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「今回の主題は神聖ローマ帝国と領邦の成長と題しまして、13世紀後半から14世紀のドイツ(神聖ローマ帝国)の歴史を見ていきたいと思います。ドイツは中世ヨーロッパを特徴づける大国の一つで、その特徴が大小合わせて300にもなる、という領邦国家の成長でした。フリードリヒ1世、フリードリヒ2世に代表されるシュタウフェン朝の歴代神聖ローマ皇帝はイタリア政策などを優先し、ドイツ国内の統一が遅れた結果、各地の領邦は小さな独立国として発展していきました。
まずはいつもどおり、年表から見ていきましょう。
| 年月 | ドイツ・北欧のイベント | 他地域のイベント |
| 1250年 | フリードリヒ2世 死去 | |
| 1254年 | コンラート4世 死去 大空位時代の始まり | |
| 1273年 | ハプスブルク家のルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に選出される 大空位時代の終わり | |
| 1309年 | (西欧)アヴィニョン教皇庁の始まり 教皇のバビロン捕囚 | |
| 1346年 | カール4世がローマ王(ドイツ王)に選出される | |
| 1348年 | カール4世がプラハ大学設立 | (欧州)黒死病(ペスト)大流行 |
| 1356年 | カール4世が金印勅書発布 | |
| 1368年 | ハンザ同盟がデンマークを破る | |
| 1377年 | 教皇グレゴリウス11世がローマに帰還する 教皇のバビロン捕囚の終わり | |
| 1378年 | カール4世 死去 | |
| 1397年 | 北欧三国がカルマル同盟結成 | |
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「さて、まずは大空位時代の話から始めましょう。名前の通り、大空位時代とは「実質的に神聖ローマ皇帝(ドイツ王)がいなかった時代」です。ただ「実質的に」とあるように、名目上は神聖ローマ皇帝だった人物はいました。ただ、彼らは非ドイツ人。イングランドやフランスなどの外国勢力の思惑によって選ばれたお飾りでした。なので、ドイツ人の国王とは程遠い存在だったわけですね。
1250年に天才・フリードリヒ2世が死去した後、息子のコンラート4世が後継者となったのですが、コンラート4世は間もなく1254年に病死。その息子のコンラーディンはシチリア王は継承したものの、神聖ローマ皇帝には選出されませんでした。こうして、シュタウフェン朝による神聖ローマ皇帝の自時代は終わり、大空位時代と呼ばれる時代になりました。
ただ、大空位時代は年数にして約20年なので、長い歴史の観点で見ると比較的短いです。1273年、ハプスブルク家のルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に選出され、ドイツ人の君主が復活。大空位時代は終わりました。有名なハプスブルク家が初めて神聖ローマ皇帝となったのはこの時だったのです。ただ、ハプスブルク家によって神聖ローマ皇帝位が独占されるのはもう少し後の話になります。この時は、ルドルフ1世の息子・アルブレヒト1世でハプスブルク家の皇帝はいったん中断。その後、ナッサウ家、ルクセンブルク家(ボヘミア)、ヴィッテルスバッハ家(バイエルン)など、王家は目まぐるしく交代しました。」
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「大空位時代は、中世ドイツの特徴である領邦(領邦国家とも)の形成が進みました。これまで見てきたように、シュタウフェン朝のドイツ王たちはイタリア政策などを優先したために、ドイツ国内の国家統一はほとんど進みませんでした。その代わりに、ドイツ各地の諸侯らがそれぞれ自国の統治を行う(貨幣鋳造や関税徴収なども行われた)のが当たり前のようになりました。このような中世ドイツの諸国家を「領邦」(「領邦国家」とも)といいます。領邦は12世紀〜13世紀にかけて形成されていき、その数は大小合わせて300になると、言われています。
ドイツ王(神聖ローマ皇帝)は、これらの領邦によって選ばれる、というのが慣例だったのですが、これをきちんと成文化して制度として定めたのが、次に登場するカール4世の金印勅書です。」
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「そんな時代の中で、ひときわ有名なのがルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝・カール4世(1316〜1378年)です。カール4世といえば金印勅書が有名で、「カール4世=金印勅書」と覚えておけば、センター試験世界史の問題も解ける、と思われていた時期もありましたが、ここではもう少し掘り下げて見てみましょう。」
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「カール4世はフランス語、イタリア語、ドイツ語、チェコ語を自由に使いこなし、ラテン語の読み書きもできるという、当代きっての知識人でした。名門ルクセンブルク家の嫡男で、ドイツ王に即位した後にボヘミア王にも即位、そして神聖ローマ皇帝にも選出されています。
カール4世の有名な治績の一つが、1348年のプラハ大学(現在のカレル大学 公式サイトはこちら)創立です。ドイツ方面では最初に創立された大学になります。このプラハ大学でチェコの学問は発達し、数十年後には有名なヤン・フスが学長に就任しています。その後の歴史に大きな影響を与えることになります。
そして、歴史の試験で重要になるのが1356年に発布した金印勅書です。上述したように、ドイツ王は領邦によって選ばれるのが慣例でしたが、大空位時代にはそれが濫用されて、別々に選挙が行われる「二重選挙」になってしまったりと、問題化しました。そこで、カール4世はドイツ王(神聖ローマ皇帝)選挙は選帝侯によって行われる、と明確化したわけです。選帝侯とは、誰が神聖ローマ皇帝に相応しいか、投票できる権利を持った諸侯で、並の諸侯とは一線を画す存在でした。最初に選帝侯に選ばれたのは、マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教の三司教に、ザクセン、プファルツ、ブランデンブルク、ボヘミアの四諸侯が選帝侯とされました。
金印勅書は、ナポレオンがヨーロッパを席捲した1806年に神聖ローマ帝国が名実ともに消滅するまでのおよそ450年という長期に渡って有効であった、というたいへん歴史的影響が大きいルールでした。
晩年の1377年には、関係各所と交渉を行い、教皇グレゴリウス11世のローマ帰還を実現するなど、国際政治の場でも存在感を発しましたが、1378年(この年62歳)に死去。その葬儀には、数千人が列をなして参列した、と記録されています。」
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「最後に、ほぼ同時代の歴史用語で名前も似ているハンザ同盟とカルマル同盟について、簡単に説明しておきましょう。領邦とも「〇〇同盟」ですが、その意味はまったく異なっています。まずはハンザ同盟から。
ハンザ同盟は、主にドイツや北欧の諸都市が商売繁盛のために提携した、経済面での緩やかな連帯です。「同盟」と聞くと、例えば古代ギリシアのデロス同盟など、強大な敵に対抗するための諸国連合のようなイメージがありますが、ハンザ同盟はそのような組織ではありませんでした。北ドイツの自治都市であるリューベックが盟主です。中世ドイツの経済を支えたハンザ同盟は、1368年に船の通行権や税をめぐってデンマークと戦争になり、これを破った、ということもありました。ただ、これは例外的な事件で、ハンザ同盟や中世のドイツ・北欧の経済を発展させた商人らの繋がりでした。中世以降、同盟に入る年の数は減少し、やがて消滅することになります。
さて、もう一方のカルマル同盟ですが、これはデンマークの実質女王・マルグレーテ(1353〜1412年)が組織した、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの北欧三カ国の同君連合です。ヴァイキング時代以降、スウェーデンやノルウェーでは国家の進歩が暖かい地域のヨーロッパ諸国から後れを取るようになっていました。そこで、デンマークの実質女王であったマルグレーテは、自分の息子を三国の王として即位させると共に、三カ国同君連合を組織して外国に対抗しようとしました。カルマル同盟は、1523年にスウェーデンが離脱するまで約130年間、続きました。」
というわけで、今回はここまで。ここまで読んでいただきありがとうございました。」
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