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「今回の主題は十字軍時代の終焉です。13世紀も十字軍はたびたび組織されていましたが、第4回十字軍はエルサレムを奪還するのではなく、コンスタンティノープルを落としてビザンツ帝国を一時中断させるなど、13世紀の十字軍は第1回十字軍と比べて性質が変化してきました。やがて、十字軍の遠征で成果が出せなくなるとともに教皇の発言力も低下していき、十字軍の時代は終わりを迎えることになります。
まずはいつもどおり、年表から見ていきましょう。
| 年月 | 本編のイベント | 他地域のイベント |
| 1202年 | インノケンティウス3世が第4回十字軍を提唱 | |
| 1204年 | 第4回十字軍がコンスタンティノープルを攻略 ラテン帝国建国 |
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| 1212年 | 少年十字軍 | |
| 1218年 | ジャン=ド=ブリエンヌの十字軍 | |
| 1221年 | ジャン=ド=ブリエンヌの十字軍 失敗 | |
| 1228年 | 第5回十字軍 出発 | |
| 1229年 | 外交でエルサレムを回復(第5回十字軍終了) アルビジョワ十字軍 終了 |
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| 1241年 | (東欧)ワールシュタットの戦いでバトゥが東欧キリスト教勢力に大勝 | |
| 1244年 | アイユーブ朝がエルサレムを攻略 | |
| 1248年 | 聖王ルイ9世の第6回十字軍 出発 | |
| 1250年 | マンスールの戦い ルイ9世がバイバルスに敗れて捕虜となる | (中東)アイユーブ朝滅びマムルーク朝成立 |
| 1254年 | 第6回十字軍 失敗 | |
| 1261年 | ミカエル8世がラテン帝国を滅ぼしビザンツ帝国を復活させる | |
| 1270年 | 第7回十字軍(最後の十字軍) | |
| 1271年 | クラク・デ・シュヴァリエ陥落 | |
| 1274年 | (日)元寇1回目 文永の役 | |
| 1281年 | (日)元寇2回目 弘安の役 | |
| 1291年 | アッコン陥落しエルサレム王国滅亡 十字軍時代の終焉 |
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「時代は13世紀になって最初のビッグイベントが1202年に始まった第4回十字軍です。第4回十字軍は、他の十字軍よりも圧倒的に有名で、歴史の流れの面からも重要な十字軍となりました。その理由は聖地エルサレムではなくビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを落としたからです。そもそも、十字軍はイスラム教徒が領有していた聖地エルサレムを奪還することが目的でした。第1回十字軍で奪還に成功したものの、成果が上がらなかった第2回十字軍の後にエルサレムはエジプトのアイユーブ朝に奪われたままになっていました。そこで、教皇インノケンティウス3世は十字軍を呼びかけました。これには、彼の最大の政敵であった神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が第3回十字軍の途上で死去していることも影響していました。」
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「第4回十字軍の主力はフランドル伯ボードワンなどの北フランス諸侯となり、彼らがパレスチナ方面へ向かうための船の用意と輸送はヴェネツィア共和国が担当することになりました。ところが、第4回十字軍参加者のほとんどはヴェネツィアが要求する船賃を払うことができない、という問題が発生します。諦めて陸路を選んだり、帰国したりする者もいましたが、ほとんどの参加者らはヴェネツィアと取引することにしました。その取引とは、ヴェネツィアが兼ねてから狙っていたアドリア海の都市ザーラを、第4回十字軍が攻撃し、略奪した金から船賃を支払う、というものでした。ザーラはキリスト教徒の街だったのですが、背に腹は代えられないということで攻撃は実行され、ザーラは陥落。容赦ない殺戮と略奪が行われました。これを知ったインノケンティウス3世は当然激怒。第4回十字軍とヴェネツィアに破門を宣告しています。
そんな時、ビザンツ帝国で後継者争いが発生し、後継者候補の一人が第4回十字軍に加勢を求めてきました。これをいい機会とし、第4回十字軍は目的地をコンスタンティノープルに変更。1204年には攻略し、ここでも虐殺と略奪をほしいままにしました。さらに、フランドル伯ボードワンは皇帝に即位します。この帝国は「ギリシア人ではなくラテン人の国」ということでラテン帝国と呼ばれます。しかし、ラテン帝国の命は短く、1261年にはビザンツ帝国が復活するのですが、一時的とはいえビザンツ帝国を中断させることとなりました。さらに、ギリシア正教の総主教座を廃止し教会の財産も没収としたため、カトリックと正教会の分裂はますます深まることとなりました。なお、インノケンティウス3世はコンスタンティノープルを落として正教会の力を大きく削いだことを喜び、ラテン帝国を祝福しています。」
このように、第4回十字軍はイスラム教徒ではなくギリシア正教会との戦いであり、これまでの十字軍とは大きく異なる内容の遠征でした。インノケンティウス3世の頃に教皇権は最盛期を迎えたのですが、これ以降、十字軍は成果が上がらなくなり、教皇権は下り坂を降りていくことになります。」
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「第4回十字軍が終わった後の1212年、少年十字軍と呼ばれる事件が発生しています。ある少年が神から「聖地へ向かえ」という意味の手紙をもらったということで、行脚を始めたのをきっかけに10代の若い少年少女らが群れを成して聖地へ向かおうとした、という事件です。最初の十字軍の時に自然発生した民衆十字軍と同じような現象と考えられています。ただ、彼らは騙されてほとんどが奴隷商人に売り飛ばされる、という悲劇的な結末となっています。当時の民衆心理を示す事件です。
少年十字軍については、多くの歴史学者が真相解明に挑んでおり、実際には大人が多数混ざっていたとか、子供はごく一部でほとんどは貧しい農民だった、などの説もあります。」
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「次の十字軍は、エルサレム王ジャン=ド=ブリエンヌの提唱で始まった十字軍です。これは、聖地エルサレム奪回のために、アイユーブ朝の本拠であるエジプトを攻撃するという、当初の十字軍と同質のものでした。実際、重要な港の一つであるダミエッタの占領に成功しています。しかし、キリスト教諸国の足並みがそろわず、ダミエッタは孤立。1221年にはアイユーブ朝に奪還されてしまって失敗となりました。
ジャン=ド=ブリエンヌの十字軍は、第5回十字軍に数えられることもありますが、ここではカウントしないことにしています。」
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「第5回十字軍は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(1194〜1250年 シチリア王としてはフェデリーコ1世)によって行われています。」
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「十字軍の話をする前に、フリードリヒ2世について説明しておきます。フリードリヒ2世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世とシチリア女王コンスタンツァの間に生まれました。そのため、ドイツ王とシチリア王を兼任することとなり、その本拠地はドイツではなくシチリアでした。そのため、フリードリヒ2世はイタリアに関する政策が多いです(いわゆるイタリア政策)。また、当時のシチリアは「中世(前半) ヴァイキング」 で見たように、イスラム教徒が多数住んでいた地域でした。ノルマン王国成立後も、イスラム教徒コミュニティは残っており自治も認められていました。つまり、フリードリヒ2世にとっては、イスラム教徒は自国に普通にいる存在だったわけです。そのような背景もあり、宗教的にはとても寛容な文化でした。さらに、フリードリヒ2世はいわゆる天才型の人物で、ヨーロッパ文化圏の歴史文化に通じているのみならず、アラビア語を解してイスラム文化圏にも膨大な知識を持っており、同時代の人々からたいへんな評価と尊敬を受けていた人でした。そんなフリードリヒ2世にとって、宗教の違いを理由に凄惨な殺し合いを行う十字軍には賛同できませんでした。教皇から十字軍出兵要請が来ても、のらりくらりとかわし続けていたくらいです。しかし、ついに教皇の堪忍袋の緒が切れてしまい、フリードリヒ2世は破門されてしまい、1228年やむを得ず十字軍を率いて出発します。しかし、アイユーブ朝のスルタンであるアル・カーミルとは旧知の仲でした。二人は外交交渉での解決を図り、最終的には聖地エルサレムとその周辺は10年間エルサレム王国の領土となる、ということで決着しました。戦って勝利するのではなく、外交交渉で聖地を回復したことが、他の十字軍とは異なるところです。
聖地回復を実現したフリードリヒ2世でしたが、その後も教皇とは折り合いが悪く、そのイタリアでは教皇と皇帝の争いが続きました。」
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「さて、フリードリヒ2世の第5回十字軍が終わった1229年は、もうひとつの十字軍が終わった年でもありました。もうひとつの十字軍とはアルビジョワ十字軍です。アルビジョワ十字軍とは、南フランスで勢力を強めていた異端のアルビジョワ派(別名:カタリ派)を壊滅させるために派遣された十字軍でした。冒頭で「十字軍の性質が変わってきた」と言いましたが、その事例の一つがアルビジョワ十字軍です。
まず、アルビジョワ派(カタリ派)について簡単に確認しておきましょう。アルビジョワ派は南フランスのアルビの街を中心に広がったため、「アルビジョワ」の名前がつけられました。信仰していたのは農民が中心ですが、アルビの領主にあたるトゥールーズ伯も信仰していました。信仰上の特徴は二元論的な世界観と、教会の富や権力の否定とされています。これにはペルシアのマニ教の影響を受けている、と言われています。「教会の富や権力の否定」ということでしたら、クリュニー修道院やベネディクト修道院など、公認されている修道院の価値観と共通しているのですが、アルビジョワ派はカトリックの教会制度自体を過激に否定したため「異端」と認定され、教皇インノケンティウス3世によって十字軍による撃滅が提唱されたわけです。
開戦当初は数に勝る十字軍が優勢で、占領下の街でアルビジョワ派とみなされた住民が虐殺されています。」
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「しかし、アルビジョワ十字軍の残虐行為は南フランス諸侯から反感を買い、トゥールーズ伯の離反などもあって戦争は長期化。20年経過した1229年にトゥールーズが陥落したことでアルビジョワ派は壊滅し、アルビジョワ十字軍はようやく終結しました。
アルビジョワ十字軍がもたらした影響として、以下の2点が挙げられています。
@フランス王の権力が南フランスにも及ぶようになった。
Aトゥルバドゥール(宮廷詩人)などの南仏文化が失われた。
@については、日本人の多くは意外に感じると思いますが、実はフランス北部と南部では文化がわりと違います。南フランスが実質的にフランス王の統治下に入ったのは、アルビジョワ十字軍の後、さらには百年戦争の後期になってからのことです。
Aのトゥルバドゥールは、高校世界史の教科書では「吟遊詩人」という訳語が使われていることがしばしばありますが、これは誤解を招く訳語だそうです。というのも、トゥルバドゥールは諸国を遍歴する(吟遊する)ことは無いから、だそうです。」
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トゥルバドゥール Perdigon 制作者:不明 制作年:13世紀
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「さて、十字軍もいよいよ最後となります。1244年、アイユーブ朝がエルサレムを再び攻略すると、敬虔なキリスト教徒ということで人々の尊敬を集めていたフランス王ルイ9世(1214-1270年 異名:聖王、敬虔王)が、十字軍を提唱します。しかし、この時フリードリヒ2世は教皇インノケンティウス4世と激しく対立していたため十字軍に参加する余裕はなく、ルイ9世によって十字軍が組織されました。」
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「この頃、ヨーロッパ世界で大きな脅威となっていたのがモンゴル帝国です。3年前の1241年、チンギス・ハーンの孫のバトゥがワールシュタットの戦いでポーランド、ドイツ騎士団などの連合軍に大勝しており、キリスト教圏にとって大きな脅威となっていました。ルイ9世は、モンゴルと共同してイスラム勢力を挟撃することを考え、キプロス島でモンゴルの使節と会談して交渉しましたが、失敗しています。仕方なく、自軍のみでエジプトに上陸しましたが、1250年にエジプトのマンスールでアイユーブ朝の武将・バイバルス率いるマムルーク(主に騎馬に長じるトルコの軍人奴隷)と交戦して大敗。ルイ9世も捕虜になっています(マンスールの戦い)。」
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「なお、この後アイユーブ朝のスルタンがバイバルスらマムルークに殺害されてしまい、アイユーブ朝は滅亡。代わりに、マムルーク出身者らがスルタンとなった、その名もマムルーク朝が、約300年ほどエジプトを支配することになります。余談ですが、初期は権力闘争で混沌しており、バイバルスはマムルーク朝の初代スルタンではなく第5代スルタンです。詳しくは別の章で扱います。
このような変化の中で、ルイ9世は身代金を支払って釈放されました。その後も中東方面に残り、ルブルックをモンゴル帝国に派遣して、マムルーク朝を挟撃する計画を立てましたが、これには失敗しました。しかし、ルブルックの旅の記録はヨーロッパ人が見たモンゴル帝国の様子を伝える貴重な歴史史料となっています。なお、1254年にルイ9世の母ブランシュ(摂政としてルイ9世不在のフランス政治をみていた)が亡くなったため、ルイ9世は聖地奪還を諦めてフランスに帰国し、第6回十字軍は解散となりました。
それでもあきらめきれないルイ9世は、1270年に北アフリカのチュニスを攻撃する第7回十字軍を起こしました。しかし、陣中にチフス(or赤痢)が蔓延し、ルイ9世本人も感染して間もなく死去。第7回十字軍は帰国となりました。
1270年のルイ9世の十字軍が、中東方面に向かう最後の十字軍となりました。そして1291年、エルサレム王国の最後の拠点となっていたアッコンが、マムルーク朝によって攻略されました。」
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「これで中東方面におけるキリスト教系勢力は壊滅したことになります。また、十字軍が起こされることもなくなったため、1291年をもって十字軍時代は終焉したとみなされることが多いです。時代は14世紀に入り、中世も大詰めを迎えることになるのですが、この話はまた別の機会にしましょう。
ここまで読んでいただきありがとうございました。」
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