Last update:2022,Jun,18

しのぎを削る列強

日露戦争

あらすじ

big5
「今回のテーマは日露戦争です。日本史でも重要イベントですが、世界史においても重要なイベントになっています。みなさんご存じのように、1904年に始まった日露戦争は、激戦の末になんとか日本が勝利しポーツマス条約を締結しました。これは、単に「日本がロシアに勝った」という、戦争の勝ち負けのはなしだけではないんです。ほんの40年くらい前に、侍の時代を終えたばかりのアジアの新興国が、列強の一角を占めるロシアをほぼ単独で破るという、世界にも衝撃を与えた事件なんです。」
名もなきOL
「ここまで『しのぎを削る列強』の話を聞いてきて、アジア・アフリカ諸国には辛い時代だったということがよくわかったんですけど、そう考えてみると、日露戦争で日本が勝った、っていうのは確かにビックリですよね。アジアの国がヨーロッパの国に勝つなんて。」
big5
「そうですね。日露戦争の勝利により、日本は「やや毛色が異なる列強」として国際政治に参加していくことになります。
と、あらすじはこれくらいにしておいて、本編に入りましょうか。まずは、いつもどおり年表から見ていきましょう。」

年月 日本・ロシアのイベント 世界のイベント
1895年 ロシアによる三国干渉で日本が遼東半島を清に返還
1898年 ロシアが遼東半島先端の旅順・大連を清から奪う(租借)
さらに、東清鉄道と旅順・大連を結ぶ南満支線の敷設権を獲得する
1899年 南アフリカ戦争 開戦
1900年 義和団事件
1901年 義和団事件後も、ロシアが満州に軍を駐留させる
1902年 日本とイギリスが同盟(日英同盟 南アフリカ戦争 終結
1903年 東清鉄道が開通し、ウラジオストクへの直行が可能になる
1904年 日露戦争開戦
1905年 1月:日本が旅順要塞を攻略
ロシア首都サンクトペテルブルクで血の日曜日事件 発生
3月:奉天会戦で日本が勝利
5月:日本海海戦で日本が大勝
9月:ポーツマス条約締結 日露戦争終結

緊迫する東アジア情勢

ロシアの東アジア進出と日英同盟

big5
「さて、クリミア戦争で地中海方面への進出を諦めたロシアは、東アジアに目を転じました(「しのぎを削る列強 クリミア戦争」参照)。清の弱体化に乗じてロシアは次々と領土奪い取り、中国の東北部(このあたりは当時満州(まんしゅう)と呼ばれていました)に領土を拡大していきました。
そんな折、1895年に日清戦争の講和条約である下関条約で、日本が清から遼東半島を獲得することが決まりました。これに納得できなかったのが、直接は関係なかったハズのロシアです。ロシアは「そこはオレが欲しかった土地だ」と言わんばかりに、ドイツ、フランスを仲間にして日本に「遼東半島を清に返せ!それが東アジアの平和のためになることだ!」と脅迫。当時の日本は、やむを得ず遼東半島の返還を認めました。これが三国干渉でしたね。(「しのぎを削る列強 滅びゆく清」参照)」
名もなきOL
「三国干渉って、列強の勢力争いの最たるものですよね。その後、ロシアはその遼東半島を自分が奪ったんですよね?」
big5
「だいたい合ってますが、ちょっと違います。正しくは、遼東半島の先端にある旅順大連の2都市を租借し、さらにこの2都市と東清鉄道を繋げる南満支線(のちの南満州鉄道)の敷設権を清に認めさせたんです。1898年のことでした。」
名もなきOL
「あれ?なんか知らない用語が出てきて急にわからなくなってきちゃった。旅順と大連はわかりますが、そのなんちゃら鉄道っていうのは・・・」
big5
「初見の固有名詞がたくさん出てくると話がわかりにくいですよね。「「しのぎを削る列強 滅びゆく清」参照」でも示した、「"世界の歴史まっぷ」さん作成のこちらの地図を見てみましょう。」


big5
「地図の上の方が、今回の話の舞台になります。まず、ウラジヴォストークがありますね。ここがロシアの重要拠点の一つです。そして、ウラジヴォストークには2本の鉄道が繋がっていますね。北のハバロフスクに向かっているのがシベリア鉄道。この地図ではハバロフスクで切れていますが、実際にはモスクワまで繋がっています。ウラジヴォストークに繋がっているもう1本の鉄道が東清鉄道です。ハルビンという駅を通過して、北西に向かっていますね。この先でシベリア鉄道に合流しています。このように、ロシアは東の拠点ウラジヴォストークまでシベリア鉄道で繋げ、さらにその視線として満州を横断する東清鉄道も既に完成していたわけですね。
この状況で、さらに遼東半島の旅順と大連を租借して、同時に東清鉄道から旅順・大連を繋げる南満支線の敷設権を得た、というわけです。これが完成すれば、ロシアの東の拠点はウラジヴォストークと旅順の2つになり、東アジアにおけるロシアの勢力が拡大するわけですね。」
名もなきOL
「順調に東アジアでの勢力を増大させていたんですね、ロシアは。」
big5
「しかし、これを危惧する列強がいました。イギリスです。アヘン戦争など、イギリスは中国の植民地化に最初に手を付けた国であり、香港などの植民地を持っていました。そんなイギリスは、ロシアが中国で勢力を大きくすることを危険視します。」
名もなきOL
「またしてもイギリスさん登場ですか。クリミア戦争の時も、ロシアの地中海進出を恐れて、戦争してましたもんね(しのぎを削る列強 クリミア戦争参照)。」
big5
「しかし、この時イギリスはゲリラ戦で泥沼化した南アフリカ戦争に人手を取られていたので、中国でロシアと戦う余裕はありません。そこで、目を付けた国があります。日本です。」
名もなきOL
「日本は三国干渉で遼東半島を取られているので、ロシアとは敵対関係ですからね。なるほど、これが日英同盟に繋がるわけですね。」
big5
「そのとおりです。東アジアにおける「反ロシア」で利害が一致したイギリスと日本は、1902年に日英同盟を締結。イギリスはそれまでの間、どこの国とも同盟していませんでした。このことを光栄ある孤立と呼びます。イギリスが「光栄ある孤立」を捨てて、同盟した相手国は、なんと東アジアの新興国・日本であった、というのも、歴史の流れが変わってきたことを示していますね。
一方、外交による妥協案として、ロシアが満州を、日本が朝鮮を支配する、という「満関交換論」が1903年8月に日本からロシアに提案されましたが、ロシアはこれを拒否しています。」
名もなきOL
「ロシアから見れば、東アジアの新興国・日本なんて、清と同じように軍事力で潰せばいい、と考えていたんでしょうね。」
big5
「こうして、満州をめぐるロシアと新興国・日本の戦争、「日露戦争」の火ぶたが切って落とされることになりました。もっとも、ロシアから見れば、「日露戦争=満州を完全支配するための戦争」だったと思いますが、日本から見ると「強大なロシアに満州を奪われれば、次の標的は日本になる」という恐れから始まった戦争、と言えるかもしれません。」

日露戦争の経緯

big5
「1904年2月、日露戦争が始まります。詳しい戦争の経緯は省略しますが、日露戦争の有名な戦いとして、以下の3つが挙げられます。
1.旅順攻略戦(1904年8月〜1905年1月1日)
2.奉天会戦(1905年2月〜3月)
3.日本海海戦(1905年5月27-28日)

OLさんも、聞いたことがあるのでは?」
名もなきOL
「はい、あります。旅順は、日本軍がたくさん死者を出した厳しい戦いだったんですよね。奉天会戦は、名前ぐらいしか知らないですが、日本海海戦は知っています。東郷平八郎提督が指揮して大勝利したんですよね。」
big5
「そのとおりです。試験にはあまり出てこないかもしれませんが、映画や小説などでもよく取り上げられるので、ここでも概要を紹介しておきます。」

・旅順攻略戦(1904年8月〜1905年1月1日)

big5
「まず、旅順の位置を確認しましょう。上の「世界の歴史まっぷ」さん作成の地図にあるように、旅順は遼東半島の先端に位置しています。ロシアは旅順に軍港を建設し、艦隊を配置しました。この艦隊は「旅順艦隊」と呼ばれています。ロシア海軍の、東アジア駐留部隊ですね。当初、日本はまずこの旅順艦隊を倒して制海権を確保し、満州に陸軍を送り出す、という戦略を取りました。緒戦で旅順艦隊に勝利し、陸軍の輸送は安全に行えるようになったものの、旅順艦隊は十分な戦力を残したまま、旅順港に立てこもってしまいます。」
名もなきOL
「どうして旅順艦隊は立てこもったんですか?日本艦隊に勝てないと思ったから?」
big5
「それもあると思いますが、一番の目的はロシア本国からやってくるバルチック艦隊の到着を待つことでしょう。バルチック艦隊は、いわばロシアの本艦隊です。旅順艦隊のみでも、日本艦隊と十分戦える戦力はあったそうなのですが、バルチック艦隊の到着を待ち、旅順艦隊とバルチック艦隊の2艦隊で日本艦隊と戦えば、確実に勝てる、そう見込んだのでしょうね。」
名もなきOL
「なるほど、わざわざ危ない橋を渡るくらいなら、バルチック艦隊を待って確実に勝てる状況になってから仕掛ける、というわけですね。これはこれで理にかなっていますね。」
big5
「そうですね。その代わり、日本の陸軍が続々と満州に上陸し、補給を妨害することもできなくなってしまうのですが・・。日本もその狙いはわかっていますので、なんとかしてバルチック艦隊が来る前に旅順艦隊を撃滅しようとするのですが、どの作戦もうまく行きません。そこで、陸軍に頼んで、陸側から旅順を攻略する、という方法に切り替えました。当時、陸軍はロシア軍相手に善戦し、戦線を北に押し上げていました。旅順要塞を攻略する軍を割くことができたわけですね。こうして、旅順要塞攻略戦が始まりました。攻略にあたったのは、陸軍の第3軍、司令官は有名な乃木希典(のぎ まれすけ)です。」
名もなきOL
「乃木将軍!有名ですね、私も知っています。そっか、乃木将軍が旅順攻略を担当したんですね。」

Maresuke Nogi, 近世名士写真 其1 - Photo only
乃木希典  撮影者:不明  撮影年:1912年以前

big5
「はい、そして、この旅順攻略戦は日本軍にとって熾烈を極める戦いになりました。旅順は東西と南が海に面しており、陸から攻めるとなると北側に限定されます。しかし北は山になっており、ロシア軍はここを要塞化して守りをガチガチに固めていました。日本軍はこの守りをなかなか突破することができず、死傷者だけがどんどん増えていきました。旅順攻略戦での死者は約1万5000人にもなり、これは日露戦争全体での死者の20%くらいになります。」
名もなきOL
「そんなに死者が出た厳しい戦いだったんですね・・」
big5
「なかなか落ちない旅順に、日本軍は焦ります。このままではバルチック艦隊がやってきます。バルチック艦隊と旅順艦隊が合流すれば、日本艦隊は多勢に無勢で勝てません。そして、日本艦隊が敗れれば、満州で戦っている陸軍に補給を届けることができず、やがては大敗してしまうのは明らか。絶体絶命です。
この時、日本にとって有利に働いたのは、バルチック艦隊が大きく遠回りをしなければならなかった、ということでしょう。バルチック艦隊は、名前の通りバルト海に配置されています。バルト海から東アジアへ向かうとなると、まずは北海に出て、大西洋を南に下り、ぐるっとアフリカ大陸を回ってからインド洋に入り、東南アジアを抜ける、というコースを取ることになりますね。メチャクチャ遠いです。」
名もなきOL
「あれ、スエズ運河はもうありますよね。あ、でもスエズ運河はイギリスのものか・・・」
big5
「そうです。ロシアの軍艦が通れるわけがないんですね。そもそも、イギリスは地中海にロシア艦隊が入ることさえ許そうとせず妨害してきたわけです。
このような地理面での特徴もあって、日本は時間を稼ぐことができました。そして、1905年1月1日、年が代わった元旦ですね。この日にようやく旅順が陥落。旅順艦隊も砲撃の雨を受けて全滅しました。これが、旅順攻略戦ですね。旅順攻略のカギになったポイントが、203高地と呼ばれる、標高203mの高台でした。203高地を占領することが、旅順攻略のカギになると考え、ここを集中攻撃して占領したことで、難攻不落だった旅順はついに陥落することとなったんです。」

203 Meter Hill
203高地  出典:明治37,38年海戦史 第二巻

名もなきOL
「203高地も、聞いたことあります。旅順攻略戦の時のキーポイントだったんですね。」

・奉天会戦(1905年2月〜3月)

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「旅順陥落後、満州でも一大決戦が行われました。これが奉天会戦です。奉天は、南満州鉄道沿線の重要都市です。日本陸軍は、強大なロシア軍を相手に善戦し、戦線は北に上がっていきました。しかし、進めば進むほど、補給距離が長くなるので補給上の問題が生じ、武器弾薬が不足し始めるなどの問題が生じるようになります。一方、ロシアにも社会面で問題が起きていました。それが、1905年1月に発生した血の日曜日事件です。」
名もなきOL
「血の日曜日事件って、なんだか物騒な名前ですね。どんな事件だったんですか?」
big5
「ガポンというロシア正教会の神父が、労働者らを率いて首都・サンクトペテルブルクで皇帝・ニコライ2世へ労働者の生活を守ってくれるよう請願する、という平和的なデモを行いました。この時代、労働者らはどの国でもひもじい生活を余儀なくされていました。ロシアも例外ではありません。しかし、ロシア軍がこのデモ隊に発砲し数百人が死ぬ、という事件になりました。↓の絵が有名ですね。」

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血の日曜日事件  制作:Ivan Vladimirov  制作年:1940年

名もなきOL
「こんな痛ましい事件が起きるなんて、ロシアもたいへんな状況だったんですね。特に一般民衆にとっては、戦争なんて迷惑なだけのものですもんね。」
big5
「こうした情勢の中、奉天会戦が繰り広げられました。奉天会戦は日本軍約24万、ロシア軍は約36万という、両軍合わせて60万人が戦うという大規模な戦いになりましたが、勝利したのは日本でした。そして、日露戦争の陸の戦いは、事実上これが最後となりました。敗れたロシア軍は士気の低下が著しく、上官命令の不服従や略奪など、軍隊としての組織は失われ、これ以上の戦闘継続は困難でした。一方、勝った日本軍も限界でした。戦死や負傷などで兵士が減っているうえに、補給線も伸びすぎてしまって補給困難となっているなど、状況の厳しさはロシア軍とあまり変わりません。こうして、日露戦争の勝敗の行方は、日本艦隊とバルチック艦隊による決戦、日本海海戦に持ち越されることとなります。」

・日本海海戦(1905年5月27-28日)

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「ロシアのバルチック艦隊は、アフリカ大陸をグルリと回ってようやく東アジア方面に到着しました。バルチック艦隊はウラジヴォストークに入ろうとして、対馬海峡を通って行こうとしましたが、ここに待ち構えていたのが日本艦隊です。日本海海戦の始まりです。この海戦でバルチック艦隊はほぼ壊滅し、指揮官であるロジェストウェンスキー提督は捕虜となるという、文句なしの日本の大勝利でした。」

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三笠艦橋之圖  制作者:東城鉦太郎  制作年:1906年2月

名もなきOL
「最後は日本の大勝利で終わったんですね。でも、本当によく勝てましたよね、日本は。」
big5
「そうですね。こないだまで侍の国で中世・近世みたいな国だった日本が、約40年でヨーロッパの列強に勝つまでに成長したという事実は、歴史的に見てもかなり珍しいですね。日露戦争での日本の勝利は世界でも一大ニュースとなりました。特に、ヨーロッパ列強による植民地支配に苦しんでいたアジアの各国は、日本から学んで自国の独立に活かす、という風潮が流行るようになります。日露戦争が世界に与えた影響は大きかったんです。」

講和 ポーツマス条約(1905年9月4日)

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「日本海海戦の後も、小競り合いのような戦闘は散発的に起きていましたが、日本とロシアはアメリカの仲介で講和会議を行いました。日本側の全権大使は小村寿太郎、ロシア側の全権大使はウィッテで、アメリカのニューハンプシャー州のポーツマスで行われました。そのため、この講和条約はポーツマス条約と呼ばれています。」
名もなきOL
「ポーツマス条約の主な内容はどんなものだったんでしたっけ?」
big5
「ポイントは以下の通りですね。
1.ロシアは日本の韓国に対する保護権を認める。
2.ロシアは遼東半島南部の租借権を日本に譲る。
3.南満州鉄道の利権を日本に譲る。
4.ロシアは南樺太を日本に割譲する。
5.沿海州・カムチャッカにおける漁業権を日本に譲渡する。

賠償金が取れなかった、というところがポイントです。そのため「日本はロシアに勝った」と単純にしか考えれない日本の民衆が、ポーツマス条約の内容を知って怒り、日比谷公園で集まった群衆が暴徒化するなどの事件(日比谷焼き討ち事件)が起きていますね。」
名もなきOL
「確かに、わかりやすい「戦果」がそんなに無いですね。領土割譲は南樺太だけですし。南満州鉄道の経営権とか、けっこう大きな利益を生み出しそうなものですが・・。なかなかわかりにくい内容だとは思います。」
big5
「おそらく、一般大衆は日清戦争のような勝利のイメージを持っていたのではないでしょうか。ところが、実際は日清戦争のような勝利とはまったく異なり、日露戦争は多大な犠牲者を出したギリギリの勝利でした。また、日本には講和を蹴って戦争を継続する力はありませんでした。講和条約がこうなったのも、やむを得ない結果だと思いますね。
こうして、朝鮮、満州は日本の勢力圏に属することが決まりました。40年前まで侍の国だった日本は、短期間で近代化を成し遂げ、ロシアの進出も防いで「やや毛色が異なる列強」の一員として、国際政治に加わっていくことになります。
さて、時代は帝国主義全盛期です。これまでは、「列強による領土獲得競争」でしたが、ついには列強同士による戦い、第一次世界大戦へと繋がっていくことになるわけです。
と、言ったところで今回はここまで。
本日もご清聴ありがとうございました。」



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参考文献・Web site