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年月 | フランク王国のイベント | 他地方のイベント |
870年 | メルセン条約 | |
862年 | ルイ2世(16)、アンスガルド(36)と秘密結婚 | |
877年 | シャルル2世死去 ルイ2世(31)が西フランク王位を継承 | |
879年 | ルイ2世(33)死去 ルイ3世とカルロマン2世による西フランク王国共同統治始まる | |
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「さて、877年に禿頭王の後を継いだルイ2世(この年31歳 あだ名は「吃音王」)の治世を見ていこうか。」
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「まず、ルイ2世の家族関係を確認しましょう。まず、父親は上述のとおりシャルル2世禿頭王。母はエルマントルド・ド・ルレアンです。この二人の間に、ルイ2世は846年11月1日に誕生しました。妻は先妻と後妻の2人がおり、先妻はアンスガルド・ド・ブルゴーニュ、後妻はアデレード・ド・パリといいます。ま、予想できるかもしれませんが、この2人の奥さんという人間関係が、西フランク王国の騒動のタネになります。」
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「その部分から話を始めていこうか。ルイ2世の最初の奥さんはアンスガルドなんだが、2人が結婚したのは862年。つまり、ルイ2世が16歳の年だ。これはさほど驚きでもないのだが、驚きなのはこの時点でアンスガルドは36歳。ルイ2世よりも20歳も年上だった、ということだな。なぜこのようなカップルが誕生したのか、その経緯は不明だ。だが、父であるシャルル2世は当然のように反対。しかし、ルイ2世とアンスガルドはシャルル2世の反対を押し切って秘密結婚してしまったんだ。」
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「2人の間には、後に後継者となるルイ3世とカルロマン2世、他に2人生まれています。
866年(この年ルイ2世20歳)にはフランス南部を領するアキテーヌ王に即位しています。
ところが875年2月(この年ルイ2世29歳、アンスガルド49歳)に状況が変わります。シャルル2世は、後継者であるルイ2世に王妃として相応しい人物としてパリ伯アフダラールの娘・アデライード(この年25 or 22歳)を推薦します。アデライードはフランク王国の中でも上級貴族の家でした。」
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「アンスガルドはルイ2世の王妃というよりは、母后に近い年齢だからな。20代前半の若い女性の方が、まだ29歳のルイ2世にはちょうどいい、というのは理解できるな。だが、既にアンスガルドとは秘密とはいえ結婚しているし、子供までいる。そこで、時の教皇ヨハネス8世に頼んで、ルイ2世とアンスガルドの結婚は無効、と宣言してもらい、875年2月、ルイ2世とアデライードは正式に結婚することになった。」
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「ただ、教会側はアデライードとルイ2世は血縁関係が近い、ということでこの結婚には前向きではありませんでした。これについては、別の形で示されることになります。
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「さて、話をルイ2世の即位に戻そう。
877年10月8日(12月8日とも)、ルイ2世の戴冠式がランスで開催された。戴冠式を挙行したのはランス大司教のヒンクマール(Hincmar)だ。その後、2度目の戴冠式が878年8月にトロワで開催された。これは教皇ヨハネス8世が教会会議を開くのに合わせて、ローマからフランスに赴いた、ということらしい。Wiki(日本語版、英語版ともに)によると、ヨハネス8世はルイ2世にローマ帝国の帝冠も授けようとしたのだが、ルイ2世側が拒否したらしい。また、戴冠式に当たっては、ヨハネス8世は王妃アデレードには冠を授けなかった。いろいろと行き違いが目立った戴冠式だったようだな。」
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「ルイ2世は治世が短かったこともあり、政治的な影響はほとんど残していません。英語版Wikiでも
彼(ルイ2世)は素朴で穏やかな人物であり、平和と正義、宗教を愛した
と評されています。ちなみに、出典が何なのかは明記されていませんでした。」
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「父王の反対を押し切って秘密結婚するくらいなんだから、穏やかというよりは情熱的な印象があるけどな。」
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「治績として確実なのは、878年にウィルフリード(Wilfred the Hairy)という貴族にバルセロナ、ジローナ、ベサルーの伯爵領を与えた、ということ。あとは879年に侵入してきたヴァイキングを撃退するため、遠征に出たものの病に倒れ4月10日、コンピエーニュで死去した、ということですね。この年33歳でした。ルイ2世はコンピエーニュのサン・コルネイユ修道院に埋葬されました。」
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「王位継承からだいたい1年半しか在位していなかったわけだな。治績が乏しいのはやむを得ないかと思うぜ。ただ、余りに突然な退場だよな。33歳で突然亡くなるのも、ありえなくはないが不自然な感じもする。日本語版Wikiでは、878年の2度目の戴冠式の時点で既に重篤だった、と記述されている。その時点で何かしらの病気に罹っていた可能性もあるかもな。」
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「ルイ2世が死去したことで、予想通り次の西フランク王位をめぐってお家騒動になりました。後継者候補となったのは、ルイ2世が秘密結婚した妻・アンスガルドが産んだルイ3世(879年で16歳)とカルロマン2世(Carloman II:879年で13歳)の兄弟。そしてルイ2世の後妻であるアデレードが産んだばかりのシャルル3世(879年で0歳)です。」
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「アンスガルドが産んだ息子の方が年長だが、そもそも秘密結婚だったし、しかも「結婚の無効」を言い渡されてしまったので、その正統性に疑問符がつけられるのも無理はないな。かといって、アデレードの方も、血縁関係の近さを理由にして、戴冠式で教皇から冠を授けられなかったりと、非の打ちどころのない王妃、という立場ではなかった。だから、お互い罵りあう醜いお家騒動になったのは想像に難くないな。
結果的に、有力貴族らの支持を得て、長男のルイ3世がネウストリア(フランス北部)を継承し、カルロマン2世はブルゴーニュとアキテーヌを継承し、二人が共同統治の西フランク国王となることになったぜ。」
ルイ3世(左)とカルロマン2世(右) 19世紀に描かれた想像図 制作者:Charles de Steuben (1788?1856) 制作者:1837年
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「この騒動の着目点はいくつかあると思いますが、次の王を決めるために貴族が関与した、という点が今後の西フランク王国にとって大きな転換点になったのではないか、と思います。というのも、これまでは当然のように前国王の息子が継承していたのですが、ルイ2世の家族関係が当時のキリスト教の教義が絡んで複雑化し、単純なプロセスでは決まらなくなったわけですね。そこで、臣下である貴族たちも巻き込むことになりました。一度でも関与すると、それが前例となって後の時代に影響を与えることがあります。西フランク王国の場合、この後しばらくしてカロリング家以外の人物が王位を継承する、という事態になり、カロリング朝の終焉を迎えることになりました。」
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「このお家騒動でもう1件事件が起きている。プロヴァンス公ボソの分離独立だ。」
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