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「今回の主題はオスマン帝国です。1990年代くらいまで、日本ではこの国を「オスマン=トルコ」と呼んでいましたが、これは学術的に正しくない(オスマン=トルコというとトルコ人の国という印象を受けるが、実際は多民族国家だった)、ということで使われなくなり、今は「オスマン帝国」と呼ばれています。1299年、小アジアで産声を上げたこの国は、次々と領土を拡大して小アジアのみならず、バルカン半島から地中海東岸と地中海北岸(の東側)を治める広大な帝国に成長しました。
その一方で、古代ローマから形を変えながらも存続してきたビザンツ帝国は、オスマン帝国拡大の波に飲まれて1453年、ついに滅亡しました。そのため、「中世」という時代区分の終わりは1453年と考えられています。ちなみに、西ヨーロッパでも1453年に英仏百年戦争が終結しているので、1453年はまさに時代の区切りとしてちょうどいいわけですね。
というわけで、今回はオスマン帝国の誕生から伸長過程を中心に見ていきたいと思います。まずはいつもどおり、年表から見ていきましょう。
| 年月 | 本編のイベント | 他地域のイベント |
| 1299年 | オスマン1世がルーム・セルジューク朝から独立 オスマン=ベイ(君侯国)の始まり | |
| 1307年 | ルーム・セルジューク朝滅亡 | |
| 1326年 | ブルサを首都とする | |
| 1333年 | (日)鎌倉幕府滅亡 | |
| 1337年 | (英仏)百年戦争 開戦 | |
| 1353年 | ヨーロッパへの侵入はじまる | |
| 1356年 | セルビア分裂 | |
| 1360年? | ムラト1世即位 | |
| 1361年 | アドリアノープルを攻略 | |
| 1366年 | アドリアノープルをエディルネと改称して遷都 | |
| 1389年 | コソボの戦い セルビアなどバルカン半島諸国連合を破る バヤジット1世即位 |
|
| 1392年 | (日)足利義満が南北朝統一 | |
| 1396年 | ニコポリスの戦い ハンガリーのジギスムント率いる最後の十字軍を破る | |
| 1402年 | アンカラの戦い ティムールに敗れてバヤジット1世が捕虜に オスマン帝国の中断 | |
| 1413年 | メフメト1世がオスマン帝国を再興 | |
| 1422年 | コンスタンティノープルを一時的に包囲 | |
| 1444年 | ヴァルナの戦い ハンガリー、ポーランドを破る | |
| 1446年 | モレアに侵入 | |
| 1451年 | メフメト2世即位 | |
| 1453年 | メフメト2世がコンスタンティノープルを攻略 ビザンツ帝国滅亡 インスタンブルと改称して首都とする |
(英仏) 百年戦争 終結 |
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「オスマン帝国の始まりは1299年、オスマン1世によって小アジアの北西部に建国されました。この頃、小アジアはセルジューク朝の地方政権であるルーム・セルジューク朝が治めていたのですが、その勢力は著しく減退しており、各地で実力者が独立政権を立てて小国が林立している状況でした。オスマン帝国も、建国当初はそのような小国の一つでした。これらの小国はベイ(君侯国)、その支配者もベイと呼ばれたため、この頃のオスマン帝国は、正しくは「オスマン=ベイ」となります。
オスマン1世についての前半生はほとんど史料が残っておらず、不明点が多いそうです。1326年、この方面の重要拠点であった街・ブルサを包囲中 or 攻略直後に亡くなり、息子のオルハン(1281?〜1362?)が後継者となりました。」
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「オルハンの治世には、ビザンツ帝国から一目置かれる存在になり、時のビザンツ皇帝ヨハネス6世の娘テオドラを妻に迎え、ヨハネス6世の要請に応えてセルビアを攻撃するなど、ヨーロッパ側に渡って軍事行動を取るようになっています。ただ、オルハンはビザンツ帝国と友好関係にあったわけではなく、小アジア側のビザンツ領を切り取り、ヨハネス6世の抗議にも耳を貸しませんでした。」
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濃赤:オルハンの治世初期1326年の領土 ピンク:オルハンの治世末期(1361年)の領土
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「オルハンの息子で3代目のムラト1世(1326-1389年)の時代になると、オスマン=ベイはオスマン帝国の名が相応しい大国に成長しています。ムラト1世はヨーロッパ側への領土拡大を進め、ブルガリア、セルビア、ボスニアといったバルカン半島のスラヴ人国家に侵攻していきました。1366年にアドリアノープルを占領すると、エディルネと改称して新たな首都としています。ムラト1世は、オスマン帝国の軍事力を拡大しつつ支配下に入ったキリスト教徒を効率よく支配するために、イェニチェリと呼ばれる元キリスト教徒で編成される精鋭常備軍を組織しました。(イェニチェリがいつから始まったかについてはいくつかの説がありますが、ムラト1世の頃に制度として定着した、という見解が多いそうです。)
イェニチェリは、3〜8年に一度、オスマン帝国領内のキリスト教徒の少年(8〜20歳くらい)を強制的に徴集し、イスラム教に改宗させた後、トルコ語を勉強させて厳しい軍事訓練を受けさせました。これらの厳しい教育課程を経て、選ばれた者だけで構成されたのがイェニチェリです。イェニチェリの中には、官僚になったり宰相まで出世した者もいます。この仕組みはデウシルメ制と呼ばれます。デウシルメ制とイェニチェリは、帝国内のキリスト教徒が反乱を起こすことができないように(男手を取られてしまうので、反乱しても戦える人が少ない)すると同時に、オスマン帝国が覇権国家として君臨するために必要な軍事力を保有するためのたいへん有用な制度となっています。ただ、後の時代にはイェニチェリが世襲化して強大な保守勢力となり、進化を阻む抵抗勢力となってしまうのですが、それはまた別の機会に話しましょう。」
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「ムラト1世の治世で、最大の戦いとなったのが1389年のコソボの戦いでした。コソボの戦いは、バルカン半島への領土拡大を続けるオスマン帝国に対し、セルビアの大貴族ラザルやボスニア王、ワラキア公ミルチャ1世らのバルカン半島諸国連合軍とオスマン帝国軍の戦いです。コソボの戦いは、オスマン帝国軍優勢で終わったのですが、戦闘中あるいは戦闘終了直後にムラト1世がセルビアの騎士に殺害される、という事件が発生しています。そのため、オスマン帝国は戦闘では勝利したにも関わらず、撤退を余儀なくされました。」
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「このため、コソボの戦いの勝敗は立場や歴史家によって異なります。セルビアはじめバルカン半島諸国がなんとか領土を守り切った、と見る人やムラト1世の死を重要視する人は、バルカン半島諸国の勝利としていますし、戦闘自体はオスマン帝国が優勢だったのでオスマン帝国の勝利、とする人もいます。ただ、コソボの戦いの後間もなくセルビアはオスマン帝国への臣従を余儀なくされていますので、ここではオスマン帝国の勝利としています。」
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「ムラト1世の後継者となったのは、息子のバヤジット1世(1360-1403年 1389年時点で29歳)です。バヤジット1世もコソボの戦いに参加しており、父の死を知ってすぐに後継者となりました。ただ、継承ライバルとなる弟たちを全員処刑する、という兄弟殺しを行っています。以後、オスマン帝国では新スルタンが兄弟たちを処刑する、という兄弟殺しがたびたび行われるようになりました。」
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「タイトルにも書きましたが、バヤジットの異名は「稲妻(英語ではThunderbolt そのため日本語では雷光、雷帝、とも)」です。理由は、迅速な決断力と積極的な遠征活動に由来しているそうです。
実際、バヤジット1世はさらにオスマン帝国の領土を広げました。セルビアはほぼ全域がオスマン帝国に臣従しています。勢力拡大を続けるオスマン帝国に危機を感じたハンガリー王ジギスムント(1368-1437年 後に神聖ローマ皇帝)は教皇に働きかけ、十字軍の結成を呼び掛けます。この十字軍にはフランスやイングランド、聖ヨハネ騎士団など多くの西欧勢力が参加したのですが、1396年のニコポリスの戦いでバヤジット1世が十字軍に圧勝。ジギスムントは命からがらハンガリーまで逃げた、という結果に終わりました。
ニコポリスの戦いの詳細については、こちらの動画で詳しく解説されているので、ぜひ見てみてください。」
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「カトリック十字軍にも大勝したバヤジット1世は勢いに乗りますが、意外にもその治世は数年後に崩壊しました。1402年、アンカラの戦いでティムール(1336-1405年)に大敗して捕虜となり、その後間もなく死去したからです。
ティムールは中央アジアから西アジアにかけての広大な領域(下図参照)を一代で征服した軍事の天才と評されています。敗れたオスマン帝国の運命は風前の灯火でしたが、ティムールはこの後、明への大遠征に着手し、数年後に途中で死去しています。そのため、オスマン帝国は滅亡の危機から脱したのですが、しばらくの間は国の立て直しに集中せざるを得ませんでした。」
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「一時中断となったオスマン帝国でしたが、バヤジット1世の息子の一人・メフメト1世(1386-1421年)が1413年にバラバラになったオスマン帝国を再統一しました。その後、勢いを盛り返したオスマン帝国は領土拡大を続け、1451年にメフメト2世(1432-1481年)が即位します。」
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「この頃、ビザンツ帝国はオスマン帝国などに領土を侵食され続けた結果、首都コンスタンティノープルとギリシアの一部だけを領有する、とても「帝国」とは言えない小国に落ちぶれていました。これまでビザンツ帝国が滅亡せずに持ちこたえてきた理由の一つは、首都コンスタンティノープルが難攻不落を誇る要害の地であったためです。これまで、オスマン帝国は数回にわたってコンスタンティノープルを包囲していますが、いずれも失敗に終わっています。しかし、メフメト2世は大軍を率いて短期決戦を挑み、約2か月の攻防戦の末、1453年5月29日にコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅亡しました。ビザンツ帝国最後の皇帝となったコンスタンティノス11世(1404-1453年 1453年で49歳)は、わずかな従者と共に城内になだれ込んできたオスマン帝国兵の群れに斬り込んで戦死しました(厳密には遺体の検死はされていない)。」
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「コンスタンティノープルの最後の攻防戦では、巨大な大砲であるウルバン砲やオスマン艦隊の山越えなど、目を引くエピソードが多くてたいへん面白いのですが、本編では詳細は割愛します。
コンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国が滅亡した1453年はヨーロッパの中世が終わった年とみなされることが多く、時代の区切りとなるたいへん重要な年号ですので、覚えておきましょう。覚え方の語呂合わせは
一夜(14)でゴミ(53)山、ビザンツ滅亡
などがおススメです。なお、1453年は西欧世界で英仏百年戦争が終結した年でもあります。超重要年号です。」
この後、コンスタンティノープルはイスタンブルと改称され、オスマン帝国の新たな首都となりました。オスマン帝国は中東世界を支配する強大なイスラム教国家となり、近世世界で周囲に大きな影響力を与えることになるのですが、この話はまた別の機会にしましょう。
ここまで読んでいただきありがとうございました。」
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