big5
「古代の日本の歴史は不明点が多いです。その理由の一つが「記録が無いこと」です。なので、遺跡や発掘品などから類推していくしかないのですが、紀元後頃になると、中国の歴史書に日本についての記録が現れ始めます。後漢の歴史家・班固が著した漢書(かんじょ)の「地理誌」によると、紀元前1世紀頃には100余国が分立しており、定期的に後漢の東方支配の拠点である楽浪郡に貢物を持ってきていた、と書いてあります。」
名もなきOL
「ヨーロッパ方面ではローマが地中海の覇者になっていたころですね。この頃には、日本もある程度のまとまりを持った国ができていたんですね。」
big5
「また、時代がやや下って5世紀に書かれた「後漢書(ごかんじょ)」の東夷伝によると
・57年、倭の奴国(なのくに)の使いが洛陽に来て、光武帝から印綬を授けられた。
・107年、倭の国王らが皇帝に生口(せいこう 奴隷のこと)160人を献上した。
とのことです。」
名もなきOL
「光武帝から授けられた印綬、というのが、有名な「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印だ、と考えられているんですよね。」
国宝:漢委奴国王印 所蔵:福岡市博物館
big5
「その通りです。1784年(江戸時代)、福岡県の志賀島で偶然発見されました。「金印」の名前のとおり、金95.1%のいわゆる純金製です。現代になって、この金印が「後漢書」に記述された光武帝の印鑑そのものではないか、と考えられています。「後漢書」の記載の正しさを示す物的証拠、というわけですね。
その後、中国が三国志の時代に突入し戦乱の時代を迎えると共に、日本でも小国家同士の抗争が激しくなっていった、と書かれています。残念ながら、歴史書からわかるのはこのような断片的な情報のみで、しかもその後日本に関する記録はしばらく登場しません。日本が歴史書に再登場するのは、約100年後になります。」
年月 | 日本のイベント | 世界のイベント |
紀元前1世紀 | 100余りの国が分立 | |
54年 | ネロがローマ皇帝に即位 | |
57年 | 倭の奴の国王が後漢の光武帝に使いを送り、印綬を授けられる | |
106年 | ローマ皇帝トラヤヌスがダキアを征服 | |
107年 | 倭の国王らが奴隷160人を後漢に献上 | |
239年 | 邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に使いを送り「親魏倭王」の称号を与えられる | |
260年 | エデッサの戦いでローマ皇帝ヴァレリアヌスが敗北して捕らえられる | |
265年 | 司馬炎がクーデターで魏を乗っ取り。晋を建国。 | |
266年 | 邪馬台国の女王・壱与が晋に使いを送る | |
big5
「今回のテーマは邪馬台国(やまたいこく)です。最近では「邪馬台」の呼び方は本当は「やまと」ではないか?という説もあるのですが、ここでは「邪馬台国」と記載することにします。邪馬台国といえば、女王・卑弥呼(ひみこ or ひめこ)が有名ですよね。」
名もなきOL
「小学校の歴史でも、最初に出てくる登場人物ですもんね。女王様ですし、なんかロマンがありますよね。」
big5
「ただ残念なことに、日本の歴史書である『古事記』や『日本書紀』には記載が一切ありません。邪馬台国と卑弥呼について書いているのは、中国の歴史書です。当時、中国は有名な「三国志」の時代で、北部は魏(ぎ)という国が治めていました。その魏の史書である「魏志(ぎし)」の「倭人伝(わじんでん)」に邪馬台国と女王・卑弥呼の記載があります。魏志倭人伝には以下のように記載されています。
・倭の国(日本のこと)は、2世紀後半に大乱が起こったが、3世紀になって卑弥呼が倭の国の女王となって平穏を取り戻した。
・卑弥呼は邪馬台国の女王で、30余りの国を従えていた。
・卑弥呼は鬼道(呪術)が得意だった。夫はおらず、弟が卑弥呼をサポートしていた。
・倭の国には大人(だいじん)と下戸(げこ)という身分差があり、国の制度は整っていた。
・239年、卑弥呼は使者を魏に送って「親魏倭王」の称号と金印・銅鏡などを与えられた。
・卑弥呼が死んだ後、墓が作られ百余人が殉死した。
・卑弥呼の死後、男の王が即位したが内乱が発生。卑弥呼の一族の女性である壱与(いよ)が女王となって、平穏を取り戻した。
・壱与も魏と通交を続けていたが、266年、晋(265年に魏の家臣が謀反して乗っ取って建国した国)に使者を送った、という記録を最後に、邪馬台国は消息不明となった。
となっています。その後、中国も五胡十六国時代と呼ばれる内乱の時代に突入したこともあり、約150年の間、中国の歴史書に倭の国の記述は出てきません。」
名もなきOL
「突然、記録から消えてしまうところもミステリアスですね。いったい何があったんでしょうか。気になります。」
big5
「魏志倭人伝には、倭の国の他の事もいろいろ書いています。住人は全員入れ墨をしているとか、真偽が怪しい記述もありますが、当時の様子を伝える貴重な史料です。ただ、不明な点も多いです。その代表例が「邪馬台国があった場所」です。」
big5
「ということで、次のお題はよく話題になる「邪馬台国の位置」について。まず、学校で使われている歴史教科書の記述を見てみましょう。
『邪馬台国が存在した位置については、畿内説と九州説が長らく対立している。畿内説をとれば、既に3世紀には、畿内から九州北部までを統一した連合政権が存在したことになり、一方、九州説をとれば、九州北部に小規模な連合政権が存在したにすぎず、国土の統一は3世紀後半以後のことになる。』
さらに、注として魏志倭人伝の記述を基にした邪馬台国までの道のりを表にしています。これを要約すると、以下のようになります。
帯方郡⇒邪馬台国 1万2000余里
帯方郡⇒水行7000余里:狗邪韓国⇒一海を渡る1000余里⇒対馬国⇒南一海を渡る1000余里⇒一支国(おそらく壱岐)⇒一海を渡る1000余里⇒末盧国(佐賀県松浦)⇒東南陸行500里:伊都国
となっています。ここまでは特に異論もない部分ですね。」
名もなきOL
「伊都国については、福岡県の怡土(いと)のあたりなんじゃないか、と考えられていますが、これも推定なんですね。この先は、どのように意見が分かれているんですか?」
big5
「まず、魏志倭人伝の読み方で国の位置関係が異なってくる、という問題があります。まず、従来から考えられていた読み方ですと、以下のようになります。
伊都国⇒東南100里:奴国⇒東100里:不弥国⇒南水行20日:投馬国⇒南水行10日 陸行1月:邪馬台国
これは原文に書かれている順番に素直に従って解釈した場合の位置関係ですね。この通りに行ったとすると、邪馬台国は九州の南の太平洋のあたりにある、ということになってしまいます。そのため、江戸時代以来、多くの学者がこの部分の解釈を巡って議論し、大きく分けて九州説と畿内説が登場しました。九州説の考え方は
魏志倭人伝の日数は水増しされている
と考えます。水行(おそらく船)で10日とか20日とかそんなにかかるわけがなく、陸行で1カ月というのも長過ぎる、というわけですね。」
名もなきOL
「なるほど。でも日数が水増しされてるとなると、奴国とか不弥国、投馬国、そして邪馬台国はどこにあることになるんでしょうか?」
big5
「奴国は福岡県の福岡市のあたり、不弥国は福岡県の神湊(こうのみなと)、投馬国は福岡県の三潴(みずま)とか大分県の日田などが候補として挙げられています。そして肝心の邪馬台国の場所は様々です。有名どころでは、福岡県糸島市の周辺一帯とか、筑後平野にあったとか、福岡県太宰府にあったとか、福岡県の山門郡だったとか、いや熊本県山門郡のあたりだとか、さらには大分県の宇佐、宮崎県の西都原古墳群のあたりじゃないか、と様々です。」
名もなきOL
「日数が間違いだ、となると正しい日数は想像するしかないので、いろいろな候補地が出てくるわけですね。」
big5
「その中で、放射形九州説というのがあります。これは榎一雄(えのき かずお)氏が唱えたもので、伊都国以降の行程の表現方法が変化している、つまり文型が変化していることに注目し、伊都国以降の諸国は、すべて伊都国からの道のりを示しているのではないか、という考え方です。これによると、水行20日の投馬国の候補地として薩摩や宮崎県の妻などが挙げられています。邪馬台国は水行なら10日、陸行なら1カ月ということで熊本県のあたり、と考えることができる、というわけですね。」
名もなきOL
「原文は昔の中国語なので、それをどう読むかでまったく変わってくるんですね。畿内説の方はどうですか?」
big5
「畿内説の考え方は
当時、中国では倭は南北に長い島国だと考えていたので、「東へ行く」を「南へ行く」と間違えてしまった。
と考えます。なので東へ行くとなると、水行20日の投馬国は出雲や但馬、あるいは瀬戸内海側の広島県鞆などが候補地となり、そこからさらに東に水行10日、陸行1月で畿内に至る、ということですね。畿内のどこかについては、奈良県の纏向遺跡(まきむくいせき)が候補地として有名ですね。」
名もなきOL
「畿内に邪馬台国があったとすれば、その後の大和朝廷に繋がる流れも出てきますし、古墳も豊富にあるので可能性はありますよね。でも、東へ行ったのに南へ行った、と間違えたというのは、結構無理な気がします。太陽を見ていれば、東と南を間違える可能性はかなり低いんじゃないかしら。」
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