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広がる世界・変わる世界

詳細篇 ポルトガル−スペイン統治時代

small5
「今回は「広がる世界・変わる世界」の詳細篇ということで、近世のポルトガルの歴史、特にスペイン統治時代について、見ていくぜ!」

big5
「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。
ポルトガルは、実は近世前半にスペインの支配下に入っていた、というのは日本人にはほとんど知られていないですよね。大航海時代の先駆者として世界の最先端を突っ走っていたポルトガルでしたが、近世の頃には衰退しはじめ、この時代にはついにスペインの支配下に入ってしまいました。この時代のポルトガルの歴史を見ていきましょう。」

年月 ポルトガルのイベント その他のイベント
1557年 ジョアン3世死去 セバスティアン1世 即位
1560年 純血法導入 日:織田信長が今川義元を破る(桶狭間の戦い)
1570年 アジアにおける王室の交易独占終焉
1578年 アルカセル・キビールの戦いでセバスティアン1世戦死
エンリケ1世即位
1580年 1月31日:エンリケ1世死去
スペイン王フェリペ2世がポルトガル王フィリペ1世として即位
1582年 日:本能寺の変 織田信長死去
1585年 オランダと断交
1588年 アルマダの海戦 スペイン無敵艦隊敗北
1590年 天正少年遣欧使節帰国 日:豊臣秀吉が天下統一
1598年 フィリペ2世(スペイン王フェリペ3世)即位
1600年 日:関ヶ原の戦い
1618年 (独)ドイツ三十年戦争 開戦
1621年 フィリペ3世(スペイン王フェリペ4世)即位
1630年 オランダがブラジル北東部を占領(〜1654年まで)
1637年 オランダがエルミナ要塞占領
1639年 日:ポルトガル船の来航を禁止
1640年 スペインから分離独立 ジョアン4世即位(ブラガンサ朝の始まり)

セバスティアン1世

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「ポルトガルは大航海時代を牽引して発展し、ポルトガル海上帝国と呼ばれるほどの勢力圏を築いてきたわけだな(参照:広がる世界・変わる世界詳細篇 ポルトガル海上帝国)。
しかし、その後は香料貿易の利益も減少していき、ポルトガルは徐々に衰退していくことになったんだ。その始まりとなったのが、セバスティアン1世だ。」

Sebastian of Portugal by Cristovao de Morais (between 1571 and 1574)
セバスティアン1世 制作者:Cristovao de Morais (fl. 1551?1571) 制作年:1571年

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「セバスティアン1世が生まれたのは1554年1月20日。父はジョアン3世の五男のジョアン・マヌエルですが、なんとジョアン・マヌエルはセバスティアン1世が誕生する18日前の1554年1月2日(この年17歳)に亡くなっていました。ジョアン・マヌエルはジョアン3世の跡取り息子だったのですが、ジョアン3世よりも先に亡くなってしまったので、アヴィス王朝断絶の危機に晒されたわけです。そんな中、誕生したのがセバスティアン1世だったので、「待望の王太子」ということで「待望王」というあだ名がついています。セバスティアンの名は、誕生日の聖人セバスティアヌスに由来しています。
母は神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の次女・フアナ(1535年6月24日〜1573年9月7日)です。フアナはセバスティアンの出産後間もなく兄のフェリペ2世にスペインに呼び戻され、フェリペ2世がイングランドのメアリ1世と結婚生活を送る間のスペイン摂政を務めました。つまり、生まれたばかりの息子と離れ離れになったわけですね。フアナは、その後、再婚することもなくポルトガルに戻ることもありませんでした。セバスティアンには手紙を時折送り、セバスティアンからはその時の肖像画が送られてきたそうですが、対面することは無かった、と考えられています。」
small5
「つまり、生後間もなく父にも母にも会えない、という環境で育ったわけだな。この環境が、その後のセバスティアン1世の偏った性格の遠因となったのではないか、と思うぜ。
1557年6月11日、セバスティアン1世の祖父に当たるジョアン3世が死去すると(この年55歳)、セバスティアン1世はポルトガル王位を継承。この時点でわずか3歳だ。当然、3歳児に政治はできないので、摂政をジョアン3世の王妃で祖母にあたるカタリナが務めた。1562年〜1568年は、ジョアン3世の弟で大叔父にあたる枢機卿のドン・エンリケが摂政だ。
セバスティアン1世は度胸があり冒険好きの少年だったので「騎士王」というあだ名もついたが、その一方で情緒不安定で虚栄心が強く、他人の意見を聞かない頑固者だったそうだ。セバスティアン1世が気に入ったのは、彼にこびへつらういわゆる「イエスマン」ばかりだったそうだ。興味があるのは狩猟、乗馬、そして十字軍と戦争だった。これには守役となったイエズス会のドン・アレイジョの影響だったのではないか、と考えられているな。」
big5
「ジョアン3世の統治で、ポルトガルはかなり偏狭なカトリック思想に染まっていたので、その中で育ったセバスティアン1世が十字軍を本気で考えたりするのも、自然な流れだったのではないか、と私は思いますね。」
small5
「そんな中、王位を簒奪された元モロッコ王のムレイ・ムハマンドがポルトガルに支援を要請してきた。これはいい機会、ということでセバスティアン1世はモロッコ遠征を計画した。スペインやイタリアからも傭兵を集め、1578年(この年セバスティアン1世24歳)、ムレイ・ムハンマドと共に総勢1万5000の軍勢を率いてモロッコに上陸した。そして8月4日、運命のアルカセル・キビールの戦いが始まった。」

Lagos46 kopie
アルカセル・キビールの戦い 制作者:不明 制作年:不明
左側がポルトガル軍 包囲されているように描かれている

big5
「戦闘開始前から、ポルトガル軍は暑さと渇きでかなり疲弊していました。一方、モロッコ軍は川沿いおアルカセル・キビールでポルトガル軍を待ち受けていました。その兵力は幅があるのですが5万〜10万と考えられています。
当初はモロッコ軍が数の有利を活かして優勢でしたが、ポルトガル軍が火器の力で反撃。モロッコ軍はこれに押されて後退しはじめ、セバスティアン1世はここぞとばかりに追撃に出ますが、これはモロッコ軍の罠でした。ポルトガル軍は伏せていたモロッコ騎兵に奇襲をかけられて大敗。半数以上が戦死or捕虜となり、ムレイ・ムハンマドは戦死。セバスティアン1世は遺体が発見されなかったのですが、その後姿を見せることは無かったため、戦死したとみなされています。一方で、モロッコのスルタンもどういうわけか戦死しているので、ポルトガル軍も一矢報いたような結果になっていますね。」
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「そうだとしても、ポルトガルの損失は多大なものだった。ポルトガル史上、最悪の敗北だ、とも言われているぜ。問題は損失だけではなかった。この時、セバスティアン1世は未婚だった。なので正当な後継者もいなかった。「待望王」は嗣子を残すことなくこの世を去ったわけだな。」


エンリケ1世の後継者

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「セバスティアン1世の後継者となったのは、枢機卿である大叔父ドン・エンリケがエンリケ1世して即位したんだ。だが、この時点でエンリケ11世は66歳。枢機卿なので結婚できず、当然正当な後継者もいなかった。次の継承は既に時間の問題だったわけだ。継承問題を解決するために、エンリケ1世は枢機卿を辞して俗人に戻り結婚を望んだが、時の教皇グレゴリウス13世はこれを却下している。」

Ritratto di Enrico I del Portogallo (1587) - Cristofano dell'Altissimo (Galleria degli Uffizi)
エンリケ1世 制作者:Cristofano dell'Altissimo (1527?1605) 制作年:1587年

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「というわけで、エンリケ1世に課せられた課題は、後継者を決めることでした。主な候補は以下の5人でした。
@カタリーナ(1540〜1614年):ジョアン3世の弟・ドゥアルテの娘。ですが、女性という理由で候補から外された。しかし、カタリーナの孫のジョアンが後にジョアン4世としてポルトガル王になる。
Aドン・アントニオ(1531〜1595年):ジョアン3世の弟・ルイスの庶子。聖職者としてクラト修道院長になったが、還俗してからはエンリケ1世に疎まれていた。
Bスペイン王フェリペ2世:ジョアン3世の姉・イサベルの息子。血筋や家格は抜群だが、スペインとの同君連合になるのが問題。

この3人のうち、ポルトガル民衆に人気があったのはドン・アントニオでした。しかし、フェリペ2世もポルトガルを支配下に置く絶好のチャンスということで、ポルトガルの大貴族らに賄賂をばらまき、支持を得ようとしました。そして、エンリケ1世は後継者を決めることができないまま1580年1月31日死去します。」
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「結局、エンリケ1世は後継者選びの課題をこなせなかったわけだな。そうなると、候補者たちの間で実力行使するしかない。ドン・アントニオもフェリペ2世も譲らなかったため、武力衝突となった。1580年のアルカンタラの戦いだ。この戦いはスペイン軍の圧勝に終わり、ドン・アントニオは外国に逃亡しました。その後も、フランスの支援を受けて、ポルトガル王位をかけてスペインと戦ったんだが結局失敗に終わり、1595年にフランスで死去した。
こうして、スペイン王フェリペ2世はポルトガル王も兼ねることになったわけだ。スペインとポルトガルは同君連合という形になったわけだが、実際には併合と言った方が正確だったようで、日本語の歴史書では「ポルトガルはスペインに併合された」と表現されることが多いぜ。」

Batalha de Alcantara
アルカンタラの戦い 制作者:不明 制作年:不明

フィリペ朝の治世 1580〜1640年

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「さて、実力でポルトガル王位を手に入れたフェリペ2世(ポルトガル王としてはフィリペ1世)だが、それから60年間、3人の「フィリペ王」がポルトガル王を兼ねたので、この王朝はフィリペ朝と呼ばれるぜ。また、1580〜1640年は聖書の故事になぞらえて「スペイン捕囚」と呼ぶ歴史学者もいるそうだ。
こう書くと、さもポルトガルはスペインに虐げられて苦難の時代を味わった、かのような印象を受けるが、歴代のフィリペ王たちはいずれもポルトガルに配慮した政策を取っているぜ。まず、フェリペ2世はポルトガル王として即位する際に、議会(コルテス)と25条の約束を交わしている。主な内容は
@ポルトガル人の自治を認める。
Aポルトガル植民地は、引き続きポルトガル人が支配する。
Bポルトガル−スペイン間の関税は廃止。
Cポルトガル人はスペイン領内を自由に行動できる。
というものだ。これは特にポルトガル商人には喜ばれた。今までよりも商売がやりやすくなったからな。そして、スペイン商人には不評だった。自分たちの市場にポルトガル商人が当たり前のような顔をして参入してくることになったからな。
フェリペ2世は1年ほどポルトガルに滞在した後、甥のアウストリア公を副王に任命して自身はスペインに戻った。だが、ポルトガル人に優しい政策は継続されたんだ。」
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「その一方で、デメリットもありました。それはオランダとの対立です。フェリペ2世の統治下に入ったので、フェリペ2世の敵はすべてポルトガルの敵になりました。その代表がオランダです。当時、オランダは自分たちの信仰(プロテスタント)と独立をかけたオランダ独立戦争の真っ最中です。彼らから見れば、スペインに加えてポルトガルも敵に回ったようなものです。1585年、ポルトガルはオランダと断交し、両国は敵対関係になります。
フィリペ3世の治世になると、オランダは本格的にポルトガルにも牙をむき、1630年にはブラジル北東部のサトウキビ地帯が占領されています。1637年には、ポルトガルのアフリカ進出の象徴でもあったエルミナ要塞がオランダに奪取されました。
これには、背景があります。当時、オランダは国内における砂糖の精製業が盛んでした。原料となる粗糖はブラジルから輸入していたのですが、ポルトガルがスペインの支配下に入ったことにより、オランダ船は市場から締め出され、粗糖の調達が滞ってしまいました。1621年、オランダ西インド会社を設立し、ブラジル進出を本格化させていた、という背景があります。」
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「オランダとの敵対は、ポルトガルにとって大きな歴史の転換点になったな。既に衰退していたポルトガルの香料貿易は、オランダに妨害でさらに衰退し、ポルトガル経済を支える屋台骨ではなくなったんだぜ。
1621年、フィリペ朝3代目となるフィリペ3世が即位する頃には事態はさらに悪化していた。オランダ独立戦争は激しさを増していたうえに、ドイツで三十年戦争が始まり、スペインは戦費がかさんで財政難に陥ってしまったんだ。宰相のオリバーレス伯ガスパール・デ・グスマン(1587〜1645年)は、財源確保と兵力増強のためにカタルーニャとポルトガルに新税を課した。富裕層には賛助金の支払いを強要したんだ。「ポルトガルに配慮した政治」はできなくなってきたわけだ。」
big5
「支配される立場のポルトガルにはこれが納得できません。新税を課されたにも関わらず、オランダは植民地ブラジルの一部を占領するばかりか、エルミナ要塞まで占領してしまいます。スペインがポルトガルを守ることができなくなってしまったわけですね。1637年には、エヴォラで増税に反対する民衆が暴れて暴動に発展し、アレンテージョ方面一帯に広がってしまいました。」
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「1640年、同じような状況になったカタルーニャで暴動が発生した時、スペインはポルトガル貴族に鎮圧を命令した。鎮圧のために、ポルトガル軍を動員することにしたんだぜ。スペインにとっては、負担軽減のためのポルトガル軍動員だったわけだが、スペイン統治に反対しているポルトガル貴族には絶好の機会となった。軍を動かす大義名分を得たワケだからな。
1640年12月1日、ポルトガル貴族らはクーデターを起こした。時のポルトガル副王であるマントゥア女公爵マルガリータ・デ・サボイアを逮捕すると、新たなポルトガル王として、ブラガンサ家のドン・ジョアンを担いだんだ。ドン・ジョアンはエンリケ1世の件で、後継者候補に挙がっていたカタリーナの孫だ。マヌエル1世の曾孫にあたり、血筋の面からはポルトガル王になるには十分だったんだろうな。ドン・ジョアンはこのような形で独立したポルトガル王になることに躊躇したが、2週間後には貴族や民衆の要請に応えることを決意し、ポルトガル王ジョアン4世として即位したんだ。60年続いたフィリペ朝スペインによる統治は終わりをつげ、再びポルトガル人の王の時代が始まったわけだな。」

Portrait of John, Duke of Braganza c. 1630 (The Royal Castle in Warsaw)
ジョアン4世 制作者:Peter Paul Rubens (1577?1640) 制作年:1628年

ポルトガル衰退の要因

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「さて、ここまで見た来たように、ポルトガルはスペインの同君連合に入ったことで、オランダと対立することになり、スペインの弱体化とともにポルトガルも弱体化していったわけだ。ポルトガル衰退の要因は、様々な歴史学者が研究しているが、共通して指摘されている点はだいたい以下のようになっているぜ。
@香料貿易は中継貿易に終始し、国内産業の発達に繋がらなかった。
ポルトガルの香料貿易は「安く仕入れて高く売る」という商売の基本だったんだが、それ以上の発展がなかった。国家レベルの事業であるなら、香料貿易で得た利益を国内産業の育成に回すべきだったのに、ジョアン3世のようにカトリック支配体制の強化や王家の奢侈に費やされてしまい、工業は後進のオランダやイギリスに劣り、輸入頼みだった。(ただし、造船については自国産業だった。)

A紅海ルートが復活したことによる香料貿易の利益減少
ポルトガル海上帝国は、海軍と重要拠点に置かれた基地によって通商航路を守ることで維持されていた。この費用は香料貿易の利益で十分賄われていたわけだが、イスラム商人やヴェネツィア商人が紅海経由の通商ルートを復活させると香料貿易に再参加。競争により利益は減少し、やがて海軍維持費用が上回るようになった。

B王室独占による非能率と腐敗の進行
王室独占は、当初は莫大な利益をポルトガル王が自由に使える仕組みとして機能していたが、やがて役人は商人ではなく官僚のようになり、汚職や非効率が蔓延していった。対照的に、オランダは民間の資本家が東インド会社のような企業を設立して、競争力を強化して香料貿易に参画していった。

C異端審問所による新キリスト教徒(ユダヤ人)迫害
敬虔王ジョアン3世による異端審問所の設置と強化は、知識人を弾圧するようになり、文化技術面で他国に後れを取ることになった。また、禁書目録によってフランスなどから流入してくる科学・哲学書も止められてしまったため、フランスやイギリスなどの西ヨーロッパ諸国に遅れを取ることになった。

というところだな。」
big5
「個人的にはBとCの影響が大きい、と思います。BとCは言い換えれば中世の価値観を復活させる政策で、新しい時代に逆行するものでした。これは、もっと時が経過して近代に入ってから、ポルトガルにも自由主義思想が広まって、カトリックは時代遅れの原因として弾圧される原因になりました。

さて、次はポルトガルが真の独立をかけて奮闘していくことになるのですが、この話は別の章で語ることにしましょう。ここまでご清聴ありがとうございました。」




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参考文献・Web site
・図説ポルトガルの歴史 著:金七紀男 発行:河出書房新社 2011年5月20日初版印刷
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