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大戦後の世界

詳細篇 ポルトガルの植民地戦争とカーネーション革命

small5
「今回は「大戦後の世界」の詳細篇ということで、植民地戦争とカーネーション革命で激動の時代を迎えたポルトガルの歴史を見ていくぜ!」

big5
「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。
ポルトガルは第二次世界大戦で中立を保ち続けることに成功し、戦禍から逃れることができました。しかし、保守的なサラザール独裁体制は、アフリカ諸国の独立という新時代に対応することができず、凄惨な植民地戦争で長期間苦しんだ結果、カーネーション革命を迎えるという激動の時代となりました。今日は、この時代のポルトガルについて見ていきましょう。」

年月 ポルトガルのイベント その他のイベント
1949年 NATOに加盟
1951年 植民地を海外州として再編
1953年 国際連合に加盟
1960年 初等教育の義務化 アフリカの年
1961年 アンゴラで植民地戦争 開戦
1963年 ギネ・ビサウで植民地戦争 開戦
1964年 モザンビークで植民地戦争 開戦
1968年 サラザール退任 カエターノが首相に就任
1970年 7月27日 サラザール死去
1971年 憲法改正 海外州に自治権付与
1972年 ローマ教皇が植民地解放戦争の指導者らと会見
1974年 カーネーション革命
1976年 軍政から民政に転換
1983年 4月 総選挙 マリオ・ソアレスの社会党が社会民主党と連立政権を樹立
1985年 6月 念願のEC加盟条約を締結
1986年 1月1日 ECに加盟
1988年 国営企業の民営化始まる
農地改革で集団農場解散
1992年 (欧州) マーストリヒト条約によりEUの創設が決議される
1998年 リスボン海洋博覧会を開催
1999年 12月 マカオを中国に返還

植民地戦争

small5
「第二次世界大戦が終わった後も、ポルトガルではサラザールによる独裁体制が続いていたんだ。独自路線を歩んできたサラザールだが、戦後の国際協調の動きには西欧諸国の一国として参加している。1949年のNATO加盟や1953年の国連加盟はその一環だな。」
big5
「ポルトガルが、他の欧州諸国と全く違う路線を歩み始めたのが、1960年のアフリカの年でした。この年、アフリカ各地で現地民族による独立国家が続々と誕生し、イギリスなどはそれを承認しました。しかし、サラザールは「海外州(植民地の新しい行政上の扱い)はポルトガルの一部」という基本原則を捨てず、抑圧を強めます。1961年、アンゴラで植民地解放運動が始まると、同じくポルトガル植民地であったギネ・ビサウとモザンビークにも広がっていきました。中国やソ連などの共産主義国家は植民地解放軍に第二次大戦で使われた武器を供与して支援する他、植民地独立を認めない時代遅れ体質のポルトガルを非難し、国際世論を味方につけました。これにもめげず、サラザールは武力鎮圧を続けます。しかし、植民地解放軍はゲリラ戦を続けて戦争は長期化。戦争末期にはポルトガルの国家予算の40%が戦費となり、20万の将兵がアフリカ戦線に送り込まれる、という状況でした。にも関わらず、ポルトガルは植民地解放軍を破ることはできませんでした。」
small5
「植民地戦争が長引いた理由は、ゲリラ戦や武器供与などの外国の支援もあるが、ポルトガルが単独で3つの戦線を抱えていることに加え、それぞれの戦線で事情が異なっていることも影響していたと思うぜ。
まず、アンゴラでは解放運動を主導した勢力が主なものだけで3つあった。「アンゴラ解放人民運動」「アンゴラ解放民族戦線」「アンゴラ完全独立民族同盟」の3団体だ。それぞれが独自に戦争を展開したため、ここでは主な敵が3勢力いたわけだな。ただ、これが原因でアンゴラは独立後も紛争が長引いてしまっている。ギネ・ビサウではアミルカル・カブラルという優秀な戦略家が指揮を執ったことで、ポルトガル軍が苦戦を強いられているんだ。」
big5
「独裁者であるサラザールも寄る年波には勝てず、1968年に自宅で転倒して大怪我を負ってしまい、退任を余儀なくされてしまいました。死去したのはその約2年後の1970年なのですが、歴史の表舞台からはここで退場となります。サラザールに代わって、リスボン大学教授のカエターノ(1906〜1980年)が首相に就任しました。カエターノは「継続と刷新」を掲げて、サラザール路線を継承しつつも、一部は改革するという方針を取りました。具体的には
@秘密警察の組織再編を行い、検閲を緩和する。
A植民地戦争は継続する。
というものです。」
small5
「植民地戦争は継続するという方針に対して、諸外国は反発を強め、国際世論はポルトガルを非難するようになりました。」

カーネーション革命 1974年

small5
「1972年になると、ローマ教皇が植民地解放軍の指導者らと会談する、という事件が発生した。キリスト教を深く信仰し国家の礎としていたポルトガルにとって、宗教指導者であるローマ教皇が植民地側の肩を持つような行動に出ることは、かなりのインパクトがあったはずだぜ。」
big5
「それでも、カエターノは植民地独立を認めなかったため、ポルトガル国内でも反戦運動が盛んになりました。学生や労働者らが集まって抗議集会を開いたり、自由主義改革派の議員カルネイロが辞任して抗議を表明したり、さらには極左集団が銀行強盗するなど、植民地戦争を巡ってポルトガルの社会不安は危険水域に達します。」
small5
「そんな中、勢力を得たのは「大尉運動」(革命後は「国軍運動」)と呼ばれる、植民地戦争の前線で戦う若い将校らのグループでした。彼らはマルクスやレーニン、毛沢東の思想などに影響されてポルトガルの体制に疑問を持つようになり、それは革命へと繋がっていった。
1974年2月、アントニオ・デ・スピノラ将軍(1910〜1996年)が「ポルトガルとその将来」を出版。植民地戦争に勝利することはできない、として和平交渉を提案すると、「大尉運動」のメンバーがスピノラに協力することを約束したんだ。そして1974年4月25日午前0時25分、ラジオから反戦歌「グランドラ、ヴィラ・モレナ」が流れたことを合図として、スピノラ将軍とそのメンバーらがクーデターを敢行。ポルトガル軍はほとんどが植民地戦争で出払っていたこともあり、その日の午後2時過ぎにはスピノラが全権を掌握することに成功。ポルトガル民衆は、クーデターに参加した兵士の銃にカーネーションを挿して感謝を表明したことから、この革命はカーネーション革命と名付けられたんだぜ。」
big5
「スピノラは直ちに、秘密警察の廃止と結社の自由、政治犯の釈放を宣言して実行したため、これまで息をひそめていた反体制派によっていくつかの政党が結成されました。植民地戦争後の国家体制を巡って連邦制を提唱するスピノラと、植民地の解放を主張する国軍運動で揉め事となり、スピノラが退陣する、というごたごたもありましたが、1974年のうちにギネ・ビサウの独立を承認。翌年の1975年に、アンゴラとモザンビークの独立も承認し、ようやく植民地戦争は終結しました。」

ヨーロッパ共同体の一員へ

small5
「1974年のカーネーション革命以後、しばらくは軍事政権だったんだが、2年後の1976年には新しい憲法(1976年憲法)が公布されて総選挙が行われ、無事に民政に転換することができたんだ。1976年選挙の結果は、全体議席223のうち、社会党が107議席、人民民主党が73議席、民主社会中央党が42議席、共産党が40議席となり、極左勢力は少数派にとどまることになったんだ。」
big5
「6月に行われた大統領選挙も、極左のオテロ・デ・カルヴァーリョはラマーリョ・エアネスに敗れていますしね。新大統領のエアネスが、社会党のマリオ・ソアレスに組閣を命じ、社会党を第一党とする連立政権が誕生しています。1983年の総選挙でも、マリオ・ソアレスの社会党が社会民主党と組んで連立政権を立てていますね。この頃から、ポルトガルはヨーロッパ共同体(今のEU)に加入することが国家の目標となってきます。」
small5
「そして、1985年6月に念願のEC加盟条約を結ぶことに成功し、翌年1986年1月1日に正式にECに加盟することができた。ポルトガルがECに加盟した動機は、主に経済援助だな。EC内先進諸国との格差是正を目的とする欧州開発基金という組織があるんだが、そこから年間国内総生産の1%が7年間にわたって投入されたんだ。このお金は、高速道路建設などの社会基盤整備や教育の充実に使われたんだぜ。」
big5
「1988年には国営企業の民営化が始まりました。農地法も改革され、カーネーション革命後に組織された集団農場は解散させ、元の地主に土地を返還しています。
1989年には社会党、社会民主党の合意のもとに憲法が改正され、国有基幹産業の民営化が推進されています。1992年のヨーロッパの市場統合に備えて、外資系企業の誘致のために労働法も改正しました。その結果、ドイツのフォルクスワーゲン社がパルメラに進出して21世紀初頭には3000人を雇用してポルトガルの輸出額の10%を構成するに至っています。
これらの結果、EC加盟の翌年から1991年まで、年間約5%の成長を維持することができました。」
small5
「好調な経済の反面、インフレも進んでいたがな。とはいえ、植民地戦争で国内が荒れていたポルトガルにとっては、安定した経済成長は嬉しい話だったはずだぜ。1992年、欧州でマーストリヒト条約が締結され、EUの創設が決まると、ポルトガルもEU加盟に向かって動き始めた。EU圏内の通貨であるユーロを導入するためには、一定の基準をクリアする必要があったので、時のカヴァコ・シルヴァ政権は厳しい財政引き締め政策を実行したんだ。これで、ユーロ導入基準は満たされたんだが、都市の賃金労働者や地方農民などは生活苦に追い込まれる人も多かったそうだ。」
big5
「1998年にはリスボンで海洋博覧会が大々的に開催されました。これは、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達してから500周年を記念した行事でした。入場者数は1000万人ほどとなり、これは当時のポルトガル総人口とほぼ同じ数字です。ポルトガルが誇る世界的建築家であるアルヴァロ・シザ・ヴィエイラ設計のポルトガル館が人気だったそうですよ。」
small5
「なお、博覧会の跡地はビジネスセンターやレジャーエリア、住宅地に利用されたそうだ。ここはリスボン副都心計画の一環となっているそうだぜ。」
big5
「1999年12月には、長らくアジアにおける植民地であったマカオが中華人民共和国に返還されました。時代の区切りを示すイベントですね。

といったところで、今回の話はここまで。続きは次章で扱うことにします。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。」



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参考文献・Web site
・図説ポルトガルの歴史 著:金七紀男 発行:河出書房新社 2011年5月20日初版印刷
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