミステリアスな地域だったんですね。」

カネム=ボルヌ王国

big5
「次はカネム=ボルヌ王国です。まず名前ですが、当初はカネム王国という国で14世紀後半まで存続しました。その後、中間期を挟んだ後にボルヌ王国となったので、両方をまとめてカネム=ボルヌ王国といいます。ここでは「カネム=ボルヌ王国」と表記します。
カネム=ボルヌ王国は、上記の『世界の歴史まっぷ』さんの地図には記載されていませんが、チャド湖のあたりにありました。カネム王国時代の首都はヌジミ、ボルヌ王国時代はビルニ=ヌガザルガムに置かれたました。
1090年、カネム王のウメイスラム教に改宗し、イスラム教が広まっています。
カネム=ボルヌ王国もサハラ砂漠を横断して北アフリカやアラビア方面のイスラム国家と交易しています。ただ、ガーナ王国と違って金や岩塩などの特産物はあまりなかったようです。特産物の代わりに、奴隷輸出が盛んに行われていたそうです。」
名もなきOL
「え、奴隷貿易をしていたんですか?奴隷貿易というと、スペインやイギリスが行った大西洋奴隷貿易のイメージがありますが・・・」
big5
「アメリカ大陸に連れていかれた奴隷はそうですね。ただ、奴隷を使用するのはイスラム圏も同じだったので、中世ではイスラム諸国で当然のように奴隷が使役されていました。カネム=ボルヌ王国は、それらの奴隷の供給源だったわけですね。」
名もなきOL
「奴隷制度なんて決して許されない仕組みですけど、当時はそれが経済活動の一つだったんですね。なんだか、やりきれない気分だな・・・」
big5
「そうですね。何が常識なのかは、時代と地域によって異なるものだということですね。」

マリ王国(マリ帝国)

big5
「さて、次はマリ王国の話ですね。マリ帝国と呼ばれることもありますが、ここでは「マリ王国」で通します。マリ王国は衰退したガーナ王国に代わって栄えた国でした。『世界の歴史まっぷ』さん作成の地図のように、支配領域も旧ガーナ王国のだいたいの領土に加えて、南と西に領土を広げています。西は大西洋岸まで至っていますね。マリ王国を建国したのは、このあたりに住んでいたマンディゴ人の英雄・スンジャータ(日本語表記は「スンジャタ」とか「マリジャタ」などがありますが、ここではスンジャータで通します)だと伝えられています。時代は1240年頃だと考えられていますね。14世紀頃にはニジェール川中流域に進出して、ガーナ王国のようにサハラ砂漠を超えた塩と金の交易で栄えたようです。
マリ王国の歴史の中でとくに有名なのは、マリ王国最盛期の王であるマンサ・ムーサ(Mansa Musa 1280年?〜1337年?)です。マリ王国にはイスラム教が広まっていたので、国王のマンサ・ムーサもイスラム教徒です。イスラム教徒の生涯の夢といえば、なんといってもメッカ巡礼です。1324年、マンサ・ムーサは大行列を従えてメッカ巡礼の旅に出ました。その道すがら、マムルーク朝が治めていたエジプトのカイロに滞在し、湯水のように金を喜捨したので、しばらくの間、カイロの金相場はかなり下落した(供給過多により)、という話が残っています。」

Mansa Musa金塊を手にするマンサ・ムーサ 

名もなきOL
「金相場が下落するくらい大量の金を使った、というわけですね。マリ王国は相当金で潤っていたんですね。凄いな。。」
big5
「また、イスラムの大旅行家として有名なイブン=バットゥータもマリ王国を訪れ、1352年には国王のマンサ・スライマーンに謁見しています。
金で栄えたマリ王国も15世紀には衰退しはじめ、やがてソンガイ王国に取って替わられます。」

ソンガイ王国

big5
「ソンガイ王国は、ソンガイ帝国と呼ばれることもありますが、ここではソンガイ王国で通します。名前の通り、ソンガイ人が建国した国ですが、いつ建国されたのかは不明です。1464年にソンニ=アリがソンガイ王になると、急速に領土を拡大していきました。ソンニ・アリは軍事指揮官として優れていたようで、周辺諸国を武力で従わせ、衰退していたマリ王国からも独立を果たしました。15世紀から16世紀にかけて、広大な西サハラを支配下に置き、たいへん繁栄していたようですね。
ソンガイ王国の中でも特に発展していた街がトンブクトゥジェンネです。」

Timbuktu Mosque Sankore世界遺産に指定されているトンブクトゥのモスク

big5
「トンブクトゥは経済と文化の中心地で、アフリカの産物が集められて市が賑わい、モスクが作られてイスラム文化が発展しました。ジェンネはトンブクトゥの南西660kmに位置し、交易の中継地点として発展しました。世界遺産に指定されている↓のモスクが有名ですね。」

Great Mosque of Djenne 1世界遺産に指定されているジェンネの大モスク

big5
「ソンガイ王国は西アフリカのイスラム教国として繁栄しましたが、1591年にモロッコによって滅ぼされました。」

アフリカ東海岸都市

big5
「さて、アフリカの西側を見てきたところで、次は東に目を移しましょう。西側はいくつかの国家の歴史でしたが、東側では国家よりも海に面するいくつかの都市の方が有名です。これらの海岸都市は交易で繁栄しました。上の『世界の歴史まっぷ』さんの地図で見ると、アフリカ大陸の東側にあるマリンディモンバサザンジバルキルワなどが有名ですね。」
名もなきOL
「ザンジバルは私も名前を聞いたことがあります。アフリカ東海岸の街だったんですね。」
big5
「これらの都市はだいたい10世紀くらから交易で繁栄しました。交易相手は、アラビア半島やインド方面から来るイスラム商人で、交易品目は金、象牙、奴隷などでした。アフリカ東海岸都市の発展で重要なのは文化面で、スワヒリ語文化圏が形成されたことですね。」
名もなきOL
「スワヒリ語!名前は知っています。でも、スワヒリ語ってどんな言葉かは全然わからないです。」
big5
「私もスワヒリ語はわかりませんが、この地方のバントゥー語をベースに、イスラム商人らとの交易でもたらされたアラビア語が加わってできた言語、とのことです。「スワヒリ」とはアラビア語で「海岸」を意味するサーヒルの複数形サワーヒルに由来している、とのことです。
特にマリンディは、他の分野の歴史でも登場します。まず、中国史では1417年、明の時代に宦官の鄭和が艦隊を率いて来航し、キリンを連れて帰っています。中国の歴史書では「麻林」と記録されています。また、その後の1497年、大航海時代ではポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインドへ向かう途中で立ち寄り、案内人を雇った、と記録されています。」

ジンバブエ・モノモタパ王国 11~19世紀

big5
「東海岸諸都市のエリアよりもさらに南に下ったあたりでは、ジンバブエ・モノモタパ王国が繁栄していました。」
名もなきOL
「ジンバブエは聞いたことあるのですが、後半のモノモノタパ?これは何ですか?」
big5
モノモタパ、です。「ジンバブエ」とは「石の家」を意味し、「モノモタパ」は、国王を現地の言葉で「ムウェネ・ムタパ」というのを、アラブの商人が「モノモタパ」と呼んだことで、この名が定着したそうです。モノモタパ王国はアフリカ東南部のザンベジ川流域に建国され、ショナ族やロズウィ族などを中心とする部族連合王国でした。モノモタパ王国は上述のアフリカ東海岸都市などとの交易で栄えたそうです。
ジンバブエには↓のような巨大な石造りの遺跡があり、世界遺産に指定されています。」

Great-Zimbabwe-2

名もなきOL
「石がレンガみたいにキレイに積み重ねられていますね。これはけっこうなレベルの文明だったのではないでしょうか?」
big5
「私もそう思います。ジンバブエの遺跡は様々な調査が行われているのですが、どのようにしてこの遺跡が作られたのか、どの国のものだったのか、などは不明です。位置関係で、モノモタパ王国の遺跡ではないかと思われますが、それを決定づける証拠は挙がっておらず、謎に包まれているみたいですね。」

ベニン王国とベニン文化 13世紀〜18世紀

big5
「続きましてアフリカ西部に戻り、黄金海岸沿いに栄えたベニン王国の話です。ベニン王国は現在のナイジェリア西部に位置した国でした。大航海時代で航路を開いたポルトガル人と交易して繁栄しました。貿易品目は例によって象牙や奴隷、他には胡椒などが輸出され、ポルトガルからは銃と火薬が輸入されました。ベニン王国はこれで軍隊を強化し、周辺部族を征服して領土を広げました。征服された部族の民は、奴隷として売り払われました。」
名もなきOL
「カネム=ボルヌ王国の話でも出てきましたけど、これらの国では奴隷を取引品目としていたわけですね。奴隷貿易という人類の負の遺産は、こういうところにも原因がありそうですね。」
big5
「まさにそうだと思います。と、その話はさておき、ベニン王国の特徴は大変優れた青銅器の彫刻です。英語では"Benin Bronze"(ベニンブロンズ)と呼ばれ、複雑で美しい装飾が特徴でした。ベニンブロンズを始めとしたベニンの美術品は、1900年代に入って著名な画家・ピカソらが「これは素晴らしい」とリスペクトして彼らのキュビズムという新しい芸術のきっかけになったことでも有名です。」

コンゴ王国

big5
「最後にアフリカ中央部からやや南のコンゴ盆地で繁栄したコンゴ王国の話を少しだけしておきます。コンゴ王国が建国されたのは14世紀末くらいではないか、と考えられていますがハッキリしたことはわかりません。ただ、中世と呼ばれた時代には既に国家として成立していたことは間違いないでしょう。
コンゴにはポルトガルが進出してキリスト教が広まるのですが、それはコンゴの苦難の歴史の始まりでもありました。ただ、それは今回扱う時代よりも後の話なので、今回は割愛しますね。

と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問

big5
「大学入試共通テストでは、令和2年まで、中世アフリカのネタは実は頻出問題でした。令和3年以降、試験の形式が一部変更されてからは出題されていませんが、試験前に復習しておくのがオススメです。」

平成30年度 世界史B 問題25 選択肢3
・モンバサは、アフリカ東岸の海港都市(港市)として繁栄した。〇か×か?
(答)〇。上記の通りです。

平成31年度 世界史B 問題25 選択肢4
・ソンガイ王国のマンサ=ムーサは、巡礼の途上で大量の金を使用した。〇か×か?
(答)〇。上記の通りです。

令和2年度 世界史B 問題12 選択肢2
・アフリカ東岸の港市(海港都市、海港)で、共通語としてスワヒリ語が用いられるようになった。〇か×か?
(答)〇。上記の通りです。

令和2年度追試 世界史B 問題35 選択肢3
・ザンベジ川流域に成立したモノモタパ王国が、交易によって栄えた。〇か×か?
(答)〇。上記の通りです。

令和5年度追試 世界史B 問題19 選択肢B&C
(問題)北イタリアの諸都市の商人が、それぞれの都市を拠点に広く活動し、またムスリム商人も、地中海を含め、広範囲に活躍していた。これについて述べた文として最も適当なものを選べ。
Bザンベジ川流域のトンブクトゥは、交易都市として繁栄した。
Cアフリカ東岸のマリンディやザンジバルは、ムスリム商人によるインド洋交易の拠点となっていた。〇か×か?
(答)C。やや細かい知識が確実な正解を阻む問題。Cについては、センター試験でしばしば出題される「中世アフリカ東岸都市とムスリム商人の交易」ネタなので、正解です。Bについては、トンブクトゥもムスリム商人と交易として繁栄していた、という部分は正解なのですが「ザンベジ川流域」というのが×。トンブクトゥはアフリカ西部にあるのに対し、ザンベジ川はアフリカ南東を流れる川で、流域にある有名国家はモノモタパ王国です。

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参考文献・Web site