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「今回は「自由と革命の時代」の詳細篇ということで、近代のポルトガルの歴史、特にナポレオンによって本国を追われ、その後帰ってきた時代の歴史を見ていくぜ!」
big5
「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。
近代になると、英米仏独伊の5国がヨーロッパ世界の主役となり、ポルトガルは完全に脇役となってしまっています。今日は、脇役となってしまったポルトガルの歴史を見ていきましょう。」
| 年月 | ポルトガルのイベント | その他のイベント |
| 1777年 | ジョゼ1世死去 マリア1世即位 ポンバル失脚 | |
| 1789年 | ブラジルでミナスの陰謀 | (仏) フランス革命 勃発 |
| 1791年 | (北米) ハイチ革命 勃発 | |
| 1792年 | マリア1世の四男・ジョアンが摂政となる | |
| 1793年 | (仏) ジャコバン派の独裁強まる | |
| 1796年 | (仏) ナポレオンの第一次イタリア遠征始まる | |
| 1798年 | ブラジルでバイーアの陰謀 | (仏) ナポレオンのエジプト遠征始まる |
| 1804年 | (仏) ナポレオンが皇帝に即位 | |
| 1807年 | 11月:フランス軍がポルトガルを占領 王家はブラジルに避難 | |
| 1808年 | 3月:王家がリオデジャネイロに到着し宮廷を設置 ウェリントンがポルトガルに上陸してフランスとの戦いが激化 |
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| 1810年 | ブサコの戦いでイギリス・ポルトガル軍がフランス軍を破る | |
| 1814年 | (欧州) ナポレオン失脚 | |
| 1815年 | (欧州) ワーテルローの戦いでナポレオン敗退 | |
| 1816年 | マリア1世死去 ジョアン6世がリオデジャネイロで即位 | |
| 1820年 | ポルトガルで自由主義革命始まる(1820年革命) | |
| 1822年 | 10月12日 ペドロがブラジル皇帝ペドロ1世として即位(ブラジル帝国成立) | |
| 1826年 | ジョアン6世 死去 ブラジル皇帝ペドロ1世がペドロ4世として即位するが、すぐに娘のマリア2世に譲位 |
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| 1828年 | 摂政ドン・ミゲルがマリア2世から王位を奪い、ミゲル1世として即位 ポルトガル内戦の始まり |
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| 1829年 | (欧州) ギリシア独立 | |
| 1830年 | (仏) 七月革命 | |
| 1831年 | ブラジル皇帝ペドロ1世が息子のペドロ2世に譲位 | (欧州) ベルギー王国成立 |
| 1832年 | ペドロ1世が軍を率いてポルトガルに上陸 ポルトガル内戦の始まり | |
| 1834年 | エヴォラモンテの和約 ポルトガル内戦の終結 | |
| 1837年 | (英) ヴィクトリア女王即位 チャーティスト運動始まる (日) 大塩平八郎の乱 |
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| 1842年 | コスタ・カブラルが政権を握る | アヘン戦争 終結 |
| 1846年 | マリア・ダ・フォンテの乱 | |
| 1848年 | (仏) 二月革命 (墺) ウィーン三月革命 (独) ベルリン三月革命 (伊) 第一次イタリア独立戦争 |
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「ジョゼ1世の死後、強引な「上からの近代化」を進めてきたポンバルは、後継者であるマリア1世(1734〜1816年)には好まれなかった。もちろん、政敵は山のようにいたので、さすがのポンバルも失脚。自領であるポンバルに隠棲することとなった。政敵らは死刑を求めていたんだが、マリア1世はそこまではしなかったぜ。」
big5
「ポンバル自身は失脚しましたが、彼の政策方針はだいたい継続されました。ただ、当時の自由主義思想に幾分影響を受けています。具体的には、グランパラ・マラニャ社とペルナンーコ・パライーバ社の独占会社2社は民営化されました。当時のポルトガル経済は、アメリカ独立戦争(1775〜1783年)、フランス革命(1789年〜)など外国で戦乱が続く中で、ポルトガルは比較的平和だったこともあり、輸出が伸びたのでわりと好況だったそうです。
比較的平和と言っても、革命の波はポルトガルにもしっかり押し寄せていました。1789年、アメリカ独立の影響を受けて、ブラジルのミナスジェライス州で、上流階級出身者らが植民地に重税を課してばかりのポルトガル本国に対する反乱を計画していることが密告され、主だった人物らが逮捕されるという事件(ミナスの陰謀)が発生しました。
この事件で首謀者とされたチラデンテスは、手足を切断されてあちこちに晒されるという惨い最期を遂げたのですが、現在では「ブラジル独立の独立運動の先駆者」と評価されているそうです。」
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「ミナスの陰謀の後、1798年、ブラジルで再び事件が起きる。ブラジルのバイーア(サルヴァドール)で黒人奴隷やムラート(黒人とラテンアメリカ人の混血)が被支配階級が中心になって、共和政、奴隷解放、自由平等を掲げて反乱を起こしたんだ。この反乱は広がる前に鎮圧されたため、日本ではこの事件をバイーアの陰謀(英名:1798 Revolt of the Alfaiates)と呼んでいるな。
バイーアの陰謀に強い影響を与えたのは、1791年のフランス植民地のハイチで起きた奴隷反乱だと考えられているぜ。実際、ハイチはその後独立を勝ち取っているからな。」
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「このように、フランス革命の影響はポルトガルとブラジルにも波及していたわけですね。さて、フランス革命でヨーロッパ全体が激動の時代を迎えたわけですが、ポルトガルのマリア1世は家庭面での不幸が相次ぎ、精神に異常をきたしてしまっています。まず、マリア1世の夫は、なんと父・ジョゼ1世の弟のペドロ3世で、年の差17歳です。自然な流れで、ペドロ3世の方が1786年に先に亡くなりましたが、その2年後の1788年には長男で王太子・ジョゼが天然痘で死去。この頃からマリア1世の精神異常は悪化が進み、1792年からは、四男のジョアン(後のジョアン6世)が摂政となっていました。ポルトガル王家はこのような状態で、フランス革命とナポレオン時代を迎えるに至ったわけですね。」
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「フランス革命政府は周囲のヨーロッパ諸国と戦争となりましたが、スペインもフランス革命政府と敵対して戦争となりました。ポルトガルは、スペインと共同してフランス革命政府と戦っていました。ところが、スペインはナポレオンに敗れてその傀儡国となると、イベリア半島方面はポルトガルが単独でナポレオンと戦うことになります。」
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「歴史的な同盟国であるイギリスの支援は期待できたとはいえ、工業化も遅れている後進的な国だったポルトガルが、ナポレオンとまともに戦って勝てるはずはないぜ。そこで、摂政のジョアンはイギリスの支援を頼りに思い切った対応に出た。それは、
ポルトガル本国を捨てて、ブラジルに避難する
という類を見ない策だったんだぜ。
ちなみに、ポルトガル本国を捨てて植民地ブラジルに逃げる、という策はかなり大胆なものだったが、実はブラジルへ遷都すべき、という話自体は17世紀前半からあったんだ。当時はスペインが一番の脅威だったので、距離的に近いリスボンよりも、海を越えたブラジルに本拠を移すべきだとか、ブラジルは広くて資源も豊富だ、という理由でな。
さて、話を戻そう。1807年11月29日、摂政ジョアンはマリア1世をはじめとした王族に高級官僚とその家族など約1万5000人を乗せた船団を編成して出港。イギリス海軍に護衛されてブラジルに向かったんだ。ナポレオンの命でポルトガルに侵攻してきたジュノー将軍がリスボンに入城したのは、翌日の11月30日のことだったぜ。ちなみに、ポルトガルの一部の知識人らは、フランス軍を自由のための解放者と歓迎していることは、目立たないが重要ポイントだな。」
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「王家は海外逃亡しましたが、フランスとの戦いはここから始まりました。1808年、イギリスの英雄・ウェリントン公爵(1769〜1852年 Arthur Wellesley この年39歳)が、イベリア半島で抵抗を続けるポルトガル・スペインを支援するためにイギリス軍を率いて上陸。フランス軍と激しい闘いを繰り広げます。」
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「戦いは一進一退でしたが、1810年、ブコサの戦いで
フランス軍に大勝すると、イギリス側が優勢となります。最後は、ナポレオンがロシア遠征に失敗したことでイベリア戦線もイギリスの勝利が確定し、フランスはポルトガルから撤退しました。」
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「フランスは撤退したんだが、ポルトガル王家はなかなか本国に戻ろうとしなかった。それどころか、摂政ジョアンはポルトガル・ブラジル・アルガルヴェ連合王国という名目でブラジルを植民地から本国の一部に昇格させたんだ。1816年にマリア1世が死去し、摂政ジョアンがジョアン6世として即位したんだが、場所はポルトガルではなくリオデジャネイロだぜ。」
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「ジョアン6世は、フランス軍が撤退し、ウィーン体制が確立されてからも、ブラジルに居座り続けてポルトガルに戻ろうとしなかった。代わりに、イギリス軍がポルトガルに居座り、軍政をしいている状態だったんだ。帰ってこない国王に対し、業を煮やした人々が動き始めるわけだ。1820年8月、ポルトで革命が勃発する。革命を主導したのはポルトガルに居座るイギリス軍に不満を持っている軍人や、ブラジルに市場を奪われたブルジョワジーだ。9月にはリスボンの軍隊も革命に同調し、革命は成功したんだ。1821年4月には、およそ140年ぶりに全国議会(コルテス)が開催された。コルテスでは急進派が主導権を握り、国民主権、三権分立を樹立し、さらに封建的特権の廃止、異端審問所の廃止も決定するなど、革命によってポルトガルは一気に自由主義国家へと変わったのだぜ。」
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「ブラジルにいたジョアン6世はこれを聞いてビックリです。しかし、全国議会はジョアン6世の帰国を要請したので、これに応えてジョアン6世はポルトガルに帰国しました。ブラジルには、息子のドン・ペドロを摂政として残しておきました。これが、後の争乱の布石となります。
さて、ポルトガル本国に帰国したジョアン6世は、議会と連携して立憲王政・ポルトガルの君主となりました。ところが、ブラジルに置いてきた息子のペドロは、1822年10月12日に民衆に推される形でブラジル皇帝に即位し、ブラジルは独立してしまいます。」
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「この時のポルトガルとブラジルの関係は何とも奇妙な感じのものだな。アメリカ独立のように、戦争するほど敵対していたわけではないが、両国は一つの国ではなく別々の国になったんだが、君主は親子関係という繋がりを残していたんだ。なんとも奇妙な関係だよな。」
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「1826年にジョアン6世が死去すると、状況はさらに複雑になった。ポルトガル王位は、長男であるブラジル皇帝ペドロ1世が継承し、ポルトガル王ペドロ4世となる(ここでは、ブラジル皇帝ペドロ1世として表記)のだが、ブラジルのブルジョワたちはこれを喜ばなかった。せっかく独立できたのに、ペドロ1世がポルトガルに帰ることになったら、再び植民地扱いに逆戻りする恐れもあったからな。そこで、ペドロ1世はすぐにポルトガル王位から退位して、娘のマリアに譲位してマリア2世(この年7歳 1819〜1853年)を即位させたんだ。」
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「ですが、マリア2世はこの年で7歳になる少女。当然、政治はできません。しかも、ペドロ1世もマリア2世もブラジル在住なのでポルトガルにはいません。そこで、ペドロ1世は弟のドン・ミゲルをマリア2世と婚約させ、摂政としてポルトガルを任せようとしました。しかし、結果的にこの人選は誤りでした。自由主義思想を好むペドロ1世に対し、弟のミゲルは強烈な保守主義者だったんです。尊敬する人物はオーストリアのメッテルニヒ、というくらいです。まだジョアン6世が存命だった頃、立憲君主制でポルトガルを治めようとした父・ジョアン6世に反対してクーデターを起こして失敗しています。そして、1826年時点ではオーストリアに亡命していたんです。
1828年、ドン・ミゲルはポルトガルに帰国しましたが、ペドロ1世との約束は守らず、自らミゲル1世(Miguel 1802〜1866年)として即位すると、自由主義者たちを弾圧し始めました。当然、自由主義者たちは納得せず、内戦となりました。ポルトガル内戦の始まりです。」
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ミゲル1世 制作者:Johann Ender (1793-1854) 制作年:1827年
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「弟に裏切られたペドロ1世は「話が違う」と当然怒ったのだが、ブラジルでも問題があったのですぐに対処はできなかったんだ。3年後の1831年、ペドロ1世はブラジル皇帝を息子のペドロ2世(この年6歳 1825〜1891年)に譲位すると、遠征軍を率いてポルトガルに上陸した。ペドロ1世は兵士たちとともに戦場に立ったんだ。ここは当時の王族としてはかなり勇気ある行動だと思う。ポルトガル内戦は自由主義対保守主義の争いでしたが、ここに来て兄弟間での王位継承の争い、という側面も持つようになったため、兄弟戦争という別名もあるんだ。このような風刺画も描かれている。」
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「ポルトガル内戦は、純粋にポルトガル国内だけでの戦争ではありませんでした。イギリスはペドロ1世を支援し、カトリック教会はミゲル1世を支持していました。
1834年、アセイセイラの戦いでペドロ1世派の軍がミゲル派の軍を破り、ペドロ1世の勝利でポルトガル内戦は終結しました。ミゲル1世はポルトガル王位に関する権利をすべて放棄し、ポルトガルから永久追放となりました。ただし、生活資金である年金の支給は約束されました。
勝者となったペドロ1世は立憲政府を復活させ、味方となったブルジョワたちに爵位や官職を気前よく与えました。一方で、敵方となった修道院は財産を没収して競売にかけたため、カトリックとの関係は悪化しました。それから間もない1834年9月24日に死去しました。36歳になる年でした。」
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ペドロ1世 制作者:Simplicio Rodrigues de Sa (1785?1839) 制作年:1830年
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「ポルトガル内戦が終結し、ペドロ1世も死去したことで、マリア2世の治世が始まったんだが、立憲君主体制であるにも関わらず、軍人がたびたびクーデターを起こす不安定な時期を迎えることになったんだ。
1836年9月、急進派の一部が失業軍人らと結託して反乱を起こした「セテンブリスタ(九月党)の乱」が発生している。その後には将軍のコスタ・カブラル(1803〜1889年)が事実上の独裁者となった。カブラルは「上からの近代化」を進めていったんだが、この中の一つに「公衆衛生法」というのがあった。これは、遺体を共同墓地で埋葬する、という一見すると特に問題のない法律に思えるんだが、これが後に事件を引き起こしてしまう。これまでカトリック教会の影響が強かったポルトガルでは、死者の墓は聖職者によって清められた教会の墓地に埋葬されるのが通常の埋葬方法だったんだ。それ以外の所に埋葬されるのは、凶悪犯罪者とか教義に反した冒涜者とかだったんだ。なので、彼らから見れば共同墓地は凶悪犯罪者なんかが葬られる場所であり、とんでもない、という反応だったわけだな。」
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「公衆衛生法は農民らから強い反発を招き、1846年に北部のミーニョ地方で反乱が勃発しました。この事件はマリア・ダ・フォンテの乱(Maria da Fonte)と呼ばれています。マリア・ダ・フォンテというのは、実在した女性の名前だと考えられていますが、本当にそういう人物がいたかどうかは不明です。反乱を主導した女性たちを象徴的に示した名前なのではないか、とも考えられています。」
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「カブラルは自力で反乱を鎮圧することができず、イギリス軍とスペイン軍が介入することでようやく鎮圧されたんだ。マリア・ダ・フォンテの乱は鎮圧されてしまったが、ポルトガルにおける民衆蜂起の象徴としてとらえられるようになった。後に、乱を記念して「マリア・ダ・フォンテ国歌」も作られて、式典で演奏されるなど、民主国家ポルトガルの象徴の一つなったんだぜ。↓の絵は、マリア・ダ・フォンテの乱を描いたものの一つだ。他にも、描かれた絵は残っているんだが、共通しているのは女性が武器を持って戦おうとする姿が描かれているところだな。」

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「1800年代前半は、フランス革命とナポレオンの影響で、ヨーロッパは激動の時代を迎えていますが、ポルトガルもブラジル独立や内戦、そして軍人クーデターなど、国の姿はめまぐるしく変わっていきました。この後、ヨーロッパは帝国主義時代を迎えます。ポルトガルもまた、時代の荒波にもまれていくわけですが、その話は次章で扱うこととしましょう。
ここまで読んでいただきありがとうございました。」
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