Last update:2022,May,28

中世

ヴァイキング

あらすじ

big5
「今回のテーマはみんなご存じ、ヴァイキングです。北欧から現れたヴァイキングは、特徴的な細長い船に乗ってヨーロッパ諸国を襲撃・略奪し、たいへん恐れられていた存在です。」
名もなきOL
「ほんと、恐ろしい人たちですよね。こんな戦闘民族が近くにいたら、迷惑きわまりないですよね。」

Leif Ericson on the shore of Vinland
よく描かれるヴァイキング が、実際には特徴的な角付兜は発見されていないらしい 制作者:Monro S. Orr 出典:1908年に描かれた本より

big5
「そうですね。ただ、現在まで続くヨーロッパの王家や国家の源流はヴァイキングにある、という国が多いんですよ。代表例はイギリス王家とロシアですね。現在まで続くイギリス王家の始祖となったのは、ヴァイキングの子孫であるノルマンディー公ウィリアム1世です。そしてロシアは、ヴァイキングの首長であったリューリク(ルーリック)が建国したノヴゴロド国が元となり、これが後にロシアとなります。
スウェーデン、ノルウェー、デンマークの北欧三国は元々ヴァイキングの地元で、それぞれ王国を建てて現在に至ります。他には、アイスランドはヴァイキングが入植したことで国家となりましたし、近代になってイタリア王国が成立するまで、約700年近く南イタリアを支配していた両シチリア王国は、ヴァイキングの一派であるノルマン人が征服して作った国でした。」
名もなきOL
「けっこうありますね!ヴァイキングに源流がある国って。」
big5
「そうなんです。ヨーロッパの歴史を見るときに、ヴァイキングの歴史は切っても切り馳せない重要トピックなんですね。というわけで、ここではヴァイキングの歴史について、概要を見ていきましょう。まずは、いつもどおり年表から見ていきましょうか。」

年月 ヴァイキングのイベント 世界のイベント
793年 ヴァイキングがイングランドのリンディスファーン修道院を襲撃
799年 ヴァイキングによるフランク王国最初の襲撃
800年 カール大帝(シャルルマーニュ)が西ローマ帝国皇帝に即位
825年 ノルウェーのヴァイキングがアイスランドに到達
835年頃 ヴァイキングがイングランドに住み着くようになる(デーンローの広がり)
839年 アイルランドにダブリンを建設
843年 ヴェルダン条約でフランク王国が三分割される
845年 パリ包囲戦
862年 リューリクがノヴゴロド国建国(ロシアの起源)
871年 アルフレッド大王即位 イングランドのヴァイキングに反撃を開始
882年 オレーグがキエフ公国建国
900年頃 ハーラル1世がノルウェー王国建国
911年 ロロがノルマンディー公に封じられる
955年 レヒフェルトの戦いでオットー1世がマジャール人を撃退
962年 オットー1世がマジャール人撃退の功で神聖ローマ皇帝に即位
966年 デンマークのハーラル青歯王がカトリックの洗礼を受ける
985年 グリーンランドを発見
992年頃 レイヴ・エリクソンが北アメリカ大陸(ヴィンランド)を発見
995年 スウェーデン王国建国
1016年 クヌート大王がイングランド王に即位
1019年 クヌート大王が北海帝国を築く
1066年 ノルマン・コンクエスト へースティングスの戦い ノルマンディー公ウィリアム1世がイングランド王に即位
1130年 ルッジェーロ2世が両シチリア王国を建国

ヴァイキング時代 前半

ヴァイキングの登場

big5
「さて、まずはヴァイキング時代の前半を見ていきましょう。年代でいうと、793年〜911年です。ちなみに、この分け方は私の独自の分け方ですので、一般的なものではないことにご注意ください。ヴァイキング時代の前半を一言でいうと「略奪・侵略・植民」といったところですね。」
名もなきOL
「「略奪・侵略・植民」ですか。前の2つは、ヴァイキングのイメージにピッタリですが、最後の「植民」は意外ですね。」
big5
「ヴァイキングが最初に登場するのは、793年のリンディスファーン修道院の襲撃事件です。リンディスファーンは、現在のイギリスの東海岸にある小さな島に建てられた修道院でした。その後、イングランドの修道院が立て続けにヴァイキングの襲撃を受けています。イングランド人にとって、ヴァイキング襲来という災厄の始まりとなった事件ですね。」
名もなきOL
「なんでヴァイキングは修道院を襲ったんでしょうか?」
big5
「おそらく、金目のものや食料が豊富に蓄えられていたからではないか、と思います。修道院には、キリスト教徒から集めた捧げものやお布施などが集められていましたので。また、修道院はお城や砦と違って防衛用の建物ではないので、襲撃は簡単だったんでしょうね。襲撃が容易で、富が蓄積されている。当時、ヴァイキングにキリスト教は広まっていないので、修道院は格好の襲撃目標だったのでしょう。まぁ、これは推測ですが。
襲撃がうまくいくと、ヴァイキングの行動範囲は徐々に広がっていきました。イングランドのみならず、フランク王国の沿岸部の街も襲撃されるようになります。この頃は、フランク王国はカール大帝(シャルルマーニュ)が治めており全盛期を迎えていたので、ヴァイキングなどは辺境を襲う野蛮な異民族に過ぎませんでしたが、そう遠くないうちに深刻な問題に発展していきます。ヴァイキングの活動範囲は、下の『世界の歴史まっぷ』様作成の地図がわかりやすいですね。」

『世界の歴史まっぷ』様作成 ヴァイキングの侵入地図

イングランド・アイルランド侵略とパリ包囲戦

big5
「ヴァイキングの活動範囲が広くなっていくのに伴い、イングランドとアイルランドへの襲撃は激しさを増していき、イングランドの半分以上はヴァイキングたちが住み着くようになりました。イングランドに住み着いたヴァイキングはデンマーク方面から来たヴァイキングで、彼らはデーン人と呼ばれていたので、デーン人が住み着いた地域はデンマークの習慣と法、つまりデーンローですね、デーンローによって治められる土地となりました。
また、839年にアイルランドを襲撃したヴァイキングらは、その地に街を建設してそのまま住み着きました。これが、現在のアイルランドの首都・ダブリンの起源ですね。」
名もなきOL
「イングランドとアイルランドの2つの島は、特にヴァイキングによる被害が大きかったんですね。やっぱり、フランク王国くらいに国が大きくて強くないと、こういう異民族侵入に対抗するのは難しいんでしょうね。」
big5
「そうですね。ところが、そのフランク王国もカール大帝が死去し、843年のヴェルダン条約で王国が3分割されてしまうと、ヴァイキングの襲撃に対抗しきれなくなっていきます。それを示している事件が、845年のヴァイキングによるパリ包囲戦ですね。」
名もなきOL
「あれ?パリって沿岸部ではないですよね?パリに到達するくらいまで、ヴァイキングの占領地が広がってしまったんですか?」
big5
「実は、ヴァイキングの強さの一つは、ヴァイキング船は川を遡ることも容易にできた、ということにあります。ヴァイキングはセーヌ河を遡ってパリに侵攻したんです。当時、パリの街はシテ島(セーヌ川の中島)にしかなかったそうです。セーヌ川を天然の堀として守りを固めた街でした。この時、パリを治める西フランク王は遠征に出ていて留守でした。パリを守るのは、200人程度しかいなかったそうです。ヴァイキングはパリをたびたび攻撃しましたが攻め落とせません。結果として、ヴァイキングは撤退してパリは陥落を免れましたが、ヴァイキングの脅威をヨーロッパ世界に知らしめる大きな事件でした。」

アイスランド植民

Ingolf by Raadsig
アイスランド植民の指揮を執るヴァイキングのインゴルフ  制作者:Johan Peter Raadsig 制作年代:1850年

名もなきOL
「ヴァイキングってやっぱり怖いですね。恐ろしい戦闘民族、という印象しかありません。でも、そもそもなぜヴァイキングはヨーロッパ各地を襲うようになったんですか?」
big5
「いくつかの説はありますが、ハッキリした理由は見つかっていません。考えられている理由の一つは、ヴァイキングの地元であるスカンジナビア半島で人口が増大したため、食料や交易品を外部に取りに行った、というものです。各地を略奪するのはそのためだった、という説ですね。それを示すかのように、825年にヴァイキングはアイスランドを発見。その後、植民を始めています。アイスランドもスカンジナビア半島と同様に気候は厳しい地域です。氷河と火山の国、という厳しい自然のイメージがありますよね。ですが、山がちで農業には向いていないスカンジナビア半島を住処としていたヴァイキングから見ると、アイスランドの環境はそんなに悪い話ではなかったようです。アイスランドへ移住するヴァイキングは次第に増えていきました。『ヴァイキング 海の王とその神話』によると、歴史家の推定では930年時点でアイスランドの人口は3万人、さらにその1世紀後には6万人に増えた、と考えられているそうです。」
名もなきOL
「だから、アイスランドは他のヨーロッパ諸国とは違う、独特の雰囲気と文化が残っているんですね。私、海外旅行で行ってみたい国の一つがアイスランドなんですよ。ガイドとか見ると、他の国とはいろいろ異なるところが多いってよく書いてあります。その理由は、この時代にヴァイキングが移住して行って、その後ヨーロッパ世界の動乱にはあまり影響されないで今に至るから、なんですね。」

ロシアの起源 ノヴゴロドとキエフ公国

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「それでは、次に東へ向かったヴァイキングの話をしましょう。地図を見てみてください。スカンジナビア半島の東にある国はどこですか?」
名もなきOL
「バルト海を挟んで東にある大きな国はロシアですね。」
big5
「そうですね。スカンジナヴィア半島を拠点とするヴァイキングの中には、東へ向かった人たちもいました。そのうちの一人であるリューリク(ルーリック、とも)は、東方のスラヴ民族に頼まれて王となり、862年にはノヴゴロドという国を建国しました。ノヴゴロド国がロシアの起源となる国です。それから20年後の882年、リューリクの親族であるオレーグはさらに南下し、現在のウクライナの首都であるキエフに拠点を作り、ノヴゴロド国と合流。キエフ公国を建国しました。」
名もなきOL
「東へ向かったヴァイキングは、わりと平和的に広がっていったんですね。」
big5
「そうかもしれません。ただ、このあたりの話は伝説的な要素がすごく強いです。なので、リューリクは実在の人物だったのか、ということや、そもそもリューリクはヴァイキングの一派だったのか、というのも実は確定している事実ではないんですね。ただ、当時の状況を考えると、少なくともヴァイキングがスラヴ民族の土地に進出していったことはほぼ間違いないだろう、と考えられています。ただ、ノヴゴロド国やキエフ公国が建国されたことは事実ですよ。」
名もなきOL
「建国神話、みたいな話なんですね。」

アングロ・サクソンの英雄 アルフレッド大王の反撃

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「さて、話をイングランドに戻します。ヴァイキングがノヴゴロドやキエフ公国を建国している間、イングランドではこれまで蹂躙されていたアングロ・サクソン人の反撃が始まりました。アルフレッド大王(在位871〜899年)の登場です。」
名もなきOL
「アルフレッド大王って、名前は聞いた覚えがあります。ヴァイキングと戦った王様だったんですね。」
big5
「そのとおりです。イングランドではヴァイキングの侵入が激しく、国土の半分近くがヴァイキングに占領されてしまいました。敗戦続きだったアングロ・サクソン人の王国の一つであるウェセックス王国の王として871年に即位したのがアルフレッド大王です。アルフレッド大王はアングロ・サクソン人を指揮してヴァイキングと戦い、いくつかの重要な戦闘で勝利をおさめ、占領されていたロンドンも奪還。ヴァイキングの支配地域はイングランド北東部のデーンローに押し込めました。」
名もなきOL
「すごいですね!あのヴァイキングを撃退して領土を取り返すなんて。だから「大王」と呼ばれているのかしら。」
big5
「それもありますが、戦後の復興に力を入れたことも大きいですね。アルフレッド大王は、ヴァイキングとの戦いで荒廃してしまったイングランドを復興させるべく、ラテン語の文献の翻訳事業や教育にも力を入れました。アルフレッド法典という法律もまとめています。このような統治事績も含めて「大王」と呼ばれているみたいですね。
アルフレッド大王の登場により、イングランドのヴァイキングは勢力が衰えていきました。しかし、これで終わりではありません。もう少し後の時代になると、再びヴァイキングの子孫らがイングランドの支配者となります。」

ノルマンディー公国の誕生

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「さて、ヴァイキング時代前半の最後のイベントとなるのが、ノルマンディー公国の誕生です。まず、ノルマンディーの位置を確認しておきましょう。Wikipediaに載っていたこちらの地図がわかりやすいですね。」

Normandie2014 region locator map
Wilipediaより ノルマンディーの位置

名もなきOL
「ノルマンディーって、たしか第二次世界大戦でも出てきたような・・ノルマンディー上陸作戦って。そのノルマンディーと同じですか?」
big5
「同じです。フランス北部の沿岸部で、向こう岸はイギリスのブリテン島ですね。第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦は、連合国側がドイツに上陸するために、このあたりの沿岸部から陸軍を上陸させて、ドイツ内部に攻め込むという作戦でした。
この辺りがノルマンディーと呼ばれるようになった由来が、今回のノルマンディー公国です。911年、ヴァイキングの首長であったロロが、西フランク王からこの辺り一帯を治める領主として認められました。西フランクでは、ヴァイキングはノルマン人と呼ばれていたため、ロロの領土となった地域はノルマンディーと呼ばれるようになったんです。形式上、ロロは西フランク王の臣下ですが、実質的には独立王国でした。」
名もなきOL
「なんで、西フランクの王様は、ヴァイキングの首領に土地を与えたんですか?」
big5
「それは、毒を以て毒を制すためです。ヴァイキングの襲撃に悩んでいた西フランク王は、「ヴァイキングはヴァイキングに防がせればよい」と考えました。ロロに土地を与える代わりに、西フランク領内へ襲撃してくるヴァイキングを撃退させたわけですね。」
名もなきOL
「なるほど。考えましたね。」
big5
「この策は、ある程度上手くいきました。ただ、その代わりにノルマンディー地方はほぼ独立国となり、本部であるフランス文化圏とは異なる独自の道を歩むことになり、後のノルマン・コンクエストの原因になるわけです
さて、前半はここまで。次からは後半です。」

ヴァイキング時代 後半

グリーンランド、北アメリカの発見

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「イベント盛りだくさんの800年代に比べると、西暦900年代はヴァイキング関連のイベントは少なめです。理由はいろいろ考えられていますが、ヴァイキングの活動が一服し始めたのが900年代、と覚えておけば十分ではないか、と思います。この時代で大きなイベントは、まずグリーンランドの発見、それから北アメリカの発見ですね。」
名もなきOL
「そういえば、新大陸アメリカに初めて到達したヨーロッパ人はコロンブスではない、という話を聞いた覚えがあります。」
big5
「そうですね、「意欲に(1492)燃えるコロンブス」で覚える、1492年にコロンブスが西インド諸島に到達ですね。その後、アメリカ大陸の認知に繋がったことは、もちろん重要歴史イベントなのです。ただ、初めて北アメリカ大陸に到達したと言えるのは、コロンブスではなくヴァイキングのレイヴ・エリクソンだ、という話ですね。
まず、ヴァイキングがグリーンランドを発見したのは985年のことでした。発見したのは「赤毛のエリク」と呼ばれる人物で、アイスランドを追放されてさまよっていたところ、たまたまグリーンランドを発見し、その一部に上陸可能で肥沃に見える土地が広がっていた、ということだそうです。赤毛のエリクは、アイスランドに戻ると「素晴らしい緑の土地がある。グリーンランドだ!」と言って植民希望者を集め、勇んで植民に乗り出していきました。」
名もなきOL
「あらら、でも、グリーンランドって名前に反して、人が住めるような場所じゃないんですよね?」
big5
「そうです。建築資材である木材が極端に少なく、自給自足の生活も満足におくれない、ということでグリーンランド植民は失敗に終わりました。しかし、話はこれで終わりません。赤毛のエリクの息子であるレイヴ・エリクソンは、グリーンランドからさらに西に向けて出発しました。というのも、それよりも前に「西に陸地がある」という話があったんです。それを確かめるための出航でした。この航海でレイヴ・エリクソンはいくつかの大陸を発見。そのうちの一つは「ヴィンランド(葡萄の島)」と名付けられました。これが992年頃のこと、と推定されています。レイヴの発見により、ヴァイキングの一部はヴィンランドへの移住を試みます。十分な資源を持ち込み、先住民とも交易したようなのですが、結局は争いになり定住は失敗しました。やがて、ヴィンランドの事は忘れ去られ、コロンブスによって再発見されるまで、忘れられた存在となったわけですね。」

クヌート大王の北海帝国

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「さて、次の歴史イベントはクヌート大王北海帝国です。世界史の教科書や資料集では

「1016年にクヌート(Cnut 日本語では「カヌート」とも表記される)大王がイングランド王(デーン朝)となり、デンマークやスカンジナヴィアに勢力を広げて「北海帝国」と呼ばれ栄えた。」

Knut der Grose cropped
クヌート(カヌート) 制作者:不明  制作年代:1320年頃

という説明が書いてあることが多いですが、唐突に現れた感がしますよね。これは、詳しく見ていくとけっこう複雑な政治情勢の結果なんです。」
名もなきOL
「どんな政治情勢だったんですか?」
big5
「詳細は割愛して、簡単に説明しますね。詳細を説明し始めると、それだけで1話作れる濃さの無いようなので。
まず、先に説明したように、イングランドに侵入したヴァイキングらは「デーン人」と呼ばれました。アルフレッド大王によって、侵入してきたデーン人の勢力は「デーンロー」に抑え込まれたわけですね。これで、アングロ・サクソン人によるイングランド王国が繁栄をほぼ取り戻し、状況は安定していきました。ところが、アルフレッド大王が死去し、100年弱もの長い時が流れると、状況は再び動き始めます。
アルフレッド大王の曾孫にあたるエゼルレッドがイングランド王になると、デーン人の侵入が再び活発になってきました。そこで、エゼルレッドはノルマンディー公爵の妹と結婚したりして、デーン人を撃退しようとしたのですが、結果は敗北。デーン人に多額の賠償金を支払わせ、それを国内に重税を課して賄うなどしたため、イングランド貴族らの反発を買ってしまいます。その結果、エゼルレッドはノルマンディー公爵を頼って亡命。残されたイングランド貴族らは、デーン人のクヌートをイングランド王として迎えることになったんです。しかし、エゼルレッドは帰還して再びイングランド王を名乗りました。また、デーン人の王を迎えることを快く思わない貴族もいたので、彼らを糾合してクヌートと戦うことになったんです。この戦争はクヌートの勝利に終わり、1016年、クヌートはイングランド王に即位しました。
その後、クヌートはデンマーク王も兼ねることになり、スウェーデンやノルウェー方面にも領土を拡大。そクヌートの国は、北海を内海とするような地域にまたがって広がったので、「北海帝国」と後によばれるようになりました。そしてクヌートは「大王」と呼ばれるようになった、という話ですね。」
名もなきOL
「なるほど。クヌートは広大なエリアを支配する大王になったんですね。」
big5
「はい。しかし、北海帝国の繁栄は長続きしませんでした。クヌートの死後、後継者の座をめぐって戦争が発生。北海帝国が再興されることはありませんでした。」

ノルマン・コンクエスト

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「さて、次はヴァイキング時代後半の一大イベント「ノルマン・コンクエスト」の話です。「ノルマン」とは、ノルマン人、つまりノルマンディー公国の人を指します。「コンクエスト」とは英語「conquest」のカタカナ表記で「征服する」という意味です。つまり「ノルマン・コンクエスト」とは「ノルマン人による征服」という意味です。そして、征服されたのはアングロ・サクソン人のイングランド王国でした。」
名もなきOL
「ノルマン・コンクエストは聞き覚えがあります。世界史の先生が、熱く語っていましたね。」

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ヘースティングスの戦いを描いた『バイユーのタペストリー』

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「現代イギリスに繋がる王国が誕生したという、中世ヨーロッパ史の中でも一大イベントですからね。歴史好きの先生には熱くなる話が盛りだくさんのイベントなんですよ。これも、詳細を語り始めるとそれだけで一話作れる内容なので、ここでは概要を説明しますね。
まず、「ノルマン・コンクエスト」の主役は、ノルマンディー公爵のウィリアムです。後に、イングランド王・ウィリアム1世となるので、ここでは「ウィリアム1世」という記載で統一しますね。一方、征服された側のアングロ・サクソン人のイングランド王はハロルド2世です。
クヌート大王の死後、イングランドは再び後継者争いの舞台になったのですが、結果としてアングロ・サクソン人の王が復活しました。しかし、この王国も再び後継者争いに突入します。1066年1月、ハロルド2世(44歳)はイングランド王に即位しましたが、これに異を唱えたのが「苛烈王」の異名を持つノルウェー王ハーラル3世に支持された弟のトスティと、イングランド王家の親戚であるノルマンディー公のウィリアム1世でした。」
名もなきOL
「イングランド王位をめぐって3人が争ったんですね。これは揉めますね。」
big5
「ノルウェー王ハーラル3世の支持を得たトスティは、ヴァイキングの軍を率いてハロルド2世に挑みます。ヴァイキング全盛期は過ぎたとはいえ、それでもノルウェー軍は精強な軍でした。しかし、ハロルド2世は9月にスタンフォード・ブリッジの戦いでノルウェー軍を撃破。「苛烈王」ハーラル3世は戦死し、トスティは逃亡するという、ハロルド2世の大勝利でした。」
名もなきOL
「アングロ・サクソン人がヴァイキング相手に勝利したんですね。それは盛り上がるわ。」
big5
「しかし、この勝利のすぐ後に、南のノルマンディーからウィリアム1世率いるノルマン人ヴァイキングの軍が海を渡って攻め込んで来ました。休む間もなく、ハロルド2世は軍を南に向けて迎撃に向かいます。そして10月14日、両軍はヘースティングスの戦いで激突。連戦だったにも関わらず、ハロルド2世のアングロ・サクソン軍はノルマンディー軍を追い詰める場面もあったのですが、ハロルド2世は激戦の最中に戦死。戦いはウィリアム1世の勝利に終わりました。
その後、ウィリアム1世はロンドンを占領し、イングランド王に即位します。もちろん、これに従わないアングロ・サクソン貴族は抵抗を続けましたが、最終的にアングロ・サクソン人貴族はほぼ追放され、代わってウィリアム1世が連れてきたノルマン人貴族らがイングランドの支配者となりました。こうして「ノルマン・コンクエスト」が成ったわけですね。」
名もなきOL
「1066年の1年間で、大きな戦いが2回もあって、負けたほうの王は壮絶な戦死を遂げているんですね。確かに、中世らしさを感じさせる歴史事件ですね。世界史の先生が熱く語っていたのもわかる気がします。」

ノルマン人のシチリア征服

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「さて、ヴァイキング時代の最後を飾る歴史イベントは「ノルマン人のシチリア征服」です。ノルマン・コンクエストのシチリア版みたいな印象を受けますが、こちらはノルマン・コンクエストのような短期間に起きた大事件というよりも、約100年かけて少しずつノルマン人が征服を進め、1130年にルッジェーロ2世がローマ教皇からシチリア王位を授けられた(両シチリア王国)、という形で完了します。
教科書や資料集では

「ノルマン人の中にはイタリア南部に傭兵として向かい、そのまま住み着いて両シチリア王国を建国した(1130年 ルッジェーロ2世)」

と短くまとめられていることが多いですが、これだけでは簡単すぎるので、ここではもう少し説明していきますね。」

名もなきOL
「はい、お願いします。」
big5
「話はヴァイキング時代前半の最後のイベントとして紹介した「ノルマンディー公国の誕生」にさかのぼります。ロロが率いたヴァイキングらは、ノルマンディーという新たな土地を本拠としました。元ヴァイキングだった彼らは「ノルマン人」と呼ばれたわけです。ノルマン人の多くは新たな生活に順応していきましたが、中にはヴァイキング気質を色濃く残す人々もいました。そんなヴァイキング気質の強いノルマン人は、傭兵として外国の紛争に乗り出し、武功を挙げて新しい領地を手に入れようとしました。そんな彼らが多く進出していったのは、キリスト教徒とイスラム教徒の対立など、諸勢力が入り乱れて戦争が多発していたイタリア南部だったんです。」
名もなきOL
「名を上げるために傭兵として外国に乗り出していく、っていう発想が凄いですね。私には考えられないな・・。」
big5
「勇猛な元ヴァイキングであるノルマン人傭兵はあちこちの戦場で名を戦功をあげ、南イタリアの諸勢力はノルマン人傭兵を多用するようになりました。需要が増えるのに応じて、供給も増えていきました。つまり、傭兵として南イタリアに向かうノルマン人が増えていったんです。その結果、南イタリアにはノルマン人が集まって住むエリアが出現し、特に出世したノルマン人は土地と爵位を与えられて貴族になる者も登場しました。ノルマン人貴族の小国家が誕生したわけですね。だいたい西暦1000代の中期くらいの頃です。
ノルマン人国家は徐々に領土を拡大していきました。その完成形として1130年に誕生したのがルッジェーロ2世の両シチリア王国、というわけです。」
名もなきOL
「なるほど。ノルマン・コンクエストと比べると、長期間に渡った変化ですね。ちなみに、「両シチリア王国」の「両」ってなんのことですか?」
big5
「ルッジェーロ2世の後、しばらくした後にシチリア島に本拠を置く「シチリア王国」と、ナポリなどのイタリア半島南部に本拠を置く「シチリア王国」が誕生しました。この2国はそれぞれ「我々はシチリア王国」と名乗ったのでシチリア王国が2つ存在したわけですね。「両シチリア王国」は、この2つの王国を指す名称です。
ルッジェーロ2世が1130年にシチリア王に即位した時、公認されていた領土はシチリア島だったので、厳密にいえばこの時は「両シチリア王国」という名称はありませんでした。ただ、その後ルッジェーロ2世はナポリ王も認められたため、ルッジェーロ2世が両シチリア王国を開いた、という記載になることもありますね。この辺は、あまり細かく考え過ぎない方がいいで思います。」





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参考文献・Web site
・『ヴァイキング 海の王とその神話』著者:イヴ・コア 監修者:谷口幸男 訳者:久保実 発行所:創元社
2006年7月10日第1版第6刷 発行