「前回のゲルマン人諸国の興亡では、ゲルマン諸部族がヨーロッパに侵入し、いくつもの国が建国されて滅んでいった歴史を見ていきました。今回はその後ヨーロッパ、特に西ヨーロッパを支配して栄えたフランク王国の歴史を見ていきます。」
年月 | フランク王国のイベント | 他地方のイベント |
481年頃 | メロヴィング朝フランク王国の始まり | |
496年 | クローヴィスがアタナシウス派に改宗 | |
507年 | クローヴィスが西ゴート王国を破る | |
511年 | クローヴィス死去 ゲルマン伝統分割相続により国内での争いが次第に激しくなる |
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732年 | トゥール・ポワティエ間の戦いでカール・マルテルがイスラム軍に勝利 | |
751年 | ピピンが国王に即位 カロリング朝フランク王国の始まり | ランゴバルド王国がビザンツ領ラヴェンナを占領 |
754年 | ローマ教皇がピピンの王位を承認 | |
756年 | ピピンがラヴェンナを奪還し教皇に寄進 ピピンの寄進 | |
768年 | カール大帝即位 | |
774年 | カール大帝がランゴバルド王国を滅ぼす | |
796年 | カール大帝がアヴァール人を撃退 | |
800年 | ローマ教皇レオ3世がカールにローマ帝国皇帝の冠を授ける カールの戴冠 | |
843年 | ヴェルダン条約でフランク王国が3分割される | |
870年 | メルセン条約 フランス・ドイツ・イタリアの原型ができる | |
<要点>
・フランク王国最初の王朝はメロヴィング朝。開祖はクローヴィス
・496年 クローヴィスがキリスト教アタナシウス派に改宗し、ローマ教会と連携(他ゲルマン部族は異端のアリウス派)
・クローヴィスの死後、ゲルマン伝統の分割相続により王家は分裂。国内で争うようになる。
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「さて、まずはフランク王国の話を始めます。まず、フランク王国といえばこの人、クローヴィス(Clovis 466?〜511年)です。
クローヴィス 制作者:Francois-Louis Dejuinne (1786?1844) 制作年:1837年
クローヴィスは最初、現在のベルギーあたりのみを治めている小領主でした。481年頃に王位を継ぐと頭角を表し、領土を拡大して一大勢力を築き上げました。クローヴィスが所属する一族の名前が「メロヴィング」だったので、クローヴィスがフランク王国のことをメロヴィング朝フランク王国(Merovingian dynasty)と呼びます。ちなみに、フランク王国の王朝は2つだけで、最初はメロヴィング朝、次がカロリング朝です。
クローヴィスが特に重要になっている理由は、もちろん開祖だから、というのもそうなのですが、もう一つ重要な事績として496年に正統であるキリスト教アタナシウス派に改宗した、ということです。当時、ゲルマン諸部族は次第にキリスト教に改宗していったのですが、たいていは異端とされたアリウス派に改宗していました。キリスト教というくくりでは同じですが、異端と定めたアリウス派では、ローマ教会と連携するのに都合が悪いわけです。その点、クローヴィスはアタナシウス派なので、ローマ教会も遠慮なくクローヴィスと連携できるわけですね。
クローヴィスは軍事遠征でも成功を収めています。507年にイベリア半島の西ゴート王国と戦ってこれを破っています。時の西ゴート王アラリック2世はこの戦いで敗死しています。その帰り道、508年にビザンツ皇帝アタナシウスから「コンスル」の称号がクローヴィスに授けられました。ビザンツ帝国にとって敵である西ゴート王国に勝利した功績を称えると同時に、クローヴィスを上手く取り込もうとしたのでしょう。
しかしそれから少し経った511年(この年クローヴィス49歳頃)、クローヴィスは死去しました。クローヴィスの死後、ゲルマン部族の伝統により分割相続がなされました。主な3つの分国として、会うストリア、ネウストリア、ブルグンドがあります。王族はそれぞれの土地の支配者となり、お互いに権力争いを始めるようになり、フランク王国内での争いが増えていきます。この辺りの歴史も詳しく見ていくと興味深いのですが、高校世界史の範囲をかなり逸脱してしまうので、ここでは割愛します。」
<要点>
・「宮宰」とは「王家の執事長」という意味合い。当初は3分国にそれぞれ宮宰を置き、宮宰が連携することでフランク王国の統一をしよう、というものだった
・カロリング家のピピン(中ピピン)が3分国の宮宰職を独占し、強大な力を持った
・732年 ピピンの子である宮宰のカール・マルテルがイベリア半島からピレネー山脈を越えて侵入してきたイスラム教(ウマイヤ朝)の軍勢をトゥール・ポワティエ間の戦いで破った この戦いはイスラム教徒からヨーロッパのキリスト教圏を守った戦い、と評されるようになった
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「クローヴィスの死後、内紛が続いていたフランク王国をどうにかしよう、という話になります。彼らが採用した方法は、「宮宰」と呼ばれる役職を3分国に設置し、宮宰が外務大臣のような仕事をして利害関係を調整し、フランク王国の内乱を鎮めよう、というものでした。この企画はある程度成功したのですが、やがて宮宰の権力は強大化してしまいます。特に、有力者一門であるカロリング家のピピン(歴史用語では中ピピン。フランク王国時代に有名なピピンは3人いて、古い順に大ピピン、中ピピン、小ピピン、と呼ばれます)が3分国の宮宰を独占すると、事実上の最高権力者のようになりました。そのため、メロヴィング朝の国王たちは、実権は持たない象徴的な国王、という存在でした。
フランク王国の宮宰の中で最も有名になったのが、中ピピンの子のカール・マルテル(Charles Martel 688年?〜741年10月22日)です。
カール・マルテル 1553年に書かれた本に描かれたカール・マルテル
カール・マルテルを有名にしたのが732年のトゥール・ポワティエ間の戦いです。当時、急速に勢力を拡大していたイスラム教徒のウマイヤ朝の軍勢が、イベリア半島からピレネー山脈を越えてフランク王国内に侵入してきました。カール・マルテルは軍勢を招集し、イスラム教徒の軍勢を撃破。この功績によってカール・マルテルは国を守った英雄として称えられるようになりました。また、後世の歴史家は「トゥール・ポワティエ間の戦いの勝利によって、ヨーロッパのキリスト教は守られた」と評するようになっています。
そうなると、ただのお飾りに過ぎないメロヴィング家の王よりも、カール・マルテルのような英雄の方が国王に相応しい、と考える人が増えても不思議ではありません。カール・マルテルは9年後の741年に死去しましたが、カール・マルテルの跡を継いだ息子のピピン(小ピピン)は、フランク王国の歴史を変えることになります。」
<要点>
・751年 カール・マルテルの子、小ピピンがメロヴィング家の王を追放し、自らフランク国王に即位(カロリング朝の始まり)
・754年 小ピピンがイタリア北部の要所・ラヴェンナをランゴバルド王国から奪還し、ローマ教皇に寄進 (ピピンの寄進)
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「英雄となったカール・マルテルの息子の小ピピンは思い切った行動に出ました。象徴でしかなかったメロヴィング朝の王を追放し、自らフランク国王に即位したんです。この行為は反逆とも取れますが、ローマ教会や貴族らはほとんど小ピピンの即位を支持。こうして、メロヴィング朝は断絶。これ以降のフランク王国はカロリング朝(Carolingian dynasty)フランク王国となります。
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「小ピピンがフランク王となったのと同じ751年、ゲルマン部族の一派が北イタリアに建国したランゴバルド王国(Kingdom of the Lombards)が、ビザンツ帝国の総督府が置かれていた重要拠点であるラヴェンナを占領する、という事件が起こりました。これにより、ビザンツ帝国の力がイタリア半島に及ばなくなり、ローマ教会は危機にさらされてしまいます。754年、時のローマ教皇ステファヌス2世はフランク王国まで行って、小ピピンの王位を承認します。こうすることで正統性を得たわけですね。これに応える形で、小ピピンは軍勢をラヴェンナに送って奪還に成功。756年に奪還したラヴェンナを教皇に寄進しました。これが、教皇の領地である「教皇領」の始まりとされています。また、この寄進は歴史上の節目となるものであったのでピピンの寄進(Donation of Pepin)と呼ばれています。」
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「さて、このようにローマ教皇と強く連携することで、フランク王国は勢力拡大に成功。西ヨーロッパ世界の覇者となります。そして、その栄光は小ピピンの跡を継いだカール大帝の時代に最盛期を迎えることになります。
余談となりますが、ピピンの寄進に納得できない人物がいました。元々ラヴェンナを領有していたビザンツ帝国です。ピピンの寄進に対して、ローマ教皇に強く抗議しましたが、ローマ教皇は
「もともとはローマ帝国のコンスタンティヌス大帝が教会に寄進する、という約束をしていた」
と言って、その文書まで見せて拒否しました。この文書はコンスタンティヌスの寄進状と呼ばれています。これはその後長期間に渡って事実と考えられてきました。教皇の権威の正当性の根拠として使われることも多かったんです。ところが、ルネサンス期に「偽書ではないか」という疑問けられ、幾度もの論争を巻き起こしました。は偽書である、という認識が一般的のように、嘘でもそれを事実として主張を繰り返すと事実と誤認される、というのは今も昔も同じです。現代ではファクトチェックもされるようになりましたが、情報が重要であることは変わりありません。」
<要点>
・小ピピンの子、カール大帝の時代にフランク王国は最盛期を迎えた
・遠征を行って東西に領土を拡大した
・800年 教皇レオ3世によってローマ帝国の帝冠を授けられる
・ラテン語文芸の保護に努めた(カロリング・ルネサンス)
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「768年、カロリング朝の開祖となった小ピピンの後継者となったのが、カール大帝です。フランク王国最盛期を築き、さらにローマ帝国皇帝の冠を授けられたことから「大帝」の尊称が使われています。」
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「カール大帝は、周辺の敵に対して遠征を行い、フランク王国の領土拡大と驚異の排除に成功しました。主だった成果を挙げると・・・
・774年 ランゴバルド王国を滅ぼす
・796年 パンノニア(現ハンガリー)方面から侵入してきたアジア系のアヴァール族に大打撃を与えた
・ピレネー山脈を越えてイベリア半島に進出し、山脈の南にスペイン辺境伯を設置
・東方に勢力を拡大し、ザクセン人、バイエルン人を服属させた
となります。地図で見ると↓のようになります。
青:カール大帝即位時の領土 橙:カール大帝が獲得した領土 黄色:影響力が及んだ地域 紫:ビザンツ帝国領
西ヨーロッパ世界の覇者として着実に力を拡大しているカール大帝時代のフランク王国は、まさに日の出の勢いだったことでしょう。タイミングよく、ビザンツ帝国で女性が皇帝を名乗るという事件が発生したこともあり、800年に教皇レオ3世はローマ帝国皇帝の帝冠をカールに授けました。これはカールの戴冠と呼ばれる重要歴史イベントです。西暦800年ときりもいいので覚えておきましょう。
カールの戴冠により、西ヨーロッパ世界はビザンツ帝国とはまったく異なる別個の世界であることを意味しており、ここからいわゆる「中世ヨーロッパ」の社会が始まった、という歴史解釈がされています。
また、カール大帝の重要なもう一つの治績がラテン語文芸の保護とカロリング小文字体の創作です。カール大帝はローマ帝国の後継者として、宮廷を置いたアーヘンに各地の聖職者を集めて、正しいラテン語の知識と史料の作成を・保存を推奨しました。イベリア半島、アイルランド、イタリアなど、各地の教会から聖職者が集められ、イングランドのアルクィンが中心的な役割を果たして進められました。ちょっとしたことですが、アルファベットの小文字もこの時制定されました。それまでは、小文字については各地でバラバラな使い方をされていたのですが、これでは共通語として正しく使われない、ということで文字の形と使い方も統一しました。その後、ラテン語が聖職者らが使う言語として広く用いられたのも、こうした事業のおかげであるわけです。カール大帝のこの事業は、古き良きローマ時代の文芸復興である、という観点でカロリング・ルネサンスと呼ばれています。」
<要点>
・843年 ヴェルダン条約によりフランク王国は西フランク、東フランク、中部フランクの三国に分裂
・870年 メルセン条約によって中部フランクはイタリアに留められ、残りは東西フランクで分割された
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「カール大帝によって最盛期を迎えたフランク王国でしたが、それはカール大帝の死後は没落していったことを意味しています。カール大帝には何人も子供がいたのですが、若いうちに亡くなった子も多かったので、カール大帝の後継者は一人だけ。なので分割相続ではなく単独相続だったのですが、その次は3人で分割相続することになりました。843年、ヴェルダン条約が締結され、フランク王国は西フランク王国(だいたい現フランス)、東フランク王国(だいたい現ドイツ)、中部フランク(だいたい現イタリア)の3つに分割されました。
この3国は、あまり仲良くありませんでした。ちょうどこの頃、北からヴァイキングが積極的に襲撃してくるようになったこともあり、時代は再び乱れ始めていたんです。その後、中部フランクを治めていたカロリング家の嫡出子がいなくなったことを機会に、勢力拡大をもくろむ西フランクのシャルル2世禿頭王が870年に中部フランクの領土はイタリア方面だけとし、北部のロレーヌ地方は東西フランク王国が相続する、というメルセン条約を結びました。ヴェルダン条約、メルセン条約によってフランク王国の分裂は決定的となり、それぞれの地方で独自の歴史を歩んでいくことになります。」
メルセン条約で定められた領土 灰色:西フランク 水色:東フランク 赤:中部フランク
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