Last update:2025,OCT,18

中世(後半)

詳細篇 ポルトガル建国

small5
「今回は「中世(後編)」の詳細篇ということで、ポルトガルの建国について、見ていくぜ!」
big5
「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。
ポルトガルと言うと、1492年のレコンキスタの完成とか大航海時代の始まりの時に突然登場するイメージだと思います。「ポルトガル?前からいましたけど?」っていうかんじでさらりと登場しますよね。もちろん、ポルトガルははるか古代から存在していたわけではありません。中世も後半に入った頃に、イベリア半島の争乱の中で誕生しました。本章では、ポルトガル建国の歴史の流れを見ていきます。」

年月 ポルトガルのイベント その他のイベント
1094年 アンリ・ド・ブルゴーニュ(ポルトゥカーレ伯エンリケ)がアルフォンソ6世の娘・テレサと結婚
1096年 アンリ伯、ポルトゥカーレ伯領統治
1112年 ポルトゥカーレ伯エンリケ死去
1126年 カスティーリャ王アルフォンソ7世即位
1128年 6月24日 サン・マメーデの戦い アフォンソ・エンリケスはポルトゥカーレ伯に
1131年 アフォンソ・エンリケス コインブラを首都とする
1135年 レオン=カスティーリャ王アルフォンソ7世が全ヒスパニアの皇帝を自称
1139年 オーリッケの戦い
1143年 サモラ講和条約 ポルトガル王国誕生
1145年 ムワッヒド朝がイベリアに侵入
1147年 アフォンソ1世 リスボン征服
1158年 アルカセル・ド・サル征服
1165年 エヴォラ征服

ボルゴーニャ王朝の始まり

small5
「ポルトガル王国の初代国王はアフォンソ1世だ。だがアフォンソ1世の話の前に、その父であるポルトゥカーレ伯エンリケ(1066年〜1112年)の話から始めるぜ。というのも、ポルトガル王国最初の王朝であるボルゴーニャ朝の始祖がポルトゥカーレ伯エンリケだからだ。」

Heinrich Burgund Portugal
ポルトゥカーレ伯エンリケ 制作者:不明 制作年:不明

big5
「ポルトゥカーレ伯エンリケはフランスの有力貴族であるブルゴーニュ公の出身でした。なのでフランス名は「アンリ」です。「エンリケ」は「アンリ」のポルトガル名ですね。兄たちはブルゴーニュ公として歴史に名を残していますが、エンリケは五男という立場であったため、相続で得られるものはごくわずか。そこで一念発起し、レオン=カスティーリャ王のアルフォンソ6世の要請に応じてイベリア半島のレコンキスタに参加することにしました。功績が認められ、アルフォンソ6世の娘(庶子)のテレサと結婚し、さらに領地としてポルトゥカーレの地を与えられ、伯爵となりました。」
small5
「『図説ポルトガルの歴史』では、ポルトゥカーレ伯エンリケの登場について、以下のように記述しているぜ。
@この所領譲渡は、イベリア半島にはまれなフランス流の封建的主従関係のもとで行われた。
Aドーロ川という歴史的な南北の境界線を無視する形で領土の一体化が行われた。
これらは、後にポルトガル王国形成に繋がる新しい動きであった。

とな。」
big5
「ポルトゥカーレ伯エンリケは1112年(この年46歳)で亡くなり、後継者となったのは息子のアフォンソ・エンリケス(1109年?〜1185年)でした。彼が後にポルトガル王国初代国王・アフォンソ1世となります。」

Afonso I Henriques de Portugal
アフォンソ1世 制作者:不明 制作年:不明

small5
「1112年時点で、アフォンソ1世はまだ3歳頃ということになる。そこで、母のテレサが実質的な領主ということになった。ところが、これを虎視眈々と狙うヤツがいた。ガリシアの有力貴族であるペドロ・フロイラス・デ・トラバ(以後、トラバと表記)だ。トラバは、息子のフェルナンド・ペレスを寡婦となっていたテレサと結婚させ、テレサを取り込んだんだ。テレサは112年時点で32歳。テレサはすっかりフェルナンド・ペレスに入れ込んでしまったそうだ。トラバは、これでポルトゥカーレ伯領は手に入ったようなものだ、と思っていただろう。
ところが、これを良としないグループが現れた。地元貴族のソーザ、メンデス、リバドーロに、教会ではブラガ大司教、ポルト司教、コインブラ司教などがポルトゥカーレの自治を確保するためにガリシアの影響を排除すべき、ということで連合したんだ。彼らは旗頭としてテレサの息子であるアフォンソ・エンリケスを擁立した。アフォンソ・エンリケスは、幼少の頃からメンデス一族のもとで養育されていたので、他の男の所に行った実母のテレサよりも、ポルトゥカーレの貴族らに親近感を抱いていたのであろう、と考えられている。」
big5
「そして両陣営の争いは1128年6月24日(この年アフォンソ1世19歳頃)、ポルトゥカーレ伯領の主都であるギマランイス付近のサン・マメーデの戦いでアフォンソ・エンリケス陣営が勝利して決着しました。テレサはガリシアに逃亡し、その後同地で没します。一方、勝ったアフォンソ・エンリケスはポルトゥカーレ伯となりました。これが、ポルトガル王国建国の第一歩ですね。」
small5
「それから3年後の1131年に、首都をギマランイスからコインブラに移している。これは、アフォンソ・エンリケスがミーニョ地方の貴族の制約から逃れるためだった、と考えられているぜ。
ここまでで、アフォンソ・エンリケスがポルトゥカーレ伯爵としての基盤を確保したわけだ。ここから、ポルトガル王国の建国へと話は進んでいくぜ。」


1139年 オーリッケの戦いとポルトガル王国建国

small5
「1135年、レオン=カスティーリャ王のアルフォンソ7世が全ヒスパニアの皇帝を自称した。即位式も開催したんだが、なんとアフォンソ・エンリケスは出席しなかったんだ。」
big5
「この大事な式典を欠席するなんて、あいつは俺のことを舐めている、とアルフォンソ7世はさぞかしご立腹だったでしょうね。」
small5
「実際、二人は間もなく対立することになったぜ。具体的には、ミーニョ川右岸の街・トゥイの領有権を巡る争いだ。アフォンソ・エンリケスのレオン=カスティーリャ王国から分離独立傾向は顕著に目立ってきたわけだな。
1139年、アフォンソ・エンリケス(この年30歳頃)はオーリッケの戦いでムラービト朝の軍と対戦、これを撃破することに成功した。この戦いの後、アフォンソ・エンリケスはゲルマン人の習慣に則り、楯の上に立ったエンリケスは戦場の騎士全員歓呼の声の中、王に選出されたんだ。これ以後、アフォンソ・エンリケスは自分の称号をプリンシペ(王子の意) or インファンテ(親王の意)に代えて、レックス(王の意)と自称するようになったんだ。これに合わせて、以後、本章でもアフォンソ・エンリケスをアフォンソ1世と記載するようにするぜ。」
big5
「まだ対外的には認められていないですが、実質的なポルトガル王国の誕生はこの時点だった、と考えられています。」
Batalla de Ourique de Domingos Sequeira.
オーリッケの奇跡 制作者:Domingos Sequeira (1768?1837) 制作年:1793年
オーリッケの戦いの前にはアフォンソ1世の前に聖ヤコブが現れた、という伝説がある。それを絵画にしたもの。なお、現れたのは聖ゲオルギウスだとかイエス・キリストだとかいう説もあり、たぶんに創作だろうと思われる。


王国の確立

small5
「さて、実質的にポルトガル王国は形成されたんだが、次の課題はこれを周辺諸国に認めさせることだ。特に、イベリア半島におけるキリスト教国のリーダー格であるレオン=カスティーリャ王国には承認してもらわないと、ポルトガルは独立国とは言い切れないからな。」
big5
「それについては、アフォンソ1世は教皇の力を借りることで解決しようとしました。1143年、教皇の仲介により、ポルトガルの国境に近い北部の都市・サモラの地でアフォンソ1世とアルフォンソ7世の会見が実現されました。この会見で
@アフォンソ1世はカスティーリャ領に侵入しないこと。
Aアルフォンソ7世はアフォンソ1世が王を名乗ることを黙認すること。
が合意された。これはサモラ講和条約とかサモラの和平と呼ばれたりします。
こうして、ポルトガルはレオン=カスティーリャ連合王国からも独立国家と認められたわけですね。ポルトガル王国の最初の王朝はボルゴーニャ朝と言います。由来は、アフォンソ1世の父がフランスのブルゴーニュ地方ですね。ところで一方、レオン=カスティーリャ連合王国から見ると、ポルトガルが分離独立してるわけなので、国力の低下になったでしょうね。」
small5
「そうだな。ただ、「全ヒスパニアの皇帝」という立場から考えると、皇帝に従う家臣の中に「国王」称号を持つ者がいることは、皇帝という地位に箔を付けることになる。悪い事ばかりではなかったようだぜ。」
big5
「その後、アフォンソ1世はイスラム教徒の領土を切り取り、ポルトガル領を南に拡大させていきました。1147年は特に成果が大きかったですね。まず、3月にサンタレンを急襲して占領しました。次はリスボンだ、ということで、5月には聖地に向かっていたイギリス発の十字軍に協力の約束を取り付けます。約150日に及ぶ攻城戦の末、リスボンを陥落させました。これで、領土はテージョ川まで広がったことになります。
その後もアフォンソ1世の領土拡大は続き、1158年にはアルカセル・ド・サル、1165年にはエヴォラを征服しました。そんなアフォンソ1世は「建国王」と呼ばれ、ポルトガルの始祖として現在でも称えられているそうです。」
Siege of Lisbon - Muslim surrender
リスボンの包囲 制作者:Joaquim Rodrigues Braga 制作年:1840年

Depiction of the siege of Lisbon
リスボン包囲 制作者:Roque Gameiro (1864?1935) 制作年:1917年


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参考文献・Web site
・図説ポルトガルの歴史 著:金七紀男 発行:河出書房新社 2011年5月20日初版印刷
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