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18世紀欧州戦乱

大同盟戦争(War of Grand Alliance)

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「さて、名誉革命が起きたことで、次の大イベント・大同盟戦争の下地が完成しました。「大同盟戦争」には別名がけっこうあります。同盟の名前をとって「アウグスブルク同盟戦争」、直接の引き金になった理由に由来して「プファルツ継承戦争」、戦争期間をとって「九年戦争」と呼んだりします。ヨーロッパ史ではかなり重要なイベントなのですが、日本の歴史の授業では、ルイ14世の侵略戦争の一つとして出てくる、くらいの扱いになっていることが多いですね。大同盟戦争の特徴は以下のようになります。
(1) 対立の主軸は ルイ14世 vs ウィリアム3世(ウィレム3世)
(2) 名誉革命で追放されたジェームズ2世のリターンマッチ(ウィリアマイト戦争)
(3) 戦場はヨーロッパに限定されず、北米(ウィリアム王戦争)それからインドでも英仏植民地同士が戦闘した
特に、(3)の部分は、その後長期間にわたって行われた、北米、インドにおける「イギリスvsフランス植民地争奪戦」の最初の戦争になったので、「第二次英仏百年戦争」の始まりの戦争、としてみなされることもあります。
さて、まずは名誉革命でイギリス王となったウィリアム3世について見ていきましょうか。」

ウィリアム3世(William V)の生い立ち

King William III from NPG.jpg
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↑ウィリアム3世肖像画

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「ウィリアム3世が生まれたのは1650年11月24日。父は、オランダ総督であるウィレム2世。母はメアリー・ヘンリエッタ・ステュアート(Mary Henrietta Stuart)です。父のウィレム2世は、オランダ総督を世襲するオランダの名門貴族・オラニエ家の棟梁、母のメアリー・ヘンリエッタ・ステュアートはイギリス王チャールズ1世の娘で、チャールズ2世は兄、そして名誉革命で追放されたジェームズ2世は弟になります。つまり、ウィリアム3世はオランダ人ではありますが、母はイギリス王の娘であるので、イギリス王ステュアート家の血も引いているわけですね。ジェームズ2世から見ると、ウィリアム3世はお姉ちゃんの息子。つまり甥っ子になります。しかも、自分の娘・メアリーを嫁がせたので、娘婿でもあるわけですね。
名もなきOL
「うゎ、これってかなり近親婚ですよね。。大丈夫なのかな・・・」
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「当時のヨーロッパの王侯貴族は、政略結婚優先だったので、このような近親婚がありふれていました。
さて、このようにウィリアム3世は元々オランダ人。名誉革命でイギリス王に即位してウィリアム3世となりましたが、元々はオランダ総督ウィレム3世(Willem V)として生まれたわけですね。ただ、名前が複数あると混乱のタネなので、ここでは「ウィリアム3世」で通します。ウィリアム3世の人生は生まれた時からたいへんでした。ます、父のウィレム2世は、ウィリアム3世が生まれる8日前に、当時の死病であった天然痘にかかって死亡しました。親戚であるブランデンブルク選帝侯が後見人になったりしたのですが、オランダの共和派は、オラニエ家が総督位を世襲することに反対しており、ウィリアム3世が幼少であることを理由に総督就任を拒否されました。10年後の1660年には母も天然痘で死去し、ウィリアム3世は天涯孤独の身となります。」
名もなきOL
「子供のうちに両親を亡くしてしまうなんて、かわいそう・・。」
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「ウィリアム3世が成人した後も、共和派は何かと理由をつけて総督就任を妨げていました。そんな中、1672年、フランスの太陽王ルイ14世がイギリスのチャールズ2世を味方にしてオランダに攻め込みます。オランダ侵略戦争です。強大なフランスに対して、オランダは領土の多くを占領され、国家存亡の危機に立たされます。そんな中、民衆は共和派による統治よりも、ウィリアム3世が総督に就任してオランダをリードすることを望みました。」
名もなきOL
「どうしてオランダの人たちはウィリアム3世を推したんですか?」
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「ウィリアム3世の曽祖父は、長く苦しかったオランダ独立戦争を指導した英雄・ウィレム1世だからです。国がピンチになると、民衆は英雄の登場を望む、という一般論がありますが、ウィリアム3世の事例も、その一例ですね。オランダ民衆に臨まれてウィリアム3世はオランダ総督に就任し、軍を率いてフランスからの防衛戦を指導。6年に及ぶ戦争の結果、なんとかフランス軍をオランダ領内から追い出すことに成功し、ウィリアム3世はオランダ民衆、そしてプロテスタントから賞賛されます。」
名もなきOL
「へ〜、すごい!」
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「オランダ侵略戦争中、フランスと結託していたイギリスも、艦隊を送ってオランダに攻め込みました。この戦いは「第三次英蘭戦争」と呼ばれています。オランダはイギリス艦隊の攻撃をなんとか退けることに成功し、和睦することになりました。この時、ジェームズ2世の娘のメアリー(のちのメアリー2世)と結婚しました。1677年、ウィリアム3世27歳、メアリー2世15歳でした。」

1662 Mary II.jpg
パブリック・ドメイン, リンクによる

↑メアリー2世肖像画

名もなきOL
「15歳って、中学3年生じゃないですか。まぁ、でも昔の王侯貴族の結婚は早かったんですよね。こんなもんなのかな。あれ?ウィリアム3世の方は、27歳ってことは、当時としては遅いほうだったんでしょうか?」
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「そうですね。ウィリアム3世の両親は既に亡く、オランダ侵略戦争で忙しかったので、それどころではなかったのかもしれません。それに、フランスのルイ14世の野望は消えることはなく、オランダを再び攻撃してくることは明白だったので、それに備えることで頭はいっぱいだったのではないか、と思います。ウィリアム3世の人生は、まさにルイ14世との戦いでした。」

大同盟戦争の一部としての名誉革命

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「ウィリアム3世はメアリー2世と結婚したことにより、1688年の名誉革命でイギリス王に即位することになるのですが、ここでは、名誉革命をウィリアム3世の視点で見ていきましょう。
ウィリアム3世にとって、一番の課題は「対フランス」でした。ルイ14世の大陸制覇の野望は、周辺諸国の一番の脅威だったんです。まず最初の問題です。1685年5月、プファルツ選帝侯カール2世が、後継ぎを残さないまま死去しました。」
名もなきOL
「ということは、誰が後を継ぐかで揉めたわけですね。後継者争い、っていうのは古今東西を問わずに揉め事のタネになるものなんですね。」
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「そのとおりです。結果的に、遠縁であるノイブルク家のフィリップ・ヴィルヘルムが後継者となりました。ちなみに、彼は神聖ローマ皇帝であるハプスブルク家のレオポルト1世の義父にあたります。ところが、これに対してフランスのルイ14世は、前の選帝侯の妹であるオルレアン公妃リースロットにも継承権がある、と主張して、領土の一部をフランスに寄越せ、と言っていたんです。」
名もなきOL
「うーん、これはどっちにも言い分があるような気がします。いかにも揉めそうな案件ですね。」
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「そんな折、もう一つ後継者問題が発生します。1688年6月3日、ケルン大司教兼選帝侯であるマクシミリアン・ハインリヒが亡くなりました。カトリックの司教なので、表向きは後継ぎとなる子供はいません。なので、代わりの司教を選ぶ必要があったのですが、フランスのルイ14世は補佐司教であり親フランス派のフュルステンベルクを推薦した一方で、レオポルト1世やウィリアム3世が推薦したのは、亡くなった選帝侯の弟で、バイエルンのヨーゼフ・クレメンスでした。どちらが後継者になるのか選挙が行われた結果、得票数はフュルステンベルクが多かったものの、票数が規定に達していない、という理由でローマ教皇が承認しない、という事態になりました。」
名もなきOL
「うーん、部外者の私が言うのもなんですけど、これはルイ14世が納得できないのも理解できます。規定とか知りませんけど、投票で勝ったんでしょ?ローマ教皇の方がいちゃもん付けてる気がします。」

ケルン大聖堂
<a title="User:Velvet" href="//commons.wikimedia.org/wiki/User:Velvet">Velvet</a> - <span class="int-own-work" lang="ja">投稿者自身による作品</span>, CC 表示-継承 4.0, リンクによる


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「プファルツの問題も含めて、納得できないルイ14世は戦争の準備を始めました。対する神聖ローマ皇帝や神聖ローマ帝国の諸侯も対フランス同盟を組んで、フランスの侵攻に備えます。フランスと戦ったウィリアム3世も同盟に加わり、戦の準備を進めていました。そんな時だったんです。イギリスの貴族達から、ウィリアム3世に助けを求める特使が来たのは。」
名もなきOL
「すごいタイミングですね!でもそれなら、ウィリアム3世はイギリスの問題に関与する余裕は無かったんじゃないですか?」
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「そうですね。ただ、これはルイ14世との戦いを考える上では、イギリスを味方につける願ってもない好機です。元々、ジェームズ2世は若いころフランスに亡命して、ルイ14世の支援を受けていましたし、宗教的にもカトリックです。ジェームズ2世がルイ14世の味方についてしまう可能性は十分あったでしょう。そうなると、オランダは再びフランスとイギリスを相手に戦わなければならなくなります。」
名もなきOL
「これは難しい判断ですね。う〜〜〜ん・・・」
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「そんな中、9月にフランス軍が神聖ローマ帝国に侵攻を開始。大同盟戦争の火蓋が切られました。これを見たウィリアム3世は、フランス軍がオランダに侵攻してくるにはまだ時間がかかる、と判断し、自分はイギリス遠征を決意しました。これが、名誉革命になったんですね。こうしてみると、大同盟戦争という大きな戦いが始まったと同時に、名誉革命が起きてウィリアム3世とメアリー2世がイギリス王になるというクーデターが勃発したわけです。ルイ14世もさぞ驚いたことでしょう。」
名もなきOL
「名誉革命って、イギリスで起きた革命とばかり思ってましたけど、そういうヨーロッパ情勢の中で起きたクーデターだったんですね。それにしても、ウィリアム3世って凄い!すごい決断力だと思います。」
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「こうして、同君連合となったイギリスとオランダは、ウィリアム3世(とメアリー2世)の元、大同盟戦争を戦っていくことになります。まず最初の相手は、フランスのルイ14世の支援を受けたジェームズ2世です。彼も、クーデターで国を追われましたが、それで納得できるハズがありません。フランスに亡命すると、ルイ14世に支援を要請し、軍を率いてイギリスに侵攻しようとします。ルイ14世も、ウィリアム3世を倒すためにジェームズ2世を支援します。大同盟戦争は、フランス軍と同盟軍が戦う神聖ローマ帝国戦線、フランス軍とスペインーハプスブルク家が戦うスペイン戦線、フランス軍とサヴォイア公らの同盟諸侯が戦うイタリア戦線、そしてウィリアム3世とジェームズ2世が戦うイギリス戦線と、ヨーロッパ各地が戦場となりました。」
名もなきOL
「いくらなんでも、フランスに敵が大きすぎるような・・」
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「そうですよね。ただ、当時のヨーロッパではフランスが国力ナンバー1の最強国でした。同時に複数の敵と戦えちゃうんですね。さらに、北米でもイギリス植民地とフランス植民地が、それぞれ戦闘を開始しました。この戦いは「ウィリアム王戦争」と呼ばれています。インドでもイギリス植民地とフランス植民地の戦いが発生し、まさに世界のあちこちでイギリス vs フランスの戦いが発生することになったんですね。」

大同盟戦争 イギリス戦線(ウィリアマイト戦争)

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「このように、大同盟戦争はあちこちで戦闘が発生しましたが、まずはイギリス戦線から見ていきましょう。これは、名誉革命後のジェームズ2世のリターンマッチなので、話の続きですから。なお、名誉革命の後に起こった、ウィリアム3世 vs ジェームズ2世のアイルランドでの戦いをウィリアマイト戦争と言います。「ウィリアマイト」とは、ウィリアム3世を支持する人々のことです。北米植民地同士の争いである「ウィリアム王戦争」と名前が似ているので、注意しましょう。
1689年3月、ルイ14世の支援を受けたジェームズ2世は、フランス兵を率いてアイルランド南部の港町キンセールに上陸。ウィリアマイトの牙城であるアイルランド北部の都市・ロンドンデリーに向かって進軍し、4月19日からロンドンデリー包囲が始まりました。」
名もなきOL
「あれ?イギリス本土に上陸するんじゃなくて、アイルランドに上陸したんですか?どうして?」
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「当時のアイルランド人のほとんどはカトリックで、プロテスタントはごくわずかでした。そのため、イングランドとは異なり、カトリックのジェームズ2世はアイルランドでは大多数に支持されていたんです。また、この時アイルランドの大部分を勢力下に置いていたのは、ジェームズ2世の腹心の部下であるティアコンネル伯爵のリチャード・タルボット(Richard Talbot, Earl of Tyrconnell)(長いので以下「ティアコンネル伯」)でした。ティアコンネル伯は、ジェームズ2世を指示するアイルランド人を集めて軍を組織し、ジェームズ2世の上陸を待っていたんです。」
名もなきOL
「ここでも宗派の違いが主要因なんですね。」
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「戦場となったロンドンデリーは、現代でも中世・近世の城塞都市の姿をよく残している、ということでイギリス文化都市に指定されています。」

Cannon on Derry City Walls SMC 2007.jpg
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「ところが、ロンドンデリーの包囲はまったくはかどりませんでした。原因の一つは、主力のアイルランド兵はほとんど訓練されていない素人集団だったから、だそうです。そのため、包囲戦というよりは兵糧攻めになり、ロンドンデリーは陥落寸前まで追い込まれたものの、7月31日にウィリアム3世が派遣した援軍船隊が街に入ることに成功すると、翌日の8月1日、アイルランド軍は包囲を解いて撤退していきました。」
名もなきOL
「なんか、諦めるの早くないですか?」
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「そうですね。ただ、当時の戦争って、冬になると半強制的に停戦なんです。雪が積もって寒いので、軍隊が野営とかすると、凍死者が続出してしまうんですね。4月から7月まで、約3か月間包囲しつづけて、もう少しで落とせる、というところで救援部隊が城内に入ってしまったので、冬になる前に陥落させることはできない、と考えたんでしょうね。ともあれ、1689年のイギリス戦線は、ロンドンデリーの包囲は失敗したものの、アイルランドはほぼジェームズ2世の支配下にありました。一方、大陸ではオランダ方面にもフランス軍が侵攻しています。後に、イギリスの名将と称えられるジョン・チャーチルの活躍もあり、引き分け状態でしたが、この戦況はウィリアム3世にとって好ましくありません。強大なフランス軍を相手にするには、ジェームズ2世を早く追い払い、オランダ戦線に多くの兵を回す必要があります。そこで、ウィリアム3世は、自らアイルランドに赴いて、ジェームズ2世との決着をつける決意をしました。」
名もなきOL
「ウィリアム3世もけっこうステキですね。決断力と行動力があって。頼りがいがあるわ。」
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「この年で、40歳になりますからね。体力的にも、精神的にも、働き盛りだったと思います。年が明けて1690年6月、ウィリアム3世は軍を率いてアイルランドに上陸。先遣されていた部隊と合流し、ダブリンとベルファストのおおよそ中間地点を流れるボイン川を挟んで、ジェームズ2世の軍と対峙しました。ボイン川の戦いです。」
名もなきOL
「いよいよ両者の直接対決ですね。どうなるんだろう・・・」

BattleOfBoyne.png
<a title="w:en:Jan Wyck" class="extiw" href="https://en.wikipedia.org/wiki/en:Jan_Wyck">Jan Wyck</a> - <a class="external free" href="http://www.battleoftheboyne.ie/TheBattleoftheBoyne/" rel="nofollow">http://www.battleoftheboyne.ie/TheBattleoftheBoyne/</a>, パブリック・ドメイン, リンクによる

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「6月30日、両軍はボイン川を挟んで対峙。この時、ウィリアム3世の軍は3万5000、ジェームズ2世の軍は2万5000でした。兵数はウィリアム3世が有利ですね。重要なのはボイン川の存在でしょう。ボイン川は、それほど深い川ではなかったようで、満潮でも上流の方は渡れる浅瀬があり、ある程度潮が引くと中流でも徒歩でも渡れる箇所があり、干潮になると下流でも渡れるようになる、という状況だったそうです。
先に動いたのはウィリアム3世でした。マインハルト・ションベルクに1万の兵を率いさせて上流に向かわせ、そこから川を渡ってジェームズ2世の軍の左翼に回ろうとします。この動きは、ジェームズ2世麾下の少数の竜騎兵隊に発見され、迎撃されるのですが、多勢に無勢なので敗退。本陣のジェームズ2世に報告が行きます。ジェームズ2世は、この部隊が敵の主力部隊だと勘違いし、ジェームズ2世自ら軍の大半を率いて、迎撃に向かいました。この結果、ボイン川でウィリアム3世の軍と対峙するのは、ティアコンネル伯率いる7000ほどの部隊だけになってしまいました。ウィリアム3世はこれを好機ととらえ、オランダの精鋭近衛兵「ブルー・ガーズ」に突撃を命じ、各部隊がティアコンネル伯の部隊に襲い掛かりました。ティアコンネル伯は兵数で劣っていながらも、比較的弱い亡命ユグノーらの部隊を蹴散らすなど奮戦したものの、大軍を防ぎきることはできず、たまらず敗走します。」
名もなきOL
「その間、ジェームズ2世は何をしていたんですか?」
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「ションベルクの迂回部隊を攻撃しようとしていたのですが、その辺りは沼地が多く、進軍に手間取ってほとんど交戦できなかったそうです。そんな中、ティアコンネル伯が敗走したという情報が伝わると、ジェームズ2世も撤退していきました。そして、そのままフランスに帰ってしまったんです。」
名もなきOL
「あらら、わりとあっけない幕切れでしたね。もっと、イギリス王位をかけた熾烈な争いを想像しました。」
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「そうですね。私も、ジェームズ2世がフランスまで逃げてしまったのは、さすがに早計すぎると思います。アイルランド兵はまだまだ残っていましたし、立て籠ることができる拠点もあるのに、直接対決で1度敗れたくらいで、フランスまで帰ってしまうのは、諦めるのが早すぎる気がします。実際、アイルランド人からは「くそったれジェームズ (James ths shit)」と罵られることになりました。
こうして、ボイン川の戦いはウィリアム3世の勝利で幕を閉じました。アイルランドでの戦闘はまだ続くのですが、ウィリアム3世もアイルランド戦線は部下に任せてイギリスに戻り、以降はオランダ戦線の指揮を執ります。その後、基本的にはイギリス軍が優勢に戦いを進め、翌1691年にはジャコバイトは降伏し、アイルランド戦線はウィリアム3世の勝利で終わりました。」


ボイン川の戦いの詳細はこちらから

大同盟戦争 オランダ戦線

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「イギリス戦線は、比較的早めに決着がつきましたが、主戦場であるヨーロッパでは、フランス vs 同盟軍の戦闘が続いていました。」
名もなきOL
「どちらが優勢だったんですか?」
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フランス優勢でした。」
名もなきOL
「へ〜、フランスって強いんですね。」
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当時のヨーロッパで、フランスは人口が一番多く、常備軍を大量に抱えて最強の軍事力を持っていました。ジェーム2世の支援は失敗していますが、ヨーロッパ戦線では、質と量に優るフランス軍は、優勢に戦いを進めていました。
ここでは、オランダ戦線の重要部分だけ、概要を紹介しますね。オランダ戦線で、重要な拠点となったのが、ナミュールです。ナミュールの街はムーズ川とサンブル川の合流地点にある交通の要衝だったことに加え、要塞は岩山を利用しているという、まさに天然の要害でした。ナミュールは、ブリュッセルやリエージュといった重要都市の壁となる防衛拠点だったんです。1692年、フランス軍がナミュールを攻略したことで、ウィリアム3世のオランダはピンチになります。」

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<a title="User:Jean-Pol GRANDMONT" href="//commons.wikimedia.org/wiki/User:Jean-Pol_GRANDMONT">Jean-Pol GRANDMONT</a> - <span class="int-own-work" lang="ja">投稿者自身による作品</span>, CC 表示 3.0, リンクによる

↑ムーズ川にかかる橋と、城塞跡

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「しかし、ウィリアム3世も負けていません。その後の戦いでは、苦戦しながらもフランスの侵攻を食い止めます。1695年に、有能で経験豊富だったフランスの将軍、リュクサンブール公が病死し、代わりにヴィルロワ公(51歳)がオランダ戦線を担当します。ヴィルロワ公は、あまり有能な将軍ではなかったので、ウィリアム3世はうまい具合にヴィルロワ公を出し抜いて、ナミュールの奪還に成功します。」
名もなきOL
「ウィリアム3世も、きっとデキる男なのね。」
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「その後も戦いは続いたのですが、1695年時点が終わった時点で、開戦から7年経過しています。さすがにフランスも同盟諸国も疲れが見え始め、1697年、オランダのハーグに近い町・レイスウェイクで講和会議が始まりました。」
名もなきOL
「ようやく戦争が終わるんですね。」
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「大同盟戦争は終わりますが、これは次の戦争のための講和でした。以前から病弱だったハプスブルク家のスペイン王・カルロス2世が、後継者を残さないまま、そろそろ亡くなりそうだ、という話になり、ヨーロッパは「スペイン王位継承問題」に直面したんです。特に、ルイ14世はこの機に自分の孫をスペイン王位につけよう画策し、そちらに集中していきます。そのためには、大同盟戦争を早く終わらせて、同盟を解体させる必要がでてきたんです。」
名もなきOL
「え〜っと、大同盟戦争の原因は、神聖ローマ帝国の諸侯の領土の継承問題がきっかけでしたよね。今度は、スペインの継承問題で戦争が起こるんですね。この頃のヨーロッパって、継承問題で戦争ばっかりなんですね、ほんとに。」
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「そうですね。同時期の日本は江戸時代中期。戦争を経験していない世代の真っ最中ですから、実に対照的ですね。
こうした背景もあって、レイスウェイク条約は優勢だったフランスが大幅に譲歩する形で締結されました。フランスは占領地のほとんどを相手国に返還し、獲得できたのはドイツとの国境の街・ストラスブールのみ。また、イギリス王はウィリアム3世であることを認め、今後はジェームズ2世を支援しない、という約束をしました。」
名もなきOL
「ということは、大同盟戦争はほぼ引き分けみたいですね。あ、でも、ウィリアム3世がイギリス王で居続けるってことは、ウィリアム3世が判定勝ちした、と言えるかも。」
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「そうなんです。そのため、フランスでは「戦争に勝ったが講和で負けた」と評価されています。
こうして大同盟戦争は終結したのですが、これは決して平和の訪れではありませんでした。先ほど述べたように、次はスペイン王位継承問題で紛争が起こり、西欧諸国はスペイン継承戦争という大きな戦争に突入していきます。これとほぼ並行して、ロシアのピョートル大帝は、北欧の覇権をかけてスウェーデンと争う大北方戦争も始まり、1700年代のヨーロッパは戦争で幕を開けることになります。」

大同盟戦争 主要人物たちのその後

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「大同盟戦争の終結は、一つの時代の終わりを告げるものでした。まず、イギリス王であったジェームズ2世について。ジェームズ2世は、ボイン川の戦いに敗れた後も、フランスで再起を図っていました。しかし、なかなか実行までには至らず、ルイ14世との関係もギクシャクしていったそうです。そんなジェームズ2世に対し、1697年、ルイ14世はジェームズ2世にポーランド王に即位することを打診します。」
名もなきOL
「ポーランド王?あ、もしかしてそれって、筋肉自慢の名前の長い人が出てきた話ですか?」
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「はい、筋肉自慢の彼の話です。名前はアウグスト2世、そんなに長くはないですよ。あの時、ウィーンを救った英雄、ヤン3世が亡くなった後のポーランド王が争われた時、ルイ14世はジェームズ2世にポーランド王選挙への出馬の意向を聞いてみたそうです。」
名もなきOL
「う〜〜ん、それはジェームズ2世にとって、微妙な話なんじゃないですか?全然知らない外国だし、ポーランド王になったら、イギリス王に復帰するチャンスはほとんど無くなっちゃうんじゃないか、と思います。」
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「ジェームズ2世もそう感じたようで、この話は断ったそうです。
そして大同盟戦争が終結し、1701年9月16日、フランスのサン=ジェルマンにて約68年の人生を終えました。」
名もなきOL
「私の好みのタイプの人じゃなかったけど、本当に波乱万丈の人生でしたね。祖国を2度も追われた王様って、他にはなかなかいないんじゃないかしら。」
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「ジェームズ2世と戦ったウィリアム3世も、それから間もない1702年3月8日、ロンドンのケンジントン宮殿で死去しました。51歳でした。亡くなる前、乗馬していたら馬がモグラの穴を踏んでしまったことが原因で落馬して鎖骨を骨折してしまいました。骨折自体が直接の死因ではないようですが、その後間もなく重体となり、亡くなったそうです。」
名もなきOL
「ウィリアム3世は、実行力があってステキな方でしたよね。51歳で亡くなってしまうのは惜しいですね。ウィリアム3世も、なかなか波乱の多かった人生かと思います。私の個人的な感想ですが、もう少し、ルイ14世との対決を見てみたかったな。。そういえば、ルイ14世ってどうなったんですか?」
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「ルイ14世は、かなり長生きなんですよ。1700年の時点で62歳ですが、まだまだ現役です。ルイ14世は、次の大イベント「スペイン継承戦争」が終結するまで生きています。」


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