big5
「今回のテーマは1914-1918年にわたって繰り広げられた第一次世界大戦(World War 1st)です。名前だけならほとんどの人が知っていると思いますが、戦争の発端や戦闘の内容になると、あまり良く知られていない部分も多いと思います。」
名もなきOL
「世界大戦っていうと、やっぱり第二次世界大戦の方を連想しちゃいますね。それに、日本は第一次世界大戦にはあまり関与していなかったような・・・」
big5
「確かに第一次世界大戦の主戦場はヨーロッパですので、日本の関与は少ないです。なので、日本での知名度はいまひとつなのも当然でしょう。ですが、私個人の意見としては、第一次世界大戦以後の歴史の方が現代人にとっては重要だと思います。もちろん、古代や中世もおもしろいですし、謎に包まれた部分を探求する楽しさはあるのですが、世界の状況も科学技術も現代とは異なります。共通点も多いですが、異なる点も多いです。そういう意味では、やはり近代以降の歴史の方が重要性は高い、と思います。と、私の私見はこれくらいにしておいて、第一次世界大戦のあらすじから始めましょう。」
名もなきOL
「よろしくお願いします。」
big5
「まず、第一次世界大戦の直接の引き金となったのは1914年6月28日に発生したサラエボ事件です。オーストリア領のボスニア・ヘルツェゴヴィナも首都であるサラエボを訪問していたオーストリア皇帝の帝位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が、セルビア人のプリンツィプにピストルで射殺される、という事件です。怒ったオーストリアは、オーストリアがセルビアに宣戦布告しました。」
名もなきOL
「オーストリアが怒るのも理解できますが、でもこの事件がなんで第一次世界大戦に繋がったんですか?」
big5
「列強の一角を占めるオーストリアが戦うとなると、オーストリアの同盟国であるドイツは当然のようにオーストリア側で参戦します。ドイツのヴィルヘルム2世(1914年で55歳)はロシア、フランスに宣戦布告。さらに、フランスを攻撃するために永世中立国であるベルギーに侵攻したため、イギリスがドイツに宣戦布告。一方、バルカン半島方面では、前年のバルカン戦争で敗れたブルガリアが巻き返しを図ってドイツ・オーストリア側で参戦してセルビアに侵攻し、オスマン帝国はドイツと結んでいたので参戦し・・・といた具合に続々と戦争に参加する国が増え、世界大戦となりました。」
名もなきOL
「同盟が多いと、戦争に巻き込まれる国が多くなるんですね。難しいな。。」
big5
「はい、難しいんですよ。さて、第一次世界大戦には、飛行機、戦車、潜水艦、さらには毒ガスなどの新兵器が投入され、戦争は軍隊同士がぶつかり合いのみならず、国家が戦力を維持するために全力を尽くす総力戦となりました。前線では塹壕に隠れてにらみ合いが続く膠着状態に入りますが、総力戦は参戦国の国内事情にも大きな影を落としはじめました。1917年にドイツの無制限潜水艦作戦に対してアメリカが参戦し、ロシアでロシア革命が勃発すると流れが変わります。1918年にはドイツで一部の軍人による反乱が起こり、ヴィルヘルム2世は亡命。1918年11月11日に停戦協定が結ばれ、4年と3カ月に渡った第一次世界大戦は幕を閉じました。
と、あらすじはこれくらいにしておいて、本編に入りましょうか。まずは、いつもどおり年表から見ていきましょう。」
年月 | ヨーロッパのイベント | 他地域のイベント |
1914年6月 | サラエボ事件 | |
1914年7月 | オーストリアがセルビアに宣戦布告 | |
1914年8月 | ドイツがロシア、フランスに宣戦布告 ベルギーに侵攻 タンネンベルクの戦いでドイツのヒンデンブルク将軍がロシア軍に勝利 イギリス・日本がドイツに宣戦布告 |
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1914年9月 | マルヌの戦いでフランスのジョッフルがドイツの進軍を阻止 | |
1914年10月 | オスマン帝国がドイツ側で参戦 | 日本がドイツ領南洋諸島を占領 |
1914年11月 | 日本がドイツ領青島、膠州湾を占領 | |
1915年1月 | 日本が袁世凱に21箇条の要求を突きつける | |
1915年4月 | イーブルの戦いでドイツ軍が初めて毒ガスを使用 ロンドン秘密条約 締結 |
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1915年5月 | イタリアが連合国側で参戦 | |
1915年10月 | ブルガリアが同盟国側で参戦 | |
1916年2月 | ヴェルダンの戦いが始まる | |
1916年5月 | ユトランド沖海戦 始まる | |
1916年6月 | ソンムの戦い 始まる | |
1917年2月 | ドイツが無制限潜水艦作戦を宣言 | |
1917年3月 | ロシア革命三月革命勃発 | |
1917年4月 | アメリカが連合国側で参戦 | |
1917年11月 | ロシア革命十一月革命勃発 | |
1918年1月 | アメリカのウィルソン大統領が14箇条の平和原則を発表 | |
1918年3月 | ブレスト=リトフスク条約でロシアがドイツと単独講和 | |
1918年11月 | キール軍港水兵暴動発生 ドイツが連合国と停戦条約に合意 |
big5
「さて、まずは第一次世界大戦の直接の引き金となったサラエボ事件から見ていきましょう。サラエボ事件が起きたのは1914年の6月28日です。ちなみに、中世の1389年6月28日は、セルビア王国はオスマン帝国に滅ぼされた日でもあるそうです。そのため、6月28日はセルビア滅亡記念日であり、何かが起きる日でもあった、と書いている本もありますね。
さて、当時のボスニアはオーストリア領で州都はサラエボでした。オーストリア帝位継承者であるフランツ・フェルディナント大公(51歳)とその妻のゾフィーは、視察と軍事演習を見学するためにサラエボを訪れていたのですが、プリンツィプというセルビア人の青年にピストルで射殺されてしまいまいした。」
big5
「犯人のプリンツィプはセルビアの独立を目指す「黒手組」という組織の一員でした。ボスニアはセルビア人が多く住んでいる地域だったので、セルビアから見ればオーストリアから取り返したい地域なんですね。ただ「黒手組」はセルビア人グループの中でも急進的でテロも辞さない組織でした。」
名もなきOL
「ロシアのアレクサンドル2世もテロで殺されましたよね。テロは怖いですけど、警備は何をやっていたんでしょうか?」
big5
「警備はサラエボ警察に委ねられており、人員としては60人くらいだったそうです。上記の通り、サラエボはセルビア人の街であり、オーストリアは外国人支配者です。警備にオーストリア軍を使う案もあったのですが、サラエボの住民感情を害することを恐れて、サラエボ警察のみで対応することになったそうです。
ちなみに、殺された大公夫妻は、プリンツィプに射殺される前に、実は爆弾で殺されそうになりました。爆弾による攻撃は外れ、大公夫妻は無事だったのですが、周囲の群衆や警備にあたっていた警察官に負傷者が出ました。なお、爆弾を投げたのはチャブリノヴィッチという人物で、プリンツィプと同じ黒手組のメンバーです。チャブリノヴィッチはその場で自決用の青酸カリを飲んで、近くを流れる川に飛び込みましたが、青酸カリが劣化していたために死にきれず、また川も浅かったので溺れることもできず、逮捕されました。このような事件があったものの、大公夫妻は予定通りにサラエボ市庁舎に入り、市長から歓迎のスピーチ、それに対する大公のスピーチと進みました。市庁舎でのイベントが終わってから、大公の従者たちはどうすべきか議論しました。今からでもオーストリア軍を呼んで、警備が万全になるまで待つべき、という案もありましたが、総督のポティオレクは「演習中の兵は礼装をしていないので、このような場には不適」として却下しています。結果、大公夫妻はその後の予定をキャンセルし、爆弾で負傷した関係者を見舞うために病院を訪問することとしました。大公夫妻一行は5台の車に分乗し、大公夫妻と総督ポティオレクは真ん中の3台目に乗り、前後を2台の警護車が守る形を取りました。病院へ向かう途中で、先行する2台の警護車が右折したのですが、道を間違えたそうです。総督ポティオレクは道を修正させようとして車を停車させたところ、すぐ近くに待ち構えていたプリンツィプがいたんです。プリンツィプは大公夫妻が乗る車の踏み板に上がって至近距離から2発撃ちました。1発目は大公の頸静脈を傷つけ、2発目はゾフィーの腹部に致命傷を与えました。撃ったプリンツィプは、その場で自決しようとしましたが、群衆に取り押さえられて逮捕されます。大公夫妻は手当てのために総督公邸に急行しましたが、ゾフィーは公邸に到着した時点で死亡が確認され、フランツ・フェルディナント大公もその10分後に死亡が確認されました。」
名もなきOL
「黒手組は、複数の暗殺者を配置して待ち構えていたわけですね。それに対して、オーストリア側の警備は不十分であったことが、暗殺の成功に繋がってしまったんですね。」
big5
「サラエボ事件の結果、オーストリアはセルビアに対して様々な要求を突きつけ「全ての要求が認められなければ、戦争も辞さない」という最後通牒を突きつけました。セルビアは、部分的には要求を認めるものの、すべてはのめないという回答だったため、7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告しました。」
名もなきOL
「聞けば聞くほど、この戦争はあくまでオーストリア vs セルビアなんじゃないか、と思いますね。どうして世界大戦にまで広がったしまったんでしょうか?」
big5
「ドイツとロシアが参戦することになったことがきっかけ、ですね。セルビアはスラヴ民族なので、ロシアはセルビアを支援しようとします。7月31日に動員令を出し、オーストリアに対する戦争の準備を始めました。しかし、オーストリアもロシアの参戦は十分見越しています。そこで、同盟していたドイツと事前に協議しておき、戦争になった際にはドイツが参戦することが確認されていました。つまり、バルカン半島におけるオーストリア&ドイツ(パン=ゲルマン主義) vs セルビア&ロシア(パン=スラヴ主義)、という構図が既に出来上がっていたわけですね。」
big5
「8月1日、ドイツは総動員令を出してロシアに宣戦布告しました。また、8月3日には露仏同盟でロシアと同盟していたフランスにも宣戦布告します。そして、8月4日、ドイツは永世中立国であるベルギーに侵攻しました。」
名もなきOL
「え!?なんで突然中立国に攻め込んだんですか?」
big5
「ドイツ軍がフランスに攻め込んで素早く勝利するため、です。当時、ドイツではロシア&フランスと戦争になった場合、どう対処すべきかという作戦が既に考えられていました。そのうちの一つである「シュリーフェン・プラン」は、フランスを迅速に攻撃してパリを占領し、開戦早々にフランスを倒す。その後、ロシアとの戦いに注力する、という作戦です。しかし、フランスもドイツへの備えはしていますので、ドイツーフランス間の国境はしっかり守っています。そこで、ベルギー経由でフランスに攻め込めば、守りが薄い方面を突破できる、というわけですね。ベルギーが中立であるにも関わらず、攻め込まれたのはそのためです。しかし、ドイツのベルギー侵攻は、イギリスの宣戦布告を招いてしまいました。イギリスは、ヴィルヘルム2世の強気な世界政策を警戒しており、万が一にもフランスがドイツに敗北した場合、イギリスの地位はドイツの脅威にさらされることになります。」
名もなきOL
「これで、戦争は「ドイツ&オーストリア vs セルビア&ロシア&フランス&イギリス」となったわけですね。どんどん参戦国が増えてきましたね。そして、見たかんじではドイツ&オーストリアが東西に敵を抱えて不利なように見えますね。」
big5
「そうですね。しかし、序盤はドイツ軍が優勢に戦争を進めました。1914年8月17日〜9月2日にかけて行われたタンネンベルクの戦いで、ドイツ軍がロシア軍に大勝利を収めました。タンネンベルクの戦いでは、ドイツ軍はロシア軍よりも少数で戦力不足だったにも関わらず、ドイツの勝利に終わりました。それもあってか、ドイツ軍を率いていたヒンデンブルク(この年67歳)は英雄として賞賛され、後にドイツの大統領に就任することになります。」
big5
「さて、次に西部(vs フランス・イギリス)戦線です。シュリーフェン・プランの第一目標は、フランスの早期撃破なので、西部戦線の状況が一番の肝になります。ベルギー経由の侵攻により、ドイツ軍はフランス北東部への侵入に成功しました。しかし、1914年9月6日から12日にかけて繰り広げられたマルヌの戦いで敗北してしまい、シュリーフェン・プランはここで頓挫することになります。」
名もなきOL
「東も西も両方で勝利、とはならなかったんですね。やはり、イギリスが参戦してきたことが原因だったのでしょうか?」
big5
「それも原因の一つです。他には、ドイツ軍の参謀総長であるモルトケが、タンネンベルクの戦いを支援するために、西部戦線の一部の軍を東に移動させて戦力を減らした、というのもあります。なお、東部戦線に回されたこの軍は、タンネンベルクの戦いに間に合わなかったため、結果としては「遊軍」となってしまい役に立てませんでした。
結果として、「フランスを速攻で倒す」というシュリーフェン・プランは挫折。イギリス海峡からスイス国境地帯までという、長い長い塹壕に隠れながら終戦まで約4年もの間、攻防戦が繰り広げられました。軍事用語で塹壕戦と呼ばます。この塹壕戦の過程で、1915年4月のイープルの戦いで、ドイツ軍によって毒ガスが使われています。
後に「西部戦線異状なし」という小説さらには映画が作られましたが、その元ネタは第一次世界大戦における西部の塹壕戦なんです。」
名もなきOL
「第一次世界大戦は、これまでの戦争とは一味違う戦争だったんですね。だんだん、現代の戦争みたいになってきまてますね。」
big5
「まさにそのとおりです。これまでの戦争も十分ヒドイものですが、現代の戦争で使う武器の破壊力や攻撃範囲は著しく大きくなり、戦争の被害者の数が倍増するようになっていったんです。」
big5
「ここからは、主戦場となったヨーロッパ方面における戦況を見ていきましょう。まず最初は1916年2月から始まったヴェルダンの戦いです。ヴェルダンは、フランスのロレーヌ地方にある地名で、世界史ではフランク王国の分割相続を決めたヴェルダン条約の舞台にもなっています。それから約1,000年後、第一世界大戦の主要戦場の一つとなりました。」
名もなきOL
「ヴェルダンの戦いはどのような戦いだったんですか?」
big5
「約10か月にわたってドイツとフランスが激しい攻防戦を繰り広げ、両軍合わせて約70万人もの死傷者(うち、死者は約26万人)を出した凄惨な戦いでした。
膠着した西部戦線の状況を打開するため、ドイツ軍はヴェルダン要塞周辺を集中的に攻撃し、フランス軍に大損害を与えて降伏させる、という作戦で始まりました。当初はドイツ軍が優勢だったものの、フランス軍はペタン将軍が指揮を執って防戦。次第にフランスが巻き返し、最終的にドイツ軍はヴェルダン攻略を諦めました。勝敗については、フランスがヴェルダン周辺を守り切ったので、フランスの勝利といえますが、死傷者の数はドイツ軍もフランス軍もほぼ同じくらいで、引き分けと言ってもいいような結果です。」
名もなきOL
「死傷者の数の桁が違いますよね。10か月間の戦いとはいえ、両軍合わせて70万人もの死傷者が出るなんて、これまでの戦争とは本当に違いますね。。怖い。。」
big5
「そうですね。この頃は、まだ生身の人間が機関銃や砲で守られている陣地に突撃していく、という戦術が取られていましたが、歩兵が突撃しても機関銃の掃射と砲撃で敵陣地にたどり着く前に死んでしまう兵士があまりにも多くなっていました。ヴェルダンの戦いは、現代戦の恐ろしさを伝える戦いの一つですね。」
big5
「次は海戦です。1916年5月31日〜翌日の6月1日にイギリス海軍とドイツ海軍が戦ったユトランド沖海戦です。ユトランドとはユトランド半島を指しており、ユトランド半島はデンマーク領の半島ですね。
当時、海軍力が強かったのはイギリスでした。」
名もなきOL
「ナポレオンの時も、イギリスは海軍の活躍でフランス軍の上陸を阻んでましたよね。ヨーロッパで海軍と言えばやっぱりイギリスなんですね。」
big5
「ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、海軍力でもイギリスに対抗すべく、ドイツ艦隊の整備と拡大に資金を投入していました。ユトランド沖海戦は海軍の古豪・イギリスと野心溢れる新興ドイツの戦い、ともいえました。ユトランド沖海戦では、イギリス軍は151隻、ドイツ軍は99隻と、数の上ではイギリス軍が優勢でしたが、ドイツ軍も奮戦し、引き分けに終わりました。ちなみに、イギリス・ドイツともに「自軍が勝った」と発表しています。損害を見ると、イギリス軍の損害がドイツ軍の約2倍もありますので、私はドイツの判定勝利なんじゃないか、と思いますね。
ユトランド沖海戦で引き分けた結果、同盟陣営も連合陣営も制海権を握ることができず、陸戦と同様に戦況は均衡します。これを打開するためにドイツ海軍は新兵器を投入します。潜水艦です。ドイツ海軍は潜水艦による通商破壊を進め、連合陣営の物資と精神をチクチクと攻撃していく戦法を取りました。当初はイギリスをはじめとする連合陣営の船のみを攻撃していましたが、翌年の1917年2月からは中立国の船であっても攻撃するという無制限潜水艦作戦が始まることになります。」
big5
「さて、第一次世界大戦の前編の最後はソンムの戦いです。ソンムの戦いは、第一次世界大戦中で最大の会戦と言われています。名前にもなっている「ソンム」とは、フランス北部のピカルディ地方にある地名です。ソンム周辺も、塹壕が張り巡らされて戦線は膠着状態になっていました。ヴェルダンの戦いが行われている中、イギリス軍が主力となってドイツ軍陣地へ攻撃を開始したことで、ソンムの戦いが始まりました。」
big5
「ソンムの戦いで、イギリス軍は新兵器である戦車を投入。敵軍の塹壕を突破するために、生身の人間ではなく戦車を使う、という作戦ですね。ただ、当時の戦車は皆さんが想像するような現代の戦車よりもかなり小さく、ソンムの戦いに投入された戦車も数十両に過ぎないうえに、まともに動いてそれなりに活躍したのは5両だけ、という結果でした。しかし、その後の戦いで戦車が大量に投入されて戦果を挙げるようになったため、新たな陸戦兵器として重要な役割を担うようになります。」
名もなきOL
「ソンムの戦いはどうなったんですか?」
big5
「これも引き分けです。戦線は連合陣営側が約10km先に進めてドイツ軍が後退したので、連合陣営の判定勝ちと言えると思いますが、戦傷者は両軍ともに40万人を超えており、痛み分けという結果になっています。
なお、余談になりますが、後のナチス・ドイツの指導者となるヒトラーは、第一次世界大戦にバイエルン王国義勇兵として従軍しており、伝令兵として参戦していました。ソンムの戦いでは、足の付け根を撃たれて負傷していますが、その後間もなく復帰しています。」
名もなきOL
「1916年は、ヴェルダン、ユトランド沖、そしてソンムと大きな戦いが行われましたが、どれも引き分けで戦線は膠着したままだったんですね。」
big5
「はい、そのとおりです。そして、戦場では史上最大規模の戦死者が続出するようになりました。開戦から2年半がが経過し、あまりの死傷者の多さに両陣営の兵士の士気も低下。戦場にはならなかった後方にも、その影響はじわりじわりと生じ始め、翌年の1917年、ついにロシアで革命が勃発します。そしてアメリカが参戦したことにより、第一次世界大戦はようやく終結することになるわけです。
と、言ったところで今回はここまで。
ここまでご清聴ありがとうございました。次回は第一次世界大戦の後編です。」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」
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