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しのぎを削る列強

インド大反乱(Indian Rebellion of 1857)と仏越戦争(Cochinchina campaign)

あらすじ

big5
「さて、今回のテーマはインド大反乱(Indian Rebellion)と仏越戦争(Cochinchina campaign)です。まず、歴史事件の名前が複数あるので、そこから。インド大反乱は、昔は「セポイの乱」と呼ばれていました。セポイ(英語:sepoy)とは、東インド会社が雇ったインド人兵士のことです。ただ、「セポイ」は英語なのであまりよろしくない、ということでペルシア語の「シパーヒー(sipahi)」が使われて「シパーヒーの乱」と呼ばれるようになりました。その後、歴史研究者らが「セポイの乱/シパーヒーの乱」の歴史的意義を研究してきた結果、「インド大反乱」と呼んだ方が相応しいという話になって、今は「インド大反乱」が標準的な名前になりました。」
名もなきOL
「名前の変化が頻繁ですね。」
big5
「そうなんですよ。歴史事件に何という名前を付けるか、は地域によって違いますし、時代によっても取られ方が変わります。名称の変化も、歴史の一つですね。さて、もう一方の仏越戦争も、いくつか名前があります。昔は「インドシナ出兵」と呼ばれていました。ただ、この名前だとどの国が出兵したのかわかりませんし、事件の内容を見てみると明らかに「戦争」なので、今はフランス(仏)・ベトナム(越)の戦争と言うことで「仏越戦争」という名前が使われ始めています。ここでは、名前も短い「仏越戦争」で表記しますね。
インド大反乱は1857年〜1858年、仏越戦争は1858〜1862年の事件なので、太平天国の乱とアロー戦争の間に起きた事件になります。」
名もなきOL
「太平天国の乱にアロー戦争、インド大反乱に仏越戦争、か。1850年代、1860年代はアジア方面で戦争が多発していた時期なんですね。」
big5
「そうですね。さて、まずはインド大反乱のあらすじから見ていきましょう。
1857年、インドでちょっとした噂(日本人の感覚だと本当に「些細な話」に感じるような)が広まったことから、戦争が始まりました。東インド会社に雇われているインド人兵士たちの間で
「新式銃の薬包には湿気を防ぐために牛脂と豚脂が塗られている。」
という噂です。薬包には火薬が詰まっていて、銃を撃つ時には薬包を歯で噛みちぎって破り、火薬を銃に流し込むんです。この時、牛脂と豚脂が口に入ってしまうことになるわけですね。これが大問題になりました。」
名もなきOL
「すみません、それがなんで大問題になるんですか?」
big5
「シパーヒーはインド人なのですが、一口にインド人といっても文化も宗教も多様です。宗教で分けると、ざっくり分けたらイスラム教徒とヒンドゥー教徒に分かれます。イスラム教徒にとっては、豚は汚らわしい生き物なので、それを口に入れるなんてとんでもないことです。また、ヒンドゥー教徒にとっては牛は神聖な動物なので、その脂を口に入れるなんてことは、到底許されることではありません。」
名もなきOL
「なるほど、宗教的なタブーに関わる話なんですね。それなら大問題になるのもわかります。」
big5
「これがきっかけとなって、シパーヒーらの不満が爆発。メーラトという地の東インド会社の基地で暴動が始まり、反乱は北インドほぼ全域に広がっていきました。反乱を起こしたのはシパーヒーだけではなく、貧困農民やイギリス支配下に置かれていたインド人王侯・貴族らも反乱に加わりました。こうして、反乱はインド人の幅広い層に広がっていたわけです。「インド大反乱」の由縁ですね。反乱したインド人王侯の中でも有名なのは、ラクシュミー=バーイーです。女性なので「インドのジャンヌ=ダルク」と呼ばれることもありますね。
しかし、イギリス軍が反撃に移ると反乱軍は内部対立を起こしたりしてすぐに瓦解。翌年の1858年には鎮圧されてしまいました。その後、名目上だけ残っていたムガル皇帝は流罪となってムガル帝国は滅亡。また、反乱の責任を取らされる形で東インド会社は解散。代わりに、イギリス政府がインド統治法に基づいて直接統治することになりました。もう少し後の話になりますが、1877年にヴィクトリア女王を女帝とするインド帝国が建国され、インドはイギリスの最大かつ最重要植民地として、今後しばらく統治されることになりました。」
名もなきOL
「太平天国の乱とは違って、短期間で鎮圧されたんですね。やっぱり、当時はイギリスは強かったんですね。」
big5
「次に仏越戦争のあらすじです。仏越戦争のきっかけは、フランス人カトリック宣教師がベトナムで布教中に殺害された、という事件を口実にして、1858年8月にナポレオン3世がベトナムに宣戦布告したことで始まりました。1858年6月にアロー戦争の天津条約が結ばれているので、フランス視点で見ると、アロー戦争が一段落したところでフランス独自の領土拡張戦争を始めた、ということですね。しかし、ベトナムの暑い気候で病気になる兵士も多く、フランスは意外と苦戦。援軍を派遣して、大都市であるサイゴンをようやく攻略することができました。1862年6月に、サイゴン条約を結んで仏越戦争は終結。フランスはベトナムにおけるキリスト教布教の自由を認めさせ、サイゴンを含むコーチシナ東部を獲得。さらに、翌年の1863年には隣国のカンボジアを脅して保護国化しました。フランスによるベトナム植民地化のきっかけとなった戦争が仏越戦争ですね。」
名もなきOL
「列強によるアジア侵略がどんどん激しくなってきましたね。アジアにとっては苦難の時代ですね。」

イベント 世界のイベント
1857年 5月 東インド会社軍基地メーラトでシパーヒーが反乱(インド大反乱の始まり)
1858年 6月 ラクシュミー・バーイー戦死 インド大反乱の終焉
8月 ナポレオン3世がベトナムに宣戦布告(仏越戦争の始まり)
6月 天津条約が結ばれ、アロー戦争は一時中断
1860年 北京条約締結 アロー戦争終結
1862年 6月5日 サイゴン条約締結(仏越戦争 終結)
1863年 フランスがカンボジアを保護国化

インド大反乱

big5
「それでは、インド大反乱の流れから見ていきましょう。
まず、当時のインドの状況を確認します。当時のインドは、一言でいえばイギリスの植民地でした。ムガル帝国は、名目上は残っており皇帝もいましたが、東インド会社が統治している領地と、藩王国と呼ばれる、ある程度の自治がイギリスに認められている小国家に分かれていました。古代ローマの格言にもある「分割して統治せよ」に従い、インドの地元勢力が横の連携を取ることが無いように、それぞれに地元勢力をイギリスが保護する代わりに、地元勢力はイギリスに臣従する、という形で支配されていました。イギリス政府と藩王国の関係は、徳川幕府と諸大名の関係に似ていますね。藩王国という名前も、それが由来です。」
名もなきOL
「インドって広くて人口も多いし、イスラム教、ヒンドゥー教、その他宗教も入り乱れていて、元々一つにまとまりにくい環境ですもんね。イギリスはそれをうまく利用していたわけですね。」
big5
「そのとおりです。ただ、この頃になると、支配者であるイギリス人と、被支配者であるインド人の対立は、様々な理由で深くなっていきました。軍事技術をはじめとした、先進技術に自信を持つイギリス人は、インド人を野蛮でおくれた人種とみなして軽蔑するようになっていたんです。そんな中、あらすじでも述べた弾薬包紙の問題が登場します。東インド会社所属のインド人兵士(シパーヒー 英語名:sepoy)たちに支給される新しい銃・エンフィールド銃の弾薬包み紙に、牛脂と豚脂が塗られている、という噂が広まったんです。イスラム教徒にとって、豚は不浄の生物、ヒンドゥー教徒にとって、牛は神聖な生物。どちらにとっても、口にするなんてことはもってのほかです。」
名もなきOL
「でも長年、インドを統治していたイギリスなのに、そういうことが大問題になるって、気づかなかったんですか?」
big5
「もちろん気づいていました。実際、エンフィールド銃の弾薬包紙に牛脂や豚脂が使われた、という史料は残っていないそうですね。あくまで噂なんです。東インド会社軍内でも、このうわさが広がっていることを問題視しており、牛脂も豚脂も使われていないことを証明したり、弾薬包紙を歯でちぎるのではなく、手でちぎっても良い、という通達を出したりしていました。」
名もなきOL
「なんだ、ちゃんと気づいて対応していたんですね。なのに、大反乱になってしまったということは・・・」
big5
「噂を止めることはできず、シパーヒー達と東インド会社の溝はどんどん深まっていったんです。そして、メーラトという基地で起こった暴動事件をきっかけに、北インドを中心とする広いエリアで反乱が勃発します。
シパーヒーらは、既に名目上の存在であったムガル帝国の皇帝・バハードゥル=シャー2世をデリーで擁立して総大将としてイギリスに対して宣戦布告。これに、イギリスに不満を持っていた藩王国のいくつかが加わって、大規模な反乱になりました。インドのジャンヌ・ダルクという異名を付けられたラクシュミー・バーイーは、1853年にイギリスによって併合されたジャーンシー(Jhansi)藩王国の王妃だった人です。反乱軍には、イギリスに対して不満を持つ民衆も多く参加し、イスラム教徒もヒンドゥー教徒も混ざっていました。多種多様なインド人がここまで結集したのは、史上初かもしれません。そのため、インドではこの事件を「第一次インド独立戦争」と呼んでいるそうですよ。」

Rani of jhansi
ラクシュミー・バーイー 制作者:不明  制作年代:1850年代

名もなきOL
「イギリスという共通の敵に対して、一致団結したわけですね。現代でもそういうのありますよね。共通の敵を作って、それに対して団結するって。」
big5
「最初は勢いがあったインド反乱軍でしたが、時間が経つと態勢を立て直したイギリス軍による反撃が始まります。特に、シパーヒーらが拒否した新式のエンフィールド銃は、旧式の銃と比べて射程距離も精度も段違いに向上しており、洋式訓練を受けているとはいえ、旧式銃を使うシパーヒーらはほとんど勝てませんでした。
まず、反乱勃発から4カ月後の1857年9月には、デリーを包囲されたバハードゥル=シャー2世がイギリス軍に降伏し、翌日の21日には陥落してしまいます。ラクシュミー・バーイーは、その後もイギリス軍を相手に勇敢に戦ったのですが、翌年1858年6月18日に戦死(この年、23歳くらい?)。その他の反乱軍も個別に撃破され、インド大反乱は短期で鎮圧されてしまいました。」
名もなきOL
「大規模な反乱なのに、太平天国の乱と違って、本当にあっさり鎮圧された感じがしますね。やはり、イギリス軍を相手にしたインドと、衰退著しい清を相手にした太平天国では、戦いの厳しさがまったく違うんでしょうね。」
big5
「まさにその通りですね。当時のインドは、イギリス経済を支える大事な植民地です。反乱の長期化は絶対に避けたい話です。すぐに鎮圧することが大事だ、ということはイギリスには言わずもがなの話だったことでしょう。
それでは、戦後の話をしましょう。まず、反乱軍に担ぎ上げられて降伏したバハードゥル=シャー2世はビルマへ流罪となりました。これにより、名目上だけ残っていたムガル帝国は完全に滅びたことになります。また、インドを統治していた東インド会社は、責任を取る形で解散となりました。インドは、イギリス政府が直接統治する形になったんです。インド統治法が制定され、役人の一部はインド人から採用するなどして、懐柔しながら統治しました。
少し後の話になりますが、約20年後の1877年にインド帝国を樹立し、イギリス女王のヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることになりました。」

仏越戦争(インドシナ出兵)

big5
「さて、次は仏越戦争を見ていきましょう。
まずは、当時のベトナムの状況と歴史から確認していきましょうか。当時のベトナムを治めていたのは阮朝(げんちょう)という王朝でした。ベトナム語のカタカナ表記で「グェン朝」と書くこともありますが、ここでは阮朝と記述します。阮朝が成立したのは1804年、フランス人宣教師から支援を受けた阮福永(げんふくえい)がベトナムを統一して開きました。その後、清を宗主国として臣従し、清は「越南」という国号を与えました。阮福永は皇帝に即位し、嘉隆(ジャロン)帝と名乗りました。ベトナムの漢字一字表記は「」ですが、由来はこの「越南」です。」
名もなきOL
「1804年といえば、ナポレオンが皇帝になった年ですね。この頃から、フランスと関係があったんですね。」
big5
「そうなんです。ただ、フランスはその後革命の動乱時代に入りますので、国家としての支援ではなく、一部の有志達による支援でした。しかし、クリミア戦争、アロー戦争を経て、フランスのナポレオン3世はベトナムをフランスの植民地とすることを考えます。アロー戦争が終わった後の1858年8月、ベトナムでフランス人宣教師2名、スペイン人宣教師2名が殺されたことを口実として、フランスとスペインがベトナムに宣戦布告したことで、仏越戦争が始まりました。実は、スペインが参戦しているのですが主役はフランスなので、高校世界史などでは無視されていますね。
フランス・スペイン艦隊は12隻、3000人の兵を載せてベトナムのダナンを占領すると、阮朝は2000の兵を動員して迎撃し、激しい戦いになりました。装備の質は、当然フランス軍が有利なのですが、ベトナムの暑い気候に慣れないフランス人は病気になる者も多く、意外と苦戦することになります。」
名もなきOL
「そういえば、ナポレオンもエジプト遠征で、兵士たちに流行った疫病で苦労していましたね。」
big5
「はい。熱帯のアフリカや東南アジア方面に侵入した外国人は、疫病に苦しめられていますね。しかし、1859年にはベトナム南部の大都市・サイゴンを占領。1860年にアロー戦争が終結すると、中国方面に回していた軍をベトナムに回して戦力増強し、ついにフランスが勝利。1862年6月5日にサイゴン条約が締結されて、仏越戦争は終結しました。主な内容は以下になります。
1.ベトナムはフランス、スペインがカトリックをベトナムで布教することを認める。
2.ダナンとクァンイェンの港を開港し、通商の自由を認める。さらに、カンボジアへの自由航行を認める。
3.コーチシナ東部三省をフランスに割譲する。
4.フランスとスペインに賠償金を支払うこと。」
名もなきOL
「コーチシナ東部三省ってどこのことですか?」
big5
「Wikipediaにちょうどいい地図があったので、ここに載せておきます。」

Indochine francaise de
仏領インドシナ

big5
「この地図は、もうしばらく後に成立するフランス植民地・仏領インドシナの地図です。コーチシナというのは、一番南にレモン色で塗られている部分ですね。COCHICHINAと書いている部分です。1862年のサイゴン条約で、コーチシナの東部がフランスの直轄領となりました。
ベトナム北部はTONKIN、中部はANNAM(安南)と呼ばれる地域です。そして、翌年の1863年にはコーチシナの北、ベトナムの西にあるカンボジアが保護国化されました。SIAMと書かれているのはタイです。東南アジアにも、列強の侵略の魔の手が伸びてきたわけですね。仏越戦争は、フランスの侵略の第一歩となった事件なので、ベトナムを始めとした東南アジア諸国にとっては、とても重要な事件でした。」
名もなきOL
「東南アジアの地図って普段見ないですけど、ベトナムって南北に長いんですね。ラオスとカンボジアを合わせたのよりも長いんですね。」
big5
「そうなんですよ。なので、昔のベトナムは北と南で王朝が別になることが多かったんです。阮朝を開いた阮福永は、南北ベトナムを一つの国にまとめ上げたわけですね。ただその時、時代は既に19世紀。ベトナムの安定は長くは続かず、フランスの侵略に苦しむ歴史が始まるわけですね。」


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参考文献・Web site
・世界の歴史 8 帝国の時代