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古代

内乱の一世紀(ローマの危機)

導入

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「今回のテーマは内乱の一世紀(ローマの危機)です。共和政ローマは身分闘争、そしてポエニ戦争を乗り越えて西地中海の覇者となり、帝国への道を歩み始めました。その一方で、共和政ローマの国内は大きく変わり始めます。内乱の一世紀とは、グラックス兄弟の改革が失敗した頃から、最終的にオクタヴィアヌスがローマ皇帝となるまでのおよそ100年間のことを指し、ローマ史のクライマックスです。」
名もなきOL
「内乱の一世紀は、共和政ローマの最後のステップなんですね。といっても、前回の話ではグラックス兄弟の改革が失敗して、もうすでにローマ市民による共和政は崩壊してしまった感じがします。」
big5
「ポエニ戦争を始めとした外国との戦争で勝利したことにより、国内には新たな問題が生じてしまったわけですね。
さて、それではいつもどおり、まずは年表から見ていきましょう。」

年月 ローマのイベント 他地方のイベント
前111年 ユグルタ戦争 開戦(前105年まで)
前107年 マリウスの軍制改革
前100年 カエサル誕生
前91年 同盟市戦争 開戦
前88年 第一次ミトリダテス戦争 開戦
平民派と閥族派の内戦始まる
前73年 スパルタクスの反乱 勃発
前60年 第一回三頭政治 始まる
前58年 カエサルがガリア遠征を開始
前53年 カルラエの戦いでパルティアに敗北 クラッスス戦死
前49年 カエサルが軍団を率いてルビコン川を超える
前48年 ファルサロスの戦いでカエサルがポンペイウスを破る
前47年 カエサルの後見でクレオパトラがプトレマイオス朝エジプト女王に即位
前45年 カエサルが終身独裁官に就任 ユリウス暦を制定
前44年 カエサル暗殺される
前43年 第二回三頭政治 始まる
前34年 アントニウスがアルメニア遠征の凱旋式をアレクサンドリアで挙行
前31年 アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスがアントニウス・クレオパトラ連合軍を撃破
前30年 プトレマイオス朝エジプト滅亡
前27年 オクタヴィアヌスが元老院から「アウグストゥス」の称号を授かる 事実上の帝政ローマの始まり

ローマ軍の変質 マリウスの軍制改革

ユグルタ戦争

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「さて、最初はユグルタ戦争の話から始めましょう。ユグルタはアフリカのヌミディア王国の王族です。王族と言っても傍流なので、何も起こらなければヌミディア王になることはない立ち位置の人でした。ところが、いろいろありましてユグルタはヌミディア王になりました。ユグルタは、元老院議員などに多額の賄賂を贈って自分の正当性を認めさせました。」
名もなきOL
「なんか、悪い人の香りがプンプンしますね、ユグルタさんは。」
big5
「ところが、ヌミディア王位を巡る争いの中で、ヌミディア付近に駐留していたローマ軍をユグルタ軍が攻撃して全滅させるという事件が起きたため、前111年にローマはユグルタに宣戦布告。ユグルタ戦争が始まりました。当時、地中海の大国となっていたローマから見れば、ヌミディア王国は北アフリカの一部を領有するだけの小国。すぐに決着はつくだろうと思われましたが、意外にもローマ軍は大苦戦してしまいます。」
名もなきOL
「どうしてローマ軍は苦戦したんですか?」
big5
「理由はいくつかあります。一つは、重装歩兵が主力のローマに対し、ヌミディア王国の主力は騎兵です。戦場を駆け回る騎兵相手では、ローマの重装歩兵は分が悪かった、という軍の相性の問題。ただ、それよりも根本的な理由は、ローマの重装歩兵が弱体化していたことだ、とされています。ローマの主力は重装歩兵ですが、重装歩兵の担い手は平民であるローマ市民でした。しかし、ローマが領土を拡大するにつれて中小農民は没落していきました。ユグルタ戦争時点でのローマ重装歩兵は数も質も劣っていたそうです。」
名もなきOL
「なるほど。国が大きくなった代償ですね。それを是正しようとしたグラックス兄弟も殺されてしまいましたしね。」
big5
「あと、これは私見ですが、ローマ市民の重装歩兵の士気が上がらなかったんだと思います。ローマが大きくなっても、利益を得るのは元老院議員や貴族化した上層部の平民(ノビレス)ばかりで、中小ランクの平民はむしろ生活が苦しくなるだけです。中小市民にとって、外国に攻め込む戦争は苦痛以外の何物でもなかったのでしょう。そんな戦争に動員されても、士気が上がらないのは当然です。」
名もなきOL
「実質的に命がけのタダ働き、っていうことなら、士気が上がるはずもないですね。」
big5
「そんな中、前107年にコンスルとなったマリウスが軍制改革を実施。ローマ軍は再び強くなって勢いを取り戻し、前105年にはユグルタを捕らえてユグルタ戦争は終結しました。さて、マリウスはどんな改革をしたのか?次はマリウスの軍制改革の中身を見てみましょう。」
Marius Glyptothek Munich 319伝・マリウス像 

マリウスの軍制改革

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「前107年にマリウスが行った軍制改革はわりとシンプルです。マリウスは、ローマの無産市民(貧民)らから志願者を募り、彼らに無償で武具を与えて兵士としました。
名もなきOL
「へ〜、なるほど。でも、それってそんなに重要なことなんですか?」
big5
「ローマにとってはかなり重要です。そもそも、ローマの主力はローマ市民から成る重装歩兵です。つまり、ローマ市民が自ら戦って国を守るという「市民軍の原則」の上に成り立っていました。ところが、ローマ市民が没落してきたので、代わりに自分で武具を準備できない無産市民を兵士とし、給料を支払うようにしました。これにより、「ローマ市民=ローマ軍」という市民軍の原則は崩れて、兵士は一つの職業に変わったわけですね。無産市民で構成された軍は「傭兵軍」とか「職業的軍隊」とか呼ばれたりします。」
名もなきOL
「なるほど、それは確かに大きな変化ですね。でも、そういう扱いなら、現代の国の軍隊と似ていますよね。日本でも、自衛隊は一つの職業ですよね。」
big5
「「職業軍人」という意味では同じですが、大きな違いがあります。それは、ローマ軍は国家に仕える軍というよりも、有力者に仕える私兵のようになった、という点です。マリウスや、その後の将軍たちは兵士たちの支持を得るために、いろいろと便宜を図るようになりました。戦争に勝って戦利品が取れたら分け前を出したり、占領地で略奪を許可して分捕り放題を認めたり、あるいは一時金を出したり、退役後に土地を与えるとか、です。このようなことが繰り返されるうちに、ローマ兵は国家に仕えるのではなく、自分たちに良くしてくれる将軍達に使えるようになったんです。
マリウスの軍制改革は、弱体化したローマ軍をすぐに立て直す、という面では有効でした。しかし、マリウスはローマ兵を自分の子分として保護し、ローマ兵はマリウスのような親分(有力者)個人に仕える、という関係性に変わっていきました。これが、「内乱の一世紀」と呼ばれるローマ内乱の布石になったんです。」

平民派 vs 閥族派

マリウスとスラの対立

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「ユグルタ戦争に勝利したマリウスは一躍ローマの英雄となりました。マリウスは平民出身で元老院とは一線を画す存在だったので、主にエクイテス階級の支持を得るようになります。この派閥は平民派と呼ばれます。「平民」派、といっても、主なメンバーはエクイテス階級です。一方、そんなマリウスを快く思わず、伝統的な元老院の名門貴族らで構成される派閥は閥族派といいます。閥族派のリーダーは、元はマリウスの部下で、ユグルタ戦争でも活躍したスラです。スラは、ユグルタを捕らえるのに功績があったのですが、マリウスはスラの手柄を自分の手柄かのようにして公に示したことがきっかけとなり、マリウスとスラは激しく対立するようになりました。」

Sulla Glyptothek Munich 309伝・スラ像

名もなきOL
「これはわかります。手柄の横取り、って私が勤めてる会社でもしばしばあります。たいてい、禍根を残すことになりますから。」
big5
「そうですよね。手柄の横取りは、対立と争乱の引き金になる、というのは古今東西共通の原理だと思います。ユグルタ戦争の後も、戦争が続きました。前91年には分割統治されていたイタリア半島の「同盟市」が連帯してローマに叛旗を翻した、前88年には小アジアのポントス王・ミトリダテス6世がローマに挑んだミトリダテス戦争です。閥族派のスラが、ミトリダテス戦争に指揮官として赴くことになり、ローマ不在になっている間、平民派と閥族派の対立がるいに武力衝突となり、平民派は引退していたマリウスを招いてクーデタを起こします。そして、スラ派を次々と粛清していきました。この期間のローマは、マリウスら平民派による恐怖政治状態でした。」
名もなきOL
「これはヒドイですね。派閥抗争がエスカレートして、革命みたいになっています。怖いな・・・」
big5
「それから間もない前86年にマリウスが高齢のために死去(この年71歳)すると、ミトリダテス戦争を講和して切り上げたスラが、軍を率いてローマに乗り込み、平民派と激しい内戦を繰り広げました。この戦いで平民派は敗北し、今度はスラによって平民派が徹底的に弾圧されました。有名な話は、スラが作った「処罰者リスト」です。そのリストに載っている人を殺害すれば、誰でも報酬が貰えるとして布告しました。「処罰者リスト」に名前が載った人は、ほぼ殺害されました。」
名もなきOL
「まさに「内乱」ですね。ここまでになるとは・・・」
big5
「平民派を一掃したスラは、前82年に独裁官(ディクタトル)に就任し、ローマの独裁者となったのですが、前79年に突如辞任して引退。翌年の前78年(この年60歳)に死去しました。
マリウスとスラに代表される平民派 vs 閥族派の争いは、スラの死によってようやく終息しました。しかし、ローマの政治は以前のような民会での決議や元老院での議論によって決まるというよりは、一部の有力者が軍団の力を背景に政治を行う、という実力主義的なもに変容していったんです。」

スパルタクスの反乱 前73〜前71年

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「スラの死後、落ち着きを取り戻していたローマでしたが、前73年に剣闘士の反乱で有名なスパルタクスの乱が発生しました。剣闘士については、ローマ文化も関連するところなので説明しておきますね。この頃のローマで大流行していた見世物の一つが、剣闘士(剣奴、とも)の戦いでした。剣闘士の戦いは、下のような闘技場(コロッセウム)で行われていました。」

0 Colosseum - Rome 111001 (1)世界遺産 ローマのコロッセウム跡 撮影日:2011年9月28日 権利者:Jean-Pol GRANDMONT

名もなきOL
「これ、有名なローマの遺跡ですよね。そうか、ここは剣闘士が戦う場所だったんですね。」
big5
「剣闘士の戦いは、剣闘士同士の戦いの他に、猛獣 vs 剣闘士というものもありました。剣闘士試合はローマで大人気イベントだったので、途中から奴隷を剣闘士として養成する施設まで現れました。そんな中、イタリア中部の町・カプアの剣闘士養成所で前73年に剣闘士らが一斉に脱出する事件が起こりました。剣闘士らは指導者としてスパルタクス(生年不詳)を選びます。スパルタクスはトラキア方面出身の奴隷だったそうです。スパルタクスらの反乱軍はみるみるうちに膨れ上がり、その数は12万にもなったそうです。」
名もなきOL
「ポエニ戦争でイタリア半島に乗り込んできたハンニバル軍よりも多いですね!しかも、剣闘士も混じっているなら、かなり強かったのでは?」
big5
「はい、スパルタクスは軍の指揮にも優れていたので、鎮圧に向かったローマ軍はたびたび撃退されました。反乱軍は約2年に渡って暴れましたが、所詮は奴隷の寄せ集め集団。そのうち、個人個人がそれぞれの故郷へ帰ることを優先して離脱や脱走が相次ぎ、前71年にはスパルタクスも戦死して鎮圧されました。
スパルタクスの反乱鎮圧で軍功を上げ、のちに有名になったのがポンペイウスクラッススです。というわけで、次の話は第一回三頭政治です。」

第一回三頭政治

big5
「さて、内乱の一世紀もいよいよ佳境です。スパルタクスの反乱から約10年後の前60年、ローマの英雄として世界中で有名なカエサルと、スパルタクスの反乱鎮圧で武功を上げたポンペイウス、クラッススの3人が、元老院に対抗するために秘密裏に同盟を組みました。第一回三頭政治の始まりです。」

Julius Caesar Coustou Louvre MR1798カエサル像(ルーヴル美術館蔵) 制昨年:1696年 制作者:Nicolas Coustou

名もなきOL
「カエサルは私でも知っています。有名なローマ帝国の皇帝ですもんね。」
big5
「それはよくある間違いなんです。カエサルは皇帝にはなっていません。ただ、暗殺された理由は「カエサルは共和政を廃して自ら皇帝に即位するつもりだ」と思われたから、です。事実上のローマ皇帝になったのは、カエサルの後継者となったオクタヴィアヌスです。と、まずは第一回三頭政治の話です。
まず、第一回三頭政治の3人を簡単に紹介しておきましょう。まずはポンペイウス(この年46歳)。ポンペイウスはスラの部下で、優秀な軍人です。前67年には暴れていた海賊らをたった40日の遠征で鎮圧し、前66年にはローマに再び反抗したポントス王・ミトリダテスを破ってシリア、ポントスを属州化するなど、この時点で輝かしい実績を誇る軍人でした。
もう一人はクラッスス(この年55歳くらい)。クラッススも軍人ですが、それよりも大富豪として有名です。クラッススもスラの部下でした。カエサルがローマの政務官に当選するために、多額の選挙資金を貸しています。
そしてカエサル。カエサルは先述のマリウスの義理の甥(つまりカエサルから見ると、マリウスはカエサルの叔母の夫なので義理の叔父)で、前60年時点で40歳ですが、この時点ではたいした実績もありませんでした。しかし、大富豪のクラッススから多額の選挙資金を借り、なんとかコンスルに当選を果たします。」
名もなきOL
「なんか、カエサルって有名なわりには、この時点ではたいした実績は無かったんですね。意外。」
big5
「しかし、コンスルに就任してからはその実力を開花させました。まず、元老院での議事録を「日報」として公開する法律を決めて、元老院の権力に釘を刺しておき、前58年にガリア遠征を開始しました。ガリアとは、現在のフランス方面ですね。ガリア遠征は約8年に渡る遠征で現在のイギリスであるブリテン島にも足を運んだ大遠征でした。カエサルの凄い所の一つは、文筆の才能もあったことですね。自ら著した『ガリア戦記』は、ローマ文化の一角を飾る名作です。日本語訳も出ているので、是非読んでみてください。
カエサル、ポンペイウス、クラッススの3人は、それぞれがライバルでもあるのですが、ライバル3人が同盟したのは、ひとえに元老院への対抗目的でした。マリウスとスラの対立から始まった平民派と閥族派の争いは閥族派の勝利に終わり、ローマを支配するのは元老院の有力者たちである、というのが元老院の考え方でした。しかし、3人はそれぞれの野望を胸に秘め、元老院の手駒としての地位に満足しなかったわけですね。」
名もなきOL
「つまり、ローマの政治は 野望を持った有力者 vs 元老院、という構図になってきたんですね。」
big5
「はい、そのとおりです。しかし、前53年にクラッススが東方のパルティア遠征に敗れて戦死したことにより、三頭のバランスは崩壊。カエサルとポンペイウスの対立が始まりました。ローマのは元老院も平民もカエサル派とポンペイウス派に分かれてしまいます。そして前49年(この年カエサル51歳)、ガリア遠征を終えたカエサルは、配下の軍団を解散することなくイタリア半島のルビコン川を超えました。この時のカエサルの有名なセリフが
賽は投げられた
」 です。軍を率いてルビコン川を超えるということは、ローマと元老院と戦うということを意味しますので、たいへんな決断だったわけです。」
名もなきOL
「「賽は投げられた」って、そういう状況でのセリフだったんですね。そして、カエサルが勝ったんですね?」
big5
「はい。ポンペイウスとその仲間たちはローマを捨てて逃亡し、カエサルはローマに入りました。その後、前48年にカエサルとポンペイウスの直接対決となったファルサロスの戦いでカエサルが勝利。ポンペイウスはプトレマイオス朝が治めるエジプトに逃げ、カエサルは追いかけましたが、プトレマイオス朝はポンペイウスに見切りをつけてポンペイウスを殺害しました。こうして、第一回三頭政治はカエサルが生き残って終わります。ここからはカエサルの時代です。」

カエサルの独裁 そして暗殺

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「ポンペイウスを追ってエジプトに入ったカエサルは、プトレマイオス朝の権力争いに巻き込まれます。当時、プトレマイオス朝の王(ファラオ)はプトレマイオス13世でしたが、その姉はこれまた世界中で有名なクレオパトラです。クレオパトラは自分こそがプトレマイオス朝の女王たらんとし、カエサルを味方に付けて前47年、弟を廃して自らプトレマイオス朝エジプトの女王に即位しました(この年、クレオパトラ22歳、カエサル53歳)。クレオパトラは自らの美貌でカエサルを虜にした、ということで有名な話ですね。↓の絵も有名なので見たことがある人も多いと思います。」

Cleopatra and Caesar by Jean-Leon-Geromeクレオパトラとカエサル 制作者:Jean-Leon Gerome 制作年:1866年

名もなきOL
「カエサルとクレオパトラって、かなりの親子くらいの年の差なんですね。現代の感覚だったら、ちょっと怪しいと思われるくらいですよね。」
big5
「しかも、クレオパトラは男子を出産。父親はカエサルであるとされ、カエサリオンと名付けられました。ちなみに、カエサルはこれまで男子に恵まれなかったので、カエサリオンが本当にカエサルの息子なら、唯一のカエサルの血を継ぐ男子、となります。」
名もなきOL
「そうですね。これって、かなり危険な香りが・・・」
big5
「OLさんの危惧は的中します。前46年、カエサルはクレオパトラとカエサリオンを伴ってローマに凱旋しました。前45年には、まだくすぶっていた内戦を完全に鎮圧し、終身独裁官に就任。実際の季節と大きくずれていたカレンダーを修正すべく、ユリウス暦を採用しました。」
名もなきOL
「ユリウス暦って、今の暦と同じなんですか?」
big5
「ほとんど同じですが、少し違います。ユリウス暦は1年を365日とし、4年に1回を閏年とする、というもので、現代の暦とほとんど同じです。現代のの暦はグレゴリオ暦といい、ユリウス暦で生じるわずかなズレを修正するために、閏年は400年に97回とし、閏年を3回無くしています。ちなみに、グレゴリオ暦が採用されたのは1582年のことなので、ユリウス暦は1600年も使われたことになります。」
名もなきOL
「暦を決めるって、地味ですけどすごく重要なことですよね。それができる、ということはカエサルがそれだけの力を持った、ということを意味しているんでしょうね。」
big5
「おそらく、カエサルはこのままローマの皇帝になるつもりだったのでしょう。クレオパトラがプトレマイオス朝の女王であるのと同じように。しかし、元老院はそれを認めず、前44年にカエサルは元老院の議場で殺害されました。56歳になる年でした。カエサル暗殺に加わった者の中に、カエサルが信頼していた部下の一人であるブルータスがいたので
ブルータス、お前もか
のセリフもたいへん有名ですね。なお、ローマに来ていたクレオパトラは、身の危険を感じてカエサリオンを連れてエジプトに逃げました。時代は新たな局面を迎えることになります。」
名もなきOL
「カエサルって、本当に現代にまで強い影響を残しているんですね。世界中で有名になるのもわかります。」

第二回三頭政治 そして共和政の終焉

big5
「さて、長かった共和政ローマ歴史もいよいよ最終段階です。カエサル暗殺後の前43年、オクタヴィアヌスアントニウスレピドゥスの3人が組んで第二回三頭政治が始まりました。3人について簡単に紹介しましょう。
まずはオクタヴィアヌス(この年20歳)。オクタヴィアヌスはカエサルの姪の子(オクタヴィアヌスから見れば、カエサルは母方の祖父母の兄弟)で、カエサルの養子でした。この時点でまだ20歳の若者なので、実績はありません。
次にアントニウス(この時点で40歳)。アントニウスはカエサルの部下で、軍人として実績を積んでいました。カエサルの信頼も厚かったので、ローマ人の男子に恵まれなかったカエサルの後継者として有力で、オクタヴィアヌスのライバルです。
最後にレピドゥス(この時点で46歳)。レピドゥスもカエサルの部下でしたが、オクタヴィアヌスとアントニウスの対立を避けるための緩衝役という位置づけでした。実際、早いうちに三頭から脱落してしまいます。
第二回三頭政治は、カエサル暗殺者を捕らえて処罰するまでは協同していましたが、それが終わるとカエサルの後継者の地位を巡ってたちまちオクタヴィアヌスとアントニウスが対立。アントニウスは東方遠征を行って軍事的な実績を作ろうとしましたが、パルティア相手に苦戦。クラッススのような大敗はしませんでしたが、勝つのが難しくなります。これに目を付けたのが、クレオパトラです。」
名もなきOL
「そういえば、カエサル暗殺後はカエサリオンを連れてエジプトに帰っていたんですよね。」
big5
「クレオパトラはアントニウスに近づいて愛人となり、アントニウスとの間に3人の子を産みました。アントニウスの正妻はオクタヴィアヌスの姉・オクタヴィアなのですが、すっかりクレオパトラに取り込まれてしまい、前34年にはアルメニア遠征の成功を祝う凱旋式を、ローマではなくアレクサンドリアで挙行し、ローマではたいへん不評になりました。しかも、東方属州の一部を勝手にクレオパトラにプレゼントする、という事態にまで発展。前31年、オクタヴィアヌスはアントニウスを「ローマの敵」として宣戦布告しました。」
名もなきOL
「この話を聞くと、カエサルとアントニウスの器量の違いがハッキリしてますね。カエサルは自分の野望をしっかり持っていて、クレオパトラはパートナーの一人みたいなかんじですが、アントニウスは完全にクレオパトラに操られている感じがします。」
big5
「実際、そういう関係だったようです。前31年、アクティウムの海戦で、オクタヴィアヌス vs アントニウス・クレオパトラ連合軍の決戦が行われたのですが、開戦間もなくクレオパトラ艦隊が戦線離脱。アントニウスもクレオパトラを追って戦線離脱したため、海戦はオクタヴィアヌス軍があっさり勝利しました。」
名もなきOL
「う〜ん、アントニウスさん、将軍なのに情けなさ過ぎますね。部下を捨てて女の尻を追って逃げ出した、とか嘲笑されてそう。。」
big5
「実際にそのように嘲笑されたようです、アントニウスは。アントニウスはアレクサンドリアまで逃げたのですが、クレオパトラが自殺した、という知らせを聞いて自害しました。しかし、クレオパトラはまだ自殺していませんでした。それどころか、オクタヴィアヌスに取り入ってなんとか状況を打開しようとしていたんです。しかし、オクタヴィアヌスはクレオパトラとの連携をきっぱりと拒否。万策尽きたクレオパトラは毒蛇に自分を噛ませて自害しました。クレオパトラの死後、エジプトはローマ領に組み込まれました。アレクサンドロス大王の死から、およそ300年続いたプトレマイオス朝エジプトはついに滅亡。既に時代の中心はローマに移っていましたが、ヘレニズム時代は完全に幕を閉じることになりました。
それから数年経った前27年、オクタヴィアヌスは元老院からアウグストゥス(日本語訳は「尊厳者」)の称号を授けられました。これをもって、共和政ローマの共和政体は事実上解体され、帝政ローマへと移行した、と考えられています。一般的には「ローマ帝国」と呼ばれており、オクタヴィアヌスは事実上の初代皇帝なのですが、体裁はあくまで皇帝ではありませんでした。そのため、この政体は「元首政」と呼ばれることもあります。」
名もなきOL
「オクタヴィアヌスが皇帝にならず、名目上は共和政であるかのようにしたのは、カエサル暗殺を見ているからだったんでしょうね。堂々と皇帝を名乗ったら、共和主義者らに命を狙われそうですし。ローマって、政体を変えながら長い間に渡って強大な国であり続けたんですね。」
big5
「そうですね。一時的に強大だった国なら、ローマ以外にもアレクサンドロス大王の帝国や、のちの時代のイスラム帝国にモンゴル帝国、フランスのナポレオンもかなり強大な国を築きましたが、歴史の長さではローマが圧倒的ですね。

と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問

big5
「大学入試共通テストでは、内乱の一世紀のネタはたまに出題されています。ローマ史自体はよく出るのですが、内乱の一世紀は激動の時代のわりには出題頻度は高くないです。試験前に復習しておけば、運よく出題されるかもしれません。」

令和2年度追試 世界史B 問題31 選択肢A
・共和政期のローマで、剣闘士(剣奴)のスパルタクスに率いられた大規模な奴隷反乱が起きた。〇か×か?
(答)〇。上記の通りです。




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参考文献・Web site