big5
「さて、ヨーロッパがフランス革命を中心に動いていたこの時代、東欧ではポーランドが瀕死の危機に直面していました。第1回ポーランド分割で大幅に国力を失ったポーランドは、1791年にフランス革命の影響を受けて新しい憲法を制定。貴族の自由拒否権や選挙王制などの問題点を改善して新たな取り組みを始めました。ところが、これをよく思わない人が出てきます。ロシアのエカチェリーナ2世と、プロイセン、オーストリアですね。」
名もなきOL
「第1回ポーランド分割の時と同じ顔ぶれですね。」
big5
「特に、ロシアはポーランドをほぼ属国扱いしていたので、ポーランドが力を回復して強くなる、なんてことは受け入れがたい問題でした。エカチェリーナ2世は軍事力にものを言わせてポーランドに侵攻し、1793年に第2回ポーランド分割を強行。これに反対するポーランドの軍人コシチューシュコらは武力蜂起しますが、結局はこれも武力で鎮圧されて、1795年に第3回ポーランド分割が行われ、地図から「ポーランド」という国名は完全に消滅、つまりポーランドは滅亡する、という憂き目を見ることになりました。ここでは、近代ポーランドにトドメを指すことになった第2回、第3回ポーランド分割について見ていきましょう。」
年 | ポーランドの動き | ヨーロッパの動き |
1789年 | フランス革命 始まる | |
1791年 | 革新的な5月3日憲法を制定 | フランスが1791年憲法を決議 |
1792年 | ポーランド・ロシア戦争 | フランス 8月10日事件 ヴァルミーの戦いでプロイセン敗北 |
1793年 | 第2回ポーランド分割 | フランス ルイ16世処刑される |
1794年 | コシチューシュコの蜂起 | フランス テルミドール9日のクーデター |
1795年 | 第3回ポーランド分割 ポーランド滅亡 | フランス 総裁政府樹立 |
big5
「ポーランド分割は、高校世界史や大学受験では、以下の点を覚えていればだいたい十分とされてますね。
・ポーランドは18世紀後半に、3回にわたる分割で滅んだこと。
・ポーランドを分割したのは、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国であること。
・コシチューシュコはポーランド分割に反対し、反乱を起こしたものの敗れたこと。
ここでは、もう少し経緯を詳しく見ていきますね。流れは比較的単純です。
・ポーランドが進歩的な憲法を作って改革に取り組む。
↓
・ロシアがポーランドに攻め込んで妨害(ポーランド・ロシア戦争)
↓
・ポーランドはロシアに屈服して第2回ポーランド分割
↓
・コシチューシュコが反乱
↓
・コシチューシュコが敗れて第3回ポーランド分割
ということで、ポーランドの動きと、それを潰しにかかるロシアの動きが順番に起こっている、比較的単純な流れです。」
名もなきOL
「ロシアのエカチェリーナ2世ってヒドイですね。こりゃ、ポーランドに嫌われても仕方ないですよ。」
big5
「ポーランドの歴史は、「弱肉強食」のヨーロッパ世界を端的に表現していると思いますね。それでは、ポーランド滅亡までの話を進めましょう。
第1回ポーランド分割から約20年の歳月が流れました。屈辱的な第1回ポーランド分割も、一昔前の事件になりつつあった頃、大国フランスで大事件が起きました。1789年のフランス革命ですね。この影響は、崩壊しかけていたポーランドに大きな影響を与えました。フランス革命の精神の一つは「国民が国家の主役」という考え方です。この新しい考え方は、凋落著しかったポーランドに大きな刺激を与えました。ポーランドを立て直すのは、力の弱い国王や自分勝手な貴族ではない、ポーランド国民なんだ、という風潮が強まってきたわけです。」
名もなきOL
「そういえば、ポーランドっていろいろ特徴ある政治システムなんですよね。王様は選挙で選ばれる選挙王制とか、貴族はみんな拒否権を持つ自由拒否権、とかですよね。」
big5
「その通りです。そこでポーランドは1791年5月3日、革命の本場であるフランスよりも少しだけ先んじて、新しい憲法を制定しました。この憲法は5月3日憲法と呼ばれています。アメリカ合衆国憲法の次にできた、近代的な成文憲法で、欧米では2番目です。かなり早いですね。5月3日憲法は、ポーランド政治システムの大問題とされた「選挙王制」を廃止して世襲制に切り替え、「自由拒否権」は廃止し、さらに農奴制などの中世封建時代の古い政治システムを改めることで、立憲君主制国家としての道を歩み始めようとしました。」
5月3日憲法 画:ヤン・マティコ 作成:1891年
ポーランド国王スタニスワフ2世(左側の立派なマントの男性)が新憲法を公布する聖ヨハネ大聖堂に入る場面を描いている。
名もなきOL
「とてもいい話ですよね。こういう取り組みを続けていけば、きっといい方向に変わっていくと思うわ。」
big5
「ところが、こういう取り組みをよく思わない人たちがいたんですね。まずはポーランドの大貴族たち。彼らは既得権益が失われることに反対して、タルゴヴィツァ連盟を結成。5月3日憲法に公然と反旗を翻します。」
名もなきOL
「第1回ポーランド分割で、十分痛い目を見たはずなのに・・・。」
big5
「そして、ロシアのエカチェリーナ2世はタルゴヴィツァ連盟を支持。さらに、「5月3日憲法はフランス革命の伝染病」と危険視してロシア軍をポーランドに送り込んだんです。この戦いはポーランド・ロシア戦争と呼ばれています。ポーランドとロシアの戦いって、しょっちゅう起きてるんですけど、この名前の付け方はかなり安直ですね。」
名もなきOL
「ポーランド・ロシア戦争はどんな戦いになったんですか?まぁ、予想はできますが・・・」
big5
「ポーランド王スタニスワフ2世や、アメリカ独立戦争に義勇軍として参戦したコシチューシュコ(昔は「コシューシコ」と表記されたが、発音的にあまり正しくないらしい)は、少ないポーランド軍を率いてなんとか戦っていたのですが、多勢に無勢。スタニスワフ2世は戦争での勝利を諦めて、和平を結んで外交で解決しようとします。」
名もなきOL
「それってロシアの思うツボなんじゃ・・・」
big5
「はい、外交での解決はできませんでした。1793年11月、スタニスワフ2世とポーランド議会は、ロシア軍に脅されながら第2回ポーランド分割を承認させられました。この時、議会の周囲にはロシア軍の大砲がズラリと並べられ、分割に反対する議員のほとんどは事前にロシア軍に逮捕されていたそうです。議会で発言する者は一人も現れず、1日中無言で時間を過ごした結果、議長が「沈黙は同意とみなされる」ということで、第2回ポーランド分割は議会の承認を得ました。
第2回ポーランド分割の内容は、こんなかんじです。
(1) シュレジエンに隣接している西側の部分をプロイセンに割譲
(2)ベラルーシのミンスクを含む広大な地域をロシアに割譲
これによって、ポーランドの領土は第1回分割前の3分の1にまで減少してしまったんです。ちなみに、オーストリアはフランス革命騒ぎでそれどころではなかったようで、第2回分割には参加していません。」
名もなきOL
「もぅ、こうなることは目に見えていたんじゃないか、と思います。なんで、大貴族たちは改革に反対して、スタニスワフ2世も外交解決なんて夢を見てしまったんでしょうね。」
big5
「後の時代の私たちから見れば「目に見えていた結果」ですが、当時のポーランド大貴族らは「5月3日憲法が廃止されて、自分たちの既得権益が回復される、という形で決着がつく」と思っていたそうですよ。ただ、そうは言っても、ロシア軍が侵入してきて「元に戻るだけ」で終わる、なんて期待するのはかなりあまい、と言わざるを得ないと思いますね。
なお、コシチューシュコら一部のポーランド軍人は、ロシアとの戦いを継続しようとしたのですが、国王であるスタニスワフ2世が停戦を決めてしまったので、戦争は強制終了となってしまいました。軍人らはスタニスワフ2世の決断を非難し、コシチューシュコも辞表を提出してポーランドを去ってしまいます。もう、ポーランドには絶望しか残されていなかった、という状況ですね。」
big5
「第2回分割で、既に死に体となっていたポーランドですが、ここでコシチューシュコ(この年38歳)が立ち上がります。1794年、コシチューシュコの蜂起です。」
コシチューシュコ肖像画 画:Kazimierz Wojniakowski 作成時期:1812年より前
名もなきOL
「コシチューシュコさんって、アメリカ独立戦争にも義勇軍として参加するくらい(参考:自由と革命の時代 アメリカ独立革命)だから、よほど熱い情熱を持った人だったんでしょうね。でも、第2回ポーランド分割の時に怒って、国を去ったんじゃなかったでしたっけ?」
big5
「そうです。コシチューシュコはドイツのライプツィヒに移り、ここでロシアに対する反攻を計画していたそうですよ。彼以外にも、第2回ポーランド分割に納得できないポーランド軍人や政治家はかなりの数いました。コシチューシュコは、彼らと連絡を取りながら準備を進め、機会を伺っていたそうです。そんな中、ロシアがポーランド軍に対する締め付けを強化しはじめ、反乱を計画していた軍人や政治家が逮捕され始めたのを受けて、コシチューシュコは急遽帰国。1794年3月24日、反乱の開始とポーランド軍の集結を高らかに宣言しました。」
宣誓するコシチューシュコ 画:Franciszek Smuglewicz 作成時期:1797年
名もなきOL
「いよいよ本格的な反撃開始ですね。でも、この時のポーランドって、2回も分割されて人も土地もほとんど残っていなかったんですよね?それで、強大なロシア軍に対抗できるのかしら?」
big5
「従来の戦力だけでは、勝ち目は薄いでしょう。そこでコシチューシュコは農民たちの力を活用することを考えました。集まってきた農民を兵士として使うんです。革命フランスと同じように、農民や一般市民を国民兵として徴兵するわけですね。これで、兵士数を大幅に増やすことができます。ただ、彼らが使うマスケット銃を十分に用意することができなかったので、大きな鎌を武器とする農民兵の部隊を編制したりしました。こんなかんじです。」
1794年コシチューシュコ蜂起の際のポーランド軍部隊
名もなきOL
「鎌っていうか、薙刀みたいな武器なんですね。でも、中世とかならまだしも、銃で戦うのが当たり前の時代にこんな武器じゃ、強そうには見えないですね。」
big5
「ですよね。ところが、序盤はこの大鎌部隊が意外な活躍をするんですよ。4月4日、ラツワヴィツェの戦いで、コシチューシュコ率いるポーランド軍がロシア軍を破って勝利するのですが、この戦闘で大鎌部隊は勇敢に突撃し、ロシア軍の大砲を奪い取る、という武功を立てています。」
名もなきOL
「え、意外!でもすごい!そうなると、ポーランド軍の士気も上がりますよね。大鎌部隊が活躍したならなおさらですよ。」
big5
「まさにそうですね。ラツワヴィツェの戦いは、戦果としては小さいのですが、開戦序盤でロシア軍と破った、しかも大鎌部隊が活躍した、という話は、ポーランド軍の士気を大いに上げることになりました。こんなかんじで、コシチューシュコの蜂起は、前半まではポーランド優位に進んでいたんです。
しかし、ポーランド軍が優勢だったのは前半だけでした。ロシア軍が援軍を送り込み、さらにプロイセンも軍を送り込んできたことで、形勢は一気にポーランド不利に傾きます。10月にマチェヨヴィツェの戦いでコシチューシュコが負傷して捕らえられると、ほぼ決着はつきました。残ったポーランド軍は抵抗するものの力及ばず敗北し、コシチューシュコの蜂起は鎮圧されてしまいました。」
big5
「コシチューシュコの蜂起が鎮圧され、年が明けた1795年、第3回ポーランド分割が行われました。ポーランド王スタニスワフ2世は退位を強制され、残っていたポーランド領はロシア、プロイセン、オーストリアの3国に分捕られ、ポーランドは滅んでしまいました。国を失ったポーランド人は、各地へ散っていきました。ある者は、他国で外国人労働者となって生活をはじめ、ある者は旧ポーランド領に潜んで反政府活動を行い、またある者はフランスのナポレオン軍に参加して、祖国を滅ぼしたオーストリア、プロイセン、ロシアと戦いました。ポーランドの敵は、全部ナポレオンの敵なので「敵の敵は味方」理論ですね。1807年には、オーストリア、プロイセンを破ったナポレオンにより、ワルシャワ大公国が建国されて不完全ながらもポーランド国家が復活しましたが、ナポレオンの敗北によりこれも消滅。その後、ロシアの属国としてポーランド立憲王国ができましたが、1830年の七月革命の余波で起きた11月暴動が鎮圧されたことで、名ばかりの国家も解体。ポーランド人が国を取り戻すには、第一次世界大戦の終結を待たなければなりません。」
名もなきOL
「捕らえられたコシチューシュコさんはどうなったんですか?」
big5
「コシチューシュコは1798年に釈放され、革命の本場・フランスへ亡命します。しかし、この頃のフランスは革命の終期です。ナポレオンが台頭していた時期なんですね。コシチューシュコはナポレオンの政策には同調できなかったために、スイスに移住。1817年に腸チフスに罹って亡くなりました。享年71歳。
こうして、中世では隆盛を誇っていたポーランドは、フランス革命の激動の時代に、舞台脇で滅んでしまったんですね。冒頭にも述べましたが、ポーランドの歴史は「弱肉強食」を体現していると思います。」
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