small5
「今回は「世界大戦と平和への試み」の詳細篇ということで、第一次世界大戦とその後のサラザール独裁時代のポルトガルの歴史を見ていくぜ!」
big5
「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。
王政が打倒され、期待と共に始まった共和政ポルトガルでしたが、民衆の期待とは裏腹に政治も経済も安定せず、苦難の時代を歩みました。そんなポルトガルの救世主となったのがサラザールです。ポルトガルを立て直したサラザールは民衆の支持を得て独裁者となり、周辺国とは異なる独自路線を歩むことになります。高校世界史では「ポルトガル サラザール独裁」くらいの話しか出てきませんが、ここではこの時代のポルトガルの歴史を見ていきたいと思います。」
| 年月 | ポルトガルのイベント | その他のイベント |
| 1911年 | 政教分離法制定 5月:制憲議会選挙 8月:新憲法公布 |
|
| 1914年 | 第一次世界大戦 開戦 | |
| 1916年 | 第一次大戦に参戦 | |
| 1917年 | 12月:シドニオ・パイオス暗殺される | |
| 1919年 | 王党派と共和派の内戦始まる | ヴェルサイユ会議 |
| 1921年 | 10月19日 流血の夜事件 | |
| 1926年 | 5月28日 ゴメス・ダ・コスタ将軍のクーデター | |
| 1927年 | 2月 共和主義者らによる反乱が起きるが鎮圧される | |
| 1928年 | サラザールが蔵相に就任 | |
| 1929年 | 世界恐慌 | |
| 1932年 | サラザール首相就任 | |
small5
「さて、共和主義者らの革命によって王政は打倒され、共和政となったポルトガルは早速改革を実施していった。まずは1911年5月の政教分離法制定だな。不遇の時代もあったが、ポルトガルではカトリック勢力は根強く残っており、それが政治にまで介入している現状は良くない、と考えた第一共和政は、まずは政教分離を確定させた。さらに、イエズス会などすべての修道会を廃止とし、財源を得るために教会財産も没収しているぜ。」
big5
「教会財産没収はやり過ぎではないか、と思いますが、政教分離法は現代国家の基本だと思いますね。
また、第一共和政に相応しい議会と憲法を制定しました。1911年5月に選挙が行われましたが、この選挙は普通選挙ではなく制限選挙でした。選ばれた議員は医者、海軍将校、公務員、弁護士、教師などのいわゆる知識人階級でした。そういう意味ではややブルジョワ的性格ですね。労働者階級は労働運動を展開していくことになります。
そして新たに公布された憲法ですが、これはブラジルやフランスの憲法をお手本としていました。行政府よりも立法府が強大な力を持っており、行政府の長である大統領は議会が任命・罷免する、という力関係になっていました。」
small5
「その一方で、議会を構成する政党は民主党、改進党、統一党などに分裂して対立するようになってしまい、政権運営はあまり安定しなかったんだぜ。
そんな中、1914年に第一次世界大戦が始まる。当初は中立を維持していたんだが、1916年に時の民主党内閣が連合国側で参戦を決定したんだ。参戦の理由としては
@第一共和政ポルトガルは発足間もなく、国際社会での認知が弱かった→参戦で存在を印象付けたい
Aアフリカ植民地をドイツから守ること
が挙げられている。そういう理由でおよそ5万の将兵を送り出したのだが、莫大な戦費は国民生活を圧迫するようになったんだ。しかも、第一次世界大戦だ。兵員の死傷率は従来の戦争よりも大きく跳ね上がっている。多くの将兵が戦死していく現状を見て、「世界大戦に参戦したことは間違いだったんじゃないか?」と多くの人が感じたことだろう。この状況で登場したのが、シドニオ・パイス(1872〜1918年)だ。」
big5
「シドニオ・パイスは1917年12月にクーデターを起こして政権を奪うと、憲法改正して大統領の権限を強化し、さらに直接選挙で大統領を選ぶ仕組みに変更しました。1918年に選挙で大統領に選出されています。ただ、次第に独裁者となってしまい、その年の終わり、1918年12月にリスボンで暗殺されてしまいました(この年46歳)。」
small5
「その後、第一次世界大戦は終結し、ヴェルサイユ講和会議が開かれた。共和政ポルトガルは国際的に認知され、アフリカ植民地の領有も認められたんだ。犠牲はあまりにも大きかったが、目標は達成できた、と言えるだろうな。
しかし、戦後はインフレが進んでしまいポルトガル民衆の生活は苦しくなり、ストライキが頻発するようになってしまったんだ。この状況を見て、北部では王党派の軍人らが「北部王国」を名乗って分離独立を図ろうとしたためにまたしても内戦が勃発してしまった。1921年10月19日には、リスボンで政治家らが次々と暗殺される「流血の夜事件」が発生するなど、第一共和政はまったく安定しなかったんだ。」
big5
「統治能力をほぼ失っていた第一共和政に見切りをつけて、1926年5月29日、将軍のゴメス・ダ・コスタ(1863〜1929年 この年63歳)が、北部のブラガで蜂起しました。コスタ将軍には陸軍の多数が同調し、約15,000の兵がリスボンに向かって進軍を開始しました。時の首相や大統領は、クーデターを鎮圧することはできない、と諦めて辞職。コスタ将軍は国民から拍手喝采を浴びながらリスボンに入城し、軍事政権を開きました。こうして、第一共和政は30年弱で崩壊し、ポルトガルは長い軍事独裁政権時代を迎えることになります。」
small5
「そうだな。ただ、コスタ将軍自身はすぐに失脚してアソレス諸島に流刑となってしまったんだ。そこで、カルモナ将軍が後継の大統領として政権を握るんだが、1927年2月に一部の共和主義者らによる反乱が勃発。軍事政権はなんとか鎮圧には成功するんだが、国家財政は完全に破綻していたんだ。軍事政権も崩壊は時間の問題のように思えたんだ。」
big5
「そんな時に、1928年にカルモナから三顧の礼をもって迎えられたのが、サラザール(Salazar 1889〜1970年 この年39歳)です。」
big5
「サラザールはポルトガル北部の小地主の子でした。4人兄弟の末っ子でしたが、上3人は女子だったので、長男でした。当初は聖職者になるために神学校で学んでいました。」
small5
「サラザールの独裁体制の特徴の一つが「キリスト教の深い信仰」なんだが、おそらくその由来は青年期に受けてきた教育の結果だったんだろうな。」
big5
「しかし、当時は聖職者の数が多すぎたらしく、サラザールは聖職者登録した後に還俗し、コインブラ大学に入って法学と経済学を学び、経済学で博士号を取りました。1918年(この年サラザール29歳)から、コインブラ大学で経済学の教授として講義も担当していました。その頃からポルトガル政府にたびたび政府要職への就任を打診されたりしていたのですが、どれも辞退したり短期で辞職しています。そんなサラザールに再度目を付けたのがカルモナで、サラザールはカルモナの下でなら自分のやりたいことができる、と確信したそうです。」
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「サラザールは財務大臣となり、国家財政健全化のために重税を取り立て、社会福祉や教育費用はバッサリとカットするなど、徹底的な支出の引き締めを行ったんだ。その結果、一年で黒字化を達成したんだ。
翌年の1929年には世界恐慌が発生するが、サラザールは公共事業の拡大と失業対策によって被害を最小限に食い止めることに成功しているぜ。」
big5
「アメリカのニューディール政策に似ていますね。」
small5
「これらの実績により、サラザールはポルトガルの救世主と称えられるようになったんだ。1930年には植民地相を兼任し、植民地条例を制定して、アフリカ植民地は絶対に手放さない、と世界に喧伝していった。これは、ポルトガル国民の意識に芽生えていた「小国根性」を払拭するためだった、と考えられているぜ。
サラザールは政治センスも優れていた、と評価されている。というのも、第一共和政の下でそれぞれの勢力が血生臭い抗争や暗殺、クーデターが繰り返されていたわけだが、サラザールはポルトガル国内の有力派閥と友好関係を築いて支持を得ることに成功しているんだ。軍からも支持を取り付けて政党政治を否定し、代わりに非政党組織「国民同盟」を結成している。」
big5
「「国民同盟」の結成は、ヒトラーのナチスや日本の大政翼賛会に似ていますね。このあたりはファシズムと共通していると思います。」
small5
「そうだな。だが、サラザールがファシズムと決定的に違うことは、キリスト教の深い信仰だ。元々、聖職者になるための教育を受けてきたしな。なので、サラザールの独裁体制は多民族排除や異教徒の弾圧、植民地の拡大・征服といって攻撃的な性格はあまりなく、むしろ現状を維持するための保守的、防衛的な性格が強いのが特徴だな。
1932年、カルモナ大統領によってサラザールは首相に任命された。これから世界は第二次世界大戦の時代を迎えるわけだが、ポルトガルは中立を保ち続けて独自の路線を歩むことになるぜ。」
big5
「といったところで、今回の話はここまで。続きは次章で扱うことにします。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。」
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