Last update:2022,OCT,22

世界大戦と平和への試み

ヴェルサイユ体制

あらすじ

big5
「今回のテーマは第一次世界大戦後の秩序を作ったヴェルサイユ体制です。長期に渡る総力戦がようやく終わり、パリで講和会議が開催されました。第一次世界大戦の講和条約ですから、会議に参加する国も多く、様々な意見が飛び交って会議は長期間にわたって行われました。」
名もなきOL
「ナポレオン戦争の後のウィーン会議に似てますね。」
big5
「平和14箇条を唱えるアメリカ大統領・ウィルソン(この年63歳)に対し、ドイツへの厳しい処罰を求めるフランスのクレマンソー(Clemenceau:この年78歳)が意見をぶつけ合ってお互い譲らず、結果としては両者の主張を折半したような内容となりました。1919年6月28日、ヴェルサイユ条約が調印され、ヴェルサイユ条約が定めた国際政治の枠組みをヴェルサイユ体制といいます。
ヴェルサイユ条約の中でも、特に重要なのが国際連盟(League of Nations)ですね。平和を維持するために作られた本格的な国際組織です。」
名もなきOL
「今の国連の前身みたいな組織ですね。だんだん、現代に近づいてきましたね。」
big5
「そのとおりです。このように、世界大戦という悲劇の後、人類は平和を維持する仕組みを構築すべく努力を重ねてきたわけですが、残念なことにこの後第二次世界大戦が勃発してしまいます。そういう意味では、一つの失敗例とも言えるでしょう。今後の世界を生きていく私たちにとっては、これを単なる失敗例として片付けるのではなく、世界平和の実現のために学べることは多いと思います。
と、あらすじはこれくらいにしておいて、本編に入りましょうか。まずは、いつもどおり年表から見ていきましょう。」

年月 国際的なイベント 各地のイベント
1919年1月 パリ講和会議 始まる
1919年3月 インドでローラット法成立 ガンジーの第一次非暴力・不服従運動始まる
1919年6月 ヴェルサイユ条約調印
1919年8月 ドイツでヴァイマル憲法制定
1919年9月 サン=ジェルマン条約 調印
1919年11月 ヌイイ条約 調印
1920年1月 国際連盟 発足
1920年6月 トリアノン条約 調印
1920年8月 セーブル条約 調印
1921年4月 ロンドン会議でドイツの賠償金額決定

ヴェルサイユ体制の成立

ヴェルサイユ条約調印 1919年6月

big5
「1919年1月、パリで第一次世界大戦の講和会議が始まりました。パリ講和会議です。このパリ講和会議から既に重要な点がありました。それは、敗戦国は参加していない、ということです。およそ100年前のウィーン会議の時は、ナポレオン敗北後にヨーロッパ諸国で開かれた国際会議ですが、この時は敗戦国であるフランスもしっかり参加してタレーランが活躍しています。それとは大違いですね。ワシントン会議に参加したのは32か国ですが、このうち主導的な役割を果たしたのはアメリカ(代表:ウィルソン)、イギリス(代表:ロイド・ジョージ)、フランス(代表:クレマンソー)、日本(代表:西園寺公望(さいおんじ きんもち))、イタリア(代表:オルランド)の5か国です。ただ、日本はヨーロッパの問題にはほとんど関与せず、イタリアはイギリスと結んだ秘密条約が守られなかったことで腹を立てたため、アメリカ、イギリス、フランスの三国が中心となって内容を決めました。」
名もなきOL
講和って、普通戦った国同士が話し合いをして折り合いつけるものですよね。第一次世界大戦ではそれが無かったんですね。それでも「講和」条約になるのかしら?」
big5
「OLさんの疑問はその通りだと思います。「話し合い」でない以上、敗戦国から見れば「講和」は「戦勝国からの押し付け」となります。これが、後の第二次世界大戦の原因の一つになります。
こうして、米英仏の3国が決めた敗戦国・ドイツとの「講和」は1919年6月28日にヴェルサイユ宮殿で調印されました。これがヴェルサイユ条約です。ヴェルサイユ条約はたいへん長いので、ここでは重要な部分を見ていきましょう。

1.今後の国際秩序を維持することを目的に国際連盟をする。

ウィルソン大統領が1918年に発表した平和14原則(The foourteen points)のうちの「国際協調」の現れですね。ヴェルサイユ条約によって、国際的な組織である「国際連盟」が発足することになりました。国際的な紛争は、国際連盟で話し合いや会議の場を持って解決する、という平和を保つための国際組織ですね。」
名もなきOL
「これはとてもいい取り組みですよね。ウィルソンさん、ステキです。」

Thomas Woodrow Wilson, Harris & Ewing bw photo portrait, 1919ウィルソン 撮影日:1919年 Author:Harris & Ewing

big5
「しかし、結果的には国際連盟は戦争を止めることはできませんでした。例えば、A国がB国に対して侵略を開始したとします。この時、国際連盟ができることは経済制裁のみです。しかも、経済制裁に踏み切るためには総会で全会一致する必要がある、という条件付きでした。複雑な国際政治の場で、全会一致できる事例などはなかなかありません。全会一致でなければ制裁が発動できないのであれば、結果として何もしないのと同じです。」
名もなきOL
「これまでの歴史を見ても、各国が足並みをそろえて一緒に行動する、なんて無理なのはわかりますが・・・」
big5
「もう一つ、よく指摘されているのはアメリカが加入していなかったことです。提唱者であるウィルソンはもちろん加盟したかったのですが、アメリカ議会ではまだまだモンロー主義以来の「孤立主義」を支持する議員が多く、アメリカの国際連盟加入は議会によって否決されてしまったんです。大国となったアメリカが入っていない国際組織では、十分に力を発揮することはできなかった、ということです。
ヴェルサイユ条約の他の要点も見ていきましょう。
2.アルザス・ロレーヌをフランスへ割譲
3.ポーランド回廊、シュレジエンの一部をポーランドへ割譲
4.ザール地方は国際連盟の管理下に置き、15年後の住民投票で帰属を決める
5.ドイツは海外植民地をすべて放棄し、イギリス、フランス、日本の委任統治領とする
6.ドイツ軍の軍備には制限を付ける
7.ラインラントは非武装地帯とする
8.ドイツは多額の賠償金を支払う(金額は後日決める)
以上が主な内容になります。」
名もなきOL
「かなり厳しい内容ですね。海外植民地はその土地の民族のものになるのではなく、別の国の植民地になったんですね。ドイツは本国の領土も大きく削減されたうえに軍備制限、そして多額の賠償金とは。金額は後で決める、というのも不安ですよね。いったいいくらに設定されるのやら。ウィルソンの平和14箇条にある国際協調とか民族自決とは程遠い内容だと思います。」
big5
「そのとおりですね。この内容を主張したのは主にフランスのクレマンソーだと言われています。フランスは開戦当初からドイツと激しく戦い、フランス領もかなり荒廃しました。ドイツに対する恨みはかなり強かったはずです。フランスにとっては、ドイツを再起不能に追い込むことが、安全保障になると考えたのでしょう。
また、これには経済的な理由もあります。イギリス、フランスともに戦争中はアメリカから多額の借金をして戦費を賄っていました。OLさんもご存じの通り、戦争には莫大なお金がかかります。それを「戦債」と呼ばれる借金で賄っていたわけですね。イギリス、フランスは借金を返すためにドイツから賠償金をふんだくる必要があったんです。」
名もなきOL
「なるほど。お金の問題は大事ですからね。でも、負けたドイツから多額の賠償金なんて取れるんでしょうか?ドイツが再起不能になったら、賠償金も取れなくなってしまうような・・・」
big5
「はい、実際にこれは「賠償問題」として残ってしまいます。さらには、賠償金を始めとした過酷な内容でドイツが恨みを持つようになり、これが第二次世界大戦の原因の一つになっています。
ちなみに、賠償金の金額は1921年4月のロンドン会議で1320億金マルクと決定しました。」
名もなきOL
「「金マルク」って何ですか?」
big5
「賠償金は原則として「金」で払うことが求められています。そのため、「1マルク=金0.358g」としたのを「金マルク」という単位にしたわけですね。ちなみに、いわゆる「金の延べ棒」は、大きいのも小さいのもありますが、一般的なのは1kg(=1000g)なので、1320億金マルクは1kgの金の延べ棒で4725万6000本、という計算になります。」
名もなきOL
「金の延べ棒が4725万6000本って・・・頭がクラクラしてきます。」
big5
「莫大な金額だ、ということがわかりますね。ちなみに、1921年度のドイツ共和国の財政収入は52億マルクなので、約25年分の収入になりますね。この多額の賠償金は連合国で以下のように配分されることとなりました。
フランス:52% イギリス:23% イタリア:10% ベルギー:8% その他:7%」
名もなきOL
「金額が途方もなさ過ぎて実感が湧いてきませんが、途方もない金額だ、ということはわかりました。賠償問題が国際的な問題となるのも納得できますね。」

William Orpen - The Signing of Peace in the Hall of Mirrors, Versaillesヴェルサイユ宮殿「鏡の間」での調印  制作者:William Orpen 制作年:1919年

他の敗戦国との講和条約

big5
「ヴェルサイユ条約が一番重要な講和条約であることは間違いないのですが、ドイツ以外の敗戦国に押し付けられた講和条約についても、主な内容を見ていきましょう。

サン=ジェルマン条約 対オーストリア=ハンガリー二重帝国 1919年9月
1.オーストリア=ハンガリー二重帝国は解体し、ハンガリーは独立
2.帝国領だった地域はそれぞれポーランド、チェコ、セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(セルビアを中心に新たに建国された南スラヴ民族の国)に割譲
3.トリエステ、チロル、イストリアをイタリアへ割譲
4.ドイツとの合併禁止

これまで単に「オーストリア」と書いていましたが、1866年の普墺戦争以降はオーストリア=ハンガリー二重帝国となっていました。これによって、オーストリアは大きな領土と多数の民族を領国に抱えていたのですが、これが完全に解体されました。これによって、オーストリアは主にドイツ人から成る比較的小さな内陸国となり、歴史の表舞台からは退場することになります。中世以来、ヨーロッパの歴史の主軸を担ってきたハプスブルク家も、ついに主役の座から転落することになりました。」
名もなきOL
「そもそも第一次世界大戦の直接の引き金ってオーストリア皇太子がセルビア人に暗殺されたサラエボ事件ですもんね。オーストリアにとっては厳しい結末になりましたね。
内容を見ると、スラヴ人国家が建国されて領土も配分されたので、この部分は「民族自決」の原則が守られているんですね。」
big5
「はい。ただ、セルブ=クロアート=スロヴェーン王国と南スラヴ民族の国を作ったのは、確かに「民族自決」原則にのっとっているかもしれません。ただ、実際にはそれぞれ違う民族であり、一緒くたにまとめるのには無理がありました。この問題は、東欧諸国問題として後の時代に問題や紛争が表面化することになります。」

ヌイイ条約 対ブルガリア 1919年11月
big5
「ブルガリアに押し付けられた条約はヌイイ条約と言います。その主な内容は
1.トラキアをギリシアへ割譲
2.領土の一部をセルブ=クロアート=スロヴェーン王国へ割譲
3.大戦中に獲得していたドブルジアをルーマニアへ返還

二度にわたるバルカン戦争の後、バルカン半島におけるスラヴ人国家として抜きん出ようとしたブルガリアでしたが、第一次世界大戦に敗れたことでその野望は挫かれることになりました。」

トリアノン条約 対ハンガリー 1920年6月
big5
「オーストリア=ハンガリー二重帝国から完全に独立することとなったハンガリーは、しばらくの間革命騒ぎがあったために講和条約の締結が遅れました。主な内容は
1.スロヴァキアをチェコへ割譲
2.クロアチア、ボスニアをセルブ=クロアート=スロヴェーン王国へ割譲
3.トランシルバニアをルーマニアへ割譲

ハンガリーも、その領内に他民族の土地が多かったので、これもそれぞれの民族の国へと再配分されることになりました。」

セーヴル条約 対オスマン帝国 1920年8月
big5
「最後は、オスマン帝国に押し付けられたセーヴル条約です。その主な内容は
1.ボスフォラス、ダーダネルス海峡の非武装化と国際化
2.アルメニアとヒジャーズ王国が独立
3.メソポタミア、パレスチナはイギリスの委任統治領とする
4.シリアをフランスの委任統治領とする

中東方面の領土を根こそぎ失い、もはや「帝国」と名乗るのが不釣り合いになるほどの規模の国となりました。それでも、オスマン帝国のスルタンは自身のスルタンの地位が守られれば良し、としてセーヴル条約を受け入れますが、これに納得できなかった人々は革命を起こすことになります。これについては、また別の機会に説明しましょう。
こうして、ヴェルサイユ体制と呼ばれる新たな秩序の元で各国はそれぞれの歴史を歩んでいくこととなりました。ヴェルサイユ体制は、ウィルソンの平和14箇条の理念を取り込んだものの、かなりアンバランスなものでした。国際協調と言いながら、ドイツをはじめとした敗戦国に対して厳しい措置を取ったり、民族自決と言いながらバルカン方面は大まかなグルーピングに基づいた民族自決だったり、アジア・アフリカ方面はそもそも無視されたりなど、問題も多いことが指摘されています。これらの諸問題の多くは解決されず、第二次世界大戦へと繋がっていくのが悲しいところです。
とはいえ、平和維持のために国際的な組織を作ったという点は十分評価に値します。1919年、ウィルソンはノーベル平和賞を受賞しました。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回は、ヴェルサイユ体制下で進められた国際協調、軍縮などの平和への取り組み内容についてです。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問


平成30年度 世界史B 問題30 選択肢2
・エカチェリーナ2世は十四箇条の平和原則を主張した。〇か×か?
(答)×。上記の通り、平和14箇条はウィルソンが主張しました。

令和2年度追試 世界史B 問題27
・(1900年から1940年にかけてのイギリスとドイツの石炭産出量のグラフを見て)
ドイツの産出量がイギリスの産出量を初めて上回ったのは、ヴェルサイユ条約が結ばれた後である。〇か×か?
(答)×。グラフより、ドイツがイギリスを上回ったのは1917年であることがわかる。ヴェルサイユ条約は1919年であることは基本なので、×であることがわかる。

令和3年度追試 世界史B 問題20 平井さんの発言
・(独仏2国の歴史上の関係について)
第一次世界大戦でこの2国は交戦し、敗れたドイツは、両国国境地帯の二つの地方をフランスに割譲しました。〇か×か?
(答)〇。ヴェルサイユ条約でアルザス・ロレーヌはフランスへ割譲されたので〇です。

令和3年度追試 世界史B 問題31 選択肢2
・イギリスは上院の反対で、国際連盟に参加しませんでした。〇か×か?
(答)×。上院の反対で国際連盟に入れなかったのはイギリスではなくアメリカです。

令和5年度追試 世界史B 問題7 選択肢2
・(ハンガリーの歴史について述べた文として)第一次世界大戦の講和条約として、ヌイイ条約が結ばれた。〇か×か?
(答)×。上記の通り、ハンガリーの講和条約はトリアノン条約であり、ヌイイ条約ではありません。ヌイイ条約はブルガリアに対する講和条約です。


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